快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

『タイニー・ファニチャー』『優雅な読書が最高の復讐である』山崎まどかトークイベント@出町座(2018/09/01)

 さて、先週の週末は、映画『タイニー・ファニチャー』の公開と、書評本『優雅な読書が最高の復讐である』の発売を記念した、山崎まどかさんのトークショー@出町座に行ってきました。 

優雅な読書が最高の復讐である 山崎まどか書評エッセイ集
 

  まずは映画の話からはじまり、といっても、『タイニー・ファニチャー』も『GIRLS』も見ていない私は、映画についてはなんとも言えないが……

けれど正直なところ、レナ・ダナムのことを「アーティスト一家に生まれたセレブなお嬢さん」とうっすら思っていたのだけど(もっとイヤな言い方をすると「ええ身分やな」的な)、レナ・ダナムが自分のダメなところも赤裸々に映画にして、かといって、よくある「女子の自虐ネタ」でもなく、「等身大の自分を受けいれる」ことを描いている、という点に興味をもった。
 同じように語られていた、グレタ・ガーウィグの『フランシス・ハ』はおもしろかったので、『タイニー・ファニチャー』もまずは見てみないと、と思った。

 で、映画の話で一番気になったのが、脚本家のディアブロ・コディーだ。ジェイソン・ライトマン監督と組んで、これまで『JUNO』や『ヤング≠アダルト』の脚本を書いている。

 前にも何度か書いたと思うけれど、『ヤング≠アダルト』は大好きな映画、というか、たまらなく痛々しい気持ちになる「好き好き大嫌い」(岡崎京子)な映画なのだけど、ディアブロ・コディー本人も魅力的で、かなりぶっ飛んだ人物のようだ。ブログがプロデューサーの目にとまって脚本を書きはじめたらしいが、ウィキペディアによると、ストリッパーやテレフォン・セックスのオペレーターなどもしていたとか。

 そして、ディアブロ・コディーがまたジェイソン・ライトマン監督と組み、再びシャーリーズ・セロンを主役に迎えたのが、いま公開中の『タリーと私の秘密の時間』。
 なんでも、シャーリーズ・セロンはふつうのおばさんを演じるため、体重を20キロ増やしたとか。たしか『モンスター』でも増量していたと思うが、やはり四十代になると、元に戻すのに一年以上かかったらしい……


 こちらの公式サイトの予告編で、そのたるんだ肉体を拝むことができるのだが、「これはヤバいやつや!」と思わず口に出してしまいそうになる仕上がりだ。なんならマッドマックスよりおそろしいかもしれない。女優魂ってすごい。ほんとシャーリーズ姐さんは、アラフォー女性にとっての星ですね。

tully.jp

 「仕事、家事、育児に追われて自分の時間のない女性たちへ」というのは、女性にとって普遍のテーマであり、よって陳腐なものになる危険もあると思うけれど、この面々ならきっとおもしろいはず。見に行かないと。

 このトークショーは二部構成になっていて、次は『優雅な読書が最高の復讐である』について。

 まずは、この本の装幀についての話を聞いた。山崎さんの大好きなイラストレーター、リアン・シャプトンにこの題字を書いてもらったらしい。たしかに素敵。
 ちなみに、山崎さんは電子書籍より「本」派らしいが、私は電子書籍があったらそっちでいいかなと思う派(なんせ場所がないので)だけど、そんな私でも「本」として持っておきたくなるつくりになっている。

 それから、『優雅な読書が最高の復讐である』に紹介されているもの、されていないものもまじえて、おすすめ本についてのトークに進んだ。ここで一番気になったのが、この本でも紹介されている、多岐川恭の『お茶とプール』。いや、まったく知らない作家だったので。 (『お茶とプール』は絶版なので、最近復刊されたらしい、直木賞受賞作『落ちる』を貼っておきます)

落ちる/黒い木の葉 (ちくま文庫)

落ちる/黒い木の葉 (ちくま文庫)

 

  『お茶とプール』は、1961年に発表されたミステリー小説、作者自身の言葉を借りると「サロン推理小説」であり、とある殺人事件から三角関係に陥る男女が描かれているらしい。
 三角関係といっても、どろどろの愛憎ものではなく、「割り切った男女が織りなすフランス的な、でももっと繊細でセンチメンタルで、だからこそセクシーな恋愛相関図」とのこと。ぜひとも読んでみたくなった。

 日本の作家では、あと小泉喜美子も話にのぼり、私は『女には向かない職業』『皮膚の下の頭蓋骨』などの翻訳と、ミステリマガジンに掲載されていた短編くらいしか読んでいないのだけど、『痛みかたみ妬み』に心ひかれた。だってタイトル最高やん。

 

  あとは、この本ではまだ紹介されていないけれど、いま大注目のケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』。(通常の書店では置いていないので、下記サイトをご参照ください)

C.I.P. Books — 『ヒロインズ』 2018年7月刊行 彼女たちもこの道を、めちゃくちゃになりながら進んでいった...

