快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

続・最強のブックガイド 「私が」選ぶ岩波文庫の三冊 『対訳 ディキンソン詩集』『マイケル・K』『冥途・旅順入場式』

 前回は、岩波書店のPR誌『図書』の臨時増刊「岩波文庫創刊90年記念 私の三冊」で、さまざまな人が選んだ「私の三冊」を紹介しましたが、となると、「『私の』三冊」も選んでみたくなるのが人情。で、私が選んだ三冊はというと――


まず思い浮かんだのが『対訳 ディキンソン詩集』。 

対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉 (岩波文庫)

対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉 (岩波文庫)

 

  隠遁生活のなかでひっそりと詩を書き綴り、いまではアメリカ文学史上最高の女性詩人と言われるエミリー・ディキンソンの詩集。
 詩というとどうしても難解なイメージがあるけれど、ここに掲載されている詩はどれも非常に読みやすく、すっと心に入ってくる。選者の亀井俊介があとがきで

幅広い階層の読者をもつ文庫の性格を考え、私はまず短いことに加えて、なるべく易しい詩を選ぶことにつとめた。しかしディキンソンの代表作や、あまり知られていないけれども彼女の神髄を示すと私の思ういくつかの詩は、難易にこだわらず収めた

と記しているとおり、ほんとうに目配りのきいた、ベタな言葉でいうと、たいへん「おトク」な詩集だと思う。いま再度ぱらぱらと読んでみても、どの詩も簡潔ながら、斬新さや清廉さに心が奪われる。

This is my letter to the World
That never wrote to Me――

これは世界にあてたわたしの手紙です
わたしに一度も手紙をくれたことのない世界への――

  次は『マイケル・K』(J. M. クッツェー著 くぼたのぞみ訳)。 

マイケル・K (岩波文庫)

マイケル・K (岩波文庫)

 

マイケル・Kは口唇裂だった。母親の体内からこの世界に送り出すのを手伝った産婆が、最初に気づいたのはそのことだった。唇が蝸牛の足のようにめくれ、左の鼻孔が大きく裂けていた。産婆はその子を母親にはすぐには見せず、小さな口を突いて開け、口蓋が無事だと知ってほっとした。

と物語がはじまり、そして大きくなったマイケル・Kが母親のアンナ・Kを手押し車に乗せて、紛争がやまない南アフリカの大地を横断する描写を最初に読んだときのインパクトは忘れがたい。ペーソスやユーモアのまじった洗練された筆致の『恥辱』や『遅い男』とはまた違う、生々しさがある。原著を読むと、クッツェーの英語は一見易しく読みやすいのだけれど、切りつめられた言葉から伝わってくるものの大きさに圧倒される。これを日本語に移し替えるのも一苦労だろう。余計な言葉を書き足してはいけないし。

 

そして最後は、私の青春の一冊、内田百閒の『冥途・旅順入場式』。 

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

 

 といっても、べつに甘酸っぱい思い出があるとかではまったくなく(そんな本でもないし)、単に卒論で内田百閒を選んだというだけなのですが。(国文学専攻だったので)

 『件』は、簡単に言うと人面牛みたいな話なのですが、そこから百閒の「おもて」、つまり表層へのこだわりを見出し、そして『山高帽子』の帽子へとつながり……みたいなことを論じようとした記憶はおぼろげにあるけれど、具体的に何を書いたのか、さっぱり覚えていない。
 しかしまあ、あれから何年も経ってるけれど、相変わらずひとりで本を読んでうだうだしている、自分という人間の変わらなさ、成長の無さがなんだか恐ろしい、というのが、「岩波文庫の三冊」の最終的な感想になってしまった。。。

最強のブックガイド 岩波書店のPR誌『図書』「岩波文庫創刊90年記念 私の三冊」

 たまたま書店でもらった、岩波書店のPR誌『図書』の臨時増刊「岩波文庫創刊90年記念 私の三冊」が結構おもしろかった。
 タイトル通り、さまざまな人が岩波文庫から三冊取りあげ、その理由や簡単な紹介を書いているだけなのだけど、なんといっても岩波文庫のラインナップの幅広さゆえに、えっ、こんな本が文庫であったの!の連続で、読んでいて飽きない。


いくつか挙げてみると、上野千鶴子は『コリャード 懺悔録』を紹介している。 

コリャード 懺悔録 (岩波文庫)

