快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

400年前のキリシタン弾圧と私たちとのつながり 『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(星野博美)

 ノンフィクションにとくに詳しいわけではないけれど、高野秀行さんと星野博美さんの作品は新作が出るとつい読んでしまう。このふたりの作品に共通していることは、最初はごくごく個人的な興味からはじまり、そしてそれをどこまでも追求し、海外や辺境地まで足を運んで取材するが、決して一般論に陥らずあくまでも個人の視点で書き、それでいて個人と社会、また日本と世界との関わりを見事に描き出している、というところではないかと思う。 

 この『みんな彗星を見ていた』も、星野さんが以前からなぜかキリシタン関係の本をよく読んでいた、という単純なきっかけからはじまる。
 ちょうど先祖について調べていたこともあり(これは『コンニャク屋漂流記』にまとめられていますね)、自分の先祖がキリシタンと交流があったのではないかと思いはじめ、天正遣欧使節が奏でたという当時の楽器リュートを習いはじめる。高野さんもそうですが、取材対象について、”まずは自分で体験してみる”というところがすごい。


 さて、安土桃山時代~江戸時代のキリスト教の布教と弾圧というと、私もそうでしたが、ザビエル来日、織田信長の庇護、キリシタン大名天正遣欧使節、豊臣秀吉の弾圧、江戸時代の禁教令、天草の乱……といった歴史の授業で習った事柄の羅列から、細川ガラシャ伊東マンショといった「えっ? 何人??」と思うような名前とか(名前だけ見ると、いまのキラキラネームみたいですね)、遠藤周作の『沈黙』のようなドラマチックな棄教(断末魔の表情で踏み絵を踏むイメージ)や殉教シーンを思い浮かべたり、美輪明宏はほんとうに天草四郎の生まれ変わり?なんて思ったりする程度なんではないでしょうか。
 これらはまちがいではないけれど、これだけではないということが、この本を読むとよくわかった。


 まず、布教する側にもさまざまな事情があり、一枚岩ではなかったというのが興味深かった。世界史で習ったように、ポルトガルの隆盛と、それに対抗するスペインの動きがあり、つまり、当時ポルトガルとスペインで世界を二分割しようとしていたため、キリスト教会派もポルトガル系のイエズス会だけではなく、スペイン系の托鉢修道会があった。大航海時代の領地争いが日本を舞台に繰り広げられたという一面もある。

 と言っても、宣教師にとっては、もちろん布教することが目的であり、領地や貿易目当てで来たわけではない。なんといっても、イベリア半島から極東日本まで当時の船で来ることは、ほんとうに命がけだったのだから。いま、我々が「ニューヨークまで飛行機で12時間か~遠いなあ」というのとはワケが違う。
 しかも、幕府が禁教令を出してからは、布教=殉教を覚悟しないといけないのだが、それ目当て、いや目当てという言い方もおかしいが、殉教する気マンマンで来た宣教師も少なくなかったというのもおどろきだった。なんでも、殉教と認めてもらうにもいろいろな基準があり、そう簡単なことではないのだが、日本はまさにその条件に適っていたらしい。

 そして、受け入れる日本側も、南蛮人が物珍しい&最新の文化を持っている→ひれ伏す→キリスト教は危険思想だ!と気づく、といった単純なものではなかった。
 徳川家康はさすが老獪で、南蛮貿易で利益を得るためスペインと交渉しようとあれこれ策を練っていたようだ。また、庶民も冷静で、南蛮人に盲目的に従ったわけではないため、宣教師側も日本人の信頼を得るために、まるで現代の営業マンのようなマニュアルを作っていたというところはおもしろかった。

 しかし、幕府や棄教した大名も最初は穏便に済まそうと、宣教師をなるだけ殺さず追放しようと試みたが、先に書いたような結果として、殉教に価値を求める宣教師たちと、そして「どうしてキリシタンの日本人はすぐ殺されるのに、宣教師は殺されないのか」という信者内で批判的な声もあり、拷問がどんどん激化し、凄惨なものになっていったという点が恐ろしかった。いまはイスラム国の拷問(斬首をネットで中継するとか)が話題になっているが、それよりずっと残酷な、逆さ吊りにしてじわじわ殺すとかが横行していたのだ。いや、私なら速攻で棄教するので、棄教者を弱虫だとはとうてい思えない。(そもそも最初からそんな信仰心もないが)


