快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

旅する犬の物語② ビビリ犬マドのタイ旅行記『旅はワン連れ』(片野ゆか)

 さて、前回から気を取り直すために(?)、続けて読んだ犬本は、片野ゆか『旅はワン連れ』。 

旅はワン連れ

旅はワン連れ

 

 タイトルのとおり、ワンコを連れて旅行する話なのですが、国内をちょろっと一泊とか二泊旅行するのではなく、タイの南はチャーン島、そしてチェンマイからさらに北まで、犬連れで二か月近く旅行するのだから、人間も犬もかなりの覚悟と準備が必要になる。

 どうしてそんな旅を決行したのかというと、愛犬マドはかなりのビビリ犬で、保健所から引き取られて一年半経つというのに、散歩中に出会うものはもちろん、取材で家を留守にしがちな”お父さん”さえ、ときには恐がってしまう始末なので、今度もっと「楽しい犬生」を送るために、”お父さん”も一緒に旅行に行って外の世界に慣れよう!というために。

 しかし、もちろん検疫など出入国の手続きもめちゃめちゃ面倒だし、いくらおおらかな国タイといっても、犬が泊まれる宿はすごく限られている。犬連れの移動も、国際線の飛行機は乗れても、タイの国内線は不可。高速バスも不可なので、おそろしく時間のかかる国鉄に乗らないといけない(しかも、駅に停まった合間にトイレもさせないといけない)。

 でも、それでも、犬と一緒に旅行、うらやましい!!と思った。愛犬をスリング(だっこ紐)に入れて、バンコクの屋台でごはんを食べ、チャーン島では一緒にシーカヤックをして、チェンマイではサンデーマーケットに行き、スコータイでは散歩がてらに遺跡を探訪し……。私もタイは大好きで、バンコク、アユタヤ、チェンマイなど回ったけれど、愛するペットと一緒なら何倍楽しかったことだろう。けど、猫はやはり一緒に旅行には行けないしな。。。

 また、持っていったグッズもいろいろ紹介されていて、トイレシーツ、犬用シャンプー、フィラリア予防薬などは当然として、おからパウダーとイチモウダジンが気になった。おからパウダーは便秘予防になるらしい。うちの猫にも食べさせてみようかな。あと、イチモウダジンというのは、カーペットなどにくっついた抜け毛をきれいに掃除できるらしい。アマゾンでも安いし、よさそう。毎日猫の毛だらけのベッドで寝て、猫の毛だらけの服で会社に行っている私ですが。 

  それにしても、犬を連れての長期外国旅行って、だれにでもできるものなのだろうか? 
 いや、できないかもしれない。というのも、作者片野さんが犬を専門とするノンフィクションライターであるのにくわえ、なんといっても、”お父さん”である夫は、辺境ライターでおなじみ、高野秀行さんなのだから。

 ミャンマーの麻薬地帯やアマゾン、中東からアフリカのソマリまで行きつくしている(唯一インドは入国禁止なので、残念ながら行きつくせないようだが)高野さんだけあって、タイは以前住んでいたため(チェンマイ大学で日本語講師をされていたのだ)タイ語も話せるし、犬を連れて旅行するくらい余裕のはず。だからか、犬を抱いてゴーゴーバーのお姉ちゃんと映った写真も、かなりの笑顔っぷりだった。

 と思って読んでいたら、なんと旅行中、その”お父さん”がダウンしたのだった。そう、おなじみの(高野ファンにとっては)腰痛で。高野さんの腰痛については、以前ここでも名著『腰痛探検家』を紹介したけれど(いや、単に腰痛を克服しただけではなく、腰痛から人間の心理の機微、そして人生の真理まで洞察した名著なのです)、ほんとまめに走ったり泳いだりしないとすぐに悪化するようだ。 

腰痛探検家 (集英社文庫)

腰痛探検家 (集英社文庫)

 

  でもほんと、”群れ”(家族三人)で旅する様子を読んでいると、理想の夫婦だなーとつくづく感じる。ふだんは、「理想の夫婦」なんて言葉を聞くと、そんなんあるわけない、絶対嘘やろって思ってしまうのだが。

