快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

女と女は化かしあい? それとも――『荊の城』(サラ・ウォーターズ 中村有希訳)/ 映画『お嬢さん』(パク・チャヌク監督)

モードは何よりも華奢だった。母ちゃんとは違う。母ちゃんとは全然違う。子供のようだ。まだ少し震えているモードがまばたきすると、睫毛が羽のようにあたしの咽喉をなでる。しばらくすると、震えは止まり、もう一度、睫毛が咽喉をこすって、静かになった。モードは重たく、温かくなった。
「いい子だね」そっと囁いた。起こさないように。

 いい子だね、ってどうしても岩合さんを思い出してしまうのですが、それはともかく、サラ・ウォーターズの『荊の城』を読み、映画『お嬢さん』を見てきました。
 いや、原作を読んでいったので、どういう話か心づもりをしていたのですが、それにしても映画の予想をはるかに上回る変態ぶりに度肝ぬかれました。 

荊[いばら]の城 上 (創元推理文庫)

荊[いばら]の城 上 (創元推理文庫)

 

  小説『荊の城』は、ヴィクトリア朝のイギリスが舞台であり、ディケンズの小説に出てくるようなスラム街の浮浪児「あたし」は(冒頭から『オリヴァー・トゥイスト』が出てきたりと、作者もかなりディケンズを意識しているようです)、育ての親である「母ちゃん」と泥棒仲間と一緒に暮らしていたが、ある日詐欺師の「紳士」があらわれて、お金持ちのお嬢さまを騙す計画への協力を持ちかけてくる。

 その計画とは、伯父に幽閉されている世間知らずのお嬢さんと駆け落ちして結婚し、まんまと財産を奪ったら、お嬢さんを精神病院にぶちこむというものだ。「あたし」はそのお嬢さんの侍女となって身辺を警護し、「紳士」との結婚をそそのかす役目である。「母ちゃん」の了承のもと、「あたし」はその邸宅に向かい、世間知らずのお嬢さまであるモードと知りあうが…

 
 かなりいろいろ仕掛けのある小説(映画も)なので、これ以上なにを言ってもネタバレにつながりそうなので、ここから先はネタバレOKの人だけ進んでください。
 
 この小説は、「このミス」の一位にも輝いたが、殺人事件が発生するわけではなく、ふたりの女性の数奇な運命の交錯が謎となっているので、ケイト・モートンの『秘密』を思い出した。 

秘密 上

秘密 上

 

  その最大の仕掛けがあらわになる一部の終わりのどんでん返しが、最高にスリリングであり、二部で語られるその真実の姿の答え合わせがおもしろかった。
 上下巻あるこの小説の下巻、第三部以降は、精神病院の描写などはかなりキレキレで読み応えがあるが、さらなる謎が待ち受けているわけではないので、いや、ミステリの公式として、この一連の事件の犯人(黒幕)が解き明かされるのですが、それは読んでいて想像のつく結果なので、少しテンションが落ちるように感じたが、映画ではなんとここでガラッと話を変えていて、これがまたおもしろかった。

 
 そう、映画の方は、日本統治時代の韓国(朝鮮)が舞台になっていて、基本的な設定は原作と同じで、日本人のお嬢さんである秀子のもとに、詐欺師にそそのかされた韓国人侍女スッキがやって来るという話である。

 伯父がド変態なのも基本的に原作と同じだが、映画ではその変態ぶりの描写が半端なく、完全に笑えるレベルでした。いや、すべてにおいて、原作ではそこまであからさまに描写していないところも、映画はこれでもかと見せつけていて、エロいというより、ある意味爽快でした。

 原作の方は、ストーリー全体として女の戦いというか、女と女の化かしあいといった要素が強く、本編とは関係のない精神病院の看護婦たちの描写でも女の恐ろしさみたいなものを感じたけれど、映画は、女と女が手を取りあって男と戦う物語になっており、原作者のサラ・ウォーターズは女で、映画監督のパク・チャヌクは男だからかな、なんてつい考えてしまった。けれどそれは浅はかな考えだろう。そうすると、サラ・ウォーターズレズビアンであることも考慮しないといけなくなるし(ゆえにこういう物語を書いたのだと、つい言いたくなるが)、やはり作品と作者は切り離して考えよう。

