快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

災厄の男たちから逃れる女の連帯 『音もなく少女は』(ボストン・テラン 著 田口俊樹 訳)

わたしは殺人の隠蔽工作の手助けをしました。嘘の上塗りをする手助けもしました。自分の人生、宗教、職業が否定していることをしました。しかし、そのためにこそより幸福になれました。

 先日紹介した、ボストン・テランの『その犬の歩むところ』がおもしろかったので、続いて『音もなく少女は』も読みました。 

音もなく少女は (文春文庫)

音もなく少女は (文春文庫)

 

 まず引用のように、だれかの告白によって物語がはじまる。
 それから1950年代のニューヨークのブロンクスに舞台が移り、クラリッサが登場する。しかし、登場するやいなや、「人生の乱気流が彼女を貫いていた」「失意の波間を漂いながら、病気で聾者の娘メアリーと夫ロメインを世話する女」と、尋常ならぬ不幸の気配が漂う。

 その夫、ロメインが帰ってきて、銀のゴブレットやウサギの足といった「戦利品」をクラリッサに渡す。あとで描かれるが、ロメインは墓地の管理をしており、「戦利品」とは死者とともに棺に入れられた品々のことで、ロメインは棺を漁って、金目のものを盗んでいるのである。しかし、この”棺暴き業”は、この先ロメインが堕ちていく闇にくらべると、まだ健全な仕事なのであった。


 その夜、酒を飲んだロメインがクラリッサに襲いかかる。「病気でもなくて、ちゃんと聞こえるやつが欲しい」と。「どうか妊娠していませんように」というクラリッサの祈りもむなしく、ふたり目の子が授かる。
 女の子はイヴと名付けられるが、クラリッサの祈りのみならず、ロメインの願いも神に届かなかったようで、やはり聾者であることが判明する。「全部おまえのせいだ」とロメインはクラリッサを罵る。

クラリッサはわが身に起きることはすべて自分の過ちと信じ込む女だった。教育もちゃんと受けていない単純な女だった。だから、誤った認識のまま、聾者の子供が生まれたのは自分のせいだと信じていた。夫の虐待を受けるに任せすぎたせいだと。 

  えっ? どんだけ暗い話なんだって?? 

 実はこれはまだほんの序盤で、クラリッサとイヴの人生は、教会で偶然フランという女に出会ったことで大きく変わる。

 手話に通じ、自ら生計をたてて暮らしているフランに、イヴをどう育ててよいか途方にくれていたクラリッサは助けを求める。戦争中のドイツで想像を絶する凄惨な体験をしたフランは、ロメインの虐待におびえるクラリッサとイヴを見捨てることができず、三人は深く結びつき、北上次郎さんの解説に書かれているとおり「運命共同体」となる――
 
 少し前、というか、いままさに、ツイッターで「『女性専用の街』が欲しい」というツイートが炎上していたが、まさにこの小説のテーマは「災厄でしかない男――しかも父親――から逃れるために、どうやって女たちは力をあわせて戦うべきか」ということである。

 イヴとロメインのみならず、第二部で登場する、イヴが姉のように面倒をみるミミと、ミミの父親ボビー・ロペスにもあてはまる。
 
 ロメインやボビー・ロペスのような悪党は、荒廃しきったかつてのニューヨークに限定される話ではなく、現代でもよく似た事態は世界のあちらこちらで起きているようにも思える。
 まだDVなどの虐待への意識が低い国や地域はもちろん、いまの日本でも似たような感慨を抱いている人がいるから、上記のようなツイートが発生するのではないだろうか。

 作者は、ロメインやボビー・ロペスを人間とは思えない鬼畜のようには描いていない。ロメインやボビー・ロペスより、もっと直接的に娘を殴ったり殺したり、犯したりする親だって世の中には少なくない。
 ただ、ロメインやボビー・ロペスは、妻も娘も自分の「所有物」だと思っていて、そこから離れようとするイヴとミミを脅かす。


 そしてもちろん、すべての男がそんなふうではない。イヴの恋人チャーリーや、チャーリーとミミの養父ナポレオンなど、イヴやミミを助けようとする男たちもいる。 

その出自と身の上のせいだろう、チャーリーは自分でも恥ずかしくなるほど強く人とのつながりを求める人間だった。人に愛されることも。その思いは皮膚からにじみ出てきそうなほど彼の内側に溜まっていた。
 一方、彼はイヴの庇護者になりたかった。一緒にいて彼女が身の安全を感じられる相手にもなりたかった。

 だが、結局こういう善意の男たちは役立たずなのであった。いや、役立たずというと言葉が悪すぎるが、イヴの庇護者にはなり得なかった。

 この小説では、闇から手をのばす男に勝てるのは、「人とのつながりを求める」男ではない。女を救うのは男の愛ではない。クラリッサとフラン、そしてイヴとの絆から生まれた、女たちの強い連帯なのだった。
 
 物語の最後、写真家となったイヴはカメラの前に全裸で立つ。 

この作品に取りかかるまえに、イヴは何冊もの本を漁って、ピカソの『ゲルニカ』から、アジアの傾いた壁に描かれた壁画まで見ていた、そして、古代には、ギリシアの神からインドの神まで、神々がしばしば女の聖なる三位一体として表現されていることを学んでいた。創造者としても保護者としても破壊者としても表現されていることを。

