ペットのワニ、そして謎の雄鶏との痛快で切ない珍道中 『アルバート、故郷に帰る』(ホーマー・ヒッカム 金原瑞人・西田佳子訳)
母からアルバートの話をきくまで、うちの両親がそんな旅をしていたとは全然知らなかった。アルバートを遠い故郷まで連れていくなんて、危険だし、そうそうできることじゃない。知らないことばかりだった。両親がどうして結婚したのかも、両親がどんな経験を経ていまのようなふたりになったのかも。それに、母には好きでたまらない人がいて、その人がのちにハリウッドの有名俳優になったということも。
ワニを飼うというと、どんな話が思い浮かぶでしょうか?
私はやっぱり岡崎京子の『pink』を思い出してしまう。ぶっ飛んでいて痛快で切ないユミちゃんの物語。この話もきっとそんな話に違いない……と思って、この『アルバート、故郷に帰る』読みはじめたら、最初は、あれ? ちょっと違うな…と感じた。
アルバート、故郷に帰る―両親と1匹のワニがぼくに教えてくれた、大切なこと (ハーパーコリンズ・フィクション)
- 作者: ホーマー・ヒッカム,金原瑞人,西田佳子
- 出版社/メーカー: ハーパーコリンズ・ ジャパン
- 発売日: 2016/09/17
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この物語の主役といえる語り手の母、エルシーは、ウェストヴァージニアの炭鉱の町で育ち、高校卒業とともにオーランドに出る。炭鉱の町とはうってかわって華やかなオーランドで、歌やダンスが得意なバディと出会って恋におちるが、バディは俳優になるためにニューヨークに行ってしまう。傷心のエルシーは
「宿命に従ってみたらどうだ? 宇宙の意志でもあるんだぞ」
と、故郷の町の炭鉱の監督に言われて、高校の同級生であった語り手の父、ホーマーと衝動的に結婚する。正直なところ、好きな人とはうまくいかずに、やけっぱちな気持ちになって、手近なところで手を打つくだりは、独身の自分にとって、夢ないな~と感じてしまった。
そして、好きだったバディに結婚することを告げたところ、お祝いとして贈られてきたのが、ワニのアルバートだったのだ。
この世のなかでアルバート以上に大切なものがあるだろうか。エルシーは膝をついて、アルバートのおなかをなでてやった。アルバートはうれしそうに前足を動かし、歯をぎらつかせて笑った。
と、エルシーはたいへん可愛ったものの、アルバートはどんどんと大きくなって飼いきれなくなり、ホーマーに「ぼくか……ワニか……どっちかを選んでくれ」と言われて、アルバートの故郷のオーランドに捨てに行くという物語なのだけど、正直、このくだりも、「ペットを飼うなら最後まで責任をもって! というか、ホーマー、ほんまケツの穴が小さい男やな~。だからエルシーに愛されへんねん」と、しょっぱい気持ちになった。
が、物語冒頭のこのビミョーな気持ち、ホーマーとエルシーのすれ違い、それぞれが抱えている不安や鬱屈が、旅を続けていくことで徐々に解消され、ふたりの絆が深まっていく。
といっても、旅情あふれるしみじみした道中ではまったくなく、旅のはじまりから、銀行強盗に巻きこまれたり、ジョン・スタインベックとともに労働争議にまきこまれて、ダイナマイトで靴下工場を吹き飛ばす羽目になりかけたり、密造酒の密輸団に連れ去られたりと、かなり荒唐無稽だ。映画に出たり、ヘミングウェイに会ったりもする。クセが強い面々が次から次へと、ホーマーとエルシーの前にあらわれる。直情的で勇敢なエルシーは、そんな奇妙な連中や悪党たちにも物怖じすることなく立ち向かい、そしてホーマーは、そんなエルシーとアルバートを守ろうと奮闘する。
ホーマーとエルシーのあいだにも、すんなりと愛が生まれるわけではない。深刻な危機が何度も訪れ、もうこの結婚は無理だと、ふたりとも幾度も思う。けれど、宿命はふたりに味方した。