 結構長い作品で、内容も一直線に「キリシタンの知られざる歴史を語る」というものではなく、当時の世界情勢の変化や、宣教師たちの動向を綴るあいまに、リュートのレッスンにまつわる話(亡くなったマンドリン好きのおじさんのエピソードがよかった)や、長崎やスペインでの取材旅行での出来事や、さまざまな逸話が挿入されるので、なかなか入りこむことができないかもしれないが、それによって、当時の社会情勢、宣教師たちや信者たちの息遣いが、現在の我々ともつながっていることを感じることができる。


 で、ここまでつらつら書いておいてなんですが、このインタビューを読むと、この本の読みどころなどが一番よく理解できると思う。

なぜ日本人が熱しやすく冷めやすかったり、何かを系統立てて理論的に考えたりしないのか。振り子が触れるように、一方から一方へなだれこむ傾向があるのはなぜか。人目を気にし、出る杭となることを恐怖すること。自主性より全体を重んじる傾向。忘れっぽさ。西洋に対するねじれた羨望と、東洋に対する優越感。結婚式はキリスト教で、死ぬときは仏教、というように、宗教に寛容なのではなく、無節操になったのはなぜか――そういった諸々の日常的なこともふくめて、400年前のキリシタンの時代が関係あるのでは?という漠然とした考えがあったんです。

 ほんとそうだな。日増しにそんな傾向が強まる気すらする。

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身近な他者が一番恐ろしい――『なんでもない一日』(シャーリー・ジャクスン 市田泉訳)

東京では、先日村上春樹の講演が行われたようですね。

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 しかし「龍じゃないほうの村上です」と登場したって、W村上と言われていたのは遠い昔なので、少々古い気も。(龍氏の方にも好きな小説はあるので、最近影が薄くなったように思えるのは残念ですが。ちょっと前にテレビブロス大根仁さんが、「いまあえて」村上龍の最新のエッセイを紹介していたのはおもしろかった。龍氏の近況は、飼い犬が死んで意気消沈らしい)


 それにしてもこのレポ、詳細でありがたいですが、春樹氏の一人称が「僕」ではなく「ボク」になっているのが、リリー・フランキーのエッセイのようで笑えた。「テキストを忘れちゃうのがボクの翻訳の肝」っていいことを言っているのだけど、なんか脱力する。まあ、とにもかくにも一度はナマの春樹氏を拝んでみたいものです。


 さて、前回のシャーリー・ジャクスンの続きで、短編集『なんでもない一日』も読んだ。 

なんでもない一日 (シャーリイ・ジャクスン短編集) (創元推理文庫)

なんでもない一日 (シャーリイ・ジャクスン短編集) (創元推理文庫)

 

 シャーリー・ジャクスンの短編というと「くじ」が超有名だと思いますが、この短編集に載っている作品は、「くじ」や前回の『ずっとお城で暮らしてる』ほど完璧な世界が構築されておらず、それだけに不気味な悪意は感じられるものの、軽妙で抜けのある仕上がりとなっているものが多く、個人的にはこれまでに読んだシャーリー・ジャクスンの本の中では一番好きかもと思った。


 「なんでもない日にピーナッツを持って」の主人公ジョン・フィリップ・ジョンスン氏は、行く先々で善行を施すまごうことなき善人である。ところが、家に帰ると意外な事実が発覚する……「あしたは交替しようか」というセリフが恐ろしい。
 その次の「悪の可能性」も、一見上品で善良な老婦人が実は……という物語であり、どちらも人間の善意と悪意の入れ替わりを描いているが、深刻ではなくユーモアがあるため読みやすく、けれどそのぶん心にひっかかる。

 「レディとの旅」は、はじめての一人旅をする少年が指名手配の女性と交流する物語だが、犯罪をおかして逃亡するこの女が、『丘の屋敷』のエレーヌのような孤独な女性の陽ヴァージョンだと考えると、なんだか痛快で応援したくなる。
 「うちのおばあちゃんと猫たち」は、猫を愛しているが猫に攻撃されてばかりのおばあちゃんを描いた短編で、おばあちゃんのめげなさに笑えるが、よく読むと、おばあちゃんは家族なんかよりずっと猫を愛していることがわかり(「おじいちゃんがいてくれるより、ずっと安心だったよ」)、にやりとさせられる。
 「よき妻」「ネズミ」「スミス夫人の蜜月」は、『ゴーン・ガール』のような夫婦間の殺しあいを示唆した物語で、身近な他者の恐ろしさがよくわかる。安易に作者の実生活と結びつけるのはNGかもしれませんが、こないだの読書会で聞いたところによると、やはり夫との関係もなかなか複雑であったようです。