コリャード 懺悔録 (岩波文庫)

 

 「日本を訪れたイエズス会宣教師たちが祖国に書く送った日葡対訳の報告書が、数奇な運命をたどって翻訳された。こんひさん(confession)のなかの『姦淫』の項が、近代以前のセクシュアリティを知る上で、わけても興味深い」とのことで、そう、ちょうど先日ここで紹介した、星野博美の『ずっと彗星を見ていた』の関連本のようで読んでみたくなった。近代以前のセクシュアリティっていうのが、なんというか、上野節ですね。

 で、フェミニストつながり、と雑なことを言ったら怒られそうですが、北原みのりは『おんな二代の記』(山川菊栄)をあげており、「『大杉栄の恋愛事件は、彼がもてすぎたからではなく、お金がなさすぎたから』そんな恐いことをサラリと書く山川菊栄」と紹介している。 

おんな二代の記 (岩波文庫)

おんな二代の記 (岩波文庫)

 

これもここで紹介した、栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』に通じる本であり、この栗原康の本でも、山川菊栄伊藤野枝のライバル(いや、論争相手ですが)として登場している。そんな山川菊栄大杉栄のことをなんと言ってるのか、ちょっと気になる。

 そしてまたフェミニズムつながりですが、以前紹介したアディーチェの『We Should All Be Feminist』の翻訳者、くぼたのぞみは『ウンベルト・エーコ 小説の森散策』(和田忠彦訳)をあげている。 

ウンベルト・エーコ 小説の森散策 (岩波文庫)

ウンベルト・エーコ 小説の森散策 (岩波文庫)

 

 なんでも「チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが多用する技法をフラッシュ・フォワードと呼ぶことを遅ればせながらこの本で知った」とのこと。エーコの理論についていけるかは自信がないが、いったいどういう技法なのか知りたい。


 小説では、夏目漱石フローベールが多くに選ばれているのはまあ当然ですが、保坂和志恩田陸コンラッド『闇の奥』(中野好夫訳)を選んでいるのが興味深い、というか納得。 

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

 

 また、『やし酒飲み』(エイモス・チェツオーラ 土屋哲訳)も複数から選ばれていて、ドイツ文学者・翻訳家の松永美穂によると「奇想天外で豪快なアフリカの小説。生と死、人と界の境界線が軽々と越えられていく。翻訳の文体もおもしろい」とのことで、前から気になっていたけれど、こりゃほんと読まないと!と思った。 

やし酒飲み (岩波文庫)

やし酒飲み (岩波文庫)

 

 あと、ギリシア悲劇の代表といえる『ソポクレス オイディプス王』(藤沢令夫訳)も大澤真幸金原瑞人古井由吉に選ばれている。金原さんは「『アーサー王』『カラマーゾフ』『スターウォーズ』にまで受け継がれていく父親殺し」と書いていて、私は”父親殺し”というと『海辺のカフカ』がすぐに思い浮かぶのだけど、そういったあらゆる小説の原点なのかもしれない。ちなみに、古井由吉はコメントなし。(この本だけではなく、ほかの二冊についても書名のみ。さすが御大ですね) 

オイディプス王 (岩波文庫)

オイディプス王 (岩波文庫)

 

  さっきも書いたけど、やはり夏目漱石はたくさん選ばれている。数えてないけれど、一番選ばれているのではないだろうか。しかも一作品に偏らず、さまざまな作品が選ばれているのがさすがだ。
 小説はぜんぶ(新潮文庫で)読んでいるのだけど、加藤陽子が推薦している『漱石書簡集』(三好行雄編)には心ひかれた。なぜかというと、1906年の森田草平宛書簡にはこう書かれているらしい。
「君なども死ぬまで進歩するつもりでやればいいではないか」
死ぬまで進歩……いい言葉だ。 

漱石書簡集 (岩波文庫)

漱石書簡集 (岩波文庫)

 

 

 

はかない夢、嘘と幻滅、そして友情――『狩りの風よ吹け』(スティーヴ・ハミルトン 越前敏弥)

