快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

大人になるってむずかしい① 映画『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』(大根仁監督)

 前にもここで書いた『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』の映画を見に行きました。

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 まあ、話は原作とほとんど同じなのだけど……というか、原作と同じというより、そのまんま題名通りの話。

なので、ネタバレ?になるのかもしれないけれど、要は


妻夫木くん演じる主人公、若手編集者コーロキは、奥田民生みたいに泰然としながらも(本人がほんとうに泰然としているのかは知らんけど)仕事はびしっと決める大人になりたい!! と思いつつ、水原希子ちゃん演じる魅力的な女子に翻弄されまくりで、結局奥田民生みたいな大人にはなれませんでした、という話。


 いろいろあって最後には、若いときに憧れた、地に足のついた「自然体」の大人にはなれず、どこから金をもらっているのかわからない(東京オリンピックのアドバイザーとかもやってるって言ってたっけ)うさんくさいライターとなって、業界で名も知られるようになり、それなりの成功をおさめたコーロキ。けれど、ふと奥田民生の曲を聞くと、がむしゃらに足掻いていた若いときの自分の姿を思い出す……


 いま思い出すと、どたばた恋愛劇より、このラストシーンが胸にしみる。


 もちろん、映画の大部分を占める、どたばた恋愛劇にじゅうぶんな見ごたえがあったので、このラストが引きたっているのだとは思いますが。なんといってもキャストが全員いい演技をしていた。


 妻夫木くん、そもそも民生に憧れんでええやん、とはだれしもが感じたことでしょうが、映画を観ると、ちょっと情けない「なりたいボーイ」を、違和感なく演じてみせたところがさすがだった。『モテキ』の森山未来は、自意識過剰の男子をめちゃめちゃ上手に演じていたけれど、ここでの妻夫木くんも、女子に翻弄されて無様に泣いちゃう役をこれほど自然に演じてみせるのは、実は同じくらい技量が必要なのではないでしょうか。『(500)日のサマー』のジョセフ・ゴードン=レヴィットを思い出した。 

 新井浩文は、自分でもしょっちゅうツイッターで犯罪者や殺人者の役ばかりとつぶやいているけれど(たまにCMで普通のサラリーマンを演じたら大炎上したり……)、こんなコミカルな役もこなすとは演技の幅が広い。例の電話のシーンは映画館全体で笑いがおきました。


 松尾スズキリリー・フランキーは予想通りの安定した演技なんだけど、リリーさんのはじけっぷりがとくに笑えた。リリーさんが演じたライターは、原作ではもっと若い設定なのだけど、おそらくリリーさんが大根作品のレギュラーゆえに割りふられたのでしょう。ところが、それが期せずして、成長のないまま歳をとったサブカルライターの痛々しい末路、みたいな効果を生んでいた。

 江口のりこ安藤サクラもよかった。どちらがどっちかよくわからないって人も、これを見たら区別がつくようになるはず(?) 妻夫木くんと安藤サクラが猫を探すくだりが、この映画で一番好きなシーンだった。


 水原希子は……原作からは、もっと男ウケしそうな可愛らしい女優をイメージしていたのでイメージちがうなとは思っていた。。吉高由里子(これは私の好みですが)とか、なんなら若いときの優香とか。実際映画を観ても、水原希子がぶりっ子(死語ですな)演技するのは少々微妙だった。まあでも、優香とかがあの演技をしたなら、めっちゃイライラしたかもしれんと思うと、彼女で正解だったのかな。(そういえば、妻夫木くんと優香ってつきあってたような。となると共演NGか)

 大根監督のインタビューによると、キャメロン・ディアスをイメージしていたそうだけど、たしかに、『メリーに首ったけ』の頃のキャメロンは、だれもが認める世界一の狂わせガールだった。私もどれだけ憧れたか。前髪を立てるシーンとか、自分ならとんでもないけれど、それすらも素敵!と思ったものでした。 

メリーに首ったけ [DVD]

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  で、最終的に、狂わせガールというのは、男の幻想にあわせるガール、男の望むものを見せてあげられるガールという種明かしもされる。