ホーマーはにっこり笑った。エルシー・ガードナー・ラヴェンダー・ヒッカムが、とうとう愛しているといってくれた。いまなら死んでもいい。美しいエルシーと、そのうしろにいるアルバートを見つめた。自分は世界一の幸せ者だ。こんなに美しくてすばらしい女性と結婚できたのだから。
アルバートはホーマーを見て、ノーノーノーと抗議の声をあげた。ホーマーはそんなアルバートを見てうなずくと、エルシーを頼むよと、心の中で呼びかけた。
そして、かの心の恋人バディもやって来て、三人でアルバートを自然にかえすことになる。
アルバートの顔から笑みが消えた。エルシーを見つめ、なんでだよというように鼻先をエルシーにこすりつける。
このアルバートとの別れのシーンは、何度読んでも泣いてしまう。「なんでだよ」というのが切ない。
けれど、この別れはホーマーとエルシーにとって必要なことだったのだ。バディと過ごしたオーランドの思い出に別れを告げるために。いやだいやだと思っていた炭鉱の町で、鉱夫の妻として生きていくために。
この小説の章と章のつなぎ目には、語り手「ぼく」の回想として、その後の父ホーマーと母エルシーが描かれているが、結局のところ、炭鉱の町でエルシーが幸せだったのかどうかはよくわからない。でも、これが宿命だったということなのだろう。
両親がアルバートを故郷に連れて行った話は、若い夫婦の風変わりな冒険物語というだけではない。それは天から与えられたもっとも偉大かつ唯一の贈り物――愛という言葉ではあらわしきれない、奇妙な、そして奇跡的な感情――をふたりがたしかに手に入れる物語なのだ。
破綻の予兆に満ちた世界から生じるノスタルジー 『歩道橋の魔術師』 (呉明益 天野健太郎訳)
猫はまるで白い影のように、机の上から唐さんを見ていた。唐さんはギターのピックみたいな平らなチャコペンで、生地に線を描いていた。唐さんはときどき手を休め、猫を見た。猫もまた唐さんを見た。なんだか眼差しだけで会話をしているようだった。唐さんがふいに、猫に訊いた。「どう思う?」ドキンと鼓動が突き上げた。全身がこわばる。だって、猫の顔が本当にその質問に答えようとしていたから。
猫は本当に答えた。(『唐さんの仕立屋』)
猫にかかりきりで、じっくり本を読めない今日この頃ですが、この『歩道橋の魔術師』は短編なので、なんとか読み通せた。
1980年代の台北、いまはもう解体された中華商場を舞台に、「夢と現実の境界線」(「唐さんの仕立屋』)のような物語が繰り広げられる。
どことなく懐かしい……という印象のあるこの短編集だが、しかしよく考えると、昭和50年代生まれで、郊外の団地育ちの私にとって、こういった風景が実際の記憶に残っているわけではない。なのにどうして、懐かしいという印象があるのか考えると、家族や近所の人たちとの距離感や、年長の相手に感じた淡い恋心などが、幼いころに感じたものと呼応するのかもしれない。
といっても、ノスタルジーに満ちたほのぼの短編集では決してなく、愛と性、そして死が密接に絡みあっている。淡い恋心を抱いても、相手の女は去っていく。去っていった女を追う男は、自らもそっと姿を消すか、あるいは女を殺して自分も死ぬ。
ある朝、目が覚めたら、鳥の鳴き声が聞こえなくて、不吉な予感がした。わたしは屋根裏部屋から駆け下りて、鳥かごを見た。すると、クロちゃんの頭と首が消えて、下半身だけになっていた。シロちゃんは脚と体が亡くなり、頭だけになっていた。半分だけ残されたブンチョウは、どちらもきれいに空っぽだった。なかは内臓も血も残ってなくて、まるでゴムの指人形みたいだった。(『鳥を飼う』)
鳥は猫に殺され、唐さんがあれほど可愛がっていた猫は姿を消す。
げっそりと痩せ、もはやそのスーツも着られないであろう唐さんが作業机の前に座っていた。憔悴して、もはや正気の顔じゃなかった。ハサミで音楽を奏でる、あの自信に満ちた姿は、まるで四十年前の夏の思い出と消えてしまったようだ。作業机には、裁ちばさみがぽつんを置かれ、それを見る猫はいなかった。(『唐さんの仕立屋』)
