快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

2018年 こりゃ読まなあかんやろブックリスト

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 すっかり年もあけました。こちらの門松は、大阪のフェスティバルタワーのものです。ここから歩いて初詣へ……

 

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 堂島のジュンク堂本店の裏にある、堂島薬師堂へ。あらためて見ると、ほんと奇抜なお堂だ。
 というわけで、年末年始休暇も終了。ちなみに、家の近所のブックオフに行ったら、外国人作家のコーナーにジェーン・スーが入っていた。


 年頭なので、2018年に読みたい本、いや、読みたいというか、こりゃ読まなあかんやろ、という本をリストアップしてみました。


 まず、翻訳ミステリーシンジケートのサイトで、第九回翻訳ミステリー大賞候補作が発表されました。

honyakumystery.jp

『嘘の木』『その犬の歩むところ』『ハティの最期の舞台』『東の果て、夜へ』(このタイトルを見るたびに、『夜の果て、東へ』とつい思ってしまい、頭のなかで入れ替えるという作業をくり返してしまう)『フロスト始末』というラインナップ。

 これまで「1冊も読んでいない……」という年もあったけれど、今年は前に紹介したように、"その犬"と"ハティ"は読了済。どちらも選ばれたことに異存のないおもしろさでした。が、どちらも「謎解き」の要素は薄いけれど、、、けどよく考えたら、去年大賞をとった『その雪と血を』も「謎解き」ではない。


 で、前から気になっていた『嘘の木』(フランシス・ハーディング 著 児玉 敦子 翻訳)が選ばれていたので、はよこれ読まなあかん!と思いました。 

嘘の木

嘘の木

 

  まだ科学が宗教や迷信と対立していた19世紀を舞台に、リケジョ(←死語 まだ使ってる人いそうだが)が、牧師であり博物学者でもあった父の死の謎を解き明かすという、もともとヤングアダルト向けに書かれた謎解きファンタジーらしい。
 ヤングアダルトといっても、このあらすじだけでも、科学と宗教、あるいはジェンダーについていくらでも考察できそうなので、もう実際に読んでみるしかない。


 そして、最終候補作には選ばれていないが、外せないのが陳浩基の『13・67』(天野健太郎 翻訳)。 

13・67

13・67

 

香港ミステリー、いや中国語圏ミステリーの傑作という評判だけでもじゅうぶん気になるのに、私の尊敬している高野秀行さんが正月早々から

陳浩基『13・67』(文藝春秋)、残りの中篇2本を読み終える。どちらも超絶面白かった。というか、この本は私がこれまでの人生で読んだミステリの中でもベスト3に入るんじゃないか。

本書は2018年に私が読んだミステリ第1位になるだろう。まさか元日にベストを読んでしまうとは。

とまで絶賛しているので、こりゃなにがあっても読まなあかん!!と、私のなかでアラームが鳴りました。


 ミステリー以外では、渡辺由佳里さんの洋書ファンクラブでの「2017年 これを読まずして年は越せないで賞」の候補作一覧を見ていたところ、

youshofanclub.com

まず『Eleanor Oliphant Is Completely Fine』に心ひかれた。早々に翻訳も出ている――『エレノア・オリファントは今日も元気です』(ゲイル ハニーマン 著 西山 志緒 翻訳)。 

Eleanor Oliphant is Completely Fine: Debut Bestseller and Costa First Novel Book Award shortlist 2017

Eleanor Oliphant is Completely Fine: Debut Bestseller and Costa First Novel Book Award shortlist 2017

 

 

エレノア・オリファントは今日も元気です (ハーパーコリンズ・フィクション)

エレノア・オリファントは今日も元気です (ハーパーコリンズ・フィクション)

  • 作者: ゲイルハニーマン,西山志緒
  • 出版社/メーカー: ハーパーコリンズ・ ジャパン
  • 発売日: 2017/12/16
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

  翻訳本の可愛らしい表紙からは、ドジでお茶目な(これこそまさに死語だが)若い女性の主人公が、恋や仕事に悩んだりする話かと思ってしまうが、そんなチャーミングな小説ではまったくないらしい。

 アマゾンの紹介文には「独身30歳、友達なし、恋人なし。話し相手は毒母と観葉植物――」と書いてあり、これでもまだ、女性向けの小説によくあるパターンかな?と思えなくもないが、渡辺由佳里さんの評で「読者が最初に出会うEleanorは、嫌な女でしかない。他人に手厳しく、同情のかけらもない。職場で嫌われているのも当然だと思う」と、はっきり「嫌な女」と書かれているので、読まなあかんスイッチが入った。


 あと、Celeste Ng(翻訳ミステリー大賞シンジケートのページでは、「セレスト・イン」と表記されてますね)の『Little Fires Everywhere』も選ばれていて、考えたら、作者の前作『Everything I Never Told You』を以前にkindleで購入したことを思い出し、年末年始にまずは『Everything I Never Told You』を読んでみた。 

Little Fires Everywhere: The New York Times Top Ten Bestseller (English Edition)

Little Fires Everywhere: The New York Times Top Ten Bestseller (English Edition)

 

 

Everything I Never Told You (English Edition)

Everything I Never Told You (English Edition)

 

  『Everything I Never Told You』については、またあらためて感想を書こうかと思うけれど、まあとにかく、親が自分の夢を子どもに押し付けるのは禁止!ダメ!ゼッタイ!!と、覚せい剤禁止を訴えるくらいの勢いで伝えたくなる小説だった。