 そう、考えたら、シャーリー・ジャクスンが長編でも短編でもくり返し描いているのは、家族という身近な他者の恐ろしさである。『ずっとお城で暮らしてる』は言うまでもなく、『丘の屋敷』でも丘の屋敷で見舞われる様々な現象より、そもそもエレーヌがどうして丘の屋敷に行かざるを得なかったかが一番恐ろしい気もする。
 この本の後半部分に収められた家族エッセイも、ユーモラスであるが「ほのぼのユーモア」ではなく、長男ローリーとその悪ガキ仲間や、すぐに噂をふりまきあれこれ干渉してくる近所の面々、そして子供たちや近所の人たちとかみあわない作者自身を俯瞰して皮肉な目で描いたユーモアである。

 そして「エピローグ」として載っている、本を出したばかりの作者と地元の通信社の人とのやりとりも笑えた。作家としての自分を必死でアピールする作者と、あくまで地元の一主婦として扱おうとする相手のかみあわなさを描いた、まさに「なんでもない」文章なのだけど、こういうささいなディスコミュニケーションをユーモラスに綴った作品をもっと読みたかったなと思った。早世したのはほんとうに残念ですね。

「死ねばいいのに」という思いのはてに――『ずっとお城で暮らしてる』(シャーリー・ジャクスン 市田泉訳)

あたしはメアリ・キャサリン・ブラックウッド。十八歳。姉さんのコンスタンスと暮らしている。運さえよければオオカミ女に生まれていたかもしれないと、何度も考えたことがある。なぜってどちらの手を見ても、中指と薬指が同じ長さをしているんだもの。だけどそのままの自分で満足しなくちゃいけなかった。きらいなのは身体を洗うことと、イヌと、うるさい音。好きなのはコンスタンス姉さんと、リチャード・プランタジネットと、アマニタ・ファロイデス――タマゴテングタケ。ほかの家族はみんな死んでしまった。

 先日読書会でこの『ずっとお城で暮らしてる』を読んだ。 

ずっとお城で暮らしてる (創元推理文庫)

ずっとお城で暮らしてる (創元推理文庫)

 

  語り手の「あたし」メアリことメリキャットは、姉さんのコンスタンスとジュリアンおじさんとお屋敷に閉じこもって暮らしている。ほかの家族は6年前にみんな死んでしまった。ジュリアンおじさんは身体が弱っていて、コンスタンスは外に出られないので、「あたし」がたまに村に買い物に行くけれど、村の人々はあたしたちに冷たい視線を送る……

 という物語で、読みだすとすぐに、ほかの家族は6年前に砒素で毒殺され、コンスタンスが犯人ではないかと疑われたものの、証拠がなく捕まることはなかった。しかし、そのせいで村から孤立しているというのがわかる。
 あらためて読むと、そんなに難しい話でもないし、最近の「イヤミス」のような意外な展開や叙述トリックがあるわけでもない。冒頭から予想していた通りに物語は展開する。いや、展開というほど、物語に動きがあるわけではない。従兄のチャールズがこの屋敷を訪れるのが、もっとも大きいできごとだ。チャールズがやって来て、この閉ざされた屋敷に変化が生じる。コンスタンスとのふたりの世界が崩されたように感じたメリキャットは、当然のように、チャールズに「死ねばいいのに」と思う。


 そう、とくに大きなストーリー展開のない、というより、展開してしまったあとを描くこの物語で、強く印象に残るのは、メリキャットの「あたしとコンスタンス以外、あと猫のジョナスものぞいて、みんな死ねばいいのに」という念である。メリキャットがいつからどうしてそんな思いにかられたのかは、はっきりと描かれていない。ただ、物語のところどころで、「性悪」だったメリキャットはほかの家族からお仕置きをうけていたことが読み取れる。邪悪なのはメリキャットだったのか、ほかの家族だったのか――

 めでたく家族がいなくなったメリキャットは、大好きなコンスタンス姉さんとお屋敷に閉じこもるという、ある意味幸福な生活を送っているが、シャーリー・ジャクスンの代表作のひとつ『丘の屋敷』はそうもいかない。 

丘の屋敷 (創元推理文庫 F シ 5-1)

丘の屋敷 (創元推理文庫 F シ 5-1)

 