わたしにとって、春が別の意味を持っている時期があった。マイナー・リーグでキャッチャーをしていた四年間。気が遠くなるほど昔だ。当時のことについては、いまはもう深く考えない。あれから多くのときが流れ、多くの出来事が起こった。デトロイトで警察官をしていた八年間。死んだ相棒と、まだ胸のなかにある銃弾。そしてここパラダイスでの十五年間。今夜のような夜をいくたびも過ごしてきた。

 『解錠師』でおなじみのスティーヴ・ハミルトンの旧作『狩りの風よ吹け』を読み直した。デビュー作『氷の闇を越えて』から続く、私立探偵アレックス・マクナイトを主人公とするシリーズの三作目である。 

狩りの風よ吹け (ハヤカワ・ミステリ文庫)

狩りの風よ吹け (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

解錠師 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

解錠師 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 上の引用にあるように、主人公のアレックスはマイナーリーグでキャッチャーをしていたが、メジャーに昇格することはなく、デトロイトの警察官となる。警察官として順調に働いていたが、ある日ひょんなことから事件に巻きこまれ、相棒フランクリンとともに銃で撃たれる。フランクリンはは死に、アレックスはかろうじて生き延びたが、そのときの銃弾は永遠に胸に残ったままだ。(比喩的な意味ではない)
 そして警官を辞め、ミシガン州の北端のパラダイスという町で小屋の管理人として暮らしていたが、友人の弁護士アトリ―に頼まれて調査員の仕事をはじめ、私立探偵の資格を得る。


 この三作目は、マイナーリーグ時代の相棒のピッチャーだったランディーが、三十年ぶりにアレックスのもとを訪ねるところからはじまる。ランディは現役時代から変わらない陽気なお調子者で、無愛想なジャッキーをはじめとする、極寒の町パラダイスの仲間たちにもすぐに溶けこむ。マイナーリーグの思い出にくわえ、どちらも離婚を経ていまは独り身という共通項もあり、話は尽きることがない。

 しかし、肝心の用事についてはなかなか話そうとしない。なんとか聞き出したところ、ランディーがメジャーのデトロイト・タイガースに昇格したときに、デトロイトでつきあっていたマリアという女を探してほしいとのことだった。ほんの束の間のつきあいだったが、いまでも彼女のことが忘れられないと言う。
 
 三十年前のあやふやな記憶にくわえ、マリアの正しい名字もわからない。どだい無理な相談だと思ったが、アレックスの相棒リーアンの協力もあり、なんとかマリアの家族の居場所を突きとめることに成功する。だが、マリアは悪い男から逃れるため、家族のもとを去っていた。ここで諦めようとしたが、ひとりでマリアを探しに動いたランディーが撃たれてしまう。そして、ランディ―には重大な秘密があったことも判明する……


 それにしても、ほんとアレックスはいいやつだなとあらためて思った。心優しく、情が深い。ぶつぶつ文句を言いながらも、ストーカーかと思うようなランディーの恋人探しにつきあい、物語がどんどんと意外な様相をあらわしても、なんだかんだ言いながらも最後までランディーを見捨てない。

 考えたら、友達思いで人情に篤く、それゆえに事件に巻きこまれて痛い目に遭うというのは、チャンドラーのフィリップ・マーロウから続くハードボイルドのお家芸なのかもしれないが、それにしてもアレックスお人好し過ぎだ。自分でも言っている。「わたしはこの星いちばんの大ばか者だ」と。嘘にまみれた登場人物たちのなかで、アレックスの清廉さがひときわ目立つ。

「いつも真実を話してくれる女を探すことだ」。いつだったかそう言っていたが、異性について忠告らしきことをされたのは、その一回きりかもしれない。「隠し事をしない女でさえ、こっちはなかなか理解できないんだ。嘘をつかれるようになったら、勝ち目はないぞ」 

というのは、アレックスが父からの忠告を思い出すシーンですが、「いつも真実を話」すというのもなかなか困難だ。嘘をつくつもりはなくても、そのときはそう思った(でも、いまはそうは思わない)ということは、頻繁に起こり得るから……とは言え、この小説に出てくるような、嘘で塗り固めた人間たちの「狐と狸の化かしあい」みたいな事態はそうそうない。