  物語の前半でフランは神の存在を否定していたが、最後は、イヴがクラリッサとフランと自らを神になぞらえた表現をするところで終わる。

 正直、平凡な小説なら、なんと大仰なとちょっと鼻白んでしまうかもしれないが、この小説は最後まで濃密なストーリーが展開されるので、納得して読み終えることができる。
 
 けれど、男性はこの小説を読んで、どんな感想を抱くのだろう?? 
 解説の北上さんは「もうお前たちなどいらない、というイヴの覚悟の前に、男性たる私はただうなだれるのである」とのこと。先のツイートもそうですが、こういう小説をどう受け止めるかが、リトマス試験紙になりそうですね。

わたしはわたし、ぼくはぼく(BOOKMARK 10号より) 『夜愁』(サラ・ウォーターズ 著 中村有希 訳) 

 映画というと、2017年最大に度肝を抜かれたのは『お嬢さん』だった。ヴィクトリア朝を舞台にしたサラ・ウォーターズの原作『荊の城』を、日本占領下の韓国の話に作りかえただけでもじゅうぶんインパクトがあるのに、まさに文字通り「一糸まとわぬ」女子たちの熱演がまた……

 というわけで、サラ・ウォーターズが『荊の城』の次に発表した『夜愁』を読みました。 

夜愁〈上〉 (創元推理文庫)

夜愁〈上〉 (創元推理文庫)

 

  物語は1947年のロンドンではじまる。

そう、これがわたしという人間の成れの果て。部屋の時計も腕時計も止まったまま、大家の玄関をおとなう病んだ人々の流れで時をはかる。それがわたし。ケイはみずからに、そう囁きかける。

 第二次世界大戦が終わり、ようやく平和が訪れたというのに、「成れの果て」という言葉が出てくるように、この小説の登場人物たちはみな沈鬱な影を背負っている。

 病院の二階の薄暗い借家で空虚な日々を送るケイ。
 その病院に、ダンカンという若い男がマンディ氏という老人を連れて通っている。父子のように見えるダンカンとマンディ氏だが、ダンカンには家族は別にいる。どうして家族と離れて、マンディ氏という老人と一緒に暮らしているのか? 
 ダンカンの姉であるヴィヴにはレジーという恋人があるが、堂々と会うことのできない関係を長年続けている。ヴィヴの職場の仲間であるヘレンにはジュリアという恋人があるが、ふたりの間には溝ができつつあった……


 と、どの登場人物も過去の人間関係にとらわれ、まるで亡霊のように日々を送り、戦争が終わり、時代が変わったというのに、未来に向けて歩き出すことができない。いったい過去にはなにがあったのか?


 そこで物語は1944年にさかのぼる。ドイツからの空襲にひっきりなしにおそわれ、死がずっと身近だった頃へ。戦争の恐怖にさいなまれながら、必死で生きて必死で他人を求め、必死で恋をしたあの時代へ――


 この小説は、だれかが殺されたりといったミステリー的な要素はなく、時代をさかのぼって語ることで、人間関係の謎が解き明かされるという構造になっている。

 なので、最後まで読み終わると、また最初に戻って、現在(1947年)の状況を確認してしまう。
 すると、現在(1947年)の平和な時代を描いた冒頭で、閉塞感がもっとも強く感じられ、常に死の恐怖と隣り合わせだった頃(1944年)、生命力が一番燃えあがっていることに気づく。物語の最後、戦争が激しくなりはじめた時代に(1941年)、愛が生まれる美しい瞬間を描くことで、現在(1947年)の状況と対比して、愛や美しさのはかなさが際立つという仕組みになっている。


 また、『荊の城』では、精神病院の描写などがキレキレだったサラ・ウォーターズのたくみな筆致は、この作品でもじゅうぶんに発揮されていて、空襲から逃れるシーンも臨場感に満ちているが、戦争以上に恐怖の場面、血も背筋も凍るシーンもちゃんと用意されているので、その意味でも期待を裏切らない(?)読みごたえがある。


 といっても、決して暗く重苦しいばかりの小説ではなく、登場人物たち、とくに女たちは『荊の城』の主人公ふたりと同じように、強くてたくましく、なにがあっても最後は前を向いて生きる。この救いのない現在の状況から脱けだそうと、行動を起こそうと決意する。


 そして、サラ・ウォーターズの小説のテーマとも言える、女同士の愛もさらに堂々と正面から描かれている。
 ヴィクトリア朝同様、この時代も女と女の愛は禁断であったようだが、そんなこと知ったことか!とばかりに、死の危険すらもそっちのけで恋愛に身を焦がす女たちの姿には圧倒される。また、恋愛にかぎらない同性同士の心の交流、いわゆるシスターフッドブラザーフッドにも癒される。


 相手が異性であれ同性であれ、愛することそのものが尊い――と字面で見ると、なんだか陳腐な物言いだけど、こうやって物語で読むと深く納得させられる。


 そういえば、今号のBOOKMARK(10号)は「わたしはわたし、ぼくはぼく」というテーマで、いわゆるLGBT小説を特集している。私が読んだなかでは『キャロル』に、そして名作『"少女神" 第9号』!  