 犬との幸せな日々が長く続くように、、、と思っていたら、いまさっき、講談社のPR誌『本』の町田康の「スピンク日記」を読むと、なんとスピンクが亡くなったとのこと。別れが来るからこそ、一緒にいる日々が尊い、というのはよくよくわかっているのですが、でもやっぱり別れのつらさに慣れることはできそうにない。。。 

スピンク日記 (講談社文庫)

スピンク日記 (講談社文庫)

 

 

旅する犬の物語① 『ティモレオン センチメンタル・ジャーニー』(ダン・ローズ著 金原瑞人訳)

ティモレオン・ヴィエッタは犬のなかで最高の種、雑種犬だ。

さらに、ティモレオン・ヴィエッタには際立った特徴があった。普通の犬には見られない特徴、たまたま親切な家庭に迷いこんできただけの野良犬とは一線を画する特徴が。ティモレオン・ヴィエッタは雑種犬だったが、少女の瞳のように愛らしい目をしていた。

ああもう、つらかった。とにかくそれが『ティモレオン』を読んでの感想だ。 

ティモレオン―センチメンタル・ジャーニー (中公文庫)

ティモレオン―センチメンタル・ジャーニー (中公文庫)

 

  私は猫を飼っているので一応猫派ですが、犬との暮らしも憧れる、一緒に散歩したいし、旅行もしてみたい……なんて気持ちで、この本を読んだら、とんでもなくダークな気持ちになった。

 雑種犬ティモレオンは、孤独な初老の男コウクロフトの飼い犬として、愛された人生、もとい犬生を送っていた。飼い主コウクロフトは、かつて成功した作曲家としてイギリスで暮らしていたが、とある事情でイギリスにいられなくなり、イタリアで暮らすようになった。
 同性愛者のコウクロフトはひとり暮らしで、恋人ができても長続きすることはなく、「長いこと、ティモレオン・ヴィエッタとしか話をしていなかった」。

五年間、ティモレオン・ヴィエッタは、コウクロフトに心から忠誠を尽くしてきた。人間の男は、やって来ては去る。若い者も老いた者も。やさしい者も腹黒い者も。

 そこへボスニア人の男がコウクロフトのもとに転がりこんできて、平和なティモレオンの犬生は一変する……

 どう一変するかというと、ボスニア人の男はティモレオンを憎み、そしてだれもが知っているように、犬は自分のことを嫌う人間には決して懐かない。よって、ボスニア人の男とティモレオンの仲はどんどん険悪になり、ついにティモレオンは遠くに捨てられてしまう。ここまでが第一部。


 そして第二部は、捨てられて必死で家に戻ろうとするティモレオンが遭遇する群像劇が描かれている。群像劇といっても、心温まるエピソードはない。ティモレオンのまわりで繰り広げられるのは、愛の断絶、裏切り、孤独、喪失……。そう、第一部と同じなのだ。

 あれだけティモレオンをかわいがっていたコウクロフトが、ボスニア人の男の言いなりになってティモレオンを捨ててしまうのは、あまりにも孤独ゆえにその男に捨てられるのが怖かったから。捨てられたティモレオンは、行く先々でまたもどうしようもなく孤独な人間たちとすれ違いながら、必死で家へと向かう。

ティモレン・ヴィエッタは、もうすこしで家に着くところだった。しっぽをぴんと立て、主人の家へ向かう曲がり角に通じる道を、ひりひりする足をすばやく動かして進んでいた。体は痛かったが、もうすぐ家に帰れる。主人の足もとにすわってなでてもらい、食べ物をもらうのだ。

 世の中は不条理だ。ティモレオンが目撃したように、ひとはあっさりと死に、親子の絆もすぐに失われ、あれだけ愛していた相手を捨て、あれだけ愛していたのに捨てられた相手の記憶も薄れる。そして、さんざん人間の孤独を見せつけられてきたティモレオンの宿命も例外ではなかった。


 第二部の群像劇では、お人形のように美しい娘、赤ちゃんのときに医者から「娘さんの知能は赤ん坊並みの知能以上に発達することはないでしょう」と宣告されたローザの物語がとくに印象深かった。ローザ、そして両親を待ち受けていた運命は、やはり不条理なものだったけれども、ローザのまわりには愛も善意も希望もたしかに存在した。

