快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

年末年始に読んだ本 『屋根裏の仏さま』(ジュリー・オオツカ 岩本正恵・小竹由美子訳)『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(ジェームズ・M・ケイン 田口俊樹訳)

 さて、もう正月気分もどこへやらって感じですが、年末年始に読んだ本をメモしておきます。 

屋根裏の仏さま (新潮クレスト・ブックス)

屋根裏の仏さま (新潮クレスト・ブックス)

 

  この『屋根裏の仏さま』は、日系三世のアメリカ人作家ジュリー・オオツカが描いた、二十世紀初頭に、日本から「写真花嫁」として、アメリカに渡った女性たちの物語である。夫の写真と経歴――どこまでほんとうかどうかわからない――だけを見て、日本からアメリカに嫁ぐことを決めた女性たち。そんな日系移民の膨大な書籍や資料をもとに、ジュリー・オオツカはこの作品を書いたらしい。 

船でわたしたちはよく考えた。あの人のことを好きになるかしら。愛せるかしら。波止場にいるのを初めて見るとき、写真の人だとわかるかしら。

 「わたしたち」という人称を主語とする作品というと、ジョシュア・フェリスの『私たち崖っぷち』を思い出した。 

私たち崖っぷち 上

私たち崖っぷち 上

 

  こちらは現代の広告代理店を舞台にした小説で、まったく環境は異なるが、一枚の写真を手に海を超えた女性たちと、リストラを目の前になすすべなく脅える社員たちと、寄る辺のなさという点では似ているかもしれない。どちらも「個」が消滅していることを「わたしたち」という主語であらわしている。


 「わたしたち」が、農家の小作人として、あるいはメイドとして、さまざまな意味で自分の身体を犠牲にしてひたすら働いて、ようやくアメリカ社会に落ち着いたころに、太平洋戦争が勃発し、日系人が収容所に入れられるくだりは、いたたまれない気持ちになる。 

 ちなみに、この本は翻訳家岩本正恵さんが訳している途中に病気で亡くなり、小竹由美子さんが引き継いだらしい。岩本正恵さんの翻訳というと、エリザベス・ギルバートの『巡礼者たち』が印象深い。いま思えば、この短編集がよかったのは、翻訳の力も大きかったのではないだろうか。 

巡礼者たち (新潮文庫)

巡礼者たち (新潮文庫)

 

 あと、今頃ですが『郵便配達は二度ベルを鳴らす』も読んだ。 

郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫)

郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫)

 

  以前読んだ『カクテル・ウェイトレス』がおもしろかったので、代表作のこちらも読んでみようと思っていたのです。 

カクテル・ウェイトレス (新潮文庫)

カクテル・ウェイトレス (新潮文庫)

 

  で、読んでみると、ちょっと予想していた話とちがって……いや、ネタバレになるかもしれませんが、おもな話の展開はだれでも知っていると思うので書くと、


 主人公と人妻である愛人が共謀して愛人の夫を殺そうとする話、とは知っていたけれど、それからの展開が、ほぉ~こう来るかって感じだった。なんとなくボニーとクライドみたいな、ロマンティックな悪党ラブストーリーを想定していたが、もうちょっと苦みのあるしょっぱい話だった。
 
 これも『カクテル・ウェイトレス』と同様に、語り手がどこまで真実を語っているのかが肝だと感じた。語りのとおり、裏表のない単純な悪党(ヘンな言い方ですが)なのか、血も涙もない極悪人なのか……。

 あと、この本は有名だけにいくつも翻訳が出ているようで、くらべていないのに言うのはなんですが、『カクテル・ウェイトレス』と同様に、田口俊樹さんのラフな(もちろん、あえてそういう文体を採用したのでしょうが)語り口が、主人公のやぶれかぶれな生きざま、愛人コーラの蓮っ葉な可愛らしさを、うまくあらわしていたと感じた。しかしアマゾンで見たら、古い翻訳も、田中小実昌小鷹信光中田耕治とそうそうたる面々ですね。読みくらべてもおもしろそう。 

あたらしい年にむけて―― 『女子をこじらせて』(雨宮まみ)