“少女神”第9号 (ちくま文庫)

“少女神”第9号 (ちくま文庫)

 

  『"少女神" 第9号』はLGBT小説として意識したことがなかったが、言われてみると、『ウィニーとカビ―』なんてまさにそうだ。

 「あたしがカビ―のお父さんになれたらいいのに」
 「ぼくがウィニーのお父さんになって、ウィニーがぼくのおやじになればいい」

と言いあい、「おそろいのゆったりした黒のタキシードを着て」プロムに行く、ウィニーとカビ―。「抱き合って、小さな子供のように相手の腕の中で」眠るふたり。


 あと、映画『アデル、ブルーは熱い色』は見たので、原作のバンド・デシネ(フランスのマンガですね)『ブルーは熱い色』も読んでみたい。 

ブルーは熱い色 Le bleu est une couleur chaude

ブルーは熱い色 Le bleu est une couleur chaude

 

  出会いの場面はそのままらしいけど、はじまりも結末もちがうとは知らなかった。

 『ぼくには数字が風景に見える』は「共感覚」を描いているとのことで、前から読んでみたいと思っていたけれど、LGBT小説にあてはまるとは知らなかった。 

ぼくには数字が風景に見える (講談社文庫)

ぼくには数字が風景に見える (講談社文庫)

 

  そして、『トランペット』は、トランぺッターであった父親が亡くなり、すると父親は実は女であったことが判明する……という物語で、 

トランペット

トランペット

 

 たしか実際にも似たような話があったと思うが、どういう顛末になるのか気になるって、毎号のことですが、紹介されている本ぜんぶ読んでみたくなりました。

陣治役が阿部サダヲってどうだろう?? 『彼女がその名を知らない鳥たち』(沼田まほかる 原作/白石和彌 監督)

 年末に原作を読み、どうしても ↑ の疑問がわいてきたので、年明けも公開しているところを探したら、塚口サンサン劇場で期間限定上映をしていたので行ってきました。

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 塚口サンサン劇場に行くのははじめてでしたが、ミニシアターといっても、十三の第七藝術劇場や九条のシネ・ヌーヴォみたいなアートっぽさは少なく、いかにも「ダイエーに併設されました」といった昔ながらの映画館でした。
 でも、劇場の中はとてもきれいで(トイレも!)手作り感にあふれ、なんといってもレディースデイが1000円(1100円ではなく)という超良心価格。

映画は小説にかなり忠実で、ストーリーを紹介すると 

彼女がその名を知らない鳥たち (幻冬舎文庫)

彼女がその名を知らない鳥たち (幻冬舎文庫)

 

  十和子(蒼井優)はまだ33歳だが、八年前に恋人の黒崎(竹野内豊)と別れたあとは外出もほとんどせず、半ばひきこもりのクレーマー女として無気力な日々を送っている。15歳年上の薄汚い中年男の陣治(阿部サダヲ)と暮らしているが、十和子に執着し、ストーカーめいた行動までとる陣治を軽蔑している。

 しかし、若い男(松坂桃李)と出会ったのをきっかけに、封印していた黒崎との日々が蘇りだす。そんな矢先、黒崎が五年前から失踪していると知り、陣治が関与しているのでないかと疑いはじめる……

 原作ではこの陣治が薄汚いどころか、容赦なくただただ不潔な男に描かれていて、生理的嫌悪感までもよおすほどだった。なので、阿部サダヲではちょっと可愛すぎるというか、ポップすぎるんじゃないか?? と思えて仕方がなかった。

 かわりに、だれがいいかと考えると……若いときの柄本明とかかな、、、生理的嫌悪感という点では、若いときの武田鉄矢もいいような気がするが、説教臭さとか「ぼくは死にましぇ~ん!」要素が入りこんできたら困る。(注:言うまでもないですが、すべて個人の感想です)

 で、映画の制作側もそのままのサダヲではきれいすぎると危惧したのか、かなり汚く扮装しているのだけど、観た感想としては、原作とは別とわりきって、そんな汚さなくてもよかったのではないかと思った。顔を塗ったりまでしているので、いま話題の浜ちゃんの黒塗りみたいに、なんかコントのように見える瞬間もあったので。

 まあつまり、そんな小細工など不要と思えるくらい、阿部サダヲ蒼井優もいい演技をしていた。
 大阪が舞台なので、ふたりともずっと関西弁なのだけど、そんな映画を観ると関西人は往々にして関西弁ポリスになってしまうが、蒼井優の関西弁がほんと上手でおどろいた。大阪に住んでたんだっけ? と、つい調べてしまったところ、福岡出身で両親は関西人らしい。サダヲは少し無理してるかな? と頑張ってる感もあったけれど、それでも関東の人間とは思えないほど上手かった。

 また、見直したというか、いや、見下したこともないけど、予想を上回る演技を見せたのが松坂桃李だった。
 ネタバレかもしれんけど、ほんとしょーーーもない男を見事に演じていた。松坂桃李のみならず、蒼井優はうざい女、阿部サダヲはきもいおっさん、そして竹野内豊は「最低」(という言葉では全然足りないが)男を見事に演じていた。

 思い出したら、白石和彌監督の映画『凶悪』では、こいつらほんまもんの鬼畜じゃないの?? と思ってしまうくらい、リリー・フランキーピエール瀧が凶悪な役をほがらかに演じていた。監督の見事な手腕なんでしょうか。

 原作は徐々に徐々に真相があかるみになり、最後のどんでん返しで「なるほどそうか!」と膝を打つ、マーガレット・ミラーの小説のようなミステリーで、映画もストーリーは同じなのだけど、時間軸の構成を変えているため、純愛がより強く印象に残る。


どうして陣治はそこまで十和子を愛したのか?
どうして十和子はそこまで黒崎を愛したのか?
どうして十和子は自分を苦しめる男にばかりひきつけられるのか?