 で、今作の『Little Fires Everywhere』も同様に、家族の問題と人種差別を扱い、渡辺由佳里さんの評によると、「アメリカのリベラルが持つある種のナイーブさというか、見当違いな独善性」(「見当ちがいな独善性」って、アメリカに限らず、あるある!って思いますね)を描いているらしく、やっぱ読まなあかんと心に刻みました。

 あとは、私のなかで「2017年 こんな御仁だったのか大賞」を受賞した、パク・ミンギュの『ピンポン』に『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』も読まなあかんし、(『ピンポン』は「はじめての海外文学」の推薦本リスト vol.3でも、岸本佐知子さんなど多くの人から選ばれていた) 

ピンポン (エクス・リブリス)

ピンポン (エクス・リブリス)

 

 

三美スーパースターズ 最後のファンクラブ (韓国文学のオクリモノ)

三美スーパースターズ 最後のファンクラブ (韓国文学のオクリモノ)

 

 そのうえ、柴田元幸さんが訳した『ハックルベリーフィンの冒けん』といった古典ものまで挙げていったらキリがない… 

ハックルベリー・フィンの冒けん

ハックルベリー・フィンの冒けん

 

 ……というか、なんといっても、2017年必読のはずだった『騎士団長殺し』をいまだ読んでいないのだ。まずは『騎士団長殺し』から読んでみるべきだろうか? 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 

 

 

2017年の締めくくり――女子高生たちによる〈疑似家族〉を描いた『最愛の子ども』(松浦理英子 著)

お題「年末年始に見たもの・読んだもの」

 さて、きょうは大晦日。

 というわけで、なんとしてでもこれを読まないと年を越せん!! 
と思っていた、松浦理英子の新刊『最愛の子ども』をようやく読みました。大掃除もそっちのけで。(毎年そっちのけだろーっていう声もあるが) 

最愛の子ども

最愛の子ども

 

 「わたしたちの心をかき立てるのは同級の女子高生三人が演じる疑似家族」と帯にあるように、私立玉藻学園高等部二年四組の舞原日夏(ひなつ)、今里真汐(ましお)、薬井空穂(うつほ)の三人が親密な時間を過ごし、それぞれ〈パパ〉〈ママ〉〈王子様〉という役名をクラスメートからつけられ、まるで疑似家族のような関係を育んでいくという物語。
(話は逸れますが、松浦さんの小説の登場人物たちの名前がなんかかっこいいんですよね。『ナチュラル・ウーマン』の容子と花世にも憧れた)


 感情的で意固地なところのある真汐を、いつもあたたかくつつみこむ日夏。そして無邪気で天真爛漫、でもどことなく危なっかしい空穂が加わり、日夏と真汐は空穂の面倒をみることに夢中になる。母子家庭で育ちながらも、生活能力に乏しい空穂の弁当を作り、空穂の家で二人用の布団を並べて三人で眠る。

空穂を弄んでいる日夏と真汐は、さまざまに形を変える空穂の顔に見入るわけではない。しょっちゅうしていることだからでもあるだろうし、歪められる顔の面白さばかりではなく、顔の肉のやわらかさやなめらかさや弾力を指で味わうだけでも楽しいからだろう。

 定義づけることのできない三人の関係。ふつうの〈友達〉ともちがうし、しかし、恋愛や性愛関係、いわゆる〈百合〉というようなものでもない。(いや、BLとか百合とかまったく詳しくないのですが)

 松浦理英子はこういう名づけられない関係、手垢のついた言葉ではあらわすことのできない交流を描くことが、ほんとうにうまいとあらためて思う。

 『裏ヴァージョン』での〈元親友〉であり〈現同居人〉である昌子と鈴子の決して触れあったり性愛に発展することのない、愛憎が交錯する関係。 

裏ヴァージョン (文春文庫)

裏ヴァージョン (文春文庫)

 

 『犬身』の主人公房江は、愛しい人の犬になりたいと願い、そして文字通り犬になる。(エロス的な比喩ではない)

犬身 上 (朝日文庫)

犬身 上 (朝日文庫)

 

  『奇貨』では、つらい恋に苦しむレズビアンの七島と、恋心というものをいまいち理解できない中年男本田との奇妙な友情めいたものが描かれていた。(ちなみに、この『最愛の子ども』でも、本田のライバル?斑尾椀太郎が登場します) 

奇貨 (新潮文庫)

奇貨 (新潮文庫)

 

  傍目からは架空の家族のように見える三人だが、当然ながら、三人には架空ではない家族がいて、それぞれの家族にはかすかな、あるいは大きな、軋轢がある。
 未成年の高校生である以上、実の家族から逃れることができない。血のつながった家族と架空の家族が緊張関係に陥り、三人の〈ファミリー〉はゆらぎはじめる。


 三人の〈ファミリー〉が主筋となっているが、この小説には、ほかにもいろいろ着目すべき観点がある。
 
 まずひとつは、語り手の問題。日本の小説では珍しい「わたしたち」が語り手となっている。二年四組のクラスメートという共同体が語っているという構造である。
 日夏、真汐、空穂のあいだにおきた出来事、そして彼女たちの内面は「わたしたち」の憶測、なんなら妄想という形で語られる。

 以前に読んだジョシュア・フェリスの『私たち崖っぷち』は、会社が潰れていくさまを従業員である「私たち」が語るという、珍妙だけどおもしろいところのある意欲作だったけれど、やはり日本語の「私たち」は、英語の"We"以上に違和感があったのか、あまり話題にならなかった。 