 あと、ジェンダーは原作と映画に共通するテーマだが、この映画で強く打ち出されているテーマは、支配と抑圧である。

 先に書いたように、日本統治時代の朝鮮が舞台であり、秀子の伯父は日本人になろうとする韓国(朝鮮)人であり、詐欺師もほんとうは済州島出身なのに、藤原伯爵という日本人をかたる。この映画の表向きの会話の多くは日本語で交わされ、その裏で内面を打ち明ける会話は韓国語で交わされる。(しかし、主要キャストは韓国人俳優なので、こんなに日本語のセリフが多いとたいへんだったのではなかろうか)

www.gizmodo.jp


 ↑の監督のインタビューでも「抑圧された状況で戦う女性たちを描きたい」と語っているが、秀子とスッキは伯父や詐欺師といった男たちから抑圧されているが、伯父や詐欺師たちといった男たち、いや当時の韓国(朝鮮)全体が、日本に抑圧されているのである。抑圧されたまま生きているのは死んでいるのと同じである。スッキと出会う前の秀子がそうだったように。

 ここで最後の最後のネタバレをすると

 秀子とスッキは韓国(朝鮮)から逃げ、男たちと戦い、そして日本からも脱出する。嘘っぱちの日本語で話すこともやめて、自分たちの言葉でほんとうの気持ちを伝える。支配から解放されて堂々と愛しあう。たとえ現代が舞台だとしても、ここまでの解放はなかなか見られない。エロい夢物語のようでしたが、解放とはなにか、ほんとうの自分として生きるとはなにか、考えさせられました。、

大人になるっていうこと 『ペーパーボーイ』(ヴィンス・ウォーター著 原田勝訳)

 そういえば、前回の 『MONKEY』の「あの時はあぶなかったなあ」ですが、砂田麻美さんの飼い犬、柴犬のポン吉の話もおもしろかった。手羽先がそんなに犬にとって危険だったとは、、、しかし、「所詮、犬は畜生やよ」ってなんだか深い。

  ところでこの砂田麻美さん、映画監督として有名ですが、小説も書いていることを『本の雑誌』で知った。この『一瞬の雲の切れ間に』が『本の雑誌』の恒例の年間ベスト企画でかなりの高評価だったので、読んでみたくなりました。 

一瞬の雲の切れ間に

一瞬の雲の切れ間に

 

   しかし、『MONKEY』の柴田さんによるあとがきを読むと、レアード・ハントが柴田さんの経験談を気に入ってくれたので、ヤクザに殴られそうになった話がデンヴァ―大学から出ている文芸誌に載るとのことですが、きっとレアード・ハントも「電車のなかで音読?? Really?」と仰天したにちがいない。

  
  で、その柴田さんも審査員を務める日本翻訳大賞。二次選考に残った本を読んでいこうと、まずはヤングアダルト/児童書ではじめて二次選考に進んだ(たぶん)『ペーパーボーイ』から。 

ペーパーボーイ (STAMP BOOKS)

ペーパーボーイ (STAMP BOOKS)

 

   タイトルから想像できるように、12歳の主人公「ぼく」が夏休みのあいだ親友にかわって郵便配達を務める話。スヌーピーのマンガを読んでいても、チャーリー・ブラウンやルーシーがいろいろお店を開いたりしますが、ほんとアメリカって、子供の頃からこうやって新聞配達させたり、レモネードを売ったりして、社会に出る訓練をさせるんだなと感心する。

 しかも、なんといってもこの「ぼく」は、吃音持ちなのである。自分の名前すら満足に発音できない。けれど、ひねこびたり拗ねたりすることなく、新聞を配るのみならず、頑張って集金にまで行くところにますます感心した。いや、もちろん「感心」と本のおもしろさとは別物であり、「感心した」なんていうと、道徳的で説教くさい話かとかえって敬遠されるかもしれないが、それでもやはり、「……ssss」と息を吐きながら(そうしないと言葉がスムーズに出てこないので、というか、そうしてもスムーズには出ないのだが)、必死で世界とつながろうとする「ぼく」の姿には、感心せずにはいられなかった。

初めての金曜の夜の集金にはいつもの半ズボンじゃなくて長ズボンをはいていくことにした。玄関に出てきた人の前でどもってしまったら脚がむきだしになってないほうが少しは大人に見えるんじゃないかと思ったのだ。    