と、ここまで書いて気づいたが、大人になると、明日も今日と同じ平穏な一日が来るものだとなんとなく思いこんでいるが、子供のころはそうではなかった。世界はもっと残酷で、破綻の予兆で満ちていたし、愛するものはいつ失なわれるかわからず、いつもおびえていた。親が病気になったらどうしようとか、そんなことで夜も眠れなくなった。その子供のころの不安の感覚が、この短編集の世界と感応して、ノスタルジーがうまれているようにも思える。
しかし、韓国の『カステラ』といい、アジアの現代小説もすごい豊かだ。個人的にはどちらかというと、『カステラ』のシュールな乾いたユーモアの方が好みかなという気もするけど、アジアの小説ももっといろいろ読んでみないと。
愛おしさがつまった、素敵かわいいアンソロジー 高原英理編『ファイン/キュート 素敵かわいい作品選』
高原英理の『不機嫌な姫とブルックナー団』がおもしろいと最近あちこちで耳にして、読んでみたいなと思っていたところ、こちらのアンソロジー、高原英理編『ファイン/キュート 素敵かわいい作品選』を見つけて、さっそく読んでみました。
とにかくキュート(「素敵かわいい」)なものがいっぱいつまった作品集で、いったん読みはじめると夢中になってしまった。動物に子供、老人に幻想……どれも愛らしいものばかり。誰もが知る、新見南吉の『手袋を買いに』(「お手々がちんちんする」)や、泉鏡花や室生犀星の小品から、最近の斉藤倫や雪舟えまといった面々までの作品を幅広く収録している。
キュートといえば猫、猫といえば金井美恵子(*個人の偏見です)というわけで、金井美恵子のエッセイ『ピヨのこと』も収録されており、ピヨというのは、金井さんが幼い頃に飼っていた猫の名前なんですが
他人は知らず、すくなくとも、わたしは他人の飼い猫がいかに素晴らしい猫だったか、という話にほとんど興味を持たない。他人の猫でも、顔見知りの猫なら話は別だが、それにしても、度のすぎた愛猫の自慢話ほど聞きにくいものは、他に、そう、親と呼ばれる人たちのする秘蔵っ子の自慢話くらいなものか。
と、書いたすぐあとで、
ところで、ピヨだが、この猫はすっかり大人になってからも、実にきれいなアズキ(肉球のことを金井家ではこう呼んでいたらしい)の持ち主だった。なにしろ、ピヨときたら……実に頭の良い感心な猫だったのだから。
と続けるのだから、ニヤリとしてしまう。
そしてまた、猫エッセイの元祖のひとりと言える、幸田文の「小猫」もあり、小猫を二匹もらったものの、どうしても可愛らしい方ばかりに注目してしまい、不器量で人になつかない方は片隅でひとりぼっちになってしまった顛末を綴り、
むかし私は不器量でとげとげしい気もちの、誰からも愛されない子だった。そして始終つまらなかった。それがこたえていたので、三十、四十の後になっても大勢子供がいれば、きっとすねっ子、ひがみっ子、不器量っ子のそばへ行って対手になってやる気もちなのは、うそではなかった。けれども猫ではこの始末であった。
と書くのも、胸にしみた。あと、現代を代表する動物愛好作家(と言ってもいいよね)・町田康のおなじみポチシリーズも入っています。読んでいる方はご存じでしょうが、ポチは飼い主のことです。
犬や猫だけではなく、キュートなものとして子供はもちろん、老人の物語も取り上げられているのも興味深い。発売当初、斬新なタイトルもあいまって、かなりの話題だった中島京子の「妻が椎茸だったころ」もある。こういうことだったのか。そして、ミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』から「水泳プール」が収録されている。この短編集、ほんとどれもヘンだけど切ない傑作揃いですが、この話もいい。床でばたばたと手と足をかいて、水泳の練習をする老人たち。ぜひ読んでみてください。