私たち崖っぷち 上

私たち崖っぷち 上

 

  しかし、この『最愛の子ども』は、「わたしたち」の視点を使うことによって、三人の関係のあやふやな儚さがより際立ち、それゆえの貴重さがよく伝わっていたと思う。


 さらに、三人以外のクラスメートたちも丁寧に書きこまれていて、読みごたえがあった。

 キャラクターとして興味深かったのは、女子からも恋心を抱かれる美少女の苑子だ。美しいけれど、頭がいいわけでも感受性が豊かなわけでもなく、話していてもなんのおもしろみのない女子なんだけど、男子に言い寄られるまま付きあったかと思うと、あっさり別の男子に乗り換えたり、最終的にはその男子もさくっと捨てたりするあたりが、いわゆる「魔性の女」って、実はこういう何も考えてない感じなのかなーというリアルさがあった。

 登場するクラスメートも先生もだいたい人柄がよく、修学旅行といった学校行事もたいへん楽しそうで(修学旅行で旭山動物園に行っててうらやましかった。中学でも高校でも、修学旅行で信州の山の中に行かされた私からすると)、作者はあえて現実社会よりユートピア的な学校生活を描くことによって、学校を離れ、ばらばらになる三人の今後との対比をつけたのだろう。

まだまだ心の鍛え方が足りない、と反省した後、だけど、と真汐は考える。心を鍛えるだけでは幸せに生きて行くのに充分ではないのだ。……どれだけ性格がよければ今のわたしがまったく愛せない人たちを愛せるのだろう。気が遠くなる。美しいことばかりではない道が目の前に果てしなく続いている。 

 これからの彼女たちはどうなるのか? 

 よくあることだけれど、いつしか疎遠になって、もう二度と会わないのかもしれない。もしくは、『裏ヴァ―ジョン』の昌子と鈴子のように、二十年後くらいに再会し、「あなたは変わった」と激しい言葉の応酬を重ねながら、また新たな絆を深めていくのかもしれない。  

ああ、そうだ、山下公園で日夏とわたしは何年後かに空穂がどんなふうになっているか見に行くと約束したんだった。思い当たると憂鬱そうだった真汐の顔に微笑みがこぼれる。

 

 

12/23 柴田元幸×内田輝/レベッカ・ブラウン『かつらの合っていない女』刊行記念朗読会 @ワールズエンドガーデン

 で、前回の続きで、神戸市立外大の公開講座のあとは、灘の古本屋ワールドエンズガーデンでの朗読会へ。

 柴田さんの朗読はこれまでも何回か聞いたことがあるけれど、今回はクラヴィコード&サックスの内田輝さんと一緒なので、音楽つきってどんな感じなんだろう?と期待が高まる。


 前から行ってみたいと思っていたワールドエンズガーデンも、阪急の高架近くにあり、電車の音が伴奏に重なってこぢんまりとした店内に響き、とてもいい雰囲気だった。(ニューヨークみたいだと柴田さんはおっしゃってました。ニューヨークかどうかはともかく、やっぱ神戸やなーとは思った。大阪とはちがう)


まずはもちろん、レベッカ・ブラウンの『かつらの合っていない女』から数編を朗読。 

かつらの合っていない女

かつらの合っていない女

 

  ナンシー・キーファーの絵にあわせて、レベッカが文章を書いたこの本。短編小説というより、鮮烈なイメージを喚起する詩のような言葉が綴られているのだけれど、おとぎ話のような、寓話のような感触も失われていない。
 『私たちがやったこと』より抽象的になっているのだけれど、解像度があがっているような文章。 

私たちがやったこと

私たちがやったこと

 

 ところで、先日レベッカが日本に来たのは、アメリカの(だったかな)旅行会社主催の「奥の細道体験ツアー」に参加するためだったらしい。「聖地巡礼ツアー」流行ってると聞いたことはあるけれど(『君の名は。』とか)、海の向こうでそんなことになっているとは思いもよらなかった。


 レベッカ・ブラウンの次には、なんとパトリック・マグラアの『オマリーとシュウォーツ』の柴田さん訳も披露してくれた。永遠に失われた愛を求めて、ニューヨークを彷徨う天才ヴァイオリニストの物語。

 パトリック・マグラアといえば、宮脇孝雄さんが訳しているイメージがあるので、調べてみると、この『失われた探検家』に宮脇さんの訳されたものが収録されているようだ。こちらも読んでみたい。 

失われた探険家 (奇想コレクション)

失われた探険家 (奇想コレクション)

 

  ちなみに、柴田さんの『生半可版 英米小説演習』では、パトリック・マグラーという表記で『スパイダー』が紹介されていて、「マグラーはこの作品で『リリカルな狂気』を見事に編み上げている」と解説されているけれど、今回の『オマリーとシュウォーツ』もまさに「リリカルな(そして切ない)狂気」の物語でした。 

生半可版 英米小説演習 (朝日文庫)

生半可版 英米小説演習 (朝日文庫)

 

  質疑応答では、内田輝さんに音楽はどうやってつけるのか?という、私も気になっていた質問が出ました。とくに前もって決めているわけではなく、その場の雰囲気に応じて(今回なら電車の音とか)演奏しているそうです。