 そこで、ちょうどたまたま、フェミニズム運動の歴史について調べていたので、検索で出てきた

1127夜『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ|松岡正剛の千夜千冊

を読んでいたら、「フェミニストの古典中の古典」であるイギリスのウルストンクラフトが、自著の『女性の権利の擁護』でルソーの『エミール』を批判した部分が紹介されていた。

ルソーが男子のエミールには教育を施しながら、将来の妻になるソフィには男の歓心を買うだけの躾をしたにすぎなかったことを突いて、女性にはもっと多くの権利があるのではないかと切りこんだ。

なんとなくこの映画と結びついた。「男の歓心を買うだけの躾をした」女にしっぺ返しのように翻弄されて男は散々な目にあう。

 でも結局はそれも男子としての成長譚、なんなら武勇伝のひとつに消化されるのかな~と。そう考えると、やはりなんだかビターな結末ですね。
 いや、『モテキ』の麻生久美子を思い出すと、ろくでもない異性にひっかかって成長するというのは、男女共通のモチーフなのかもしれないけれど……

 

またまた犬と猫 『レイン 雨を抱きしめて』(アン・マーティン 西本かおる訳)『キラーキャットのホラーな一週間』(アン・ファイン 灰島かり訳)

夜、寝るときには、レインはわたしの毛布にもぐりこんでくる。夜中に目がさめると、レインがわたしにのしかかっていて、レインの顔がわたしの首の上にある。
レインの息はドッグフードみたいなにおいがする。

 犬猫シリーズにまた新たな一冊が加わった。 

レイン: 雨を抱きしめて (Sunnyside Books)

レイン: 雨を抱きしめて (Sunnyside Books)

 

 この『レイン 雨を抱きしめて』は、11歳の主人公「わたし」のもとに、レインという犬がやってくることからはじまる。

 いや、はじまると言っても、物語はそんなにスムーズにはじまらない。「わたし」ことローズは高機能自閉症児であり、特定のものに異常に興味が集中してしまうのだ。
 とくに同音異義語素数に尋常じゃないこだわりを持ち、ルールを守らない人を見るとパニックをおこしてしまう。
 小学校の先生からは「特殊な学校」に行くことを薦められ、スクールバスでもヘッドライトやウィンカーをちゃんと灯さない車を見ると叫び声をあげるので、もう乗せてもらえなくなった。

 なので、「わたし」はパパの弟であるウェルドンおじさんに送り迎えをしてもらっている。パパは工場で働いているから、時間の都合がつけられないのだ。ママは「わたし」が幼いときにどこかに行ってしまった。

 そして、ある雨の夜、パパが犬を連れて帰ってきた。「パパが雨の中で見つけたし、レインって2つも同音異義語がある特別な言葉だから」レインと名付ける。

そう、以前にここでも紹介した『夜中に犬に起こった奇妙な事件』とかなり共通する要素がある。 

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハヤカワepi文庫)

夜中に犬に起こった奇妙な事件 (ハヤカワepi文庫)

 

 ”夜中犬”もアスペルガーの15歳の「ぼく」が主人公で、やはり素数に執着を持っていた。パパとふたり暮らしというところも共通している。
 そして、犬が災難に遭うというところも同じだ。といっても、安心してください(古い!)。串刺しにして殺される”夜中犬”とちがい、レインはハリケーンの日にパパが外に出したせいで、迷子になってしまうのだ。

 犬の災難の程度に比例してか、この『レイン』は、”夜中犬”ほどつらいひりひりする話ではなく、このすてきな表紙の絵からイメージできるように、あたたかさがじんわりと心に残る話だった。けれど、この『レイン』も甘い物語ではなく、最後には「わたし」は現実と向きあってつらい選択をして、少し大人に近づく。そして、最後につらい選択をするのは「わたし」だけではない。


 それにしても、”夜中犬”にしても『レイン』にしても、当事者である主人公たちが学校生活になじめず、つらい思いをしているのはわかるけれど、親たちのしんどさもよく伝わってきてほんとうに切ない。
 