  大嫌いな母親の看護に青春を奪われたエレーヌは、ひょんなことから幽霊が出ると噂の屋敷に招待され、同じく大嫌いな姉夫婦の車を奪って屋敷に行く。ここから新しい人生がはじまるのかと思ったのだ。しかし、屋敷では心霊現象と同居する面々からの悪意に襲われ――

 という話で、この『ずっとお城で暮らしてる』よりいっそう救いがない。若さを失い(エレーヌはまだ32歳だけど)、孤独でおかしくなっていく主人公という点では、マーガレット・ミラーの『狙った獣』を思い出したが、『丘の屋敷』は『ずっとお城で暮らしてる』と同様に冒頭からの悪い予感のまま物語は展開し、『狙った獣』のように小説世界が反転するようなトリックはとくにない。 

狙った獣 (創元推理文庫)

狙った獣 (創元推理文庫)

 

  上にも書いたように、『丘の屋敷』のエレーヌの32歳というのは微妙な年齢で、いまならまだ若いようにも思えるが、当時は完全に「オールドミス」の年齢だったのだろう。そして読書会でも話題になったが、メリキャットの語り口を聞いていると子どものように思ってしまうがが、冒頭の引用にもあるように、6年前に家族が殺されたときメリキャットは12歳だったので、もう18歳なのである。コンスタンスは28歳。(事件当時は22歳)客観的にみると、いい歳した女ふたりが引きこもっているという図であるが、ここでは時は止まっている。そして物語の最後では、時が永遠に止まるであろうことが暗示される。


 ところで「死ねばいいのに」という思い――恐ろしいけれど、どうしても抱いてしまうことだってある。ちなみに、私はもう会いたくない、もしくは関わりたくない人に対しては、「死ねばいいのに」というより「もう死んでしまった」と思うようにしている。思い出したらイヤ~な気持ちになることも、もう亡くなった人なんだから…と思ってみると心安らかになる、、、ような気がする。いや、無理やりかもしれないが、そう思うようにしている。ぜひ試してみてください。 
 

中心のない機械になれ 『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』栗原康

まわりから、女はこうあるべきだ、おとなしくしろとかいわれていると、ほんとうはちがうとおもっていても、ついついそうふるまってしまう。しかも、それができてほめられると、なんだかうれしくなってやっぱりまたしたがってしまう。 

まわりにほめられるようなことだけしているうちに、自分には殻がかぶせられてしまった。 

   以前、『はたらかないで、たらふく食べたい』を紹介した栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』をようやく読んだ。 

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

 

  伊藤野枝というと、無理やりに結婚させられた故郷の夫から脱出して、女学校時代の教師であったダダイスト辻潤のもとに転がりこんだかと思うと、次はアナーキスト大杉栄と駆け落ちするが、自由恋愛を標榜する大杉には、すでに妻のみならず愛人の神近市子もいて、この三角関係は神近市子が大杉栄を刺すという日陰茶屋事件となり、最終的に野枝が勝利して、めでたく大杉のパートナーとなるが、関東大震災後の甘粕事件により官兵たちに虐殺されてしまう……

 という波瀾万丈の恋愛の顛末はもう有名な話なので、とくに新しいおどろきなどはなかったが(この顛末について詳しく知りたい人は、中森明夫の『アナーキー・イン・ザ・JP』を読んでもいいかも)この本で一番印象深かったのは、女をめぐる状況が、この野枝の時代と、いま私たちの生きている時代とほとんど変わっていないような気がしたことだった。 

アナーキー・イン・ザ・JP (新潮文庫)

アナーキー・イン・ザ・JP (新潮文庫)

 

 伊藤野枝は、小学校時代に面倒をよくみてくれた担任の女性教師が池に身を投げて自殺したときに、それまでの手紙のやりとりをもとに、自殺した先生になりきって、当時の社会で女として生きる苦しみを『遺書の一部より』という文章に綴った。冒頭の引用は、野枝の文章ではなく、それを解説する栗原さんの文章だけど、女はこうあるべきという枷にはめられ、追いつめられていく苦しみがよく伝わってくる。

 また、のちに大杉と野枝は労働運動に関わるが、そこでも野枝は印刷工場で働く女工さんの話を聞いて、その苦境に深く共鳴する。「女は、はたらきすぎだと」。(この引用も栗原さんの解説ですが)

女工さんたちは、朝から晩まで単純な肉体労働をさせられ、しかし男の補助作業と見なされているので給料は安く、だが、抗議の声をあげるでもなく、希望を結婚に託してしまう。――