 柴田さんには、こういった翻訳や朗読会のよろこびはどこにあるか? という質問が出ました。
 柴田さん曰く、自分が訳さなければ世に存在していなかったものを生みだせるのが翻訳のよろこびとのこと。また、『MONKEY』で日本人の作家に依頼して書いてもらうときも、自分が依頼しなければ存在していなかった作品が生まれるのがうれしいとおっしゃってました。

 朗読会についていえば、販促活動であるのは事実だけど、以前に学生新聞?かなんかの取材で、翻訳者、かつフランス文学者である野崎歓さんと対談したときに、ふたりともミュージシャンになりたかったという話題で盛りあがったとのことで(その対談、どっかにアップするか、本に収録してほしいものだ)、こういう朗読会はミュージシャン願望をちょっと満たせるのかも、とのことでした。


 それから、おなじみバリー・ユアグローが最近短編を何本かまとめて送ってきたとのことで、そこから朗読。ユアグロ―らしい、奇妙でユーモラスな味わいのある作品で、そのうち出版されるようです。

 ちなみに、バリー・ユアグローの最近作は”こんまり”に影響を受けて書いた「MESS」(片付けられない男)というものらしく、それもめちゃめちゃ気になった。
 たしか、こんまりは「ときめかないものを全部捨てる」とかいう主張だったと思うけれど(よう知らんけど)、ときめき過剰な男の話だろうか。いや、他人のことは言えませんが……


 それにしても、少し前までは、アメリカでは作家が朗読会とかポエトリー・リーディングとか頻繁に行っていると聞いても、なんでわざわざ声に出して読むのか? くらいに思っていたけれど、こうやって上手な朗読を聞いていると、その魅力が――文章が身体全体に染みわたるような――ほんとうによくわかる。声や息遣いで、言葉の響きがより深まって伝わるものなのだと実感する。
 昼も夜も貴重な時間を過ごせた一日でした。

12/23 柴田元幸公開講座「あまりアメリカ的でないアメリカ人芸術家たちについて-小説、詩、写真、漫画」@神戸市立外大

 さて、10月の枚方蔦屋書店での柴田元幸さんのトークイベントで、「レベッカ・ブラウンとの朗読会に参加できなくて残念だった」とお話ししたと書きましたが、それからすぐに、「柴田元幸×内田輝/レベッカ・ブラウン『かつらの合っていない女』刊行記念ツアー」が関西でも行われることになり(without レベッカ・ブラウンですが)、さっそく申し込みました。

続いて、同じ日に神戸市立外大で「あまりアメリカ的でないアメリカ人芸術家たちについて-小説、詩、写真、漫画」という公開講座もあると知り、せっかくなので二本立てで参加してみました。

 神戸市立外大は、周囲でも卒業生の人がいるので行ってみたいと前から思っていたが……やはり遠かった。
 三宮から地下鉄なのだけど、地下鉄と言いながらどんどん山奥に入っていくので、途中で何回か駅を乗り過ごしていないか確認した。そして、え、ここも神戸市なの? と思うところに到着。確実に街中より気温が低かった。


 しかしそんな遠方の地でも、公開講座は机が足らず、教室の後ろに椅子を並べるほどの満員でした。

 最初はチャールズ・レズニコフの詩の朗読。チャールズ・レズニコフはポール・オースターが敬愛する詩人で、『空腹の技法』でも取りあげられていた。 

空腹の技法 (新潮文庫)

空腹の技法 (新潮文庫)

 

  朗読された詩の内容は、アメリカで外国語を話すふたりが、「アメリカ語を話しなさいよ」と白人に絡まれるというもので、ちょうど最近も同様の事件が現実におきたところだ。

headlines.yahoo.co.jp

 あとの質疑応答でもその話題が出て、社会が進歩した面ももちろんあるけれど、チャールズ・レズニコフが詩を書いた時代よりひどくなっていることも(大統領をはじめ)いっぱいあると、柴田さんも話されていました。


 次はジョゼフ・コーネル(若き日の草間彌生との写真で)、リチャード・ブローディガン、ソール・ライターを紹介。三人とも、アメリカのマッチョ思想から遠く離れたところで創作活動を行ったと解説。リチャード・ブローティガンは『アメリカの鱒釣り』の表紙に自分の写真を使ったりと、やたら出たがりではあるが。 

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

 

 三人の共通点は、車の運転をしなかったことらしい。ニューヨークだけで生活するならともかく、アメリカで車が乗れなかったら、行動が大きく制限されるのにもかかわらず。
 たしかに、リチャード・ブローティガンといえば西海岸のイメージがあるけれど、あそこで車がなければどうしていたんだろう?(ま、私は行ったことがないので、あくまで脳内妄想での西海岸ですが)


 それから、1910年代の新聞漫画の紹介。グスタフ・ヴァービークのさかさまマンガに感嘆しました。
 逆さ絵はご存じの人が多いでしょうが、マンガのコマで逆さから読めるってすごい。6コママンガかと思いきや、6コマ目でさかさまになって1コマ目に戻るので、実は12コママンガになるのです。
 思い出したら、こないだの枚方蔦屋のイベントで、次号の『MONKEY』は絵を特集するとおっしゃってたので、掲載されるのではないでしょうか。

 あと、ジョージ・ヘリマンのKRAZY KATもおもしろかった。トムとジェリー、プラス犬のおまわりさんみたいな話。(よけいわかりにくいか)KRAZY KATのウィキペディアをいま見たら、E・E・カミングスが大ファンで序文を寄せたりしているそうだ。