  2016年、一番おどろいたことと言えば、雨宮まみさんの訃報だった。
 
 『女子をこじらせて』が単行本で出て、話題になっていたときにさっそく読んでみて、同世代のせいか、ロッキン・オン社の出版物を(真剣に…)読んでいたとか、通ってきたものが共通していて、親近感や共感と同時に、身につまされるような痛々しさや違和感を感じた。 

女子をこじらせて (幻冬舎文庫)

女子をこじらせて (幻冬舎文庫)

 

  痛々しさや違和感というのは、この本で書かれている、「モテない」(モテなかった)とか「女として魅力がない」とか、男からどう思われるかとか、他人の視線なんてどうでもいいやん!!と、きっぱり言ってしまいたい、いや、でもほんとうは、どうでもよくないというのもわかる、という拮抗した気持ちから生まれている。

 
 と言っても、この『女子をこじらせて』で書いているのは、「モテない」「結婚できない」とか「美人じゃない」という単純な問題ではなく、ちょうど今年出版されて話題になった、ロマン優光の『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』で、「こじらせ女子」について 
 

広義にはモテ/非モテのなかで自意識をこじらせて女性としての自己評価が低い女性ということなのでしょうが、狭義としては、それに加えて、自分の中にあるフェミニズム的意識と男性に女性として認められたい気持ちの折り合いがつかない、男性優位社会やジェンダー問題に対して不快感や反発する気持ちとそういった価値観にそって男性に求められたいという気持ちの矛盾を解決できない、そういった問題のことだと私は理解しています。 

  と書かれていて、そうそう!と思った。単に異性からモテないだけの悩みだとカン違いしている人たちは、「こじらせ女子」について、「そこまでブスじゃないじゃん」「モテないって、理想が高いんじゃないの?」などと言ってきたりするので、恐ろしいほど話が噛み合わないのである。

 
 この『女子をこじらせて』の文庫に解説を書いた上野千鶴子は、この赤裸々な痛々しさに触発されたのか、めずらしく自分についてこう書いている。 

この本を読みながら、わたしは、自分が「すれっからし」だった頃のことを思い出した。 

 「すれっからし」戦略とは、男の欲望の磁場にとりかこまれて、カリカリしたり傷ついたりしないでやり過ごすために、感受性のセンサーの閾値をうんと上げて、鈍感さで自分をガードする生存戦略だった、と今では思える。男のふるまいに騒ぎ立てる女は、無知で無粋なカマトトに見えた。そうでもしなければ自分の感受性が守れなかったのだが、ツケはしっかり来た。 

  そして、これまで女性について、数々の論文や本を書いていた上野千鶴子が、おそらくこれまで書いたことのないストレートな言葉で、理論や論証なども抜きで、はっきりとメッセージを伝えている。 

わたしも若い女たちにいいたい。はした金のためにパンツを脱ぐな。好きでもない男の前で股を拡げるな。男にちやほやされて、人前でハダカになるな。人前でハダカになったくらいで人生が変わると、カン違いするな。男の評価を求めて、人前でセックスするな。手前勝手な男の欲望の対象になったことに舞い上がるな。男が与える承認に依存して生きるな。男の鈍感さに笑顔で応えるな。じぶんの感情にフタをするな。そして……じぶんをこれ以上おとしめるな。 

 人前でハダカになったり……は、私含むふつうの人にはあまり縁がないかもしれないけれど、「男の鈍感さに笑顔で応え」たり、「男のふるまいに騒ぎ立てる女」を見下したりは、職場やありとあらゆるところで起こりうることだ。男に限らず、他人からの承認に依存して生きない、じぶんの感情にフタをしない……これは2017年も、心に刻んでおこう。「じぶんをこれ以上おとしめるな」は、前回も書いた「自分が幸せになることを許可する」ともつながっている。そう、自分をほんとうに大事にするって、すごく難しいんだなとようやく気づきかけてきた今日この頃。  

 あと、この『女子をこじらせて』は、私的な男女関係だけではなく、仕事についても深く突っこんで書かれているところもおもしろい。編集プロダクションでのあわただしい日々、そこからフリーのライターとして独立するまでの心情は、すごく読みごたえがある。「私は謙遜という美徳をこの時捨てました」という一文は、仕事をしている人、とくに好きなことで働きたいと思っている人は、絶対に心がけるべきだと思った。