 子ども以上に親が成長を強いられ、そしてときには挫折してしまう。親だって完璧じゃない。だって、この「わたし」のパパなんて33歳だ。親代わりをするウェルドンおじさんは31歳。嵐のメンバーくらいの歳だ(たぶん)。
 でも、この本のウェルドンおじさんのように、必ずしも親でなくとも、先生でも、まったくの他人でも、そして犬でも、子どもを愛して成長を助けることができるのだと思った。


 あと、最近もう一冊読んだのは、『キラーキャットのホラーな一週間』。 

キラーキャットのホラーな一週間 (児童図書館・文学の部屋)

キラーキャットのホラーな一週間 (児童図書館・文学の部屋)

  • 作者: アンファイン,スティーブコックス,Anne Fine,Steve Cox,灰島かり
  • 出版社/メーカー: 評論社
  • 発売日: 1999/12
  • メディア: 単行本
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   以前『チューリップ・タッチ』を紹介した、イギリスの人気児童文学作家アン・ファインによる絵本。
 けれど、シビアなおそろしさがあった『チューリップ・タッチ』とはちがい、これは楽しく可愛らしい絵本だった。さすが芸風が幅広い。猫のいたずらに悩まされる様子が他人事とは思えない。いや、でもこの猫がめちゃ利口なんで、右往左往させられる人間の家族がほほえましかった。

↓動物病院で暴れて手に負えない。うちの子にも心当たりが…

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純愛ノワールとクリスマス・ストーリーの融合 『その雪と血を』(ジョー・ネスポ著 鈴木恵訳)

問題はおれがすぐに女に惚れてしまい、商売を商売として見られなくなるということだ。

去年の翻訳ミステリー大賞および読者賞を受賞した『その雪と血を』。 

その雪と血を (ハヤカワ・ミステリ)

その雪と血を (ハヤカワ・ミステリ)

 

 なんといっても、ハヤカワのポケミスなのに一段組でしかもめっちゃ薄い! 
…と、気軽に読みはじめたところ、短いながらも物語がぎゅっと凝縮されていて、じゅうぶんな読みごたえだった。

 1977年12月のオスロを舞台とし、殺し屋であるオーラヴが主人公かつ語り手である。

 殺し屋なので、当然雪と血、もとい血も涙もないはず、と思いきや、このオーラヴはやたら人情家で、しかも冒頭の引用にあるように女に弱い。(こう書くと寅さんみたいですが)
 ちなみに、どう人情家なのかというと、強盗に入った郵便局にいた老人が精神に異常をきたしたと新聞で知ると、わざわざこっそり見舞いに行ったりする。

 そして、人情家と女に弱いというこの二点が合体したらどうなるかというと、元ボーイフレンドの借金を身体で返せと言われた、聾唖で片足の不自由なマリアという女を、自腹をきって助けてしまう。しかもそのあとも、問題なくやっているかを確かめるため、マリアが働くスーパーマーケットにせっせと通ったり、はてはあとをつけて、変質者のように(いや、完全に変質者か)電車で後ろにはりついたりする始末。


 そんな慈善家なのか殺し屋なのかわからないオーラヴだが、ある日ボスであるホフマンから、ホフマン自身の若く美しい妻を始末するよう命令される……


そして、ここから少しネタバレになりますが――


 「すぐに女に惚れてしま」うオーラヴが、このあとどうなるかは推して知るべしという感じで、案の定、妻のコリナに恋をして逃避行へと走るのだが、この小説はただの「許されないふたりの逃避行の物語」ではない。

 オーラヴは幼いころから『レ・ミゼラブル』を愛読しているが、難読症を自認しており、常に物語を自分で書き換えている。つまり、オーラヴの語りによるこの小説も、登場人物のほんとうの姿や、どこまでが実際にあったことなのかが、なかなかわからない。(いわゆる「信頼できない語り手」というのでしょうか)


 そして、オーラヴがコリナを愛していると思えば思うほど、心のなかの両親がクローズアップされてゆく。
 最期まで許せなかった、忌まわしい父親の存在が頭から離れなくなっていく。ボスの妻でありマゾヒスティックな性癖を持つコリナを自分の母親に重ねあわしていたのかもしれない。ところが――