- 作者: ミランダ・ジュライ,岸本佐知子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/08/31
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子供を描いた話がどれもかわいいのは当然ですが、子供が書いた、という言い方をしたら失礼だけど、1933年に16歳で夭折した少女山川彌千枝の文章も心に残った。
そして最後には、編者高原英理の「うさと私(抄)」が収録されているが、もうこれがかわいいのなんのって。「私」のもとに「地味な兎ですが、ずっとつきあってください」というポストカードとともにやってきた、うさ。
私は「うにゃにゃにゃにゃ」と言う。好き好きの意味。
うさは「きゅーきゅーきゅー」と言う。ずっと一緒の意味。
夜中に目が醒めると、隣に兎が寝ていた。嬉しかったが、眠いのでそのまま寝てしまった。
夜中に目が醒めると、隣に兎がいなかった。悲しかったが、眠いのでそのまま寝てしまった。
うさは「愛してる」と言わない。そのかわり、私の手をとって、「なかよし」と言う。
なんだろう、この愛の結晶のような詩。あとがきで書かれていたが、この作品が単行本で刊行されたとき、谷川俊太郎はこう帯文を書いたらしい。
キューキョクの愛の表現。スタイル・ユニーク。
奇人変人大集合のハイテンションなドタバタ劇 『迷惑なんだけど?』(カール・ハイアセン 田村義進訳)
正直言って、この仕事は引きうけなきゃよかったと思ってるよ。いちどきにこんなに多くの奇人変人に出くわしたことは、生まれてこの方一度もない。
と、浮気夫と愛人の「決定的瞬間」(「わたしは挿入シーンが見たいの。それこそ決定的な証拠よ」)を撮影するように妻から依頼された、私立探偵ディーリーが嘆くように、ほんと奇人変人が次から次へとあらわれるこの小説。
- 作者: カールハイアセン,Carl Hiaasen,田村義進
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/07/10
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カール・ハイアセンの前作『復讐はお好き?』も、妻を殺そうとした浮気夫と、殺されかけた妻の執念の戦いを描いていたが、思えばこの本では、浮気夫のチャズは、卑劣でしょうもない悪党ではあるが、そんなに常識外れではなかったし、妻ジョーイも強くたくましい女ではあるが、マトモではあった。
- 作者: カールハイアセン,Carl Hiaasen,田村義進
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2007/06
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けれど、この『迷惑なんだけど?』は、まず主人公ハニーが、最近の言葉でいうと完全なメンヘラというのがおもしろい。
ハニーの身に変化の大波が押し寄せたのは、出産の直後のことだ。フライ(息子)は呼吸障害のため生後二週間ほど病院にいた。そのあいだに、頭のなかで奇妙な音が鳴り響きはじめた。そのときから、自分ではどうにもならない不安と恐怖の発作に襲われ、他人の不品行や不行跡に過剰に(ときとして過敏に)反応するようになったのだ。
と、正義感が強いというのを通り越して、世にはびこる悪を目にしたとたん、それがどんなにチンケなものであっても、息子フライを守るべきという使命感のもと、すぐに戦いを挑むようになったハニー。興奮すると、頭のなかで違う種類のふたつの音楽が鳴り響き(セリア・クルースとナイン・インチ・ネイルズとか)どれだけ心療内科にかかって、薬をのんでも治らない。