なぜかぼくにとっては自分の名前を声に出して言うことがなによりむずかしい。「B」や「P」で始まるわけじゃないのに「やさしい息」をどれだけ出しても声は喉に引っかかったきり外に出てきてくれない。さらに悪いことに苗字も名前も同じ音で始まっている。ぼくにはこの世で自分の名前を全部言おうとすることほどきらいなことはなかった。点を打つことよりきらいだ。

  翻訳の工夫として感じたのは、上記の引用を見てもわかるように、「、」が一切ない。というのは、引用の最後にも書いているように、しゃべろうとするとすぐに息継ぎしてしまう「ぼく」は、書き言葉では点を一切打ちたくないのだ。文章のリズムを整えようとすると、どうしても「、」を打ちたくなるかと思うけれど、まったく点を打たずに翻訳し、それでいてスムーズにストレスフリーに読めるので、一見さらっと読めるこの本ですが、翻訳はかなり苦労したのではないでしょうか。  


 ストーリーは、おもに「ぼく」が新聞配達をして出会う人たち、両親、そしてメイドのマームとの関わりであり、そのなかでもとくに、マームと廃品を集めて生活するR・Tのふたりの黒人の姿が印象深い。ちなみに、この小説の舞台は1959年で、まだ公民権運動の前夜である。
 正直なところ、黒人のひとが、この心優しいメイドのマームと、すさんだ生活をしているR・Tの描かれ方(ある意味どちらもステレオタイプとも言える)についてどう思うのかは微妙かもしれないと少し感じた。(作者の良心はよくわかるけど)
 
 続編では、「ぼく」の両親の謎や、親友だけど結局ほとんど不在だったラット、そして「ぼく」の導き手となるスピロさんについて、もっと突っこんで描いてほしい。訳者あとがきで、「自分もスピロさんのようにありたい」と書かれていますが、ほんと同感です。若い頃は、集団で騒いでいる子供を見たりすると呪詛の念を送ったりしていましたが、こんなことを思うのも、歳をとった証でしょうか、、、

「ともだちがいない!」 『MONKEY vol. 11』(柴田元幸ほか)

 盛りあがってますね。小沢健二くんの『流動体について』。 

流動体について

流動体について

 

  私ももちろんMステ見ました。去年のツアーは行き損ねたので、はじめて現在進行形の曲を聞いたのですが、ほんといい曲でよかった。いまのルックスについては、春風亭昇太とか泉麻人とかネットでいろいろ言われていますが、なんかこう、年相応の自然体でいいんじゃないでしょうか。

 
 さて、小沢くんの先生でもある柴田元幸さんの(つなげてみた)『MONKEY』買いました。 

MONKEY vol.11 ともだちがいない!

MONKEY vol.11 ともだちがいない!

 

  今号の特集は「ともだちがいない!」。おもしろそうだなと思ったら、やはり充実の号でした。

 最初の谷川俊太郎の書き下ろしの詩からして、さすがだな~と感じる。息するように詩が出てくるのでしょうか。  

友だち?欲しいけどめんどくさい
なんか気を遣わなきゃいけないでしょ
ときどきプレゼントも考えなきゃいけないし
手は仰向けになった猫のお腹を撫でている

  という「石」という詩が一番気に入りました。ところで詩というと、つい最近まで、最果タヒと最上もががごっちゃになっていたのは、私だけだろうか?

 
 あと、「よくあるたぐいのアダルト・ブックストア」を舞台にした、チャールズ・ブコウスキーの『アダルト・ブックストア店員の一日』もブコウスキーの世界らしく読みごたえがあったが、ブコウスキーの詩もよかった。好きな作家だったらしい、カーソン・マッカラーズについて書いたものなど。やはり詩人なんだな。
 
 今回二編の短編が収録されたエミリー・ミッチェルは、「奇想系」の作家と言えるのだろうが、これまで紹介されてきた奇想系の作家よりは、設定のリアリズム度が高く(この二編を読んだ限りでは)、奇想系の作家をあまり読まない人にとっても、とっつきやすいのではないかと思う。村田紗耶香がエミリー・ミッチェルについて語っていたが、たしかに、せちがらい現実を非現実を織り交ぜて描くさまが似ているのかもしれない。
 