つらければつらいほど、結婚を意識して、いい旦那をみつけよう、そうすればぜったいにしあわせになれるとおもいこんでしまう。夢想だ。

 しかし、そんな女工さんたちの夢がかなって結婚すると、よけいに忙しくなる。「二重の労働をしいられるのだ」。

 家では家事と育児をこなし、夫の収入だけでは足りないから、外に出て、またはたらかなくてはいけない。「女は奴隷なんだからタダではたらくのがあたりまえ。工場ではちょびっとでも賃金が出るんだから、おまえらありがたくおもえと。」
 いまの女の状況とどこがちがうのだろうか?  と思ってしまった。

 女が、いやそして男も、自由に生きるためにはどうしたらいいのだろうか? 

 野枝は結婚制度や家族制度が、自由を阻む「奴隷制」のもととして考えていた。

愛しあって夢中になっているときには、お互いにできるだけ相手の越権を許してよろこんでいます。けれども、次第にそれが許せなくなってきて、結婚生活が暗くなってきます。もしも大して暗くならないならば大抵の場合に、その一方のどっちかが自分の生活を失ってしまっているのですね。そしてその歩の悪い役回りをつとめるのは女なんです。

そして、理想の男女関係、結婚制度や家庭にとらわれない男女のありかたとして、

私は、親密な男女間をつなぐ第一のものが、決して『性の差別』でなくて、人と人との間に生ずる最も深い感激をもった『フレンドシップ』だということを固く信じるようになりました。

 伊藤野枝というと、自由恋愛を信じて奔放に生きたという印象が強いが、男女間については、意外なくらい冷静な意見を述べている。恋愛感情は消えるものなので、男女の仲に一番大切なのは『フレンドシップ』だと。『フレンドシップ』があり、互いに話ををすることがおもしろく、尊敬できる関係であれば、一時の情熱が覚めたあとでも、仲良く暮らすことが可能である、と。辻潤との関係は『フレンドシップ』がなかったのだろうか。

 『フレンドシップ』とは、主従関係ではもちろんなく、どちらか一方が取りこまれる「同化」でもない関係。野枝はこれをふたつの機械に例えている。機械といっても、時代が時代なのでコンピューターなどではもちろんなく、ミシンのようにふたつの歯車がかみあって動く機械。中心のない機械になれば、愛の力をめいっぱい拡充していくことができる、と。

 伊藤野枝というと、特異なメンタリティーをもった女傑のように思っていたが、いや、たしかに規格外の人生を送ったのは事実なのだけど、現実への問題意識、その提言はいまの社会にも通じる普遍のものがあることを強く感じた一冊だった。

 

黒人社会の厳しい現実と甘いラブ・ストーリーの融合 映画『ムーンライト』

 アカデミー賞で話題になった映画『ムーンライト』を見てきました。

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 トランプ政権への映画界からのアンチテーゼとも評されたように、黒人社会の厳しい現実を描いた映画……と思っていたら、それはたしかにそうなんだけど、それ以上に、まぎれもない純愛映画でした。
 以下は、ネタバレになりますが――
 
 まずはマイアミの黒人の貧困地域を舞台として、主人公シャロンの子供時代が描かれる。小柄で内気なシャロンは学校ではいじめられ、家でもドラッグ中毒の母親からしばしば邪魔者扱いされ、どこにいっても居場所がない。そんなシャロン父親代わりになり、手を差し伸べてくれたのがファンだった。しかし、そのファンが母親にドラッグを売っている張本人だった……

 次はシャロンの高校生時代が描かれる。シャロンは相変わらず学校ではいじめられっ子のままであり、ドラッグ中毒の母親は心身ともにボロボロになっている。そんなシャロンが密かに思いを寄せるのは、幼なじみの同級生ケヴィンである。恋心は一瞬通じあったように思えたが、そんなふたりを引き裂く事件が起きる……
 
 そして、最後は大人になったシャロンが描かれる、といったストーリーで、とくに大きな事件が起きることもなく、物語は淡々と進む。けれども、非常に繊細に、そして丁寧にシャロンの心の動きを追っているため、ちっとも退屈しなかった。不安定なカメラワークもたいへん美しく、心情をうまく反映していた。(が、正直なところ、少し酔いそうになりましたが)
 