そんなハニーがフライと食事をしているときに、うっかり電話セールスマンのボイドがセールス電話をかけ、ハニーに害虫呼ばわりされ、返す言葉で「腐れ〇〇〇!」(小説中では伏字ではありません)と、電話口で怒鳴ってしまったからさあたいへん。ハニーの逆鱗にふれ、追い回されるはめになってしまう。ありとあらゆる手を使って、ボイドの身元を調べあげ、なんとウソのリゾート旅行をでっちあげ、航空券をプレゼントして誘い出し、復讐しようとする始末。
また、ボイドはボイドで、前作『復讐はお好き?』の浮気夫チャズを、もっとしょうもなくしたような、スケールの小さい情けない男。仕事をクビになり、妻から離婚をつきつけられようとしているのに、リゾート旅行をすっかり信じこみ、プロの愛人という言葉がふさわしい、魔性の女である愛人ユージェニーを誘って、ほいほいと乗ってくるのだった……
と、そこにハニーを追い回す狂気の変態ストーカー・ルイスと、ハニーの胸をさわったルイスの指を、殺人カニでちょん切ったことのあるハニーの元夫・ペリー、そして、白人とのハーフでありながら、白人を憎むネイティヴ・アメリカンのサミーも巻きこまれて、どんどんハチャメチャな展開になっていく。
と、こう書くと、なんだかワケのわからん話のように思われるでしょうが、ストーリーテリングのうまさのせいで、それぞれに異様なバックグラウンドを持った、強烈な登場人物が続々と登場するのにもかかわらず、さほど混乱することなく読み進められた。メンヘラ女ハニーが暴走するさまが痛快だった。まあ、たしかに常軌を逸したドタバタ劇だし、なかなか下品な言葉も頻出するので、ついていけない人もいるかもしれませんが。
あと、女性たちのキャラがいきいきしているのも、前作と同様の魅力だった。主人公のハニーが愛されるキャラなのは当然として、ボイドみたいなダメ男の愛人になってしまったユージェニーなんかは、ふつうの小説なら、ただの悪女として扱われるだろうけど、この小説では、最終的にはフライの面倒をみる役目をはたし、新しい人生を歩もうとしたりと、読者が共感できるように描かれている。考えたら、前作の浮気夫チャズの愛人のリッカもそうだった。
なので、最新作の『Razor Girl』も読みたいけれど、翻訳は出るのかな? アマゾンなどを見ると、評判がいいようなので楽しみ。
はじめての海外文学ビギナー篇~まずは猫よりはじめよ~『猫語のノート』(ポール・ギャリコ 灰島かり訳)
前回も書いた「はじめての海外文学」ですが、猫好きへのビギナー篇として外せないのは、これでしょう。
- 作者: ポールギャリコ,Paul Gallico,灰島かり
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1998/12
- メディア: 文庫
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ポール・ギャリコの家の聡明なメス猫が、「いかにして居心地のいい家に入りこむか。飼い主を思いのままにしつけるか」について、後輩猫たちに教える体裁のこの本。
ではまず簡単に、私自身がある一家をどうやって乗っ取ったかをお話ししましょう。……
私たち猫が人間の家に入りこむとき使うのに、これほどぴったりの言葉がほかにあるかしら。だってたった一晩で、何もかもが変わっちゃうんですもの。その家も、それまでの習慣も、もはや人間の自由ではなくなり、以後人間は、猫のために生きるのです。
まさにその通り。乗っ取られた身としてつくづく思う。
どうやらうちの猫は、パソコン用の椅子を気に入ったらしく、どっかと座っているので、いま私は猫のじゃまにならないよう、おしりを半分くらい乗せてこれを書いているのだけど、まさに、「人間の家を占領したら、すぐに気に入った椅子を選んで猫専用にすべし」という項もある。