一度だけでいい、とふたりは言った。ローザの笑顔を見ることができたら、残りの人生をずっと幸せに生きられるのに。 

  訳者あとがきで、「読者の思いや期待にはこれっぽっちの配慮もなく」「まさにグロテスクで残酷で不快なのだが、同時にコミカルで切なく美しい作品」と書かれているのが、まさにそのとおりと感じた。正直、つらい要素があまりに多く、コミカルとまで言えるか疑問だが、スラップスティックであることはまちがいない。


 愛犬家の江國香織が解説を書いているけれど、『デューク』はいいお話だったなあ、、、としみじみ思い出した。

つめたいよるに (新潮文庫)

つめたいよるに (新潮文庫)

 

 わたしのデュークが死んでしまった。キスの上手いデュークが。泣きやむことのできないわたしの前に、男の子があらわれた……読み返すたびに泣いてしまう。

 ちなみに、うちのマークもキスが上手です。えっ? 犬や猫にキスなんかしたら不潔だって? そんなの知らなーい!!

 

空飛ぶ少女のゆくえ――『メアリと魔女の花』(メアリ―・スチュアート著 越前敏弥訳)

 ナウシカラピュタ、トトロで自分の中のジブリ映画が止まってしまっているし(紅の豚魔女の宅急便も見たはずだけど、あまり覚えていない)、『君の名は』など最近のアニメも見ていないため、、ジブリやアニメについて語る資格はないのですが、この『メアリと魔女の花』、原作を読んで映画を見に行ったところ、思っていたより楽しめました。

まったく、いやになるくらい、ありふれた名前だ。メアリ・スミスだなんて。ほんとにがっかり、とメアリは思った。なんの取り柄もなくて、十歳で、ひとりぼっちで、どんより曇った秋の日に寝室の窓から外をながめたりして、そのうえ名前がメアリ・スミスだなんて。 

  原作と映画は結構異なる点が多いが、どちらも「なんの取り柄もない」メアリ・スミスがシャーロット大おばさまの家で退屈しているところからはじまる。(ちなみに講演で聞いたところ、「メアリ・スミス」というのは、日本でいうと「山田花子」くらいありふれた名前とのこと)

 その平凡なメアリが、黒猫ティヴに導かれ、夜間飛行という不思議な”魔女の花”と出会い、魔法の力によってほうきで空を飛び、着いたところは「魔法学校」だった――というのは原作も映画も一緒である。


 映画では、やはりメアリの飛行シーンの躍動感や爽快さが強く印象に残り、たしかにこれまでのジブリのアニメの名場面をどうしても思い出してしまう。

で、ここからの感想はネタバレを含みますが――


 さっき「ナウシカラピュタ、トトロ」と書いたが、よく考えたら、少し前の『かぐや姫の物語』は映画館で見た。どうしてわざわざ映画館に行ったのかというと、こちらの雨宮まみさんの感想を読んで興味をもったからだ。

mamiamamiya.hatenablog.com

かぐや姫の物語』では、求婚者たちに辟易し、都での生活に絶望したかぐや姫が幼なじみの捨丸と再会して空を飛びまわるシーンだけが、姫が楽しそうに生き生きとした場面だった。しかし、結局捨丸とも一緒になれず(実は捨丸には妻子がいたのだった。またも最近話題のゲス不倫ですな)、求婚者たちも断って、月へ帰ってしまう――雨宮まみさんは「姫が月へと帰るのは、自殺だと私は解釈している」と書いている――哀しいお話だったけれど、このメアリも、最後は魔法を捨て、空を飛ぶ力を失ってしまう。

 ということは、『かぐや姫の物語』と同様に哀しいお話なのかというと、まったくそうではない。魔法を解いてピーターや動物たちを救ったメアリは、以前までの平凡なメアリではない。「成長物語」という言葉がまさにふさわしい。