 フリーのライターになってからも、「女だから」トクしていると思われたり、「美人ライター」なんていう肩書をつけられて苦しんだことも正直に書いている。私的なことでも、仕事でも、なんでも正面からぶつかって悩んで傷つく作者が、「自分の中にある他者の視線」をやっと振り切り、「誰がどう思うかじゃなく、自分が本当にしたいこと」の気配を感じ 

「本当にしたいこと」「やりたいことをやる」なんて、すごい才能のある人にしか許されないことのように思っていましたが、べつに自分がやったっていいわけです。

そうしてのびのび好きなことを書いた、どちらかというと稚拙な文章は、それまで書いた中でいちばん好きな文章になりました。自分のことを心から好きになれる可能性がまだあるのだと感じました。
長い「自分探し」の旅が、この時、ようやく終わったのだと思います。

  と綴る最終章は感動する。

 いま生きている私は、とにかく前を向いて進んでいくしかないのだなと、あたらしい年を前にあらためて思う。

 

あたらしい年に向けて、あたらしい働きかた――『わたしらしく働く!』 (服部みれい)

 さて、なんだかんだしているうちに、すっかり年末。『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も『この世界の片隅に』も、そして、”逃げ恥”の最終回も録画しているものの、まだ見ておらず、2016年の人気作にまったくついていけませんが、とりあえず今年印象に残った本を紹介していきたいと思います。
 
 といっても、おもしろかった本はだいたいこちらに書いているのですが、どう紹介していいかわからず、のばしのばしになっていたのが、この『わたしらしく働く!』。 

わたしらしく働く!

わたしらしく働く!

 

  なぜどう紹介していいかわからなかったかのかというと、小説なら、あらすじや心に残った点をまとめて伝えたらいいけれど、これは「働く」ことをテーマにした本なので、働くということをなかなかうまく整理できず、どう書いたらいいのかもわからなかった。


 この作者の服部みれいさんは、もしかしたら知らない人もいるかもしれないけれど、一部(といっても、そんなに狭い一部ではない)では、カリスマ的な人気を誇るライター&エディターであり、雑誌『マーマーマガジン』(現在は『まぁまぁマガジン』)の発行人である。彼女の文章のみならず、「冷え取り」や「ホ・オポノポノ」などを取り入れたライフスタイルも、強い影響力を持っている。

 ……と書くと、スピリチュアル系??そんなエセ科学ダメ、ゼッタイ、という人も少なくないと思うが、私もスピ系をそんなに信用できないタイプの人間だけど、彼女の書き方は、原理主義的な押しつけがましさもなく、生真面目過ぎでもなく、要はなんか「コワイ感じ」がないので、そんなに抵抗なく読める。しかも、この『わたしらしく働く!』は、スピ系はほとんど顔を出さないので、そういうのに拒否反応がある人でも問題ないと思う。
 
 この本は、自己啓発本のように、ああしろこうしろ(前向きになれ、とか)とつらつら書かれているわけではなく、作者の仕事ヒストリーがメインとなっている。はじめて就職した編集部での過酷な日々、心身ともに限界を感じて退職し、フリーになって再出発して、ライターとしての地位を確立する。そしてそこから雑誌作りを手掛けるようになり……といった具合なのだけど、ほんとうに地道に、一歩一歩進んでいるさまを包み隠さず書いているのにすごく共感した。
 
 いや、90年代の渋谷系の時代のイメージのせいか、人気雑誌の編集部に出入りしていた、ついこないだまで一読者だったみたいな人が、気がついたら人気ライターを名乗ったりするような業界かと思っていたので(いや、完全に私の偏見というか、妄想ですが)。フリーになったばかりのときは、K塾のチューターとのかけもちをしていたというのも印象深かった。実は私も高校のとき、K塾に通っていたが、このチューターってなに?って思っていたので。(けど、大学院生ばっかだったような印象があるが、社会人の人もいたんですね)

 あと、お金のこともはっきりと書いているのも信用できる。フリーライターとしての月収の目標は、月100万だったとか。たしかに、月100万って多いように思えるが、でも、東京で、ボーナスもなく社会保険や経費も自分持ちのフリーで働くならば、目標額としては妥当なところなのかもしれない。
 