猫専用にするためには、まず手始めに、その椅子の上でたっぷり時間を過ごすこと。丸まって眠りこんだり、眠っていないときでも眠ったふりをしたりして、猫がそこにいるのを家族の目に慣れさせます。だんだんわかってくると思うけど、人間は習慣の動物で、しかもたいへんな怠け者。だから洗脳すればどんなことでも信じこむし、ある状況を運命として受け入れさせるには、目を慣らしてやりさせすればいいんです。目を慣らすというのは、たとえば毎日毎日その椅子の上で猫を見ているうちに、やがてその椅子は猫のもので人間のものではないと、納得がいくようになることです。
と、こんな感じで、人間の心理を深く知りつくした猫による、人間の飼いならし方がびっしりと書かれている。
そして、この文庫のあとがきでの大島弓子のマンガでは、この本を読みながら愛猫サバの死を乗り越えたことが描かれていて、ほんの短いマンガなのだけれど、涙が出てくる。思えば昔、大島弓子のサバシリーズのマンガを読むたびに、猫との「誰も触れない 二人だけの国」(スピッツ)のような生活にあこがれた。そしていま、それが叶った。そしていま、これを書いているあいだも、何度も何度もキーボードの上に乗られたりと激しくじゃまされています。
この『猫語の教科書』で、作者である聡明な猫は、実利的なアドバイスにとどまらず、人間との生活で派生する、猫と人との間の愛についても言及している。
私にいえるのは、人の心に愛があると、その人の腕に抱かれたり、ひざの上でやさしくなでられたりしたとき、その愛があなたに向かって流れてきて、あなたはそれをただ感じるということ。人の心に愛がなければ、あなたは何も感じない。たとえどんなに機嫌をとってくれようと、どんなにじょうずになでてくれようと、愛は感じられないのです。
それにしても、ポール・ギャリコはほんと猫好きだったようで、この本の姉妹編である、猫をテーマにした詩と写真で構成されている『猫語のノート』でも、まえがきで猫二十七匹(!)との生活を語り、巻末エッセイ「高貴な猫と、高貴とは言えない人間について」で猫への愛を綴っている。
が、この『猫語のノート』の灰島かりさんによる訳者あとがきによると
彼(ポール・ギャリコ)は四度結婚し、そのうちの二人の元妻からは、後に訴訟を起こされています。どうも女性との関係は、猫とほど、うまくいかなかったようです。
と。そうか……。しかし、猫二十七匹に妻四人って、基本なんでも量多めである。
あと、「はじめての海外文学」のフリーペーパーでは、『通い猫アルフィーの奇跡』が紹介されていて、すごく読みたくなった。
飼い主が亡くなり、孤児になったアルフィーが奮闘する物語らしい。推薦者の山本やよいさんによると、「幸せになって!」と応援したくなるとのこと。わかります。人間については、あまりそんな風に思ったりしないけれど、猫については、すべての猫が幸せになりますようにって、心から願う。
↓ひとしきりあばれたら、膝でゴロゴロ。ちゃんと愛を感じてるのだろうか…
はじめての海外文学――そしてジェイムズ・エルロイ 『獣どもの街』(田村義進訳)
読書ブログをやっておきながら、なかなか落ち着いて本を読めない事態になってしまった。
原因はこの子↓ 会社の人が保護した子猫を引き取ることにしたのです。
まだ生まれて二か月も経っていないため、長く留守番させるのも不安で、ここ数日はなる早で家に帰っているのですが、今日は午後休を取って、映画『インフェルノ』を見てきました。
トム・ハンクスがちょいちょい細川たかしに見えたのが気になったが(髪型のせいもあるのだろうか)、原作でちょっと強引な展開に思えたところや、えっ、これで終わるの? など違和感を感じたところを、うまく処理してあったのではないでしょうか。また原作もそうですが、とにかくスピード感のあるストーリー展開なので、まったく退屈する間もなく、どんどん話が進んでいくので、原作を読んでない人でも楽しめると思います。
しかし、いま映画『インフェルノ』のウィキペディアを見て、天才科学者ゾブリストを演じたベン・フォスターが、14歳年上のロビン・ライトと婚約していたという事実におどろいた。ロビン・ライトって、そう、ショーン・ペンの元嫁です。こりゃまたえらいとこにいくねんな~という感じだ。