 また、『解錠師』では2つの時間軸が並行し、物語が佳境に向かうにつれて2つの時間軸が近接したように、巧妙に練られたプロットがハミルトンの小説の大きな魅力だが、この小説はそれに加えて、アレックスとランディーの掛け合いや、マリアを探す珍道中で描かれる軽妙なユーモアも見逃せない。物語が痛切な展開になっても要所要所でウィットが利かされ、アレックスがランディーの子どもたちと電話で話す場面は物哀しいユーモアを感じる。

 またまた考えたら、ウィットやユーモアはチャンドラーの作品の特色でもあるし、ハードボイルド全般に欠かせない要素なのかもしれない。これまで「ハードボイルドってようわからん」と思っていたけれど(とくに、いきなり美女が出てきて探偵を誘惑したりといったあたりが。この作品にもその要素もありますが)、ようやくその魅力がわかりかけてきたので、ハードボイルドの奥深さに触れてみたい気もした。

 といっても、このアレックス・マクナイトシリーズは、このあとの翻訳は出ていないので残念。チャンドラーを読破するか、『ストリート・キッズ』がおもしろかった、ドン・ウィンズロウのニール・ケアリーシリーズあたりをもっと読んでみようかな。

 

400年前のキリシタン弾圧と私たちとのつながり 『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(星野博美)

 ノンフィクションにとくに詳しいわけではないけれど、高野秀行さんと星野博美さんの作品は新作が出るとつい読んでしまう。このふたりの作品に共通していることは、最初はごくごく個人的な興味からはじまり、そしてそれをどこまでも追求し、海外や辺境地まで足を運んで取材するが、決して一般論に陥らずあくまでも個人の視点で書き、それでいて個人と社会、また日本と世界との関わりを見事に描き出している、というところではないかと思う。 

 この『みんな彗星を見ていた』も、星野さんが以前からなぜかキリシタン関係の本をよく読んでいた、という単純なきっかけからはじまる。
 ちょうど先祖について調べていたこともあり(これは『コンニャク屋漂流記』にまとめられていますね)、自分の先祖がキリシタンと交流があったのではないかと思いはじめ、天正遣欧使節が奏でたという当時の楽器リュートを習いはじめる。高野さんもそうですが、取材対象について、”まずは自分で体験してみる”というところがすごい。


 さて、安土桃山時代~江戸時代のキリスト教の布教と弾圧というと、私もそうでしたが、ザビエル来日、織田信長の庇護、キリシタン大名天正遣欧使節、豊臣秀吉の弾圧、江戸時代の禁教令、天草の乱……といった歴史の授業で習った事柄の羅列から、細川ガラシャ伊東マンショといった「えっ? 何人??」と思うような名前とか(名前だけ見ると、いまのキラキラネームみたいですね)、遠藤周作の『沈黙』のようなドラマチックな棄教(断末魔の表情で踏み絵を踏むイメージ)や殉教シーンを思い浮かべたり、美輪明宏はほんとうに天草四郎の生まれ変わり?なんて思ったりする程度なんではないでしょうか。
 これらはまちがいではないけれど、これだけではないということが、この本を読むとよくわかった。


 まず、布教する側にもさまざまな事情があり、一枚岩ではなかったというのが興味深かった。世界史で習ったように、ポルトガルの隆盛と、それに対抗するスペインの動きがあり、つまり、当時ポルトガルとスペインで世界を二分割しようとしていたため、キリスト教会派もポルトガル系のイエズス会だけではなく、スペイン系の托鉢修道会があった。大航海時代の領地争いが日本を舞台に繰り広げられたという一面もある。

 と言っても、宣教師にとっては、もちろん布教することが目的であり、領地や貿易目当てで来たわけではない。なんといっても、イベリア半島から極東日本まで当時の船で来ることは、ほんとうに命がけだったのだから。いま、我々が「ニューヨークまで飛行機で12時間か~遠いなあ」というのとはワケが違う。
 しかも、幕府が禁教令を出してからは、布教=殉教を覚悟しないといけないのだが、それ目当て、いや目当てという言い方もおかしいが、殉教する気マンマンで来た宣教師も少なくなかったというのもおどろきだった。なんでも、殉教と認めてもらうにもいろいろな基準があり、そう簡単なことではないのだが、日本はまさにその条件に適っていたらしい。