 はじめて創刊に参加した雑誌への情熱、そして失敗の顛末も、生々しいくらいにはっきりと綴っていて、痛々しい思いが強く伝わる一方、逆にはげまされる気になる。そのあとの『マーマーマガジン』創刊のいきさつも、自分で企画書を書いて、アパレルメーカーにプレゼンして……というのも、考えたら当然なのだけど、おどろいてしまった。というのは、アパレルメーカーが宣伝の一環として冊子を作ろうとして、売れっ子ライターの作者に編集をお願いした……というようなストーリーを漠然と想像していたからだ。
 そう、そんな都合のいい話があるわけない。自分から動かないとはじまらないのだ。

 また、どうして出版社でなく、アパレルメーカーにプレゼンしたのかというと、「とにかく自信がなかった」から、というのにもまたおどろいた。いくら自信がなくても、やりたいことが明確にあれば行動をおこすことができるし、成功につながるのだとつくづく感じた。あ、『マーマーマガジン』の「マーマー」がREMの曲からとったというのも、そうか!と思った。意外ではなく、そうだよな、って感じで。
 
 ちなみに、その後の『マーマーマガジン』は、この本にも書かれているが、編集部が岐阜に移り、いったん休刊して『まぁまぁマガジン』と様変わりした。これまで「冷え取り」とかオーガニックなコンテンツがメインだったが、なんと「詩」が中心となり、これまでは「薄くて読み切れる」ものだったのが、かなりぶ厚くなった。

 前回このブログで取りあげた、エミリー・ディキンソンや谷川俊太郎から、前野健太ガケ書房の人(詩人でもあったとは知らなかった)、そしてみれいさん……詩はどれもおもしろかった。とくに、ルーシー・タパホンソの詩にひかれ、だれかと思って調べると、ネイティヴ・アメリカン詩人だった。やなせたかしの『詩とメルヘン』のように素敵な雑誌。 

ネイティヴ・アメリカン詩集 (新・世界現代詩文庫)

ネイティヴ・アメリカン詩集 (新・世界現代詩文庫)

 

  『わたしらしく働く!』に戻ると、最後に「実践編」として、仕事に対しての具体的な心構えが書かれていて、そこは一見自己啓発本のようだけど、内容はこれまで作者が伝えてきたメッセージが凝縮されている。 

わたしたちは「できるか/できないか」ではなく、「やるか/やらないか」の世界に住んでいるみたい。  

でもネ、なんだかんだいって、本当に大切なのはストレートに「やさしい気持ち」。誰かを喜ばせたい、たのしませたいという。やさしさや思いやりが、真のオリジナルを生むと思っています。

どちらを選択したらいいか迷った場合、「自然かどうか」と質問してみてください。結局不自然なことって続きません。 

大切なのは、まず、自分が幸福になることを自分が許可すること。

  ほんとうにそうだと心から思う。2017年は「自然に」生きて、自分が幸福になることを許可して、自分らしく幸せになります。

 

”真実をそっくり語れ、だが斜めから語れ” 『誰でもない彼の秘密』(マイケラ・マッコール 小林浩子訳)

わたしはだれでもない人! あなたはだれ?
あなたもだれでもない人なの?

 I’m Nobody! Who are you? という、エミリー・ディキンソンの詩のなかで
もっとも有名なこのフレーズからはじまるこの物語。  

誰でもない彼の秘密

誰でもない彼の秘密

 

 アメリカの小さな町アマストに住む、15歳の利発な少女エミリーは、「名のるほどの者じゃないよ」と語るミスター・ノーバディと出会う。

 ミスター・ノーバディはアマストの住人ではないが、「身内のゴタゴタ」を片付けるためにこの町にやってきたと語る。「不愉快な問題を解決しないといけないんだ」とエミリーに話す。(なんで初対面のエミリーにいきなりそんなこと言うんだ、という気はいなめないが)ミスター・ノーバディに魅かれたエミリーは、町を案内する約束をするが、数日後、変わり果てた姿となったミスター・ノーバディが、家の敷地内で発見されるのだった…


 と、エミリー・ディキンソンを主役にした、思ってたより本格的な推理小説でした。
そしてもちろん、物語のあちこちにうまくエミリーの詩が埋めこまれ、サスペンスに加え、詩的な雰囲気も醸し出している。