 ふつう、子役が演じる子供時代はかったるくなることが多いけれど(私だけか?)、子役の演技がすごく自然で、ほんとうにいじらしくて見入ってしまった。
 考えたら、黒人だからといって、みんながみんなfunkyでノリがよく、いかつい身体をしているわけではないのは当然だ。でもそういう一般的なイメージ、おそらく本人たちも内面化しているマッチョイズムにより、シャロンのような華奢でシャイな男の子は黒人社会に馴染めず(高校生のシャロンが、「なんでそんな細いジーンズはいているんだ?」と言われるシーンは少し笑えた)、言うまでもなく白人社会には混じれない――というより、この映画では白人社会など出てこない。いつもドラマや映画で目にする、東海岸や西海岸の白人社会など完全な別世界だ。それが現実なのだろう。
 
 このひょろひょろのシャロンを見ていると、昔読んだ――それこそ高校生くらいのときなのでほんとうに大昔だが――山田詠美の『ジェシーの背骨』を思い出した。詳しい内容は覚えていないけれど、主人公の女と、その恋人の子供ジェシーとの心の葛藤を描いた物語だった。実の親の恋人に複雑な感情を抱くのは、どこの国の人間であろうと当然なのだけど、「黒人」としても「子供」としてもステレオタイプに描かれていないジェシーが当時の私には新鮮だった。 

 あとは、前も取りあげた、ゾラ・ニール・ハーストンの『彼らの目は神を見ていた』。前にも同じようなことを書いたけれど、ゾラ・ニール・ハーストンは当時の黒人文学の主流であった、「黒人を差別する白人を糾弾する小説」を書かずに、「黒人の男に虐げられる黒人女性」を描いて、黒人社会から激しいバッシングを受けたという。ゾラが描いた主人公は男を倒す強い女だったが、ゾラ自身はバッシングが関係あったのかどうかはわからないが、最後は困窮して野垂れ死んだのだった。 

彼らの目は神を見ていた (ハーストン作品集)

彼らの目は神を見ていた (ハーストン作品集)

 

  子供時代、高校時代と過酷な思いを味わってきたシャロンだが――結末のネタバレになりますが――大人になってからの展開は非常に甘い。いや、それが悪いと言っているのではなく、まるで現実から遊離したおとぎ話のようで、切なく胸をうたれた。
 施設に入っていると思われる母親がすっかり改心しているのも、現実ではなかなかあり得ないと思うが(依存症が改善されるのも、毒親がマトモになるのもまず聞かない)、涙を流すシャロンに素直に感情移入ができた。

 そしてケヴィンとの再会。しかし、前に『キャロル』を読んだときも思ったが、いまの時代にロマンティックなラブ・ストーリーを描くのは、男と女では無理なんだろうか。異性愛と同性愛、どこが違うかというと、やはり異性愛は結婚や家族といった社会制度、つまり資本主義制度を支えるものであるから、「純粋な恋愛」というのが難しくなっている、ということだろうか。その点、同性愛なら、いまの時代でもやはり、社会から背を向けて、ふたりきりの世界を生きるという側面があるから、甘いラブ・ストーリーが成立するのだろうか。

 
 あと、俳優たちの演技もよかった。メインキャストのシャロンとケヴィンを演じるそれぞれ三人は、そんなに有名俳優ではないようだが、すごくはまっていた。年齢ごとに役者が変わるのに、演出の力が大きいのだろうけど、違和感を感じることがなかった。とくにシャロンの子役は、演技未経験だったなんてまったく思えない。
 一番の有名どころは、シャロンのドラッグ漬けの母親を迫力満点に演じたナオミ・ハリスだが、彼女はケンブリッジ大学出身のイギリス人女優で、酒やタバコはもちろん、コーヒーすら飲まない超クリーンな生活を送っているらしい…役者ってすごいですね。

女が強くなるとき――『ナオミとカナコ』(奥田英朗)

「あなたの親は、とうして離婚しないのですか?」朱美が不思議そうに聞く。
「さあ……」直美は首を傾げつつ、「たぶん、母に一人で生きて行く自信がないからだと思います」と答えた。
「日本の女の人、みんなやさし過ぎるのことですね。前にも言いましたが、上海の女の人はみんな気が強いです。我慢して結婚生活を続けるなんてことは絶対にありえません」 

 遅ればせながら、奥田英朗の『ナオミとカナコ』を読んだ。で、ここからはすべてネタバレになるかもしれませんが…… 

ナオミとカナコ

ナオミとカナコ

 