だが、おふくろが自分をあんなふうにあつかった男を愛せるのだと知って、おれは愛についてひとつだけ学んだ。
いや。
そうでもない。
何ひとつ学びはしなかった。 

  そう、「何ひとつ学びはしなかった」オーラヴは、「おふくろ」のこともコリナのことも、そしてマリアのことも、勝手に物語をつくりあげていただけで、何ひとつわかっていなかったのかもしれない。

 それにしても、ひとはどうしてまちがった相手を愛していると思い、ほんとうに愛している相手を愛したくないと思ってしまうのだろう。

それでもやはり、男は彼女を愛さずにはいられない。男にとって彼女は、自分になければよかったと思うものすべてなのだ。 

 マリアがクリスマス・イヴを迎えるところで、この物語は終わる。マリアの頭の中で流れていたクリスマス・キャロルがもう聞こえなくなる。


 しかし、西洋の人々にとって、やはりクリスマスはただのイベントではなく、愛というものですべてが赦されるような、神聖な時間なんでしょうね。

 川出正樹さんが解説で「パルプノワールとクリスマス・ストーリーを掛け合わせたら、いったい何が生まれるだろう?」と書かれているように、血の流れるノワールと、ディケンズの『クリスマス・キャロル』から続くクリスマス・ストーリーの伝統「愛と赦しの物語」が、見事に融合している小説だった。

子どもにとっても、おとなにとっても、”ふつう”じゃないワンダーなブックガイド『外国の本っておもしろい!』

  自由にのびのびと文章を書きたい、そう思ったことのある人は多いのではないでしょうか?
 思ったことや感じたことを、素直に綴りたい。あるいは、そんな文章を読んで、自分の心にも素直な感動をよみがえらせたい、と。


 この『外国の本っておもしろい!』を読んだとき、まさにそういう思いがわきおこってくるのを感じました。 

外国の本っておもしろい! ~子どもの作文から生まれた翻訳書ガイドブック~

外国の本っておもしろい! ~子どもの作文から生まれた翻訳書ガイドブック~

  • 作者: 読書探偵作文コンクール事務局,越前敏弥,宮坂宏美,ないとうふみこ,武富博子,田中亜希子,井上・ヒサト,越前敏弥宮坂宏美ないとうふみこ武富博子田中亜希子
  • 出版社/メーカー: サウザンブックス社
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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  この本は、「読書探偵作文コンクール」で入賞した、小学生の子どもたちの作文を集めた本であり、「読書探偵作文コンクール」が従来の読書感想文コンクールとどうちがうのかというと、
①対象となる本は翻訳書に限る
②「感想文」である必要はなく、本から発想した二次創作でもいいし、作者への手紙やストーリーの要約のみでもよい、という点です。

 なので、『赤毛のアン』の世界から短歌をよんだり、『マジック・ツリーハウス』全巻の要約をまとめたり、『ファーブル昆虫記』を読んで、「虫のきらいなお友だちへ」手紙を書いたりと、形式にとらわれない作文がおさめられています。(ちなみに私も「虫のきらいなお友だち」だが、正直、『ファーブル昆虫記』を読んでも好きになれる気はしない……)

 「読書感想文」というと、最近もメルカリで売りに出されていることが話題になっていたように、書くのが憂鬱だったという人も少なくないと思いますが、これなら「お父さんとお母さんにもっと感謝しようと思いました」みたいな感想を無理やりひねり出す必要もないですね。


 そして、この本でなんといっても一番おどろかされたのが、子どもたちの文章のレベルの高さ。
 
 小学一年生が『あおいめのこねこ』を読んで、「ほんについてかんがえたことが、三つあります」と列挙して感想を綴っていたり、小学四年生がホーキング博士の本を読んで、太陽系を「宇宙の星新聞」にまとめたり、それぞれの惑星を動物や花にたとえたり。
 小学六年生ともなれば、『トムは真夜中の庭で』と『秘密の花園』に出てくる庭を対比して考察したり、アガサ・クリスティーについて、「アガサの描く人物には”リアリティー”がある。誰しも人の心に潜む闇、言いかえれば人間らしさを小説の中の人物に置きかえて実に巧みに表現し、共感させる」と論じたりと、度肝ぬかれました。