メアリはシダの歯をぼんやり指で引っぱりながら、少しためらった。それから、まっすぐピーターを見つめた。(引っ込み思案でめったに人と打ちとけない、二日前の自分だったら、ぜったいにこんなことは言えなかっただろうと思うと、なんだか変な感じだ) 

  絶世の美女だったかぐや姫とちがい、メアリは原作の冒頭では何度も"plain"(不器量な)という単語で表され、映画ではさすがにブサイクにするわけにもいかないからか、”赤毛”がコンプレックスという設定になっていて、そんな冴えないメアリがすべての魔法を解くというのは、メタファーとしても興味深かった。

 魔法というとなんだか素敵に感じられるが、魔法学校のマダムやドクターの執着ぶりから考えると、魔法というより「呪い」のようにも感じられた。またSFのように妙にハイテクな魔法学校の描写からは、原発などの「人間の手に負えない」最新テクノロジーのメタファーとも解釈できた。

 思い出せば、「アナ雪」でも、エルサの魔力は封印されて、最終的には人畜無害なものにコントロールされていた。いいことなのかどうかはわからないけれど、いまは「魔法」が歓迎される世の中ではないようだ。


 あと、原作と大きく異なっていた点のひとつは、メアリの家族とシャーロット大おばさまだ。原作では、メアリにはふつうに父と母、双子の兄と姉がいて、たまたま大おばさまのところに預けられているという設定だが、映画ではメアリの家族については触れられず、孤児のような雰囲気を漂わせている。

赤毛のアン』や『あしながおじさん』など、孤児というのは児童文学やアニメの定番であり、主人公の少女の淋しさやよるべなさが際立つ。映画では、魔法学校での冒険のすえに、シャーロット大おばさまの過去と邂逅するというストーリーなのだが、ここでは孤児アンナが主人公の『思い出のマーニー』が頭に浮かんだ。 

新訳 思い出のマーニー (角川文庫)

新訳 思い出のマーニー (角川文庫)

 

  そう考えると、これまでの児童文学やアニメが築きあげたものをきちんと継承している映画なのだなとあらためて感じる。

 原作は映画にくらべるとシンプルなストーリーですが、イギリスの田園風景の美しさやティヴの愛らしさが目に浮かぶように描かれているので、映画を観た人は読んでみてもいいのではないでしょうか。

ふとんの上を歩きまわって、ゴロゴロ喉を鳴らしているティヴはとても満足そうで、とても眠そうな――たぶん、ほんとうに眠いんだろう――ごくふつうのネコだった。もう二度と魔女の使い魔になろうとはしないにちがいない。

 

ハードボイルドな金髪の悪魔――『マルタの鷹』(ダシール・ハメット著 小鷹信光訳)

 サミュエル・スペードの角張った長い顎の先端は尖ったV字をつくっている。……
 見てくれのいい金髪の悪魔といったところだ。

 さて、今更ながらですが、ハードボイルドの金字塔『マルタの鷹』を読んでみました。 

マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

まず最初に「ほんとうに『マルタの鷹』を探す話やったんや!」と思った。
何かの象徴ではなかったのだ。となると、以前に読んだブコウスキーの『パルプ』で「赤い雀」を探すというのは、完璧にパロディーだったんですね。(ただ、この鷹は高価な彫刻だけど、『パルプ』の「赤い雀」は生きている鳥でしたが) 

パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)

 

  ストーリーは(ご存じの方も多いでしょうが)、私立探偵サム・スペードのもとにワンダリーと名乗る美女があらわれ、妹がフロイド・サーズビーという怪しげな男と駆けおちしたので、サーズビーを監視して、できたら妹と別れさせる手助けをしてほしいと依頼する。サム・スペードは相棒のマイルズ・アーチャーにサーズビーを尾行させる。ところが、アーチャーが死体となって発見される。尾行に気づいたサーズビーに撃たれたのかと思いきや、サーズビーも死体となって発見される。そして、以前からアーチャーの妻アイヴァと不倫していたサム・スペードがアーチャーを殺したのではないかと疑われる……


 と、↑の最後のくだりでおわかりのように、サム・スペード、女遊びや不倫が異常に激しくバッシングされる昨今の日本にいたならば、炎上必至の男である。渡辺謙など最近のゲス不倫ピープルの比ではない。(いっそのこと、謙さんが演じてみてはどうか。年齢がちがうか)