 そして、受け入れる日本側も、南蛮人が物珍しい&最新の文化を持っている→ひれ伏す→キリスト教は危険思想だ!と気づく、といった単純なものではなかった。
 徳川家康はさすが老獪で、南蛮貿易で利益を得るためスペインと交渉しようとあれこれ策を練っていたようだ。また、庶民も冷静で、南蛮人に盲目的に従ったわけではないため、宣教師側も日本人の信頼を得るために、まるで現代の営業マンのようなマニュアルを作っていたというところはおもしろかった。

 しかし、幕府や棄教した大名も最初は穏便に済まそうと、宣教師をなるだけ殺さず追放しようと試みたが、先に書いたような結果として、殉教に価値を求める宣教師たちと、そして「どうしてキリシタンの日本人はすぐ殺されるのに、宣教師は殺されないのか」という信者内で批判的な声もあり、拷問がどんどん激化し、凄惨なものになっていったという点が恐ろしかった。いまはイスラム国の拷問(斬首をネットで中継するとか)が話題になっているが、それよりずっと残酷な、逆さ吊りにしてじわじわ殺すとかが横行していたのだ。いや、私なら速攻で棄教するので、棄教者を弱虫だとはとうてい思えない。(そもそも最初からそんな信仰心もないが)


 結構長い作品で、内容も一直線に「キリシタンの知られざる歴史を語る」というものではなく、当時の世界情勢の変化や、宣教師たちの動向を綴るあいまに、リュートのレッスンにまつわる話(亡くなったマンドリン好きのおじさんのエピソードがよかった)や、長崎やスペインでの取材旅行での出来事や、さまざまな逸話が挿入されるので、なかなか入りこむことができないかもしれないが、それによって、当時の社会情勢、宣教師たちや信者たちの息遣いが、現在の我々ともつながっていることを感じることができる。


 で、ここまでつらつら書いておいてなんですが、このインタビューを読むと、この本の読みどころなどが一番よく理解できると思う。

なぜ日本人が熱しやすく冷めやすかったり、何かを系統立てて理論的に考えたりしないのか。振り子が触れるように、一方から一方へなだれこむ傾向があるのはなぜか。人目を気にし、出る杭となることを恐怖すること。自主性より全体を重んじる傾向。忘れっぽさ。西洋に対するねじれた羨望と、東洋に対する優越感。結婚式はキリスト教で、死ぬときは仏教、というように、宗教に寛容なのではなく、無節操になったのはなぜか――そういった諸々の日常的なこともふくめて、400年前のキリシタンの時代が関係あるのでは?という漠然とした考えがあったんです。

 ほんとそうだな。日増しにそんな傾向が強まる気すらする。

www.ohtabooks.com

身近な他者が一番恐ろしい――『なんでもない一日』(シャーリー・ジャクスン 市田泉訳)

東京では、先日村上春樹の講演が行われたようですね。

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 しかし「龍じゃないほうの村上です」と登場したって、W村上と言われていたのは遠い昔なので、少々古い気も。(龍氏の方にも好きな小説はあるので、最近影が薄くなったように思えるのは残念ですが。ちょっと前にテレビブロス大根仁さんが、「いまあえて」村上龍の最新のエッセイを紹介していたのはおもしろかった。龍氏の近況は、飼い犬が死んで意気消沈らしい)


 それにしてもこのレポ、詳細でありがたいですが、春樹氏の一人称が「僕」ではなく「ボク」になっているのが、リリー・フランキーのエッセイのようで笑えた。「テキストを忘れちゃうのがボクの翻訳の肝」っていいことを言っているのだけど、なんか脱力する。まあ、とにもかくにも一度はナマの春樹氏を拝んでみたいものです。


 さて、前回のシャーリー・ジャクスンの続きで、短編集『なんでもない一日』も読んだ。 

なんでもない一日 (シャーリイ・ジャクスン短編集) (創元推理文庫)

なんでもない一日 (シャーリイ・ジャクスン短編集) (創元推理文庫)

 

 シャーリー・ジャクスンの短編というと「くじ」が超有名だと思いますが、この短編集に載っている作品は、「くじ」や前回の『ずっとお城で暮らしてる』ほど完璧な世界が構築されておらず、それだけに不気味な悪意は感じられるものの、軽妙で抜けのある仕上がりとなっているものが多く、個人的にはこれまでに読んだシャーリー・ジャクスンの本の中では一番好きかもと思った。