 が、この物語で一番私の印象に残った、というか私に限らずだれでも感じると思うが、なにより一番熱心に描かれているのは、家事の苦痛っぷりだった。

 ディキンソン一家は、父親が弁護士で町の有力者でありながら、ピューリタン精神にのっとり、贅沢をせず質素な暮らしぶりで、「自分たちでできることは自分たちでする」という方針のもと、お手伝いを雇っていないため、母親とエミリー、そして妹のヴィニーはとにかく家事に追われている。
 もちろん、家事というのは、ただ重労働というだけではなく、古い価値観の象徴でもあり、エミリーは「女は本を読むな」(いらん思想を吹きこまれるから)という考えを持つ両親に強く反発している。

その(母の)背中に向かって、エミリーは話しかけた。「わたしは人生でなにかを成し遂げたいの。ときどき家を離れることもあるだろうけど、約束するわ、かならず帰ってくる……自分をまた見つけるために」
「冒険はありえません」母はぴしゃりと言った。「あなたは結婚して、自分の子供を持って、美しい家を維持するんです」
「わたしがほかのことをやりたかったらどうするの?」反抗的な声できいた。「夫も子供も必要じゃないようなことを」 

 この物語で描かれているエミリーは、危険をかえりみず探偵活動を行ったり、こんなふうに両親に逆らって、自分のやりたいことを主張したりと、かなり活発な少女だ。家にひきこもってほとんど外出せず、近所の人すらその姿を目にすることはめったになかったという、実際のエミリー・ディキンソンとはかなりイメージが異なる。


 しかし、この時代にめずらしく妻にも母にもならず、のちにアメリカ最大の詩人と呼ばれるほどの詩をひっそりと書きためていた実際のエミリーも、物語のエミリーと同様に、きっと強い意志や信念を持っていたのだろう。


 あと、妹のヴィニーがとってもいい子だった。ときに暴走する姉エミリーを陰に日向にフォローし、機転をきかして捜査を手伝う。エミリーが活発過ぎて、ちょっとうざい感もあるだけに、いっそう魅力的に感じる。たしか現実でも、エミリーの詩を発掘して世に出したのは妹のはず。素敵な姉妹愛だ。


 ミステリーとしては、ものすごい二転三転するとか、凝った仕掛けがあるわけではないが、決して甘い話ではない。初対面のエミリーとミスター・ノーバディがハチについて話をすることも象徴的だが、「毒」がこの物語のキーワードになっている。そう考えると、この物語全体が、「毒」を含み、「死」の影を描き続けたエミリーの詩をあらわしているとも言える。

”真実をそっくり語れ、だが斜めから語れ”

Tell all the Truth but tell it slant ――この物語も、家にひきこもって詩を書き続けたということばかりクローズアップされる、エミリー・ディキンソンのまた違った一面を、斜めからうまく切り取ったものといえるのではないでしょうか。
 

ペットのワニ、そして謎の雄鶏との痛快で切ない珍道中 『アルバート、故郷に帰る』(ホーマー・ヒッカム 金原瑞人・西田佳子訳)

母からアルバートの話をきくまで、うちの両親がそんな旅をしていたとは全然知らなかった。アルバートを遠い故郷まで連れていくなんて、危険だし、そうそうできることじゃない。知らないことばかりだった。両親がどうして結婚したのかも、両親がどんな経験を経ていまのようなふたりになったのかも。それに、母には好きでたまらない人がいて、その人がのちにハリウッドの有名俳優になったということも。

  ワニを飼うというと、どんな話が思い浮かぶでしょうか?