 もちろん、この本は「読書探偵作文コンクール」にこれから応募しようという読書好きの子どもや、子どもにどんな本を読まそうか悩んでいる親が読むのにもってこいなのですが、とくに子どもと縁のないおとな(私)にとっても、『赤毛のアン』など自分もかつて読んだ本についての作文でなつかしい気分になったり、あるいは、これから読んでみたい本が見つかったりと、読書ガイドとしてもじゅうぶんに使えるものとなっています。

 作文の題材の本だけではなく、審査員の翻訳者たちによるおすすめ本を紹介するコーナーもあり、前から気になっていた『理系の子』や、絵本『リンドバーグ』がおもしろかったので、続編も読もうと思っていた『アームストロング』(それにしても、このネズミどこまで行くねん!と思うが)などが取りあげられています。 

理系の子 高校生科学オリンピックの青春 (文春文庫 S 15-1)

理系の子 高校生科学オリンピックの青春 (文春文庫 S 15-1)

 

 

アームストロング: 宙飛ぶネズミの大冒険

アームストロング: 宙飛ぶネズミの大冒険

 

  それにしても、どうして子どもたちの作文にこれほど感心させられるのか考えたところ、やはり「本が好き!」という純粋な思いがあふれているからだと感じました。

 小学五年生が『不思議の国のアリス』を読んで、アリスの世界の奇想天外さに魅了され、「”ふつう”はいらないワンダーランド」という作文を書いているけれど、本を読むことは、子どもたちにとって、そしておとなにとっても、”ふつう”の世界から解放されるワンダーランドなのだな、と。

 学校などで、子どもはいつも、”ふつう”であること、ひとと一緒であることを要求されているのではないかと思うけれど、本を読むことで、そういう同調圧力から解放されて、世の中にはまだまだ自分の知らない世界があるということを実感してもらえたらいいな。

納豆は日本にしかないって? なわきゃない 『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』(高野秀行著)

 さて、前回の『旅はワン連れ』では、片野家(高野家)の犬連れタイ旅行が描かれていましたが、”お父さん”である高野秀行さんは、納豆のルーツを探るという取材も兼ねていたようです。 

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

 

 少し前に『間違う力』も再読したら、そこでは高野さんの特徴として、「初手から間違っている」が「間違ったまま突っ走る」と書かれており、この本も同じくというか、いや「納豆のルーツを探る」という目的は何ひとつ間違っていないのだけれど、やはり突っ走り方にものすごいものがあった。 

間違う力 オンリーワンになるための10か条 (Base Camp)

間違う力 オンリーワンになるための10か条 (Base Camp)

 

 正直、私は納豆好きだけど(最近は関西人もかなり納豆を食べると思う)、そのルーツや世界各地の納豆に思いを馳せたことなどはなく、「アジアのせんべい納豆っておいしそうやな~」くらいの気持ちで、この本を読みはじめたのだが、納豆のルーツを探して、高野さんのホームグラウンドといえるタイ北部からミャンマーの紛争地域を駆けまわり、そして日本に戻って日本納豆の発祥地と言われる東北地方を取材し、そしてブータンの難民キャンプにまで納豆を求めて入り、ついには少し前まで首狩りの風習が残っていた秘境ナガ族の村や中国の苗族自治州に足を運び、また日本に戻って、幻の「雪納豆」を試作する……と、尋常じゃない探究ぶりに、いつものように圧倒された。


 先の『間違う力』で、高野さんは自分の本を「文学とか情緒に頼らず、とにかく科学的に実証的に書いていく」と綴っていたけれど、この本はとくに実証的に書かれており、取材対象もきちんと存在するため(え、当たり前じゃないかって? いやUMA(幻の珍獣)のように存在しない(と思われる)ものを追い求める本も多いのです)、ほかの本よりおもしろおかしい要素は少ないが、最後まで読み進めると「知の刺激」というようなものを感じられた。