 「なんでもない日にピーナッツを持って」の主人公ジョン・フィリップ・ジョンスン氏は、行く先々で善行を施すまごうことなき善人である。ところが、家に帰ると意外な事実が発覚する……「あしたは交替しようか」というセリフが恐ろしい。
 その次の「悪の可能性」も、一見上品で善良な老婦人が実は……という物語であり、どちらも人間の善意と悪意の入れ替わりを描いているが、深刻ではなくユーモアがあるため読みやすく、けれどそのぶん心にひっかかる。

 「レディとの旅」は、はじめての一人旅をする少年が指名手配の女性と交流する物語だが、犯罪をおかして逃亡するこの女が、『丘の屋敷』のエレーヌのような孤独な女性の陽ヴァージョンだと考えると、なんだか痛快で応援したくなる。
 「うちのおばあちゃんと猫たち」は、猫を愛しているが猫に攻撃されてばかりのおばあちゃんを描いた短編で、おばあちゃんのめげなさに笑えるが、よく読むと、おばあちゃんは家族なんかよりずっと猫を愛していることがわかり(「おじいちゃんがいてくれるより、ずっと安心だったよ」)、にやりとさせられる。
 「よき妻」「ネズミ」「スミス夫人の蜜月」は、『ゴーン・ガール』のような夫婦間の殺しあいを示唆した物語で、身近な他者の恐ろしさがよくわかる。安易に作者の実生活と結びつけるのはNGかもしれませんが、こないだの読書会で聞いたところによると、やはり夫との関係もなかなか複雑であったようです。


 そう、考えたら、シャーリー・ジャクスンが長編でも短編でもくり返し描いているのは、家族という身近な他者の恐ろしさである。『ずっとお城で暮らしてる』は言うまでもなく、『丘の屋敷』でも丘の屋敷で見舞われる様々な現象より、そもそもエレーヌがどうして丘の屋敷に行かざるを得なかったかが一番恐ろしい気もする。
 この本の後半部分に収められた家族エッセイも、ユーモラスであるが「ほのぼのユーモア」ではなく、長男ローリーとその悪ガキ仲間や、すぐに噂をふりまきあれこれ干渉してくる近所の面々、そして子供たちや近所の人たちとかみあわない作者自身を俯瞰して皮肉な目で描いたユーモアである。

 そして「エピローグ」として載っている、本を出したばかりの作者と地元の通信社の人とのやりとりも笑えた。作家としての自分を必死でアピールする作者と、あくまで地元の一主婦として扱おうとする相手のかみあわなさを描いた、まさに「なんでもない」文章なのだけど、こういうささいなディスコミュニケーションをユーモラスに綴った作品をもっと読みたかったなと思った。早世したのはほんとうに残念ですね。

「死ねばいいのに」という思いのはてに――『ずっとお城で暮らしてる』(シャーリー・ジャクスン 市田泉訳)

あたしはメアリ・キャサリン・ブラックウッド。十八歳。姉さんのコンスタンスと暮らしている。運さえよければオオカミ女に生まれていたかもしれないと、何度も考えたことがある。なぜってどちらの手を見ても、中指と薬指が同じ長さをしているんだもの。だけどそのままの自分で満足しなくちゃいけなかった。きらいなのは身体を洗うことと、イヌと、うるさい音。好きなのはコンスタンス姉さんと、リチャード・プランタジネットと、アマニタ・ファロイデス――タマゴテングタケ。ほかの家族はみんな死んでしまった。

 先日読書会でこの『ずっとお城で暮らしてる』を読んだ。 

ずっとお城で暮らしてる (創元推理文庫)

ずっとお城で暮らしてる (創元推理文庫)

 

  語り手の「あたし」メアリことメリキャットは、姉さんのコンスタンスとジュリアンおじさんとお屋敷に閉じこもって暮らしている。ほかの家族は6年前にみんな死んでしまった。ジュリアンおじさんは身体が弱っていて、コンスタンスは外に出られないので、「あたし」がたまに村に買い物に行くけれど、村の人々はあたしたちに冷たい視線を送る……