 この『マルタの鷹』に代表される、ダシール・ハメットの描写の特徴として、主人公の内面に入らず、客観描写に徹するということがよく言われているが、たしかにサム・スペードの内面は測りがたい。エエモンなんかワルモンなのか、読んでいても最後までわからない。チャンドラーのマーロウなら、エエモンであることがすぐわかるのに。チャンドラーはハメットに影響を受けて書きはじめたものの、ハメットの三人称による客観描写を採用せず、結局一人称で書いたとのことだが、それがサム・スペードとマーロウとのちがいに繋がるのだろうか。

で、ここから完全にネタバレになりますが――

 

 この作品の読みどころは、なんといってもサム・スペードと、ワンダリー改めブリジッド・オショーネシーの丁々発止の騙しあいである。「おずおずとした笑み」を浮かべ、「訴えかける」ような目で嘘ばかりつくブリジッド。どんな男も手玉に取れると思っている女。

 それにしても、女が殺人の真犯人、あるいは黒幕であるというのは、ハードボイルドのお約束なんだろうか。チャンドラーの『ロング・グッドバイ』『大いなる眠り』しかり、最近の作品でも山のようにある。フェミニズム学者なら、ミソジニーの標本といって分析するところだ。(そんな分析や批評はすでにたくさんあるのでしょうが)

「わたしを嘘つきだといったわね。こんどは、あなたが嘘をついてるわ。心の奥底では、わたしがどんなことをやったにせよ、あなたを心底愛していることを知ってるはずよ」……
「愛しているかもしれない。だからどうだっていうんだ」


 そして先にも書いたように、ゲス不倫もビックリのスペード、関わる女はブリジッドだけではない。夫を裏切り、サムを愛している(つもり)にもかかわらず、そのあまりの凡庸さにファム・ファタールになり得ない(ミス・ブランニュー・デイみたいですね。いや、私はサザン世代ではないですが)アイヴァ。心優しくひたすら献身的な秘書エフィ。


 ところで、この『マルタの鷹』で検索したところ、非常に詳細に分析されているサイトを見つけた。

第2回 『マルタの鷹』改訳決定版

書評家の杉江松恋さん主催の過去の読書会のレポートのようだ。しかし、参加者みんなこんなレジュメを提出しないといけない読書会とは、なんてハードルが高いんだ……。

 時系列の整理や、唐突に語られるフリッツクラフトの挿話(ホーソーンの『ウェイクフィールド』を少し思い出した)の意義についての考察など、たいへん読みごたえがあるが、なかでも翻訳家田口俊樹さんによる最後の問いかけ、
「サム・スペードとエフィの関係って何?」
というのがおもしろい。

 ちなみに、田口さんは「絶対ヤってると思う」とのこと。が、読書会で討議した結果、「ヤってない派」(下品ですみません)が多数を占め、翻訳した小鷹さんも「ヤってない派」とのこと。「『angel』という呼びかけを見ても、スペードはエフィを女性として見ていないように思います」と。

 で、私も「ヤってない派」ですね。小鷹さんが言うように、深い関係なら、女はangelでいられないのではないかと思うので。いや、深い関係になると、アイヴァ(凡庸な女)か、ブリジッド(ファム・ファタール/悪女)のどちらかになるのか思うと、それはそれでなんだかおそろしいですが…


 しかし、ハードボイルドは奥が深い。いや、もともとの自分のなかに存在しない要素なので、いちいち唸らされることが多い。共感できない読書、というのもおもしろいものだと感じる今日この頃です。

存在するルールは自分がつくるルールだけだ――『アメリカン・ブラッド』(ベン・サンダース著 黒原敏行訳)