 絵といえば、もちろん外せないのがエドワード・ゴーリー。まだ訳書が出ていない『The Gilded Bat』を紹介してくれました。そういえば、柴田さんのパソコンの壁紙もエドワード・ゴーリーでした。

 去年エドワード・ゴーリー展が行なわれた伊丹市立美術館(すごく素敵な美術館ですね、と柴田さん。私も激しく同意)で、もうすぐソール・ライター展が行なわれるとのことで楽しみだ。


 そのあとは、再びチャールズ・レズニコフの朗読。なんでもレズニコフは判例を編集する仕事をしていたらしく、実際の事件にインスパイアされた作品も多いそうだ。といっても、殺人事件のノンフィクションなどではなく、ホームレスなど街に暮らす人々の行き交いをささやかに綴った詩。


 質疑応答の時間では、ポール・オースターの魅力とオースターが一貫して伝えようとしていることについての質問が出ました。

 魅力は、まずはやはり文章とのこと。冒頭から核心をつき、物語を推進する力が卓越しているとのこと。
 また、小説においては、作者が「伝えたいこと」を想定して書いているわけではないが、一貫するテーマのようなものはあると説明したうえで、オースターの場合は、キャリアの前半においては、「自分の核心にたどりつくためにすべてを失う物語」がくりかえし描かれていたと語られました。


 次の質問は、そのオースターも、ソール・ライターもユダヤ人だが、ユダヤ人であることの意味とは? と。

 柴田さんがオースターに会ったときも、ずばりその質問をしたそうですが、ユダヤ人であることは常に「周辺」に存在するということらしい。どこへ行ってもアウトサイダーだと。

 自分は世界の主人ではないという意味で、アメリカ的なもの(『白鯨』のエイハブ船長のような)の対極になるとのこと。ちなみに、アメリカの小説は『白鯨』のエイハブ船長とイシュメイルのように、アメリカ的なものとその対極を描くことが多いと話されていました。 

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

 

  そして最後は、スティーヴン・ミルハウザーの『ホームラン』という詩の朗読。これが冗談みたいな詩で笑えました。
 ミルハウザー氏、以前東大で見たときは、それこそ野球の対極、極北に存在するような文学者といった雰囲気でしたが、なにを思って(いや、いい意味ですが)この詩を書いたんだろう。

で、レベッカ・ブラウンの朗読についても書こうと思ったが、案の定長くなったので、以下次号で。。。

冬のロスマク祭 『さむけ』『ウィチャリー家の女』(ロス・マクドナルド 著 小笠原豊樹 訳)『象牙色の嘲笑』(小鷹信光 松下祥子 訳)

この女が問題にしてもらいたがっているほど、わたしはこの女を問題にしていない。そもそもこの女を全面的に信用してはいないのだ。女の美しい肉体には二つの人格が交互に現れるようだった。一つは感受性の強い、しかも無邪気な性格。もう一つは、かたくなで捉えがたい性格。

 これまで私にとって、「かたくなで捉えがたい」ハードボイルドを追求すべく、ロス・マクドナルドの『さむけ』を読んでみたところ、おもしろくてすっかりひきこまれ、『ウィチャリー家の女』『象牙色の嘲笑』とたて続けに読んでしまいました。 

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

 

 『さむけ』は、ひと仕事を終えた探偵リュウ・アーチャーが、突然アレックスと名乗る青年に声をかけられるところからはじまる。


 結婚したばかりの妻、ドリーが行方不明になったとのこと。ちょっとした気まぐれの失踪、あるいは結婚詐欺などよくある事件かと思いつつ、アレックスに懇願されて捜査したところ、ドリーはあっさり見つかったが、アレックスのもとに帰るつもりはないという。

 どうやらドリーには母親が殺された過去があるらしい。ドリーの友達だという大学教授ヘレンと知りあい、話を聞こうとするが、「感受性の強い」しかし「かたくなで捉えがたい」ヘレンは、だれかに脅迫されているなど要領を得ないことを話しだし、リュウ・アーチャーはヘレンを相手にするのをやめる。そしてすぐに、ヘレンが死体で発見される……


 で、これはまだ話の発端で、ここからまた新たな殺人や、謎だらけの登場人物が続々と発覚する。正直、物語が進むにつれて、そもそものドリーとアレックスの話はいったいどうなったの??という瞬間すらおとずれる。といっても、物語は一貫してリュウ・アーチャーの視線から語られるので、さほど混乱はしない。


 さて、ハードボイルドというと、一匹狼で徹底した〈個〉である探偵が、〈多〉である社会と対峙する物語というのが、一般的な定義だと思う。その〈多〉は、ギャングの社会であったり、あるいは警察であったり、荒廃した都会に住む人々であったりするが、リュウ・アーチャーが向きあう社会は、徹底して「家族」である。機能不全に陥った家族。


 この『さむけ』でも、アレックスの父親、ドリーの父親、ヘレンの両親……など、さまざまな「家族」が出てくる。直接事件に関係がなくても、その描かれ方はどれも印象深い。なかでも、喧嘩して家を出て行ってしまった娘ヘレンの訃報を聞かされるホフマンの姿はもの哀しい。

激しく、何度も何度も、ホフマンは自分の顔を殴った。目、頬、口、顎。みるみる粘土色の皮膚にどす黒い殴打の跡が生じた。下くちびるが切れた。
血まみれのくちびるで、ホフマンは言った。「うちのかわいい娘を駄目にしたのは、わしなんだ。わしがぶん殴って家から追い出したんだ。あれはもう帰ってこなかったんだ」 