 とくにおもしろかったのは、パジェット・パウエルの『ジョプリンとディケンズ』で、タイトルのとおり、九歳のジャニス・ジョプリンとチャーリー・ディケンズがクラスメートという設定の物語。
 「他人の上に乗る夢想にふける」「普通の女の子じゃない」ジャニスと、どえらい美文調で話す、同じく普通じゃないブキミなチャーリー。チャーリーは九歳にしてこんな風に話すのだ。 

「容赦なき11月の天候。水がこの地上から引き始めて未だ間もない時代であるかの様に街路には泥は満ち、象の如き蜥蜴といった趣でメガロザウルスがホルボーン・ヒルをとぼとぼ進んでゆくのを見掛けても不思議はあるまい――」

  そしてこのクラスの教師ミズ・ターナーは「生物学への夢に挫折した、ひっそり一人でいるのを好む女性」であり、中学校の運動部のコーチからのアプローチに困っている。そしてジャニスとチャーリーがどんなふうに交流を深めるのかというと、、、ほかの作品も読んでみたくなった。 


 しかしなんといってもおどろいたのは、今号のインタビューテーマは「あの時はあぶなかったなあ」なんですが、柴田さんは英語の本を読むときは声に出して読むことが多いとのこと。
 ふむふむ。やはり音読って大事なんだな。私もやってみよう。うん? 京浜東北線で音読していたらって、電車のなかでも音読しているってこと?? 京浜東北線コンラッドを音読しているとは! 柴田先生でもそれくらい常に英語の勉強しているなら、私なんてお風呂入ってるときも、ゴハン食べているときも音読したって、とうてい追いつかない。
 でも、チンケな私は電車のなかは無理だ、、、1メートルばかり離れて立っている奥さんの気持ちはよくわかる。 
 
 いや、少々(かなり)おどろきましたが、この号、ほかにも村上春樹のスピーチやアンデルセンの翻訳、岸本佐知子さんのエッセイもおもしろかったし、かなりお買い得の号でした。
 
 

ただの「ええ話」ではなかったO・ヘンリー 『最後のひと葉』(小川高義訳)『1ドルの価値/賢者の贈り物』(芹澤恵訳)

 さて、先日の『月と六ペンス』に続いて、今度はO・ヘンリーの『最後の一葉(ひと葉)』をまた複数の訳で読んでみた。

 

最後のひと葉―O・ヘンリー傑作選II―(新潮文庫)

最後のひと葉―O・ヘンリー傑作選II―(新潮文庫)

 

 

1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編 (光文社古典新訳文庫)

1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編 (光文社古典新訳文庫)

 

 『最後の一葉(ひと葉)』は、ストーリーをご存じの方は多いでしょうが、私も学生の頃に教科書かなにかで読まされて、なんか病気になった女の子が、窓の外で葉を落とす木を見て、「最後の一葉も落ちたら、自分も死んでしまうんだわ……」とかなんとか辛気臭いことを言う話だとは覚えていました。

 
 そこで今回あらためてちゃんと読んでみると、この物語は、現在でも芸術家が集まる場所として知られるニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジを舞台としており、病気のジョンジーと看病するスーはどちらも画家志望で、共同でアトリエを構えているという設定である。
 
 で、新潮文庫小川高義さんの解説を読むと、

 

 「最後のひと葉」では、女性同士の恋人関係として構想されている。このことには訳しながら薄々感づいて、訳し終えるまでには確信していた。 

  

 と書かれていて、おどろいた。そうなんだろうか?? 考えたら、たしかにニューヨークのヴィレッジは芸術家のたまり場であるが、同時にさまざまなセクシュアリティの人たちが集まるところとしても有名だ。O・ヘンリーは、当時を生きる働く女性(つまり当時では最先端の女性)をいきいきと描いたことに定評があるらしいが、なら、当時の恋愛観にとらわれない女性に対しても偏見などなかったのだろう。そもそも、この時代に、画家を目指してニューヨークで女性同士で暮らしているなんて、恋愛事情がどうあれ、じゅうぶんはみだした存在だったろう。
 
 で、小川さんは続けて「訳者の妄想による新説ではない」とし、そのあとの医者とのやりとりを根拠としている。医者は、いくら治療しようとも、ジョンジー本人が生きようと思わなければどうにもならないと言う。そしてジョンジーの望みはなにかとスーに聞く。 