で、そのあとはグランフロントの紀伊國屋に行って、「はじめての海外文学」のフリーペーパーを入手しました。「ビギナー篇」と「ちょっと背伸び篇」の両方。
で、「ビギナー篇」で紹介されていたので知りましたが、こないだ書いた、今年度の
ブッカー賞インターナショナル部門を受賞した、韓国のハン・ガンの『菜食主義者』、とっくに翻訳本出ていたようです。そりゃそうか。
- 作者: ハン・ガン,川口恵子,きむふな
- 出版社/メーカー: cuon
- 発売日: 2011/06/15
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翻訳のきむふなさんのコメントによると、「ごく平凡なはずの妻が、あるひ突然肉食を、そしてついには食べること自体を拒み植物になりたがる」という話らしい。やはりおもしろそう。
しかし、この本にしても、岸本佐知子さん推薦の『ハルムスの世界』にしても、海外文学のビギナーにおすすめできるのかは少々謎ですが。ちなみに、私はこの「ビギナー篇」では、前にも紹介したジョーン・バウアーの『靴を売るシンデレラ』をおすすめしたい。
「ちょっと背伸び篇」では、柴田元幸さんが創元推理文庫の『フランケンシュタイン』を推薦していたので、読んでみたくなった。
「フェミニズムの創始者、あるいは先駆者とも呼ばれるメアリー・ウルストンクラフトを母、無神論者でアナキズムの先駆者であるウィリアム・ゴドウィンを父として生まれた」(ウィキペディアより)作者メアリー・シェリーについては、以前から気になっていたので。いろんなところから出ているけど、なかでもこの版がおすすめらしい。
ちなみに、私が「ちょっと背伸び篇」を選ぶとしたら、ここには載っていませんが、いまちょうど読んでいるジェイムズ・エルロイ『獣どもの街』にしたい。
- 作者: ジェイムズエルロイ,James Ellroy,田村義進
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2006/10
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変態性欲の辺土。性欲はイエス。変態もいっそのことイエス。
変態性欲が変化をもたらした。死屍累々のシーンに刺激されたのだろう。きわどい危機がきっかけとなったのだろう。
戻ってきた猛烈女。撃ちあいによって生まれた運命。時を飛び越え、記憶を刻もう。
服を振りはらい、ズボンをずりさげる。火勢は下降し、薄暗がりが生まれている。記憶が強化される。ドナの身体を思い出す。唇をくっつける。
といった具合で、可能なかぎり原文にあわせて頭韻をふんだこの文体。頭韻や言葉遊びといった文体の妄執が、主人公リックのドナへの妄執と重なる。
リックはドナを愛している。
純愛、それはつまりオブセッション。こんなに凝った翻訳文をあみだす労力を考えるとおそろしいが、それもまた純愛でありオブセッションなんでしょう。
困ったおじさん大集合 『僕の名はアラム』(ウィリアム・サローヤン 柴田元幸訳)
「困ったおじさんね」というのは、たしか寅さんの妹さくら一家の口癖だったような……なんでこんなことを思い出したのかというと、このウィリアム・サローヤンの『僕の名はアラム』には、「史上ほぼ最低の農場主である」メリクおじさん(『ザクロの木』)や、「一族きっての阿呆頭」で、仕事もせず一日中歌っている「僕の情けないおじさんジョルギ」(『ハンフォード行き』)や、東洋哲学を勉強し、四六時中瞑想にふけるジコおじさん(『五十ヤード走』)など、奇人変人ともいえるおじさん軍団がわんさか登場するからだ。