 愛情があってもうまく通じあえない親子。夫婦の関係はもっと悲惨だ。愛情は消え去り(あるいは、最初からそんなもの存在していないか)、互いに裏切り、欺きあう。そしてまた性懲りもなく、次の相手を漁る。

「しかし、あなたは生き残って、また恋愛をした」
「男はだれでもそうしたものじゃないでしょうか」

『さむけ』と並ぶもうひとつの代表作、『ウィチャリー家の女』も、タイトルからはっきりわかるように家族の話だ。 

ウィチャリー家の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-1)

ウィチャリー家の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-1)

 

 リュウ・アーチャーのもとへ、ホーマー・ウィチャリーという金持ちの男がやってくる。一人娘のフィービーが行方不明になったという。

 調べるとすぐに、失踪の少し前に、フィービーは母親キャサリンの姦通を告発する手紙を目にしていることが判明する。ホーマーはキャサリンとはもう別れたので決して話をするなと、リュウ・アーチャーに強く命令する。フィービーとキャサリンを探しはじめるリュウ・アーチャー。フィービーは生きているのか? キャサリンの姦通の真相は……?

わたしは正面の鏡に映った女の顔を盗み見た。ひどい厚化粧である。塗りたくったおしろいの下の肉が腫れているように見えるのは、暴力のためばかりではなく、悲しみと恥辱の絶えざる打撃のせいであるらしい。それにしても、かつて魅力的な女性だったろうことは、はっきり見てとれた。 (略)

 「わたしって、お化けみたいでしょ?」

『さむけ』でも『ウィチャリー家の女』でも、家族の関係が壊れるのに呼応して、女たちもどんどんと壊れていく。自分を愛し、支えてくれる男とともに立ち直る女もいれば、年齢とともに愛した男や若さへの執着がどんどん膨張して「お化けみたい」になる女もいれば、ヘレンのようにまるでなにかの殉教者のようにあっさりと命を奪われる女もいる。


 この二作より前に発表された『象牙色の嘲笑』は、初期はチャンドラーの影響が濃いと言われているように、たしかに『さよなら、愛しい人』やダシール・ハメット『マルタの鷹』など通じる、いわゆる一種の「悪女(ファム・ファタール)もの」である。(ちなみに、『ロング・グッドバイ』はこの作品の一年後に発表されている) 

  リュウ・アーチャーのもとに、ユーナ・ラーキンと名乗る年配の女が依頼にやってくる。家で働いていたルーシーという黒人の若い女を探してほしいという。探すといっても居場所の見当はついていたので、リュウ・アーチャーはすぐにルーシーを見つける。ユーナの指示に従って、ルーシーを観察していたが、街を出ようとしたルーシーは何者かに殺されてしまう。

 殺されたルーシーは、チャールズ・シングルトンという行方不明の男の情報を求める新聞記事を手にしていた。男には懸賞金がかけられている。
 チャールズ・シングルトンを調べはじめたリュウ・アーチャーは、愛憎の迷宮へと足を踏み入れてしまう。いくら愛しても裏切られる。愛した相手には愛されない。報われない愛情の行き先が悲劇を生む。

「ほんとうにおかしいのはね」しばらく間を置いてから先を続けた。「愛している相手は絶対にこっちを愛してくれないってこと。こっちを愛してくれる人、(略)そういう人たちはこっちが愛せない。

 先に書いたように、この物語は「悪女(ファム・ファタール)もの」のフォーマットを使っているが、後の『さむけ』『ウィチャリー家の女』と同様に、リュウ・アーチャーの目に映る人物はどれも類型的ではなく、なかでも、ちょっとしか出てこない脇役の女性たちがいきいきと描かれているのが印象深かった。
 
 ルーシーが転がりこんでいた家の隣に住む黒人の婆さんや、チャールズ・シングルトンの家で働くシルヴィアといった、善良な魂がきちんと書かれ、最後に倫理が説かれていたので、陰惨な事件が主題になっていても後味が悪くない。

「あんたが殺したのは、個々の人間だけじゃない。切り刻み、煮つめ、焼いて消し去ろうとしてきたのは、人間らしさという観念だ。人間らしさという観念が我慢ならなかった」

 それにしても、ロス・マクドナルドの妻が、以前『まるで天使のような』を紹介したマーガレット・ミラーなのですが、人間の心理を暴くミステリーばかりえんえんと書く夫婦って、、、ほんと興味深いというか、空恐ろしいというか(女子高生に流行っている「マジ卍」ってこんなときに使えばいいのだろうか?)、またどちらかの次の作品を読んで考察を続けたいと思います。

 

2017年ベスト本――最愛の犬本② 『その犬の歩むところ』(ボストン・テラン 著 田口俊樹 訳)

この若い犬をご覧。血のように赤い石のそばにじっと佇み、体を休めている。四肢をすっくと伸ばし、胸を張り、頭を高く掲げて。

 さて、今年のベストといえるもう1冊の犬本は、2017年のミステリーランキングにもよく挙げられている『その犬の歩むところ』です。 

その犬の歩むところ (文春文庫)

その犬の歩むところ (文春文庫)

 

 ミステリーランキングにも挙げられていると書きましたが、犬が探偵役を務めたり、犯人を捜したりする物語ではない。
 ただ一匹の犬の足取りを、その父親の代から丁寧に追うことによって、犬をめぐる人々の物語が、「アメリカ」という大きい物語を映し出す小説である。