 私はやっぱり岡崎京子の『pink』を思い出してしまう。ぶっ飛んでいて痛快で切ないユミちゃんの物語。この話もきっとそんな話に違いない……と思って、この『アルバート、故郷に帰る』読みはじめたら、最初は、あれ? ちょっと違うな…と感じた。 

アルバート、故郷に帰る―両親と1匹のワニがぼくに教えてくれた、大切なこと (ハーパーコリンズ・フィクション)

アルバート、故郷に帰る―両親と1匹のワニがぼくに教えてくれた、大切なこと (ハーパーコリンズ・フィクション)

 

  この物語の主役といえる語り手の母、エルシーは、ウェストヴァージニアの炭鉱の町で育ち、高校卒業とともにオーランドに出る。炭鉱の町とはうってかわって華やかなオーランドで、歌やダンスが得意なバディと出会って恋におちるが、バディは俳優になるためにニューヨークに行ってしまう。傷心のエルシーは 

「宿命に従ってみたらどうだ? 宇宙の意志でもあるんだぞ」

  と、故郷の町の炭鉱の監督に言われて、高校の同級生であった語り手の父、ホーマーと衝動的に結婚する。正直なところ、好きな人とはうまくいかずに、やけっぱちな気持ちになって、手近なところで手を打つくだりは、独身の自分にとって、夢ないな~と感じてしまった。

 そして、好きだったバディに結婚することを告げたところ、お祝いとして贈られてきたのが、ワニのアルバートだったのだ。 

この世のなかでアルバート以上に大切なものがあるだろうか。エルシーは膝をついて、アルバートのおなかをなでてやった。アルバートはうれしそうに前足を動かし、歯をぎらつかせて笑った。 

  
 と、エルシーはたいへん可愛ったものの、アルバートはどんどんと大きくなって飼いきれなくなり、ホーマーに「ぼくか……ワニか……どっちかを選んでくれ」と言われて、アルバートの故郷のオーランドに捨てに行くという物語なのだけど、正直、このくだりも、「ペットを飼うなら最後まで責任をもって! というか、ホーマー、ほんまケツの穴が小さい男やな~。だからエルシーに愛されへんねん」と、しょっぱい気持ちになった。
 
 が、物語冒頭のこのビミョーな気持ち、ホーマーとエルシーのすれ違い、それぞれが抱えている不安や鬱屈が、旅を続けていくことで徐々に解消され、ふたりの絆が深まっていく。
 といっても、旅情あふれるしみじみした道中ではまったくなく、旅のはじまりから、銀行強盗に巻きこまれたり、ジョン・スタインベックとともに労働争議にまきこまれて、ダイナマイトで靴下工場を吹き飛ばす羽目になりかけたり、密造酒の密輸団に連れ去られたりと、かなり荒唐無稽だ。映画に出たり、ヘミングウェイに会ったりもする。クセが強い面々が次から次へと、ホーマーとエルシーの前にあらわれる。直情的で勇敢なエルシーは、そんな奇妙な連中や悪党たちにも物怖じすることなく立ち向かい、そしてホーマーは、そんなエルシーとアルバートを守ろうと奮闘する。

 ホーマーとエルシーのあいだにも、すんなりと愛が生まれるわけではない。深刻な危機が何度も訪れ、もうこの結婚は無理だと、ふたりとも幾度も思う。けれど、宿命はふたりに味方した。
 

ホーマーはにっこり笑った。エルシー・ガードナー・ラヴェンダー・ヒッカムが、とうとう愛しているといってくれた。いまなら死んでもいい。美しいエルシーと、そのうしろにいるアルバートを見つめた。自分は世界一の幸せ者だ。こんなに美しくてすばらしい女性と結婚できたのだから。
 アルバートはホーマーを見て、ノーノーノーと抗議の声をあげた。ホーマーはそんなアルバートを見てうなずくと、エルシーを頼むよと、心の中で呼びかけた。 

  そして、かの心の恋人バディもやって来て、三人でアルバートを自然にかえすことになる。 

アルバートの顔から笑みが消えた。エルシーを見つめ、なんでだよというように鼻先をエルシーにこすりつける。

  このアルバートとの別れのシーンは、何度読んでも泣いてしまう。「なんでだよ」というのが切ない。

 けれど、この別れはホーマーとエルシーにとって必要なことだったのだ。バディと過ごしたオーランドの思い出に別れを告げるために。いやだいやだと思っていた炭鉱の町で、鉱夫の妻として生きていくために。

 この小説の章と章のつなぎ目には、語り手「ぼく」の回想として、その後の父ホーマーと母エルシーが描かれているが、結局のところ、炭鉱の町でエルシーが幸せだったのかどうかはよくわからない。でも、これが宿命だったということなのだろう。