 「納豆は辺境地の民族が食べるもの」という指摘には深く納得した。海に近い開けた平野部では食べるものがたくさんあり、あえて納豆を常食する必要はない。タイやミャンマーでもバンコクなどの都市部ではなく、北の山岳地方の民族が作って食べている。そして日本でも「蝦夷民族由来」という説があるように、東北の山間部が発祥地とされている。

 そしてもっと大きく見ると、中国を中心とする東アジア文化圏で、納豆を好んで食べるのはタイやミャンマーの山岳部、日本に韓国とやはり「辺境地」なのだ。(中国の漢民族は基本的に納豆を食べる習慣がない) 内田樹も『日本辺境論』を書いていたように、当然ながら日本は世界の中心でもなんでもなく、世界の、そしてアジアから見ても「辺境地」である。 

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

 

 なんだか社会的、あるいは時事的なメッセージみたいですが、この本の一番大事なところは、高野さんが納豆を取材し始めた動機――納豆は日本にしかないものだと言いたがる人たちに向けて、そんなことはないと否定したかったということだと思う。日本人は外国人に対してすぐに「納豆は食べられますか?」と聞きたがる。(私も聞いたことあるかもしれない)

 (その答えが)「食べられません」だと、「やっぱりね」というように、どことなく優越感を漂わせた顔をする。まるで納豆が日本人に仲間入りするための踏み絵みたいだ。
 その度に「納豆は日本人の専売特許じゃないだろう……」と強い違和感がこみあげる。シャン族やカチン族の納豆を思い出すからだ。

 最近「日本すごい」「こんなものは日本しかない」みたいなコンテンツも多いようですが(よう知らんけど)、外国のことを知れば知るほど、日本(日本人)と外国(外国人)はそう隔たっていないこと、当然ながら日本も世界のひとつのパーツなのだから、ということがよくよく実感できるのではないかと思う。

 今後、日本国内や国際的な基準で「日本の納豆菌を使用していなければ『納豆』と認めない」とか、「ワラから採集した納豆菌で作っているものだけが『納豆』だ」などと決められるかもしれないが、一般の人間には関係ない話である。……
 納豆は納豆。それだけだ。

 でもほんと納豆を食べたくなる本だった。ごはんにかけるだけじゃなく、納豆オムレツに納豆チャーハンも食べたくなった。東北地方では納豆汁が広く食べられているそうだが、たしかに味噌汁に入れるだけでもおいしい。高野さんはラーメンに入れることもお勧めしている。

 簡単に作れるということもはじめて知った。日本では納豆菌=ワラという固定観念があるが、アジアのように何らかの葉からでも作れるし、そこまでしなくても、市販の納豆を混ぜることで簡単にできるようだ。チャレンジしようかな。
 あと、この本で紹介されていた朝鮮半島で食べられているチョングッチャン(納豆チゲのようなものらしい)もおいしそうだ。次こそは現地取材してほしい。いや、自分で現地に食べに行こうかな。

 

旅する犬の物語② ビビリ犬マドのタイ旅行記『旅はワン連れ』(片野ゆか)

 さて、前回から気を取り直すために(?)、続けて読んだ犬本は、片野ゆか『旅はワン連れ』。 

旅はワン連れ

旅はワン連れ

 

 タイトルのとおり、ワンコを連れて旅行する話なのですが、国内をちょろっと一泊とか二泊旅行するのではなく、タイの南はチャーン島、そしてチェンマイからさらに北まで、犬連れで二か月近く旅行するのだから、人間も犬もかなりの覚悟と準備が必要になる。

 どうしてそんな旅を決行したのかというと、愛犬マドはかなりのビビリ犬で、保健所から引き取られて一年半経つというのに、散歩中に出会うものはもちろん、取材で家を留守にしがちな”お父さん”さえ、ときには恐がってしまう始末なので、今度もっと「楽しい犬生」を送るために、”お父さん”も一緒に旅行に行って外の世界に慣れよう!というために。

 しかし、もちろん検疫など出入国の手続きもめちゃめちゃ面倒だし、いくらおおらかな国タイといっても、犬が泊まれる宿はすごく限られている。犬連れの移動も、国際線の飛行機は乗れても、タイの国内線は不可。高速バスも不可なので、おそろしく時間のかかる国鉄に乗らないといけない(しかも、駅に停まった合間にトイレもさせないといけない)。