「ああ、そう言えば――いつかはナポリ湾の絵を描きたいと」
「絵を?――つまらん。もうちょっと気になってならないような――たとえば、男とか」
「男?」スーは口琴をくわえて弾いたような声を出した。「男なんてものは――あ、いえ、先生、そういうことはありません」 

  それにしても、絵を描きたいというジョンジーの望みを一蹴して、男について詮索する医者は、女は仕事や夢やと寝言を言ってないで男とつがうべし、という考えを表明していて(それがこの時代の常識だったんでしょうが、、、ていうか、いまでも?)、ゲスいな~と思わずにはいられないが、しかし、先の小川さんの解説を念頭に入れて読むと、たしかに意味深な箇所だ。原文では

"She - she wanted to paint the Bay of Naples some day." said Sue.
"Paint? - bosh! Has she anything on her mind worth thinking twice - a man for instance?"
"A man?" said Sue, with a jew's-harp twang in her voice. "Is a man worth - but, no, doctor; there is nothing of the kind."

 "Is a man worth - but" と、男にそんな価値なんてない、くらいのことを示唆している。光文社古典新訳の芹澤恵さんの訳では 

 「恋人?」口琴を弾いたような、尻上がりの裏返った声でスウは言った。「恋人なんかにそれほどの――いいえ、先生、あの子にはそういうものはないと思います」

  と、この頃は女性にとって "man" イコール恋人だったろうから、やはり恋人にそれほどの(価値はない)と書いてある。

  で、実際ジョンジーの命を救うのは、男や恋人ではなく、芸術への執念なのである。といっても、スーやジョンジーの執念ではなく、酒びたりのベアマン老人の執念である。雪のなか葉っぱの絵を描いて、自らの命を落とすベアマン老人が、いつかは傑作をものしてやるぞという酒びたりの元画家であるというのは忘れていた。いつか傑作をという執念が、命と引きかえに発揮され、そしてジョンジーけでなく、ベアマン老人自身も救われたのだろう。


 なぜベアマン老人が自らの命を投げ出してまでも、絵を描いてスーを救おうと思ったのかというと、大都会ニューヨークで絵を描いて生計をたてようという、無謀なふたりへの激励でもあったろうし、芸術とはこういうものだというのを見せつけてやりたかったのかもしれない。芸術とは命を賭けるに値するものだと。いやしくも芸術で生きていこうとするなら、傑作をものしていないのに、軽々しく死ぬなんて言ってはいけないと。

 ちなみに、作者O・ヘンリーの生涯を見てみると、銀行で働きながら文筆活動を行うが、なんと銀行の金の横領容疑で刑務所に入れられ、刑務所の中からも執筆を続け、釈放されたあとは文筆業一本で生活するが、酒びたりになり四十七歳で死亡、とベアマン老人以上にハードな人生のようだ。
 O・ヘンリーの小説というと、とにかく「ええ話」のような印象があったけど、いま読み直すと、さまざまな陰影に富んでいるのが感じられました。
 
 

神は雑多に宿る――『村上春樹 雑文集』

 アマゾンで『騎士団長殺し』を検索したら、いま超話題の『夫の……が入らない』が出てきておどろいた。いや、『騎士団長殺し』を買っている人は、その商品も「ご覧になっている」そうです。


 で、ひさしぶりに『雑文集』を読み返してみた。 

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

 

  これはいろんなところから依頼されて書いた雑文――文庫の解説、文学賞の受賞コメント、翻訳のあとがき――などをまとめたもので、タイトル通り、雑多な寄せ集めであるが、ひとつひとつに書かれていることは深く、「村上春樹印のエッセイ」として書かれていないボーナス・トラックだけに、思いもよらぬ鋭いことがさらっと書かれていたりもする。

 たとえば、スティーヴン・キングについてのエッセイでは、怪奇小説というものについて

問題はそれがどれだけ読者を不安 (uneasy) にさせられるかというところにある。uneasyでありながら、uncomfortable(不快)ではないというのが良質の怪奇小説の条件である。これはなかなかむずかしい条件だ。
そのような条件をみたすためには、作家は「自分にとっての恐怖とは何か?」ということをしっかりと把握しておかねばならない。 

とあり、ホラーとか怪奇小説にまったく詳しくないので、へえそういうものか~と思ったが、uneasy と uncomfortable の関係は、他ジャンルの創作物はもちろん、なんなら人間関係にも援用できるような気もする。