両親がアルバートを故郷に連れて行った話は、若い夫婦の風変わりな冒険物語というだけではない。それは天から与えられたもっとも偉大かつ唯一の贈り物――愛という言葉ではあらわしきれない、奇妙な、そして奇跡的な感情――をふたりがたしかに手に入れる物語なのだ。 

破綻の予兆に満ちた世界から生じるノスタルジー 『歩道橋の魔術師』 (呉明益 天野健太郎訳)

猫はまるで白い影のように、机の上から唐さんを見ていた。唐さんはギターのピックみたいな平らなチャコペンで、生地に線を描いていた。唐さんはときどき手を休め、猫を見た。猫もまた唐さんを見た。なんだか眼差しだけで会話をしているようだった。唐さんがふいに、猫に訊いた。「どう思う?」ドキンと鼓動が突き上げた。全身がこわばる。だって、猫の顔が本当にその質問に答えようとしていたから。
  猫は本当に答えた。(『唐さんの仕立屋』)


 猫にかかりきりで、じっくり本を読めない今日この頃ですが、この『歩道橋の魔術師』は短編なので、なんとか読み通せた。 

歩道橋の魔術師 (エクス・リブリス)

歩道橋の魔術師 (エクス・リブリス)

 

  1980年代の台北、いまはもう解体された中華商場を舞台に、「夢と現実の境界線」(「唐さんの仕立屋』)のような物語が繰り広げられる。

 どことなく懐かしい……という印象のあるこの短編集だが、しかしよく考えると、昭和50年代生まれで、郊外の団地育ちの私にとって、こういった風景が実際の記憶に残っているわけではない。なのにどうして、懐かしいという印象があるのか考えると、家族や近所の人たちとの距離感や、年長の相手に感じた淡い恋心などが、幼いころに感じたものと呼応するのかもしれない。

 といっても、ノスタルジーに満ちたほのぼの短編集では決してなく、愛と性、そして死が密接に絡みあっている。淡い恋心を抱いても、相手の女は去っていく。去っていった女を追う男は、自らもそっと姿を消すか、あるいは女を殺して自分も死ぬ。

ある朝、目が覚めたら、鳥の鳴き声が聞こえなくて、不吉な予感がした。わたしは屋根裏部屋から駆け下りて、鳥かごを見た。すると、クロちゃんの頭と首が消えて、下半身だけになっていた。シロちゃんは脚と体が亡くなり、頭だけになっていた。半分だけ残されたブンチョウは、どちらもきれいに空っぽだった。なかは内臓も血も残ってなくて、まるでゴムの指人形みたいだった。(『鳥を飼う』) 

 鳥は猫に殺され、唐さんがあれほど可愛がっていた猫は姿を消す。

げっそりと痩せ、もはやそのスーツも着られないであろう唐さんが作業机の前に座っていた。憔悴して、もはや正気の顔じゃなかった。ハサミで音楽を奏でる、あの自信に満ちた姿は、まるで四十年前の夏の思い出と消えてしまったようだ。作業机には、裁ちばさみがぽつんを置かれ、それを見る猫はいなかった。(『唐さんの仕立屋』)  

と、ここまで書いて気づいたが、大人になると、明日も今日と同じ平穏な一日が来るものだとなんとなく思いこんでいるが、子供のころはそうではなかった。世界はもっと残酷で、破綻の予兆で満ちていたし、愛するものはいつ失なわれるかわからず、いつもおびえていた。親が病気になったらどうしようとか、そんなことで夜も眠れなくなった。その子供のころの不安の感覚が、この短編集の世界と感応して、ノスタルジーがうまれているようにも思える。


 しかし、韓国の『カステラ』といい、アジアの現代小説もすごい豊かだ。個人的にはどちらかというと、『カステラ』のシュールな乾いたユーモアの方が好みかなという気もするけど、アジアの小説ももっといろいろ読んでみないと。 

カステラ

カステラ

 

 


 

愛おしさがつまった、素敵かわいいアンソロジー 高原英理編『ファイン/キュート 素敵かわいい作品選』

 高原英理の『不機嫌な姫とブルックナー団』がおもしろいと最近あちこちで耳にして、読んでみたいなと思っていたところ、こちらのアンソロジー、高原英理編『ファイン/キュート 素敵かわいい作品選』を見つけて、さっそく読んでみました。  