 恋愛におけるこの類の疑問は、心理学で説明することは可能なんだろう。
 自分を肯定できていないから、自分を傷つけるような相手を選んでしまうとか、相手を助けることに自分も依存している「共依存」の関係だとか……

 でもそんな一般論でなにが解決できるわけでもない。十和子や陣治が救われるわけではない。どうしてこの人でないといけなかったのかなんて、ほんとうのところだれにも説明できない。

 このラストも、救いや解決になるのかはわからない。これで十和子が立ち直ったり、成長できるのかというと疑問を感じる。また同じようなことをくり返すのでは、という気もする。
 それでもやはり、「これからはしっかり正気保って生きていくんや」という陣治の言葉だけは忘れてはならないのだろう。 

毒親に苦しむ子どもたちへ 『Everything I Never Told You』 Celeste Ng(セレスト・イン)

 少し前、"Fire and Furyをはやく読まないと" といった書きこみをツイッターでいくつか見つけ、「いま人気の小説かな?」と思ってしまったりと、洋書情報からあっという間に乗り遅れてしまうのですが、今年こそは洋書もたくさん紹介したいものです。

(しかも去年は、調べもので"Sapiens"という本の訳書を図書館で借りようとしたら、予約が200件以上あり、なんでこんなに人気なんだろう?? と首をひねっていたら、少し経って、本屋で「2017年最大のノンフィクション話題作」と『サピエンス全史』が並んでいるのを見て、はじめてベストセラーだと知っておどろいたこともあった……)

  で、最新作『LITTLE FIRES EVERYWHERE』もベストセラーになっている、Celeste Ng(セレスト・イン)の『Everything I Never Told You』を年末年始に読みました。 

Everything I Never Told You

Everything I Never Told You

 

 Lydia is dead. But they don't know this yet. 1977, May 3, six thirty in the morning,

 と、1977年のアメリカのオハイオ州の小さな町を舞台に、16歳のLydiaが湖から死体で発見されるところからはじまる。
 
 父親のJames、母親のMarylin、そして兄のNathanが、Lydiaの死の真相を究明しようとする物語だ。といっても、ミステリーというより、家族ドラマの色が濃い。思春期の娘が行方不明になるということ自体はとくに珍しいことではないと警察は言うが、Jamesが中国系であるため、この一家は町で唯一のアジア系住人として、どこにいても人目をひいていたのだ。


 となると、Lydiaは人種差別で苦しんでいたのかと想像できるが、実はそれだけではない。Lydiaが一番苦しんでいたのは、母親のMarylinから「自分のようになるな」というプレッシャーを常に与えられていたことだった。


 白人の娘として育ったMarylinは、医者になることを夢見ていたが、だれからも理解してもらえなかった。
 Marylinの母親は、夫(Marylinの父親)に捨てられても、「女は良妻賢母であるべし」という信念は捨てなかった。女は家庭に入るべきという母の望みとは裏腹に、Marylinはひたすら学業に邁進するが、理系を専攻すると、「女の子がどうして?」と周囲からも怪訝に思われる。

 有名大学に進み、そこで教授をしていたJamesと出会い、愛しあうようになる。そして在学中に妊娠し、結局学業を断念して家庭に入る。母親の望みどおり家庭に入ったものの、当時は州によっては異人種間の結婚がまだ禁止されていた。
 Marylinの結婚式で、母親は "It's not right" をくり返し言う。母親と会ったのはそれが最後だった。


 しかし、Marylinは医者になる夢を捨てることはできなかった。Nathan、Lydiaを産んだあと、母親が遺した料理本を手にしたMarylinは、自分の人生が閉ざされる絶望を感じる。自分の人生を取り戻すため、家を飛び出し、もう一度学校に入ろうとする。

 が、ここで三人目の妊娠が発覚し、結局学業を諦めて家庭に戻り、Hannahを産む。そして自分の夢を、自分に一番よく似た娘のLydiaに叶えてもらおうと、ひたすらLydiaの教育にうちこむようになる……


 まあ、それがおそろしいのである。宿題やテストの成績をいちいちチェックするのはは当たり前で、クリスマスなどにプレゼントするものも、『図解 人体の解剖』とか『Famous Women of Science』といった本ばかり。プレゼントというより攻撃だ。
 しかし、LydiaはMarylinが家出したときの不安を強く覚えているので、また見捨てられるのではないかと逆らうことができない……