 また、カズオ・イシグロについては

イシグロという作家はある種のヴィジョンをもって、意図的に何かを総合しているのだ。いくつもの物語を結合させることによって、より大きな総合的な物語を構築しようとしているのだ。僕にはそう感じられる。

 
 なるほど。正直なところ、最新作の『忘れられた巨人』は、わかるようなわからないような話だったのだけど、もっと俯瞰で読むことが必要だったのかもしれない。(ちなみに、このエッセイは2008年に初掲載されたものですが)
 
 あと、森達也監督の『A2』についての文章も興味深い。『A2』は、前作の『A』と同様に、例の事件を起こしたあとのオウム真理教を追ったドキュメンタリー映画であり、もう事件を起こす気配はないと言えども、信仰を捨てるつもりもなく、事件について反省の念があるのかどうかもわからない信者たちと、信者たちの行く先々で排斥運動を続ける周囲の人間たちとの「不条理なすれ違」いを描いた映画である。 

 教団側も表面的には、そういった相手(共生しようとする周囲の住民)から差しのべられる手をにこやかに受け入れようとしているかに見える。でも果たしてそうなのだろうか? 信者たちの側には、自分たちを取り巻く社会と共生していこうという意志は本当にあるのだろうか?
 そのあたりの認識の――場合によっては不条理なまでの――すれ違いかたこそが、この『A2』という映像作品が我々に提示している重大なテーマではあるまいかと、映画館の観客席に座りながらふと考えてしまう。 

  しかしこういったくだりを読み直すと、『1Q84』では、宗教団体について、もっと深く掘り下げてくれるかと期待していたのだが……なんて思ってしまう。なんかあっさりと幕がひかれましたよね。そういえば、ちょうどいまも、巨大芸能プロVS巨大宗教団体の戦い?が勃発しているようで、まさにエンタテインメント小説のような事態だ。しかし、新作は騎士団とかいってるんだから、やはりなんらかの信仰や、そういう団体は出てくるのだろうか?


 そして、「ジャック・ロンドンと入れ歯」というエッセイでは、まずタイトルにある、ジャック・ロンドンの入れ歯をめぐるエピソードが書かれていて、これだけでもじゅうぶんおもしろいのだが、それに続く作者自身のエピソードも強烈。まあ、こういうことあるだろうな、って気はするが。短編『沈黙』や『多崎つくる』につながるものがある。

 ほかにもエッセイ巧者ぶりを堪能できるものとしては、冒頭の「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」も必読。「本当の自分とは何か?」という、ソクラテスプラトンもみんな悩んだ(野坂昭如リスペクト、って超古いですね。私も元ネタを覚えている世代ではありませんが)問題について、小説家としての視点から、「仮説=猫」を積みあげて書かれている……って、なんのことだかわからないと思いますが、ぜひ読んでみてください。いや、「仮説」をぐっすり眠る猫になぞらえるとはすごい。

 後半は、以前読者からのメールにアドバイスしていた、原稿用紙四枚以内で、「本当の自分」について書くというお題について、牡蠣フライを通して実践してみえる。だれにも真似できないですね。、
 
 あと、いまこの本を読み返すと、ちょくちょく顔を出す安西水丸さんが切ない。「安西水丸はあなたを見ている」「安西水丸は褒めるしかない」……でも、和田誠さんも言ってますが、水丸さんによるあの似顔絵、ほんとうに簡単なんだけど、似てるんですよね。
 村上春樹の小説によく出てくるワタナベノボルが、水丸さんの本名であることはご存じの方も多いでしょうが、その由来は、水丸さんのお父さんが江戸時代の画家渡辺崋山のファンで、その通称であったノボルから採ったというのは、この本ではじめて知りました。


安西 いつか春樹君と三人で、寿司屋で貝をつまみにお酒を飲んで、カラオケ歌って打ち上げしましょうか(笑)
(注:村上春樹はカラオケは大嫌いで、貝も食べられないらしい。)