 という物語で、読みだすとすぐに、ほかの家族は6年前に砒素で毒殺され、コンスタンスが犯人ではないかと疑われたものの、証拠がなく捕まることはなかった。しかし、そのせいで村から孤立しているというのがわかる。
 あらためて読むと、そんなに難しい話でもないし、最近の「イヤミス」のような意外な展開や叙述トリックがあるわけでもない。冒頭から予想していた通りに物語は展開する。いや、展開というほど、物語に動きがあるわけではない。従兄のチャールズがこの屋敷を訪れるのが、もっとも大きいできごとだ。チャールズがやって来て、この閉ざされた屋敷に変化が生じる。コンスタンスとのふたりの世界が崩されたように感じたメリキャットは、当然のように、チャールズに「死ねばいいのに」と思う。


 そう、とくに大きなストーリー展開のない、というより、展開してしまったあとを描くこの物語で、強く印象に残るのは、メリキャットの「あたしとコンスタンス以外、あと猫のジョナスものぞいて、みんな死ねばいいのに」という念である。メリキャットがいつからどうしてそんな思いにかられたのかは、はっきりと描かれていない。ただ、物語のところどころで、「性悪」だったメリキャットはほかの家族からお仕置きをうけていたことが読み取れる。邪悪なのはメリキャットだったのか、ほかの家族だったのか――

 めでたく家族がいなくなったメリキャットは、大好きなコンスタンス姉さんとお屋敷に閉じこもるという、ある意味幸福な生活を送っているが、シャーリー・ジャクスンの代表作のひとつ『丘の屋敷』はそうもいかない。 

丘の屋敷 (創元推理文庫 F シ 5-1)

丘の屋敷 (創元推理文庫 F シ 5-1)

 

  大嫌いな母親の看護に青春を奪われたエレーヌは、ひょんなことから幽霊が出ると噂の屋敷に招待され、同じく大嫌いな姉夫婦の車を奪って屋敷に行く。ここから新しい人生がはじまるのかと思ったのだ。しかし、屋敷では心霊現象と同居する面々からの悪意に襲われ――

 という話で、この『ずっとお城で暮らしてる』よりいっそう救いがない。若さを失い(エレーヌはまだ32歳だけど)、孤独でおかしくなっていく主人公という点では、マーガレット・ミラーの『狙った獣』を思い出したが、『丘の屋敷』は『ずっとお城で暮らしてる』と同様に冒頭からの悪い予感のまま物語は展開し、『狙った獣』のように小説世界が反転するようなトリックはとくにない。 

狙った獣 (創元推理文庫)

狙った獣 (創元推理文庫)

 

  上にも書いたように、『丘の屋敷』のエレーヌの32歳というのは微妙な年齢で、いまならまだ若いようにも思えるが、当時は完全に「オールドミス」の年齢だったのだろう。そして読書会でも話題になったが、メリキャットの語り口を聞いていると子どものように思ってしまうがが、冒頭の引用にもあるように、6年前に家族が殺されたときメリキャットは12歳だったので、もう18歳なのである。コンスタンスは28歳。(事件当時は22歳)客観的にみると、いい歳した女ふたりが引きこもっているという図であるが、ここでは時は止まっている。そして物語の最後では、時が永遠に止まるであろうことが暗示される。


 ところで「死ねばいいのに」という思い――恐ろしいけれど、どうしても抱いてしまうことだってある。ちなみに、私はもう会いたくない、もしくは関わりたくない人に対しては、「死ねばいいのに」というより「もう死んでしまった」と思うようにしている。思い出したらイヤ~な気持ちになることも、もう亡くなった人なんだから…と思ってみると心安らかになる、、、ような気がする。いや、無理やりかもしれないが、そう思うようにしている。ぜひ試してみてください。 
 

中心のない機械になれ 『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』栗原康

まわりから、女はこうあるべきだ、おとなしくしろとかいわれていると、ほんとうはちがうとおもっていても、ついついそうふるまってしまう。しかも、それができてほめられると、なんだかうれしくなってやっぱりまたしたがってしまう。 

まわりにほめられるようなことだけしているうちに、自分には殻がかぶせられてしまった。 

   以前、『はたらかないで、たらふく食べたい』を紹介した栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』をようやく読んだ。 

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

 

  伊藤野枝というと、無理やりに結婚させられた故郷の夫から脱出して、女学校時代の教師であったダダイスト辻潤のもとに転がりこんだかと思うと、次はアナーキスト大杉栄と駆け落ちするが、自由恋愛を標榜する大杉には、すでに妻のみならず愛人の神近市子もいて、この三角関係は神近市子が大杉栄を刺すという日陰茶屋事件となり、最終的に野枝が勝利して、めでたく大杉のパートナーとなるが、関東大震災後の甘粕事件により官兵たちに虐殺されてしまう……