 でも、それでも、犬と一緒に旅行、うらやましい!!と思った。愛犬をスリング(だっこ紐)に入れて、バンコクの屋台でごはんを食べ、チャーン島では一緒にシーカヤックをして、チェンマイではサンデーマーケットに行き、スコータイでは散歩がてらに遺跡を探訪し……。私もタイは大好きで、バンコク、アユタヤ、チェンマイなど回ったけれど、愛するペットと一緒なら何倍楽しかったことだろう。けど、猫はやはり一緒に旅行には行けないしな。。。

 また、持っていったグッズもいろいろ紹介されていて、トイレシーツ、犬用シャンプー、フィラリア予防薬などは当然として、おからパウダーとイチモウダジンが気になった。おからパウダーは便秘予防になるらしい。うちの猫にも食べさせてみようかな。あと、イチモウダジンというのは、カーペットなどにくっついた抜け毛をきれいに掃除できるらしい。アマゾンでも安いし、よさそう。毎日猫の毛だらけのベッドで寝て、猫の毛だらけの服で会社に行っている私ですが。 

  それにしても、犬を連れての長期外国旅行って、だれにでもできるものなのだろうか? 
 いや、できないかもしれない。というのも、作者片野さんが犬を専門とするノンフィクションライターであるのにくわえ、なんといっても、”お父さん”である夫は、辺境ライターでおなじみ、高野秀行さんなのだから。

 ミャンマーの麻薬地帯やアマゾン、中東からアフリカのソマリまで行きつくしている(唯一インドは入国禁止なので、残念ながら行きつくせないようだが)高野さんだけあって、タイは以前住んでいたため(チェンマイ大学で日本語講師をされていたのだ)タイ語も話せるし、犬を連れて旅行するくらい余裕のはず。だからか、犬を抱いてゴーゴーバーのお姉ちゃんと映った写真も、かなりの笑顔っぷりだった。

 と思って読んでいたら、なんと旅行中、その”お父さん”がダウンしたのだった。そう、おなじみの(高野ファンにとっては)腰痛で。高野さんの腰痛については、以前ここでも名著『腰痛探検家』を紹介したけれど(いや、単に腰痛を克服しただけではなく、腰痛から人間の心理の機微、そして人生の真理まで洞察した名著なのです)、ほんとまめに走ったり泳いだりしないとすぐに悪化するようだ。 

腰痛探検家 (集英社文庫)

腰痛探検家 (集英社文庫)

 

  でもほんと、”群れ”(家族三人)で旅する様子を読んでいると、理想の夫婦だなーとつくづく感じる。ふだんは、「理想の夫婦」なんて言葉を聞くと、そんなんあるわけない、絶対嘘やろって思ってしまうのだが。

 犬との幸せな日々が長く続くように、、、と思っていたら、いまさっき、講談社のPR誌『本』の町田康の「スピンク日記」を読むと、なんとスピンクが亡くなったとのこと。別れが来るからこそ、一緒にいる日々が尊い、というのはよくよくわかっているのですが、でもやっぱり別れのつらさに慣れることはできそうにない。。。 

スピンク日記 (講談社文庫)

スピンク日記 (講談社文庫)

 

 

旅する犬の物語① 『ティモレオン センチメンタル・ジャーニー』(ダン・ローズ著 金原瑞人訳)

ティモレオン・ヴィエッタは犬のなかで最高の種、雑種犬だ。

さらに、ティモレオン・ヴィエッタには際立った特徴があった。普通の犬には見られない特徴、たまたま親切な家庭に迷いこんできただけの野良犬とは一線を画する特徴が。ティモレオン・ヴィエッタは雑種犬だったが、少女の瞳のように愛らしい目をしていた。

ああもう、つらかった。とにかくそれが『ティモレオン』を読んでの感想だ。 

ティモレオン―センチメンタル・ジャーニー (中公文庫)

ティモレオン―センチメンタル・ジャーニー (中公文庫)