 あとがき代わりの水丸さんと和田誠さんの対談より。やはり淋しいな。

もうすぐ日本翻訳大賞しめきり 再度『月と六ペンス』を読んでみた

 さて、ミュージカル『キャバレー』を見に行ったりしているうちに、日本翻訳大賞の応募締め切りが近づいていました。
(ちなみに、『キャバレー』はなんの予備知識もないまま行ったので、こういう話だったのか!とおどろいた。(いまさらかもしれませんが)
 このいまの時代に再演する意義を感じた。残念ながら、後ろの方の席だったので、長澤まさみ嬢のセクシー衣装はあまり堪能できなかったけど。小池徹平くんは、去年の『ちかえもん』でいい演技をみせていましたが、今回も頑張っていました)


 この翻訳大賞、前回の選考時の座談会でも話題になっていたように、作品の良さで選ぶのか、翻訳の良さで選ぶのか、そもそも、作品の良さと翻訳の良さは切り離すことができるのかよくわかりませんが、とりあえず「おもしろかった」「もっと読まれてほしい」「翻訳の意義を感じた」作品を選ぼうとは思っているのですが、まあでもとにかく、推薦文を読んでいるだけでも、じゅうぶんおもしろくて、今後の読書の参考になる。


 そこで、こないだ読んだ『月と六ペンス』ですが、金原瑞人訳に続いて、土屋政雄訳を見てみると、翻訳とはほんとうに興味深いものだと感じる。 

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

 

 

冒頭部分を例に挙げると

正直いって、はじめて会ったときは、チャールズ・ストリックランドが特別な人間だなどとは思いもしなかった。いまでは、ストリックランドの価値を認めない人間はいない。(金原瑞人訳)

いまでは、チャールズ・ストリックランドの偉大さを否定する人などまずいない。だが、白状すると、私はストリックランドと初めて出会ったとき、この男にどこか普通人と違うところがあるとは少しも思わなかった。(土屋政雄訳)  

I confess that when first I made accquaintance with Charles Strickland I never for a moment discerned that there was in him anything out of the ordinary. Yet now few will be found to deny his greatness.(原文)

 どちらも原文と言っている内容は同じなのですが(当然ながら)、印象がどことなく異なる。
 日本の現代小説が、設定も身近で感情移入しやすいという意見もたしかによくわかるのだけれど、こうやっていくつもすぐれた訳が出るのは、海外の名作にしかない強みだと思う。


 あと先日の感想で、「月」(芸術)だけではなく、それと切り離せない「六ペンス」(通俗)について深く考察されているのがこの小説の特徴ではないかと書きましたが、この光文社古典新訳の解説でも、

この小説は、第一次世界大戦前後の世界における芸術に位置づけを巨視的に見つめ、芸術や芸術家の意味が、資本主義や大衆消費社会の発展によって変化を余儀なくされていることを浮き彫りにしている。 

 

とあり、続けて

少し穿った見方をするなら、この小説は、モームの分身である語り手が、<芸術>のアレゴリーであるストリックランド像を追い求める物語であるともいえるかもしれない。

とも書かれていて、そう、自らも小説家という芸術家である「わたし」が、いまや神聖な芸術家となったストリックランドを追及する話という視点が、先日の感想には抜けていたなと思い至った。

 いま冒頭の章を読み返してみると、「わたし」が、自らの芸術である「本」について考察するところが胸に迫ってくる。「わたし」は魂を鍛えるために、あえて嫌なことを自らに課すのだが、そのうちひとつに、文芸誌を読むということを挙げており

おびただしい数の新刊本、著者が抱く希望、新刊本がたどる運命、それらについて考えることは、魂の健康にとってよい鍛錬になる。いったいどれだけの本が後世にまで残るのだろう?金原瑞人訳)

いま書かれつつある厖大な数の本を思い、その出版を切望する著者の思いを思い、現実にその本を待ち受けている過酷な運命を思ってきた。これは実に有益な心の鍛錬となる。土屋政雄訳)

うーーん、考えさせられますね。現代の本の状況にどんぴしゃりのような気もする。翻訳大賞の希望あふれる話から、結構現実的なしょっぱい話になってしまいました。。。

 

チェコ文学ってどんなの?? 『エウロペアナ』に『約束』、『火葬人』などの訳者 阿部賢一さんトークイベント

 さて今日は、京都のモンターグ・ブックセラーズで、翻訳者阿部賢一さんによるチェコ・東欧文学についてのトークイベントを見てきました。
 といっても、チェコ・東欧文学というと、アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んだことがあるくらいで、ほとんど知らないのですが、まあ第一回日本翻訳大賞に選ばれた『エウロペアナ』は一応読んだし……と思って参加してきました。 