マーシャルの件を頼める相手はほかにもいますが、確実にやってもらいたいですから。マーシャルには生きていてもらいたくない。これは大事な問題です。

 なんだか前回の続きのようですが、また黒原さんの訳書『アメリカン・ブラッド』を読みました。 

アメリカン・ブラッド (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

アメリカン・ブラッド (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 

 元ニューヨーク市警のマーシャルは、証人保護プログラムのもとで身を隠し、サンタフェでひっそりと暮らしていたが、たまたま目にした行方不明のアリス・レイという女の写真から過去を思い出し、アリスを救出しようと麻薬組織に接触しはじめる。麻薬組織を追いつめるマーシャルだが、一方では、過去の因縁からマーシャルを執拗に追い続ける者がいた――

 といっても、具体的にどんな話なのかあまり見えてこないかもしれないが、実際に読みはじめても、なかなか見えてこない。
 主人公はマーシャルであるが、短い章ごとに視点が変わり、またマーシャルの過去も挿入されるので、いったい何がどうなっているのかなかなかわからない。いや、勘のいいひとなら途中で全体像をつかめるのかもしれないが、正直なところ、私は一番最後まで読んで、そういうことか!と思ってまた読み直したりして、ようやく把握した。ただ、先にも書いたように、章が短いので読みやすく、出てくる登場人物がそれぞれキャラが立っているので、場面場面ごとでもおもしろく、最後まで退屈せず読み通すことができた。


 登場人物のキャラが立っているといっても、あらためて読み直すと、マーシャルはそんなに色がついておらず(視点人物ゆえに仕方のないことかもしれないが)、この類の小説の主人公としてよくある感じで、やはり読者の多くは、血も涙もない(ように思える)殺し屋<ダラスの男>に興味がひかれるのではないだろうか。

人生というのは無意味なものだ。人はみなより高い意味をつかもうとするが、そんなものはないんだ。生きて、そして、死ぬ。なにをしようと、きみという人間はどうでもいい存在だ。

 絶対的な道徳律などない。普遍的な善悪の基準などない。存在するルールは自分がつくるルールだけだ。

 訳者あとがきでは、コーマック・マッカーシーの『血と暴力の国』(映画では『ノー・カントリー』)を意識しているのではないかと書かれているが(もちろん、自分が訳したという理由からではなく)、このあたりの価値観から、たしかにそんなふうに読み取れる。 

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

 

 あと、恐れを知らない女刑事ローレン・ショアもかっこよく描かれているが、狂言回しのような役にとどまり、期待したほどの活躍がなかったのが残念だった。ただ、この本は三部作の第一作らしいので、今後もっと活躍していくのだろうか。


 ほんと、この殺し屋<ダラスの男>くらい、容赦なくどんどん殺していくのも、それはそれで小気味よい。あくまで小説では。少し前にエルモア・レナードの『野獣の街』を読んだのだけど、これに出てきたレイモンド・クルースも、ひとを殺すことに良心の呵責などかけらも持ちあわせていない痛快な悪党だった。 

野獣の街 (創元推理文庫 (241‐1))
 

 ただ、『野獣の街』にあった爽快感は、『アメリカン・ブラッド』など昨今の小説では薄れ、かわりに殺伐とした荒涼さが強まっているように感じられるのは、やはり時代の趨勢だろうか。あるいは、作者ベン・サンダースは、1989年生まれの(ということは、平成生まれか)ニュージーランド出身の若い作家であるが、アメリカの外で生まれ育った作家が、いま「アメリカ」の小説を描こうとしたら、こういう荒涼としたものになるのかもしれない。

 また、殺し屋<ダラスの男>には、そうなるに至った家族の事情があり、殺し屋<ダラスの男>だけではなく、憎めない小悪党ロハスなど(母親との会話はほほえましかった)、この小説の登場人物の多くは家族と否が応にも結び付いている。麻薬密売業も家族経営だったりする。これもいまのアメリカのリアルなのかもしれない。 

やっぱり新訳! 『BOOKMARK』の最新号(08号) 『すばらしい新世界』『まるで天使のような』など

 さて、前回書いたように、今号の『MONKEY』が翻訳特集でしたが、フリーペーパー『BOOKMARK』の最新号も「やっぱり新訳!」と、翻訳のなかでも新訳に絞った特集でした。