 で、父親のJamesの方はどうだったのかというと、こっちはこっちでまた恐ろしい。

 Jamesは貧しい中国系移民の子どもとして育ち、幼いころから周囲に溶けこむことができなかった。そしてJamesも、白人に近い見た目のLydiaを一番可愛がり、やはり自分が果たせなかったこと――学校に溶けこんで人気者になること――を託すようになる。
(ちなみに、幼いころから自分によく似た不器用さ、周囲とのなじめなさを発揮していたNathanにはやたら冷たくあたる)


 ほんと地獄やな、とつくづく感じた。母親からは勉強して医者になるよう言われ、父親からは「リア充」になるようにと圧をかけられるなんて。

 Lydiaがいくら白人に近くても、アジア系であるため見た目だけでも周囲から浮いている。そのうえ勉強のプレッシャーもあるので、学校に友達なんていない。
けれど、Jamesが目を光らせているので、友達と電話するふりすらしないといけない。どこにもつながっていない電話をただ持つのだ。

 これだけでも、死にたくなるのはわかるような気がするが、Lydiaが死に至るまでの経緯は、ここからまたひとひねりがあって、なかなか盛りだくさんの小説だった。
 ネタバレになるかもしれないけれど、最後は「家族の再生」という前向きな物語になるのだが……正直な感想としては、この両親あれだけ散々Lydiaを苦しめといて、立ち直りめっちゃはやいな!と思った。

 いや、私が親ではないから思うのかもしれないが、ほとんどの親は自分のことしか考えていないのだから、そんなに親の言うことを真面目に聞かなくていいと、世間の子どもたちに言ってあげたい。

 Lydiaの感じる「見捨てられ不安」については、最近読んだ『自分を好きになろう』でも、作者が不仲な両親のもとに育って、大人になってからも「見捨てられ不安」に悩まされたことが書かれていた。 

今まで自分を助けれてくれた、自分の性格や資質は、不仲な親が与えてくれたことに気がつきました。授けられたものを未来の幸せにつながることのために使うか、過去のできごとを悔やむ材料に使うか、決めるのは自分です。自分で決めていいなんて、人生はなんて自由なんだろう。

 Lydiaも生きのびることができたら、この境地に達することができたのかもしれないのに。


 ちなみに、この小説の重要なアイテムとなる「料理本」について、作者のCeleste Ngが下記でエッセイを綴っている。

What Did My Mother the Chemist See in Betty Crocker? - The New York Times

作者の母親は料理本を持っていたものの、中国から移り住んだ研究者であったため常に忙しく、料理本に書かれている良妻賢母の教えについて違和感がなかったのか、作者が尋ねても

“But I just thought: I’m not a housewife. I’ve never been a housewife. So. . . . "

と、あっさりスルーするタイプの女性だったらしく、立派な研究者として大成功したとのことです。

まあとにかく、親であろうとなかろうと、だれでも自分の人生を生きなければいけないなとつくづく感じ、子どもに自分の夢を託したりするのは法律で禁止した方がいいとすら思いました。

2018年 こりゃ読まなあかんやろブックリスト

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 すっかり年もあけました。こちらの門松は、大阪のフェスティバルタワーのものです。ここから歩いて初詣へ……

 

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 堂島のジュンク堂本店の裏にある、堂島薬師堂へ。あらためて見ると、ほんと奇抜なお堂だ。
 というわけで、年末年始休暇も終了。ちなみに、家の近所のブックオフに行ったら、外国人作家のコーナーにジェーン・スーが入っていた。


 年頭なので、2018年に読みたい本、いや、読みたいというか、こりゃ読まなあかんやろ、という本をリストアップしてみました。


 まず、翻訳ミステリーシンジケートのサイトで、第九回翻訳ミステリー大賞候補作が発表されました。

honyakumystery.jp

『嘘の木』『その犬の歩むところ』『ハティの最期の舞台』『東の果て、夜へ』(このタイトルを見るたびに、『夜の果て、東へ』とつい思ってしまい、頭のなかで入れ替えるという作業をくり返してしまう)『フロスト始末』というラインナップ。

 これまで「1冊も読んでいない……」という年もあったけれど、今年は前に紹介したように、"その犬"と"ハティ"は読了済。どちらも選ばれたことに異存のないおもしろさでした。が、どちらも「謎解き」の要素は薄いけれど、、、けどよく考えたら、去年大賞をとった『その雪と血を』も「謎解き」ではない。


 で、前から気になっていた『嘘の木』(フランシス・ハーディング 著 児玉 敦子 翻訳)が選ばれていたので、はよこれ読まなあかん!と思いました。 

嘘の木

嘘の木

 

  まだ科学が宗教や迷信と対立していた19世紀を舞台に、リケジョ(←死語 まだ使ってる人いそうだが)が、牧師であり博物学者でもあった父の死の謎を解き明かすという、もともとヤングアダルト向けに書かれた謎解きファンタジーらしい。
 ヤングアダルトといっても、このあらすじだけでも、科学と宗教、あるいはジェンダーについていくらでも考察できそうなので、もう実際に読んでみるしかない。


 そして、最終候補作には選ばれていないが、外せないのが陳浩基の『13・67』(天野健太郎 翻訳)。 

13・67

13・67

 

香港ミステリー、いや中国語圏ミステリーの傑作という評判だけでもじゅうぶん気になるのに、私の尊敬している高野秀行さんが正月早々から

陳浩基『13・67』(文藝春秋)、残りの中篇2本を読み終える。どちらも超絶面白かった。というか、この本は私がこれまでの人生で読んだミステリの中でもベスト3に入るんじゃないか。