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス)

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス)

 

  『エウロペアナ』は、一見ノンフィクションのような体裁で、二十世紀の歴史が俯瞰して綴られているが、けれどあくまでフィクションであり、虚実ないまぜというか、真面目な顔で冗談を言うような、人を食ったような内容に、いったいどこまでほんとうなのか、どこまで真剣なのかが捕えがたく、最初に読んだときは少々戸惑ったけれど、いま読み直してみると、なかなか興味深い。数年前と比べても、現実社会が虚実ないまぜの世界に近くなっているからかもしれない。 

共産主義者とナチは、物事の自然な摂理にもとづく世界を樹立する必要性を主張した。  

民主主義はすべてを蝕む根源であり、人びとが同性愛者、無政府主義者寄生虫懐疑主義者、個人主義者、アル中になっていくのを助長する。

 
 って、これを書いた時点(原著は2001年刊)では、ブラック・ジョークだったのかもしれないけれど、ジョークではない世の中にどんどんとなってきている。
 
 ちなみに、今日のお話によると、やはりこういう虚実ないまぜのスタイルのせいか、著者からは「”訳注”をつけてはいけない」というお達しがあったとのことでした。たしかに、この作品で”訳注”をつけて、ここはホントでここはジョークとか書いたら、台無しですしね。
 
 今日のトークは、最新作の『約束』をはじめ、おもに阿部さんが訳された本を紹介していく形で進み、チェコや東欧にたいする専門知識がまったくなくても楽しめました。

 

約束

約束

 

  この『約束』は、公式の紹介文によると 

ナチの命で鍵十字型邸宅を建て、戦後、秘密警察に追われる建築家。妹を失い、犯人を監禁する地下街を造る。衝撃のチェコノワール

  とのことで、阿部さんの推薦コメントも、「建築家の暗い過去。そして都市ブルノの暗い歴史が次々と披露される。そこに広がっていたのは、あまりにもグロテスクで、あまりにもブラックな世界だった」とのことで、難解な小説ではなく、ブラック・ユーモアあふれるノワール、とにかく「黒い」小説のようでおもしろそうだった。

 
 あと、紹介されていた本のなかでは、『火葬人』もすごく気になった。映画化もされたので、ご存じの方も多いかもしれませんが、これも公式の紹介文によると 

1930年代、ナチスドイツの影が迫るプラハ。葬儀場に勤める火葬人コップフルキングルは、愛する妻と娘、息子に囲まれ、平穏な日々を送っているが……

  で、推薦コメントによると、「ここまで不気味かつ滑稽な人物(加害者)を描いた小説は、本作をおいて、他にはないかもしれない」「恐怖と笑いが表裏一体となる稀有な作品」とのことで、つい買ってしまった。典型的な「思考停止してナチスの言うことを鵜呑みにする」火葬人コップフルキングルが、思いっきり戯画化して描かれているようだ。ヴォネガットの『母なる夜』みたいな話なんだろうか。映画もよくできているとのことです。 

火葬人 (東欧の想像力)

火葬人 (東欧の想像力)

 

  それにしても、なんでまたチェコ文学を専門にしようと決めたのだろう…?
 と、気になっていると、みんな考えることは同じなのか、質疑応答の時間でほかのお客さんが質問していました。


 案外「たまたま」とか「なんとなく」だったりするのかな……と予想していると、まったくそんなことはなく(すみません)、なんでも高校生のとき、ちょうどベルリンの壁ソ連が崩壊したりと、東欧が大激震している時代だったので興味をもちはじめ、そしてカレル・チャペックを読んだり、チェコ語の難解さを知ってかえって興味がかきたてられたときに、ちょうど東京外大でチェコ語の専攻がはじまったので、受験したとのことでした。
 なんて意識の高い高校生だったんだ!とおどろきました。私なんて、オールナイトニッポンとかのAMラジオを聞くのにいそがしい高校生で、世界情勢なんてこれっぽっちも考えたことがなかった、、、

 質疑応答の時間はほかにも、客席から翻訳者の吉田恭子さんも参加して、アメリカの大学での話をして頂いたりと結構盛りあがり、貴重な話をいろいろ聞くことができました。しかし、いつも書いているけど、読みたい本がどんどん積みあがっていく……200年くらい生きないといけないんじゃなかろうか。