  というか、少し前にドラマ化されたので、ストーリーはみんなご存じかと思いますが、大学時代からの親友同士の直美と加奈子が、加奈子に暴力をふるうDV夫・達郎を殺す物語である。桐野夏生の『OUT』と似たテイストと言えるが、『OUT』ほど重くなく、軽やかなスリリングさと、奥田英朗らしい温かみとユーモアのある人物描写で一気に楽しく読めた。


 AMAZONのレビューでも指摘されているように、たしかにふたりの犯罪はあまりに素人臭い。いや、それゆえに足がついて、どんどんと追いつめられるサスペンスなのだが、それにしても、足がつくきっかけとなった防犯カメラのこともまったく考慮していないし、共犯者であるふたりが、どこかしらには履歴の残るメールでしょっちゅうやりとりしたり、犯行後も頻繁に会って、なんと直後にお祝いの温泉旅行に行ったり、加奈子はさっさと再就職して働き、マットレスやシーツもすぐに新調し、しかも部屋のインテリアも速攻変え、とそりゃ達郎の実家から疑われても仕方がない。

 でも、こんな甘ちゃんのふたりだからこそ(どこまで作者が意図したのかはわからないが)、達郎を殺す計画を立てるワクワク感(死体を埋める場所を下見するところなんか、まるでピクニックのようだった。最後にはやはり日帰り温泉に行くし)と、計画通り殺したあとの純粋な喜びや解放感が素直に伝わってきた。
 私もウザい夫がいたら殺したい!と思った。幸か不幸かおらんけど。

 また、これも指摘されていたことだが、直美が自分の人生も破滅するのに、友人の夫を殺そうとするのもちょっと納得しがたいものはあった。一応、自分の父親も母親に暴力をふるっていたという背景は用意されているのだが、それでもさしたる躊躇もなく、というかわりとすぐに、殺したる!って思いこむのはあり得ない気もするが、それゆえにすごくスピーディーに物語が進むので、そんなにはひっかからない。

 いや、傑作『最悪』や『邪魔』のように、じわじわと登場人物の心情と追いつめられていくさまを描いた小説ももちろんいいのだけれど、いまの時代には、これくらいスピーディーなものが求められているのかもしれない。ただ、直美の動機は少々強引なところがあるが、直美がデパートでの仕事を通じて、犯罪すれすれの中国人実業家・李朱美と知りあったことにより、強くなっていく過程は説得力があった。

 そう、この小説の一番の読みごたえは、「ナオミとカナコ」のふたりが、どんどんと強くなり、たくましくなっていくところだった。直美は李朱美との丁々発止のやりとりで、殺人すらも怖くないほど強くなるのだが、直美に引っ張られる形だった加奈子は、夫を排除したことにより決定的に強くなる。
 警察も会社も失踪と片付けようとした事件をひとりで調査した、達郎の妹である陽子と対峙しても、警察に取り調べをうけても、ひるむことはない。
 

達郎を殺さなければ、殺されていた。あるいは一生、奴隷のように扱われた。仕方がないじゃない――。……
わたしは捕まらない――。

  

 そういえば『OUT』も主人公雅子がどんどんと、おそろしいほど強くなっていった。やはり夫を殺したら(雅子が夫を殺したわけではないが)強くなれるのか――いや、夫がいなくてよかった。危ないところでした。

 ところで、ドラマ版では、たしかこのDV夫を佐藤隆太が演じたんでしたっけ。ドラマは見てなかったけど、佐藤隆太のDV夫ってイメージ違うなとは思っていたのですが、どうだったんだろう。ちなみに陽子は、吉田羊が演じていたらしい。ということは、姉に改変していたのでしょう。犯人を追いつめる吉田羊は、逆にイメージに妙にはまってて、それはそれで怖い。
 

人生も半ばを過ぎて――『いつか春の日のどっかの町へ』(『FOK46』改題)大槻ケンヂ

 高野秀行さんがツイッターでオススメしていたので、私もひさびさに大槻ケンヂことオーケンのエッセイを読んでみた。 

  

  最近この文庫本が出たけれど、もとの単行本の方を読みました。単行本のタイトルは『FOK46』だけど、アイドルユニットを組んだわけではなく、題にも書かれているように「突如40代でギター弾き語りを始めたらばの記」。


 オーケンの本業がミュージシャンであることは、みなさんご存じかと思いますが、実はなんと、これまで楽器などこれっぽっちも弾けなかったのだった。と言っても、ボーカリストなので、別にギターを弾くふりをしていたなどの経歴詐称?ではないけれど。とは言え、ギターを練習しはじめたオーケンが楽器店に行くと、案の定、
「大槻さんですよね。今日はギターをお探しですか?」
と、まさか有名ミュージシャンがずぶの初心者とは夢にも思っていない店員がにこやかに声をかけてくる……
 