 「翻訳は新しい方がいい」というのは、すべての新訳に言えるのかどうかはわからないですが(金原さんも「古びて味の出る翻訳」について「話すとまた長くなるので、いずれ、そのうち」と書かれているので、こちらの続きも気になる)、一般的には、死語となった言葉が使われていたり、黒人英語が謎の訛りで訳されているものよりは、新しい訳がいいのは事実でしょう。

 今回取りあげられているもので、読んだことがあるのは、『災厄の町』に『月と六ペンス』、そして『すばらしい新世界』は、ここでは大森望さんの新訳が取り上げられているけれど、黒原敏行さんの新訳を以前読んだ。 

災厄の町〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

災厄の町〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

  『災厄の町』の紹介文で、「『十日間の不思議』の新訳刊行をなんとしても実現したい」と書かれていて、『十日間の不思議』は古いもので読んでもおもしろかったので、ぜひとも新訳刊行してほしい!と思った。しかしそのためには、この『災厄の町』と『九尾の猫』が「大いに売れなくてはいけない」らしい。菅田くんがエラリーを演じるとかの大型企画が持ちあがらないものだろうか。 

 

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

 

 『すばらしい新世界』は黒原さんの訳書もおもしろかったので、大森望さんの方もぜひ読んでみたい……で、いま検索したところ、光文社古典新訳のページに黒原さんのインタビューが載っていた。

www.kotensinyaku.jp


 それによると、以前黒原さんが訳した、ジョナサン・フランゼンの『コレクションズ』は『すばらしい新世界』の「本歌取り」をした作品だとのこと。なんと。どちらも読んでいるのに気づかなった。いや、どちらもディストピア小説だとはわかっていたけれど。インタビューにあるように、たしかに『コレクションズ』のアスランと、『すばらしい新世界』のソーマは共通するものがある。『コレクションズ』に野蛮人って出てきたっけ…?? まあ、『コレクションズ』の方を先に読んだと思うので、気づかなかったのは仕方ないということにしよう。 

コレクションズ (上) (ハヤカワepi文庫)

コレクションズ (上) (ハヤカワepi文庫)

 

 黒原さんの新訳というと、マーガレット・ミラー『まるで天使のような』も以前読んだけれど、新興宗教のコミュニティが舞台となっていて、これまたディストピアというかユートピアというか、いや、『すばらしい新世界』で明確に描かれていたように、ディストピアユートピアはまさに表裏一体なのでしょう。
 とはいえ、マーガレット・ミラーは修道女、修道士を狂信的な恐ろしい人物と見なしているわけではない。信仰心があろうがなかろうが、人間はだれでも、何かのきっかけで歯車が狂って精神の異界に入る可能性があるというのを、ミラーはくり返し描いているように思う。 

まるで天使のような (創元推理文庫)
 

  この『まるで天使のような』に出てくる修道女、修道士たちには、源氏名、ちがうか、戒名、これもちがうな、なんというのか、コードネームというか出家名(千眼美子というような)があるのですが、旧訳では「祝福尼」となっているのが、新訳では「救済の祝福の修道女」となっているなどの比較ができるのが、旧訳と新訳がある本の楽しさですね。


 そのほか、この『BOOKMARK』では、カズレーザーが以前推薦していたので読まないと、と思いながらまだ読んでいない『幼年期の終わり』とか、いったい新訳いくつあるの?と思う『フランケンシュタイン』や、『ジャングル・ブック』対決などもあって楽しい。


 そして町田康のエッセイに共鳴を受けた。日本の古典を現代訳した経験から、翻訳は「気合と気合と気合」と。その通り! 何事においても無意味な気合がなにより大事。タアアアアッ。

 

本当の翻訳の話をしよう(村上春樹・柴田元幸)――『MONKEY vol. 12 翻訳は嫌い?』

"You in love with him?"
"I thought I was in love with you."
"It was a cry in the night," I said. 

村上訳
「彼に恋しているのか?」
「私はあなたに恋していたつもりだったんだけど」
「そいつは夜の求めの声だったのさ」と私は言った。

柴田訳
「あいつに恋してるのか?」
「あなたに恋してると思ったのに」
「あれは夜の叫びだったのさ」と俺は言った。

今号の「MONKEY」の翻訳特集は、上の引用であげたように、これまで村上春樹が訳してきたチャンドラー、フィッツジェラルドカポーティ柴田元幸さんも訳して比較するという企画で、いつもにもまして読みごたえがあった。 

MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?

MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?

 

  上の部分は、短くて英語も簡単ですが、それでもちがう。ここだけではなく全体的に言えることだけど、村上訳は原文のニュアンスも訳そうとする傾向があり(この箇所でいうと、「(恋していた)つもり」という言葉を入れたり)、柴田訳は端的でシャープな訳文になっている。

 これはチャンドラーの『プレイバック』からの引用で、『プレイバック』というと、そう、あの例の名文句が出てくるのだけど、その名文句をおふたりがどう訳しているかというのは、この本の最大の売りだと思うので、ここでは書きません。しかし、その前文もかなり個性が際立っている。

"How can such a hard man be so gentle?" she asked wonderingly.

村上訳:
「これほど厳しい心を持った人が、どうしてこれほど優しくなれるのかしら?」、彼女は感心したように尋ねた。

柴田訳:
「そんなに無情な男が、どうしてこんなに優しくなれるわけ?」納得できない、という顔で彼女は訊いた。

  ここでは、あとの名文句にもつながる "hard"という言葉について、ふたりがいろいろと検討しているが、よく見たら、"wonderingly"の訳し方もかなりちがう。wonderinglyというもとの言葉のトーンは、どちらからもよく伝わってくるけれど。こういうどのようにも訳せる言葉ってむずかしい。

 フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』の有名な冒頭部も、それぞれの訳が掲載されている。

He didn't say any more but we've always been unusually communicative in a reserved way and I understood that he meant a great deal more than that.

村上訳:
父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるとことがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味がこめられているのだという察しはついた。

柴田訳:
父はそれ以上何も言わなかったが、僕たちはいつも一見よそよそしいようでも並外れて深く思いを伝えあってきたので、もっといろんなことを父が言おうとしているのが僕にはわかった。

 『プレイバック』のところで書いた、それぞれの特質がはっきりとあらわれている。ここだけではないけれど、柴田訳の言葉数の少なさはすごい。ふつう、英語の文章を日本語に訳すと1.5倍くらい長くなると言われているのに、柴田訳の多くは、訳文の長さが英文と大差がないところがまさに匠の技といった感じだ。

 ところで、柴田さんの解説によると、フィッツジェラルドコンラッドの影響を受けているらしい。『グレート・ギャツビー』も『闇の奥』も読んだはずなのだが、まったく気づかなかった。村上春樹も柴田さんの訳したコンラッド『ロード・ジム』を賞賛しているので、こちらも読んでみないと。 

 あと、村上春樹村上博基さんの訳したル・カレが好きで、『スクールボーイ閣下』を何度も読んでいるらしい。ル・カレは『誰よりも狙われた男』を読んで、スパイの世界って複雑やな~とそれっきりにしていたが、やはり『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』から読まないといかんな。いまの体たらくでは、閣下というとデーモンしか…(ベタですいません) 

スクールボーイ閣下〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

スクールボーイ閣下〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

 

 それと、ダーグ・ソールスターが『Novel 11, Book 18』の続編を書いたというのが気になった。前にも書いたけど、かなりヘンだけどおもしろい小説だったので、続編もぜひとも読みたい。 

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

NOVEL 11, BOOK 18 - ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン

 

 ちなみに、ちょうどこの『MONKEY』で、ここで以前『話の終わり』を紹介したリディア・デイヴィスが、そのソールスターの家族サーガ(サーガというのは大河小説みたいなもんです、たぶん)を読みながら、独学でノルウェー語を勉強するエッセイが掲載されているのだけど、これがまた凄まじかった。

 独学といっても、単にひとりで勉強しているという意味ではない。辞書や参考書や文法書を使わずに、自分で言葉の意味を類推し、自前の文法体系を作りあげているのだ。私なんてこれまで何年も英語を勉強し、辞書や文法書が使い放題であっても、村上・柴田両氏みたいに英語の小説を読んだり訳したりすることができるようになるのか、はなはだ疑問なのに。世界には猛者が山ほどいるようです。