 まず語り手の「ぼく」は、一匹の老いた犬がさまよい歩いたすえに、〈セント・ピーターズ・モーテル〉にたどり着くところから物語をはじめる。

 そこで犬の話が続くのかと思いきや、まずはそのモーテルに住むアンナが、動乱する祖国ハンガリーから脱出してなんとかアメリカに渡り、そこでようやく幸せな暮らしを手にしたはずが悲劇に襲われ、老婆が経営するモーテルに流れ着くまでの顛末が語られる。
 老婆が亡くなり、ひとりでモーテルに暮らしはじめたアンナのもとに、次から次へと犬がやって来る。そして、この老いた犬もその一匹であった。

 当然のように、アンナはその老犬の面倒をみるようになり、つけていた首輪にに質札のようなものを発見する。そこには GIV と刻まれていた。ギヴがこの犬の名前なのだとアンナは思う。老犬は、アンナとアンナの飼い犬エンジェルと束の間幸せな時間を過ごし、エンジェルとのあいだに牡の仔犬をつくり、静かに息絶える。

老犬よ、おまえはひとりぼっちではない。なぜなら天国はここに――おまえが身を埋めるこの偉大な木々の中に、名が刻まれた石の中に、おまえの骨を覆う土の中にあるのだから。おまえにもすぐに恵みが与えられるだろう。

で、ここまでが序章なのです。ここからこの小説のメインとなる、父親と同じギヴという名を与えられた牡の仔犬の物語がはじまる。

 父親が亡くなってすぐ、ギヴに試練がおとずれる。モーテルの客であったバンドマンの兄弟にさらわれてしまう。ここからギヴの波乱万丈の犬生が幕を開ける。

 そして、まだ語り手の「ぼく」は姿を見せない。「ぼく」はいったいどこでギヴと出会うのか?

 この小説は、犬も人間も等しく運命に翻弄されて過酷な目に遭う。虐待、戦争、自然災害、愛する者との別れ――どれも犬にも人間にも襲いかかってくる。

 それでも犬は、ギヴは、人を信じることと愛することをやめない。前回紹介した『おやすみ、リリー』のように、犬が老いたり病気になったりする話はもちろんつらいけれど、この小説のように、ひたすら無償の愛を注ぎ続ける犬の姿も泣けてしまう。

ギヴは誰が相手でもルーシーを守ろうとするだろう。必要とあらば、宇宙のあらゆるものを敵にまわしても。なぜなら、ギヴにとってルーシーは自分が生きることそのものだからだ。そして、ギヴは混じりけなしの愛の塊だからだ。 

  この小説の試練として、虐待、戦争、自然災害と書いたけれど、どれも決して架空のできごとではない。イラク戦争カトリーナがこの小説の重要な背景となっている。生の「アメリカ」が、ギヴの歩みに刻まれている。

 ギヴを盗む兄弟が父親から受ける虐待の場面では、かなり前に読んだ、村上春樹訳のノンフィクション『心臓を貫かれて』に出てくる父親を思い出した。 

心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

 

  アメリカの物語においては、「大草原の小さな家」のような理想の父親像が確固としてある反面、異常としか思えない父親像も往々にして描かれる。もちろん、実際に存在しているからだろう。


 この小説の最後の試練にギヴが立ち向かうとき、読んでいて、もうギヴを行かさんでええやん、そっとしてあげて!と思った。

 でも考えたら、その前の最大の試練の悲しみからギヴが立ち直るためには、もう一度愛する者を守るために戦うことが必要だったのかもしれない。
 「混じりけなしの愛の塊」であるギヴは、愛することが「生きることそのもの」なのだから。


 うちの祖母は犬を飼っていて、口癖は「犬は裏切らへん」であった。母親は「まるでだれかに裏切られたみたいなこと言って!」と文句を言っていたけれど、ほんとうにそのとおりだなあ……としみじみ思い出した。なんでも、旧石器時代からヒトは犬を飼っていた形跡があるそうだ。


 犬好きという松浦理英子のエッセイ『優しい去勢のために』所収の「犬よ! 犬よ!」でも、野良犬が駆逐された環境で育つ子供たちについて、

人間に本当になつき慕ってくれる唯一の動物である犬という素敵な友達と大いに触れ合う機会がないとしたら、何かとても有意義なことを学べないで成長することになりはしまいか。

と書いている。われわれ人間は、できるだけ犬と触れ合って、ほんの少しでも見習うべきなのかもしれない。 

優しい去勢のために

優しい去勢のために

 

 ちなみに、この小説の原題は、『GIV: The Story of a Dog and America』と、そのとおりのストレートなタイトルのよう。悪くはないけれど、『その犬の歩むところ』という邦題の方がストーリーを暗示させる要素が強く、冴えたタイトルだと思った。 

【12/4 追記】2017年ベスト本――最愛の犬本① 『おやすみ、リリー』(スティーヴン・ローリー 著 越前敏弥 訳)

二十代がまさに終わる日の夜、新しくやってきた子犬を腕に抱いたとき、ぼくは泣き崩れた。愛を感じたからだ。愛みたいなものじゃない。ちょっとした愛でもない。限界なんかなかった。ぼくは出会ってからたった九時間の生き物に、ありったけの愛を感じていた。
 ぼくの顔の涙をなめていたリリーを思い出す。
 あなたの! めから! ふって! くる! あめって! すてき! しおあじって! だいすきよ! これ! まいにち! ふらせて! 