本書は2018年に私が読んだミステリ第1位になるだろう。まさか元日にベストを読んでしまうとは。

とまで絶賛しているので、こりゃなにがあっても読まなあかん!!と、私のなかでアラームが鳴りました。


 ミステリー以外では、渡辺由佳里さんの洋書ファンクラブでの「2017年 これを読まずして年は越せないで賞」の候補作一覧を見ていたところ、

youshofanclub.com

まず『Eleanor Oliphant Is Completely Fine』に心ひかれた。早々に翻訳も出ている――『エレノア・オリファントは今日も元気です』(ゲイル ハニーマン 著 西山 志緒 翻訳)。 

Eleanor Oliphant is Completely Fine: Debut Bestseller and Costa First Novel Book Award shortlist 2017

Eleanor Oliphant is Completely Fine: Debut Bestseller and Costa First Novel Book Award shortlist 2017

 

 

エレノア・オリファントは今日も元気です (ハーパーコリンズ・フィクション)

エレノア・オリファントは今日も元気です (ハーパーコリンズ・フィクション)

  • 作者: ゲイルハニーマン,西山志緒
  • 出版社/メーカー: ハーパーコリンズ・ ジャパン
  • 発売日: 2017/12/16
  • メディア: 単行本
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  翻訳本の可愛らしい表紙からは、ドジでお茶目な(これこそまさに死語だが)若い女性の主人公が、恋や仕事に悩んだりする話かと思ってしまうが、そんなチャーミングな小説ではまったくないらしい。

 アマゾンの紹介文には「独身30歳、友達なし、恋人なし。話し相手は毒母と観葉植物――」と書いてあり、これでもまだ、女性向けの小説によくあるパターンかな?と思えなくもないが、渡辺由佳里さんの評で「読者が最初に出会うEleanorは、嫌な女でしかない。他人に手厳しく、同情のかけらもない。職場で嫌われているのも当然だと思う」と、はっきり「嫌な女」と書かれているので、読まなあかんスイッチが入った。


 あと、Celeste Ng(翻訳ミステリー大賞シンジケートのページでは、「セレスト・イン」と表記されてますね)の『Little Fires Everywhere』も選ばれていて、考えたら、作者の前作『Everything I Never Told You』を以前にkindleで購入したことを思い出し、年末年始にまずは『Everything I Never Told You』を読んでみた。 

Little Fires Everywhere: The New York Times Top Ten Bestseller (English Edition)

Little Fires Everywhere: The New York Times Top Ten Bestseller (English Edition)

 

 

Everything I Never Told You (English Edition)

Everything I Never Told You (English Edition)

 

  『Everything I Never Told You』については、またあらためて感想を書こうかと思うけれど、まあとにかく、親が自分の夢を子どもに押し付けるのは禁止!ダメ!ゼッタイ!!と、覚せい剤禁止を訴えるくらいの勢いで伝えたくなる小説だった。

 で、今作の『Little Fires Everywhere』も同様に、家族の問題と人種差別を扱い、渡辺由佳里さんの評によると、「アメリカのリベラルが持つある種のナイーブさというか、見当違いな独善性」(「見当ちがいな独善性」って、アメリカに限らず、あるある!って思いますね)を描いているらしく、やっぱ読まなあかんと心に刻みました。

 あとは、私のなかで「2017年 こんな御仁だったのか大賞」を受賞した、パク・ミンギュの『ピンポン』に『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』も読まなあかんし、(『ピンポン』は「はじめての海外文学」の推薦本リスト vol.3でも、岸本佐知子さんなど多くの人から選ばれていた) 

ピンポン (エクス・リブリス)

ピンポン (エクス・リブリス)

 

 

三美スーパースターズ 最後のファンクラブ (韓国文学のオクリモノ)

三美スーパースターズ 最後のファンクラブ (韓国文学のオクリモノ)

 

 そのうえ、柴田元幸さんが訳した『ハックルベリーフィンの冒けん』といった古典ものまで挙げていったらキリがない… 

ハックルベリー・フィンの冒けん

ハックルベリー・フィンの冒けん

 

 ……というか、なんといっても、2017年必読のはずだった『騎士団長殺し』をいまだ読んでいないのだ。まずは『騎士団長殺し』から読んでみるべきだろうか? 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

 

 

 

2017年の締めくくり――女子高生たちによる〈疑似家族〉を描いた『最愛の子ども』(松浦理英子 著)

お題「年末年始に見たもの・読んだもの」

 さて、きょうは大晦日。

 というわけで、なんとしてでもこれを読まないと年を越せん!! 
と思っていた、松浦理英子の新刊『最愛の子ども』をようやく読みました。大掃除もそっちのけで。(毎年そっちのけだろーっていう声もあるが) 

最愛の子ども

最愛の子ども

 