 という波瀾万丈の恋愛の顛末はもう有名な話なので、とくに新しいおどろきなどはなかったが(この顛末について詳しく知りたい人は、中森明夫の『アナーキー・イン・ザ・JP』を読んでもいいかも)この本で一番印象深かったのは、女をめぐる状況が、この野枝の時代と、いま私たちの生きている時代とほとんど変わっていないような気がしたことだった。 

アナーキー・イン・ザ・JP (新潮文庫)

アナーキー・イン・ザ・JP (新潮文庫)

 

 伊藤野枝は、小学校時代に面倒をよくみてくれた担任の女性教師が池に身を投げて自殺したときに、それまでの手紙のやりとりをもとに、自殺した先生になりきって、当時の社会で女として生きる苦しみを『遺書の一部より』という文章に綴った。冒頭の引用は、野枝の文章ではなく、それを解説する栗原さんの文章だけど、女はこうあるべきという枷にはめられ、追いつめられていく苦しみがよく伝わってくる。

 また、のちに大杉と野枝は労働運動に関わるが、そこでも野枝は印刷工場で働く女工さんの話を聞いて、その苦境に深く共鳴する。「女は、はたらきすぎだと」。(この引用も栗原さんの解説ですが)

女工さんたちは、朝から晩まで単純な肉体労働をさせられ、しかし男の補助作業と見なされているので給料は安く、だが、抗議の声をあげるでもなく、希望を結婚に託してしまう。――

つらければつらいほど、結婚を意識して、いい旦那をみつけよう、そうすればぜったいにしあわせになれるとおもいこんでしまう。夢想だ。

 しかし、そんな女工さんたちの夢がかなって結婚すると、よけいに忙しくなる。「二重の労働をしいられるのだ」。

 家では家事と育児をこなし、夫の収入だけでは足りないから、外に出て、またはたらかなくてはいけない。「女は奴隷なんだからタダではたらくのがあたりまえ。工場ではちょびっとでも賃金が出るんだから、おまえらありがたくおもえと。」
 いまの女の状況とどこがちがうのだろうか?  と思ってしまった。

 女が、いやそして男も、自由に生きるためにはどうしたらいいのだろうか? 

 野枝は結婚制度や家族制度が、自由を阻む「奴隷制」のもととして考えていた。

愛しあって夢中になっているときには、お互いにできるだけ相手の越権を許してよろこんでいます。けれども、次第にそれが許せなくなってきて、結婚生活が暗くなってきます。もしも大して暗くならないならば大抵の場合に、その一方のどっちかが自分の生活を失ってしまっているのですね。そしてその歩の悪い役回りをつとめるのは女なんです。

そして、理想の男女関係、結婚制度や家庭にとらわれない男女のありかたとして、

私は、親密な男女間をつなぐ第一のものが、決して『性の差別』でなくて、人と人との間に生ずる最も深い感激をもった『フレンドシップ』だということを固く信じるようになりました。

 伊藤野枝というと、自由恋愛を信じて奔放に生きたという印象が強いが、男女間については、意外なくらい冷静な意見を述べている。恋愛感情は消えるものなので、男女の仲に一番大切なのは『フレンドシップ』だと。『フレンドシップ』があり、互いに話ををすることがおもしろく、尊敬できる関係であれば、一時の情熱が覚めたあとでも、仲良く暮らすことが可能である、と。辻潤との関係は『フレンドシップ』がなかったのだろうか。

 『フレンドシップ』とは、主従関係ではもちろんなく、どちらか一方が取りこまれる「同化」でもない関係。野枝はこれをふたつの機械に例えている。機械といっても、時代が時代なのでコンピューターなどではもちろんなく、ミシンのようにふたつの歯車がかみあって動く機械。中心のない機械になれば、愛の力をめいっぱい拡充していくことができる、と。

 伊藤野枝というと、特異なメンタリティーをもった女傑のように思っていたが、いや、たしかに規格外の人生を送ったのは事実なのだけど、現実への問題意識、その提言はいまの社会にも通じる普遍のものがあることを強く感じた一冊だった。