 さて、気がついたら2017年もあと一月を切りました。

 そこで、今回は2017年のベスト犬本を紹介したいと思います。ちなみに、ベスト「犬」本というのは、犬の本のなかでベストという意味ではなく、2017年のベストだと思った本が、たまたまどちらも犬の本だったからです。


 まずこちら、『おやすみ、リリー』は表紙の犬の絵と、「おやすみ」という言葉から想像できるように、愛犬リリーとの別れがテーマとなっている。 

おやすみ、リリー

おやすみ、リリー

 

というと、動物好きの人たちは「そんな本、つらくて読めるわけない!」と思うことでしょう。基本私も、そんな不吉な予感の漂う本には近づかないことにしています。

 でも、そんな私でも、最後まで夢中になって読みきってしまったこの本。
 読むのがつらくなかったかって? そりゃもちろんつらかった。涙が止まらなくなる場面もひとつやふたつではなかった。

 それでも読んだあとは、まさに上の引用にあるように、主人公の「ぼく」(テッド)と同じく、私の心も「ありったけの愛」で満たされるのを感じたのだった。


 そう、この本を読んで涙が出るのは、愛犬が病気になって衰えていくからだけではない。それよりも、「ぼく」とリリーとの日常の大切さや愛おしさが、いきいきと描かれていることに胸をうたれるからである。

 なんといっても、「ぼく」の目に映るリリーはただの犬ではない。
 「ぼく」とリリーは毎日いろいろおしゃべりをし、木曜の夜は「いま一番イケてる男子」について一緒に語りあい(そう、「ぼく」はゲイなのです)、金曜の夜は一緒にモノポリーをし、土曜には一緒に映画を観て、日曜には一緒にピザを食べる。これがふたりの――正確にいうと、ひとりと一匹ですが――毎日の暮らしだ。 

犬の何よりすてきなところは、そばにいてほしいと人が特に強く思っているとき、なぜかそれを察することだ。そして何もかもをほうり出し、しばし寄り添ってくれる。 

  この物語はリリーの病気に気づいたときからはじまるが、病気の進行と並行して、「ぼく」とリリーのこれまでの生活も語られる。

 最初の引用はリリーとの出会いの場面だけど、「ぼく」はリリーを抱いたとたんに泣き崩れている。それがどうしてかは明確には語られていないものの、ほかの回想シーンから、「ぼく」は両親の離婚や、またゲイであることから、幾度も傷ついたり悩んだりしてきたことがほのめかされている。

 母親から愛されているかどうか、いまでも不安を抱いていることや、パートナーと安定した関係を築けないことに苦しんでいることが、随所で描かれている。そんな「ぼく」がリリーと共に暮らしはじめ、過去のリリーの大病、リリーの次に(?)愛する妹の結婚、パートナーだったジェフリーとの別れを経て、成長していくさまがしっかりと読者に伝わってくる。


 そうして「ぼく」に最大の試練が訪れる。リリーとの別れが……

 でも、あくまでも「ぼく」の語り口は軽妙で、リリーに襲いかかる病魔を「タコ」と呼び、ときにはばかばかしく感じるほどユーモラスに闘ってみせる。まるで風車に戦いを挑むドン・キホーテのように。
 しかも、「タコ」もなかなかの曲者で、いらんこと言いのへらず口野郎だ。ときには妙に哲学的なセリフも吐く。このコミカルさも、小説の強いアクセントとなっている。

「でも、何よりもリリーに感謝している。リリーがぼくの人生に登場してからというもの、ほんとうにいろんなことを教わった。我慢、やさしさ、静かな誇りと気品をもって困難に立ち向かうこと。リリーはだれよりもぼくを笑わせてくれ、だれよりも強く抱きしめたいと思わせてくれる。最高の友であるという約束を、忠実に守ってくれる」 

 ところで、私はこの本をまず原書で読んで、案の定泣いてしまったにもかかわらず、それでもやっぱり動物のいる人生がいい!と強く願いました。

 すると、思いが通じたのか、職場の人から猫を拾ったので引き取ってくれる人を探していると聞き、うちの子と一緒に暮らすようになりました。なので、人生を変えられたといっても、おおげさではない一冊です。


 で、もう一冊の犬本についても、あわせて書こうと思っていたが、長くなってしまったので、近々アップします……

【12/4追記】

 コメント欄にも書きましたが、この小説はただただ悲しいだけではなく、軽妙でコミカルなところと、じわっと切ないところが、緩急をつけながらうまく結びつけられている。

 作者のスティーヴン・ローリーは、この小説がデビュー作だけど、フリーライター、コラムニスト、脚本家としてのキャリアが長いだけあって、文章にユーモアをおりまぜるさじ加減がうまく、読んでいると思わず笑みがこぼれてしまう。


 この物語は、作者のスティーヴン・ローリーが愛犬「リリー」を失くした経験をもとにしており、またスティーヴン・ローリー本人もゲイであり(ツイッターにいまのイケメン彼氏との写真をしょっちゅうアップしているらしい)、となると「そのままやん!」って感じですが、主人公のテッドは作者の分身だと読みとってまちがいないよう。

「ぼくはエドワードだ。テッドって呼ばれてる」耳もとでそうささやき、自分の耳をリリーの頭に近づけた。そのときはじめて、リリーが話すのを聞いた。
このひとが! わたしの! かぞくに! なるのね!

 がしかし、主人公テッドも作者と同じフリーライターという設定のようだけど、リリーにかまけてばかりで、いったいいつ仕事してるんだ??と最後まで気になった…