柴田元幸さんの訳者あとがきでは、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』や、バリー・ユアグロー『ぼくの不思議なダドリーおじさん』、北杜夫の『ぼくのおじさん』をひいているが、やはり「困ったおじさん」というと、車寅次郎がどうしても浮かんでくるのだった。
というと、すごくのどかで牧歌的な物語のように感じられるかもしれないが、いや実際に、主人公の少年「僕」の目から語られる、おじいさんやおじさんを中心とした一族の物語やゆかいな学校生活は、牧歌的で理想郷のように思える世界なのだけど、訳者あとがきでは、サローヤンの親の世代は、「トルコによるアルメニア弾圧から逃げてきた――移民第一世代」であり、「生まれ育ったコミュニティ全体に、暗い過去に関する思いがつねに漂っていたようである」と書かれている。
で、少し前に、奈良県立情報図書館で行われた読書会(トーク・アラウンド・ブックス)に参加し、そこでも誠光社の堀部さんが、この本の背景をいろいろ解説してくれた。
正直、アルメニアといってもどんなところなのかピンとこなかったけれど、地図で見るとロシアとトルコとイランに囲まれた小さな区域だが、キリスト教では「約束の土地」という重要な拠点であり、世界ではじめてキリスト教を国教とした国らしい。しかし、1915年~1916年にはトルコによる大虐殺があり、その後ソ連に組み込まれ、再び独立を果たすのは、ソ連の崩壊を待たなければいけなかった。ちなみに、サローヤンはアルメニアの偉大な作家としてソ連でも名高く、なんとアメリカとソ連の両国の紙幣に肖像がのったらしい。
先にも書いた、「史上ほぼ最低の農場主である」メリクおじさんは、どうにもならないような砂漠の土地を買って、ザクロの果樹園を育てることを夢見るのだが、ザクロというのはアルメニアの象徴的果実とのことであり、つまり、サローヤンの小説の世界では、アメリカの価値観とアルメニアの価値観が共存しているとのことだった。
あと、もうひとつ興味深かったのは、サローヤンは伊丹十三の翻訳も話題になった『パパ・ユーア・クレイジー』で、魅力的な父と子の関係を描いたが、実際の息子アラム・サローヤンとの間には激しい確執があったという話だった。
アラム・サローヤンものちに前衛的な詩を書く作家になったが、ウィリアム・サローヤンはそんなワケのわからん(←私が勝手に推測する、父ウィリアムの感想です、念のため。アラム・サローヤンの詩集を見せてもらいましたが、私はおもしろい詩だと思いました)詩を認めず、そして息子アラムも、売れっ子作家であった父のことを芸術家としては認めず、完全に決裂したらしい。ウィリアム・サローヤンは財団を作って自分の遺産を管理するよう遺言し、つまり息子や娘には遺産をわけようとしなかったとか。私が子供なら暴れるな。いや、でも最終的には和解したらしく、息子アラムによる『和解:父サロイヤンとのたたかい』という本も出ているそうです。
また柴田さんのあとがきに戻ると、そういった移民の苦しみや家族の確執などを前面に出すことのないサローヤンの小説は、「楽天的すぎる」(要は、ぬるいってことですかね)と批判もされ、現代では、同時代のヘミングウェイやスタインベックほど読まれていないことを指摘し、そこで援軍として、小島信夫訳の『人間喜劇』の訳者あとがきを引用している。
(バイブルを読むと)私の偏見かもしれぬが、キリストでさえも、善人とは思えない。……キリストには寛容の精神などない。寛容と見える場合にも、私たちは油断することが許されない。……私たちは寛容をあたえられた場合にも、次におびえなければならぬことになりかねない気がする。……
サロイヤンは「善人の部落」を書き、悪を追放した。悪はもう沢山だ。
興味深いですね。『人間喜劇』も読んでみたくなった。小島信夫の訳も気になる。
トランプ氏が大統領になったりするのも、喜劇的なことなのかもしれない……あるいは、ヴォネガットが描いていた、まさにスラップスティックな世界になりつつあるのだろうか。