不機嫌な姫とブルックナー団

不機嫌な姫とブルックナー団

 

 

ファイン/キュート 素敵かわいい作品選 (ちくま文庫)

ファイン/キュート 素敵かわいい作品選 (ちくま文庫)

 

  とにかくキュート(「素敵かわいい」)なものがいっぱいつまった作品集で、いったん読みはじめると夢中になってしまった。動物に子供、老人に幻想……どれも愛らしいものばかり。誰もが知る、新見南吉の『手袋を買いに』(「お手々がちんちんする」)や、泉鏡花室生犀星の小品から、最近の斉藤倫や雪舟えまといった面々までの作品を幅広く収録している。


 キュートといえば猫、猫といえば金井美恵子(*個人の偏見です)というわけで、金井美恵子のエッセイ『ピヨのこと』も収録されており、ピヨというのは、金井さんが幼い頃に飼っていた猫の名前なんですが

他人は知らず、すくなくとも、わたしは他人の飼い猫がいかに素晴らしい猫だったか、という話にほとんど興味を持たない。他人の猫でも、顔見知りの猫なら話は別だが、それにしても、度のすぎた愛猫の自慢話ほど聞きにくいものは、他に、そう、親と呼ばれる人たちのする秘蔵っ子の自慢話くらいなものか。

 と、書いたすぐあとで、

ところで、ピヨだが、この猫はすっかり大人になってからも、実にきれいなアズキ(肉球のことを金井家ではこう呼んでいたらしい)の持ち主だった。なにしろ、ピヨときたら……実に頭の良い感心な猫だったのだから。

 と続けるのだから、ニヤリとしてしまう。


 そしてまた、猫エッセイの元祖のひとりと言える、幸田文の「小猫」もあり、小猫を二匹もらったものの、どうしても可愛らしい方ばかりに注目してしまい、不器量で人になつかない方は片隅でひとりぼっちになってしまった顛末を綴り、

むかし私は不器量でとげとげしい気もちの、誰からも愛されない子だった。そして始終つまらなかった。それがこたえていたので、三十、四十の後になっても大勢子供がいれば、きっとすねっ子、ひがみっ子、不器量っ子のそばへ行って対手になってやる気もちなのは、うそではなかった。けれども猫ではこの始末であった。

 と書くのも、胸にしみた。あと、現代を代表する動物愛好作家(と言ってもいいよね)・町田康のおなじみポチシリーズも入っています。読んでいる方はご存じでしょうが、ポチは飼い主のことです。


 犬や猫だけではなく、キュートなものとして子供はもちろん、老人の物語も取り上げられているのも興味深い。発売当初、斬新なタイトルもあいまって、かなりの話題だった中島京子の「妻が椎茸だったころ」もある。こういうことだったのか。そして、ミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』から「水泳プール」が収録されている。この短編集、ほんとどれもヘンだけど切ない傑作揃いですが、この話もいい。床でばたばたと手と足をかいて、水泳の練習をする老人たち。ぜひ読んでみてください。 

いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)

いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)

 

  子供を描いた話がどれもかわいいのは当然ですが、子供が書いた、という言い方をしたら失礼だけど、1933年に16歳で夭折した少女山川彌千枝の文章も心に残った。


 そして最後には、編者高原英理の「うさと私(抄)」が収録されているが、もうこれがかわいいのなんのって。「私」のもとに「地味な兎ですが、ずっとつきあってください」というポストカードとともにやってきた、うさ。

私は「うにゃにゃにゃにゃ」と言う。好き好きの意味。
うさは「きゅーきゅーきゅー」と言う。ずっと一緒の意味。

夜中に目が醒めると、隣に兎が寝ていた。嬉しかったが、眠いのでそのまま寝てしまった。

夜中に目が醒めると、隣に兎がいなかった。悲しかったが、眠いのでそのまま寝てしまった。 

うさは「愛してる」と言わない。そのかわり、私の手をとって、「なかよし」と言う。 

  なんだろう、この愛の結晶のような詩。あとがきで書かれていたが、この作品が単行本で刊行されたとき、谷川俊太郎はこう帯文を書いたらしい。

キューキョクの愛の表現。スタイル・ユニーク。