 

  私は猫を飼っているので一応猫派ですが、犬との暮らしも憧れる、一緒に散歩したいし、旅行もしてみたい……なんて気持ちで、この本を読んだら、とんでもなくダークな気持ちになった。

 雑種犬ティモレオンは、孤独な初老の男コウクロフトの飼い犬として、愛された人生、もとい犬生を送っていた。飼い主コウクロフトは、かつて成功した作曲家としてイギリスで暮らしていたが、とある事情でイギリスにいられなくなり、イタリアで暮らすようになった。
 同性愛者のコウクロフトはひとり暮らしで、恋人ができても長続きすることはなく、「長いこと、ティモレオン・ヴィエッタとしか話をしていなかった」。

五年間、ティモレオン・ヴィエッタは、コウクロフトに心から忠誠を尽くしてきた。人間の男は、やって来ては去る。若い者も老いた者も。やさしい者も腹黒い者も。

 そこへボスニア人の男がコウクロフトのもとに転がりこんできて、平和なティモレオンの犬生は一変する……

 どう一変するかというと、ボスニア人の男はティモレオンを憎み、そしてだれもが知っているように、犬は自分のことを嫌う人間には決して懐かない。よって、ボスニア人の男とティモレオンの仲はどんどん険悪になり、ついにティモレオンは遠くに捨てられてしまう。ここまでが第一部。


 そして第二部は、捨てられて必死で家に戻ろうとするティモレオンが遭遇する群像劇が描かれている。群像劇といっても、心温まるエピソードはない。ティモレオンのまわりで繰り広げられるのは、愛の断絶、裏切り、孤独、喪失……。そう、第一部と同じなのだ。

 あれだけティモレオンをかわいがっていたコウクロフトが、ボスニア人の男の言いなりになってティモレオンを捨ててしまうのは、あまりにも孤独ゆえにその男に捨てられるのが怖かったから。捨てられたティモレオンは、行く先々でまたもどうしようもなく孤独な人間たちとすれ違いながら、必死で家へと向かう。

ティモレン・ヴィエッタは、もうすこしで家に着くところだった。しっぽをぴんと立て、主人の家へ向かう曲がり角に通じる道を、ひりひりする足をすばやく動かして進んでいた。体は痛かったが、もうすぐ家に帰れる。主人の足もとにすわってなでてもらい、食べ物をもらうのだ。

 世の中は不条理だ。ティモレオンが目撃したように、ひとはあっさりと死に、親子の絆もすぐに失われ、あれだけ愛していた相手を捨て、あれだけ愛していたのに捨てられた相手の記憶も薄れる。そして、さんざん人間の孤独を見せつけられてきたティモレオンの宿命も例外ではなかった。


 第二部の群像劇では、お人形のように美しい娘、赤ちゃんのときに医者から「娘さんの知能は赤ん坊並みの知能以上に発達することはないでしょう」と宣告されたローザの物語がとくに印象深かった。ローザ、そして両親を待ち受けていた運命は、やはり不条理なものだったけれども、ローザのまわりには愛も善意も希望もたしかに存在した。

一度だけでいい、とふたりは言った。ローザの笑顔を見ることができたら、残りの人生をずっと幸せに生きられるのに。 

  訳者あとがきで、「読者の思いや期待にはこれっぽっちの配慮もなく」「まさにグロテスクで残酷で不快なのだが、同時にコミカルで切なく美しい作品」と書かれているのが、まさにそのとおりと感じた。正直、つらい要素があまりに多く、コミカルとまで言えるか疑問だが、スラップスティックであることはまちがいない。


 愛犬家の江國香織が解説を書いているけれど、『デューク』はいいお話だったなあ、、、としみじみ思い出した。

つめたいよるに (新潮文庫)

つめたいよるに (新潮文庫)

 

 わたしのデュークが死んでしまった。キスの上手いデュークが。泣きやむことのできないわたしの前に、男の子があらわれた……読み返すたびに泣いてしまう。

 ちなみに、うちのマークもキスが上手です。えっ? 犬や猫にキスなんかしたら不潔だって? そんなの知らなーい!!