 「わたしたちの心をかき立てるのは同級の女子高生三人が演じる疑似家族」と帯にあるように、私立玉藻学園高等部二年四組の舞原日夏(ひなつ)、今里真汐(ましお)、薬井空穂(うつほ)の三人が親密な時間を過ごし、それぞれ〈パパ〉〈ママ〉〈王子様〉という役名をクラスメートからつけられ、まるで疑似家族のような関係を育んでいくという物語。
(話は逸れますが、松浦さんの小説の登場人物たちの名前がなんかかっこいいんですよね。『ナチュラル・ウーマン』の容子と花世にも憧れた)


 感情的で意固地なところのある真汐を、いつもあたたかくつつみこむ日夏。そして無邪気で天真爛漫、でもどことなく危なっかしい空穂が加わり、日夏と真汐は空穂の面倒をみることに夢中になる。母子家庭で育ちながらも、生活能力に乏しい空穂の弁当を作り、空穂の家で二人用の布団を並べて三人で眠る。

空穂を弄んでいる日夏と真汐は、さまざまに形を変える空穂の顔に見入るわけではない。しょっちゅうしていることだからでもあるだろうし、歪められる顔の面白さばかりではなく、顔の肉のやわらかさやなめらかさや弾力を指で味わうだけでも楽しいからだろう。

 定義づけることのできない三人の関係。ふつうの〈友達〉ともちがうし、しかし、恋愛や性愛関係、いわゆる〈百合〉というようなものでもない。(いや、BLとか百合とかまったく詳しくないのですが)

 松浦理英子はこういう名づけられない関係、手垢のついた言葉ではあらわすことのできない交流を描くことが、ほんとうにうまいとあらためて思う。

 『裏ヴァージョン』での〈元親友〉であり〈現同居人〉である昌子と鈴子の決して触れあったり性愛に発展することのない、愛憎が交錯する関係。 

裏ヴァージョン (文春文庫)

裏ヴァージョン (文春文庫)

 

 『犬身』の主人公房江は、愛しい人の犬になりたいと願い、そして文字通り犬になる。(エロス的な比喩ではない)

犬身 上 (朝日文庫)

犬身 上 (朝日文庫)

 

  『奇貨』では、つらい恋に苦しむレズビアンの七島と、恋心というものをいまいち理解できない中年男本田との奇妙な友情めいたものが描かれていた。(ちなみに、この『最愛の子ども』でも、本田のライバル?斑尾椀太郎が登場します) 

奇貨 (新潮文庫)

奇貨 (新潮文庫)

 

  傍目からは架空の家族のように見える三人だが、当然ながら、三人には架空ではない家族がいて、それぞれの家族にはかすかな、あるいは大きな、軋轢がある。
 未成年の高校生である以上、実の家族から逃れることができない。血のつながった家族と架空の家族が緊張関係に陥り、三人の〈ファミリー〉はゆらぎはじめる。


 三人の〈ファミリー〉が主筋となっているが、この小説には、ほかにもいろいろ着目すべき観点がある。
 
 まずひとつは、語り手の問題。日本の小説では珍しい「わたしたち」が語り手となっている。二年四組のクラスメートという共同体が語っているという構造である。
 日夏、真汐、空穂のあいだにおきた出来事、そして彼女たちの内面は「わたしたち」の憶測、なんなら妄想という形で語られる。

 以前に読んだジョシュア・フェリスの『私たち崖っぷち』は、会社が潰れていくさまを従業員である「私たち」が語るという、珍妙だけどおもしろいところのある意欲作だったけれど、やはり日本語の「私たち」は、英語の"We"以上に違和感があったのか、あまり話題にならなかった。 

私たち崖っぷち 上

私たち崖っぷち 上

 

  しかし、この『最愛の子ども』は、「わたしたち」の視点を使うことによって、三人の関係のあやふやな儚さがより際立ち、それゆえの貴重さがよく伝わっていたと思う。


 さらに、三人以外のクラスメートたちも丁寧に書きこまれていて、読みごたえがあった。

 キャラクターとして興味深かったのは、女子からも恋心を抱かれる美少女の苑子だ。美しいけれど、頭がいいわけでも感受性が豊かなわけでもなく、話していてもなんのおもしろみのない女子なんだけど、男子に言い寄られるまま付きあったかと思うと、あっさり別の男子に乗り換えたり、最終的にはその男子もさくっと捨てたりするあたりが、いわゆる「魔性の女」って、実はこういう何も考えてない感じなのかなーというリアルさがあった。

 登場するクラスメートも先生もだいたい人柄がよく、修学旅行といった学校行事もたいへん楽しそうで(修学旅行で旭山動物園に行っててうらやましかった。中学でも高校でも、修学旅行で信州の山の中に行かされた私からすると)、作者はあえて現実社会よりユートピア的な学校生活を描くことによって、学校を離れ、ばらばらになる三人の今後との対比をつけたのだろう。

まだまだ心の鍛え方が足りない、と反省した後、だけど、と真汐は考える。心を鍛えるだけでは幸せに生きて行くのに充分ではないのだ。……どれだけ性格がよければ今のわたしがまったく愛せない人たちを愛せるのだろう。気が遠くなる。美しいことばかりではない道が目の前に果てしなく続いている。 

 これからの彼女たちはどうなるのか? 