 と書くと、いつものおもしろおかしいエッセイなのかなとお思いでしょうが、この本は単におもしろおかしいだけではない。
 まず最初に、筋肉少女帯日本武道館での復活ライブが終わって楽屋にいたオーケンに、スタッフが声をかける。小学生のときの同級生「ウラッコ」が亡くなったと。 

日本武道館ワンマンライブの翌日に、僕は僕に初めてロックを教えてくれた小学校の同級生の通夜に出かけた。
 そこで、一人のミュージシャンと再会する。
 彼もまた数年後に天に召されるなどとは、その時には夢にも思っていなかった。

  この本の背景には、スクールカースト(当時はこんな言葉なかったでしょうが)の底辺にいた文科系小学生男子だったオーケンにロックを教えてくれた、早熟の同級生ふたりの早すぎる死がある。

 ウラッコは天才的に上手い絵を描き、小学生高学年にして、プログレッシブ・ロックの名盤のジャケットを見せる。そしてもうひとり、転校生の「ハバくん」は、キッスについて語っていたオーケンとウラッコにシンセサイザーで作曲していると語り、井上陽水の歌詞のすばらしさについて語る。小学五年生で。(しかしふと思ったが、これは公立の小学校の話だけど、やはり東京だからあり得るのかなという気はする)


 きっとこんな才能豊かな友人たちは、音楽などの表現活動で早々に世に出るのだろうな、とオーケンは子供なりにぼんやり考える。ところが、ふたりの友人たちもそれぞれクリエイティブな仕事についていたが、表現者として一番有名になったのはオーケンであり、結局、生き残ったのもオーケンだけとなった。ほんとうに人生って不思議なものだ。オーケンは考える。 

何かの表現を人が新しく試みようと考えた時、成功に必要なことが明確に三つだけあると思うのだ。
 才能と運と継続である。
 これは、表現者のはしくれたる僕の40代現在の結論だ。

  このあとに書いているように、となると、本人でどうにかできることは継続だけである。「継続だけを命綱に、しつこく食らいついて」いくしかないのだ。続けるだけならだれにでもできるように思えるが、実際はこれがなかなか難しい。
  それに続けていったって、成功できるという保証はもちろんない。オーケンは「せいぜい二流の下」という書き方をしているが、まあもっとわかりやすく言うと、食べていけたら御の字で、実際はいくら好きなことを続けても、食べていくことが苦しくなり、結局それで継続不可能になるのだろう。

 この本には、亡くなった友人たち以外にも、自分たちのやりかたで表現活動を続けている人たちとの交流が描かれている。エンケン遠藤賢司)、「たまのランニング」でおなじみの石川浩司、なかでも、元いんぐりもんぐりの永島さんとのエピソードがしみじみした。(いや、さすがに私も筋肉少女帯は聞いていたが、いんぐりもんぐりとなると名前を聞いたことある程度なので、どんな音楽なのかは知らないけれど。。。)

 
 後半では、友人たちだけではなく、海で行方不明になった実の兄の死も書かれている。その日もやはりライブであったオーケンは、「いつも通りのライブをしよう」と心に決めて、ラストには『生きてあげようかな』を歌う。さすが、ミュージシャンの鑑だ。
 
 それからもオーケンは歌い続ける。「池の上陽水」こと、亡くなったハバちゃんが遺した歌を、習いはじめたギターで弾き語る。 

眠りなさい 眠っていなさい
起きてても 今日はいい事はない
 
『そうかなあ、俺らまだ人生の半分過ぎたばかりだぜ。意外にいいこともあると思うよ』
と歌い終わって故人にあえてそう語りかけた。

  そして半分以上過ぎた人生の夢として、「ちょっとだけしゃべるギターを背負って」、「長い、遠くまで行く弾き語りの旅」に出ることを考える。
 「一人はさみしい、人といるのはわずらわしい」と感じるオーケンにとって、他愛のない会話ができるギターというのが最高の相棒なのだ。この気持ちはわかるような気がする。

ギター以外は、あまり荷物は持っていかない。
 「不便じゃないかい?」
 季節は春だといいなと思う。
 あまり寒くない頃がいい。
 「ん? いや、それが、あんまりいるものって無かった」