 よくあることだけれど、いつしか疎遠になって、もう二度と会わないのかもしれない。もしくは、『裏ヴァ―ジョン』の昌子と鈴子のように、二十年後くらいに再会し、「あなたは変わった」と激しい言葉の応酬を重ねながら、また新たな絆を深めていくのかもしれない。  

ああ、そうだ、山下公園で日夏とわたしは何年後かに空穂がどんなふうになっているか見に行くと約束したんだった。思い当たると憂鬱そうだった真汐の顔に微笑みがこぼれる。

 

 

12/23 柴田元幸×内田輝/レベッカ・ブラウン『かつらの合っていない女』刊行記念朗読会 @ワールズエンドガーデン

 で、前回の続きで、神戸市立外大の公開講座のあとは、灘の古本屋ワールドエンズガーデンでの朗読会へ。

 柴田さんの朗読はこれまでも何回か聞いたことがあるけれど、今回はクラヴィコード&サックスの内田輝さんと一緒なので、音楽つきってどんな感じなんだろう?と期待が高まる。


 前から行ってみたいと思っていたワールドエンズガーデンも、阪急の高架近くにあり、電車の音が伴奏に重なってこぢんまりとした店内に響き、とてもいい雰囲気だった。(ニューヨークみたいだと柴田さんはおっしゃってました。ニューヨークかどうかはともかく、やっぱ神戸やなーとは思った。大阪とはちがう)


まずはもちろん、レベッカ・ブラウンの『かつらの合っていない女』から数編を朗読。 

かつらの合っていない女

かつらの合っていない女

 

  ナンシー・キーファーの絵にあわせて、レベッカが文章を書いたこの本。短編小説というより、鮮烈なイメージを喚起する詩のような言葉が綴られているのだけれど、おとぎ話のような、寓話のような感触も失われていない。
 『私たちがやったこと』より抽象的になっているのだけれど、解像度があがっているような文章。 

私たちがやったこと

私たちがやったこと

 

 ところで、先日レベッカが日本に来たのは、アメリカの(だったかな)旅行会社主催の「奥の細道体験ツアー」に参加するためだったらしい。「聖地巡礼ツアー」流行ってると聞いたことはあるけれど(『君の名は。』とか)、海の向こうでそんなことになっているとは思いもよらなかった。


 レベッカ・ブラウンの次には、なんとパトリック・マグラアの『オマリーとシュウォーツ』の柴田さん訳も披露してくれた。永遠に失われた愛を求めて、ニューヨークを彷徨う天才ヴァイオリニストの物語。

 パトリック・マグラアといえば、宮脇孝雄さんが訳しているイメージがあるので、調べてみると、この『失われた探検家』に宮脇さんの訳されたものが収録されているようだ。こちらも読んでみたい。 

失われた探険家 (奇想コレクション)

失われた探険家 (奇想コレクション)

 

  ちなみに、柴田さんの『生半可版 英米小説演習』では、パトリック・マグラーという表記で『スパイダー』が紹介されていて、「マグラーはこの作品で『リリカルな狂気』を見事に編み上げている」と解説されているけれど、今回の『オマリーとシュウォーツ』もまさに「リリカルな(そして切ない)狂気」の物語でした。 

生半可版 英米小説演習 (朝日文庫)

生半可版 英米小説演習 (朝日文庫)

 

  質疑応答では、内田輝さんに音楽はどうやってつけるのか?という、私も気になっていた質問が出ました。とくに前もって決めているわけではなく、その場の雰囲気に応じて(今回なら電車の音とか)演奏しているそうです。


 柴田さんには、こういった翻訳や朗読会のよろこびはどこにあるか? という質問が出ました。
 柴田さん曰く、自分が訳さなければ世に存在していなかったものを生みだせるのが翻訳のよろこびとのこと。また、『MONKEY』で日本人の作家に依頼して書いてもらうときも、自分が依頼しなければ存在していなかった作品が生まれるのがうれしいとおっしゃってました。

 朗読会についていえば、販促活動であるのは事実だけど、以前に学生新聞?かなんかの取材で、翻訳者、かつフランス文学者である野崎歓さんと対談したときに、ふたりともミュージシャンになりたかったという話題で盛りあがったとのことで(その対談、どっかにアップするか、本に収録してほしいものだ)、こういう朗読会はミュージシャン願望をちょっと満たせるのかも、とのことでした。


 それから、おなじみバリー・ユアグローが最近短編を何本かまとめて送ってきたとのことで、そこから朗読。ユアグロ―らしい、奇妙でユーモラスな味わいのある作品で、そのうち出版されるようです。

 ちなみに、バリー・ユアグローの最近作は”こんまり”に影響を受けて書いた「MESS」(片付けられない男)というものらしく、それもめちゃめちゃ気になった。
 たしか、こんまりは「ときめかないものを全部捨てる」とかいう主張だったと思うけれど(よう知らんけど)、ときめき過剰な男の話だろうか。いや、他人のことは言えませんが……


 それにしても、少し前までは、アメリカでは作家が朗読会とかポエトリー・リーディングとか頻繁に行っていると聞いても、なんでわざわざ声に出して読むのか? くらいに思っていたけれど、こうやって上手な朗読を聞いていると、その魅力が――文章が身体全体に染みわたるような――ほんとうによくわかる。声や息遣いで、言葉の響きがより深まって伝わるものなのだと実感する。
 昼も夜も貴重な時間を過ごせた一日でした。