 
 実はこの日、出町座に行く前に、誠光社に『ヒロインズ』を買いに行ったら、最後の一冊になっていた。出町座のCAVA BOOKSでも、このイベントが終わると完売したらしい。

 『ヒロインズ』のヒロインとはだれのことを指しているのか? それは、スコット・フィッツジェラルドの陰にいたゼルダであり、T・S・エリオットの陰にいたヴィヴィアンである。日本なら高村光太郎と智恵子が有名だろうか。

 これまで夫の付属物のようにみなされてきた女性たちについて、作家であるケイト・ザンブレノが深い思い入れとともに綴ったこの作品。エッセイといっていいのだろうけど、エッセイという言葉でくくるにはシリアスで痛々しい。またじっくり感想を書きたいと思います。


 あとCAVA BOOKSでは、山崎さんが選んだ「復讐本」フェアをやっていて、そのなかにパット・マガーの『四人の女』があり、そうだ! 『七人のおば』がすごくおもしろかったので(前にも書きましたが)これも読まないと!と思った。ヘレン・マクロイの『牧神の影』とあわせて、今後の読書会の課題本候補として考えます。 

四人の女【新版】 (創元推理文庫)

四人の女【新版】 (創元推理文庫)

 

  

牧神の影 (ちくま文庫)

牧神の影 (ちくま文庫)

 

 そのほか、質疑応答も含めて、読書についての一般的な話(本の整理や処分の仕方など)も興味深かったが、とくに印象深かったのは、「5分でいいから本を読む」だった。
 山崎さんも、スマホやなんだかんだで本を読む時間を確保するのに苦労しているとのことで(少し意外だったが、まあ仕事だけでじゅうぶんお忙しいでしょう)、それでも「5分でいいから本を読む」ように心がけているらしい。私も心に刻もうと思った。

 と、イベントの時間はそんなに長くなかったにもかかわらず、盛りだくさんの充実した内容だった。
 純粋に本を読む喜び、読みたかった本を買って帰ったときのわくわくする気持ちを思い出させてくれるこの本(『優雅な読書が最高の復讐である』)、そしてイベントでした。

 

おれは黒い それって最高。『リズムがみえる』(絵 ミシェル ウッド 文 トヨミ アイガス 訳 金原瑞人 監修 ピーター バラカン)

 異常気象が続いたこの夏、暑さのせいか電車が止まったり、台風のせいで行くつもりだったライブが中止になったりと、なんだか落ち着かない日々が続くなか、8月の終わりにまたひとつ歳をとった。

 そしてまるで誕生日プレゼントのように、この絵本が届いた。(もちろん、サウザンブックスのクラウドファンディングで購入していたからですが) 

リズムがみえる

リズムがみえる

 

 さっそくページをめくると

わたしたちの始原のリズムがみえる。

人々の鼓動と陸の鼓動が

溶けあって伝わってくる。

 という言葉と、精密かつ躍動感のある絵から、アフリカのどこまでも広がる大地に音楽が響きわたっているのが目に浮かぶ。ところが―― 

奴隷商人がやってくる。

恐怖で鼓動が速まる。 

  ヨーロッパからやってきた奴隷商人たちが、アフリカの現地人を捕まえて船に積みこみ、新世界で売りとばすようになる。いや、新世界に着くまえに、船のなかで命を落とす者も少なくなかった。
 
 送りこまれた新世界では、太鼓を鳴らすことが禁じられる。「奴隷たちが、主人の理解できない方法でコミュニケーションをとることを防ぐためだった」と説明されているが、ほんとうは純粋におそろしかったのではないだろうか。生命の鼓動をそのまま写し取った鮮烈なリズムが。 

太鼓は禁止されたけれど

音楽は

わたしのなかに生きている。

 と、ここから現在に至るまでのブラックミュージックの歴史が綴られている。

 奴隷の歌からブルーズが生まれ、ラグタイムやジャズが街にあふれ、ビッグバンドがスウィングを奏でる。リズム&ブルーズ/ソウルやファンクがブラックミュージックに由来することは言うまでもないが、ロックン・ロールだってチャック ベリーがいなければ生まれなかった。

 南北戦争に世界大戦、公民権運動といった時代状況も、端に添えられた年表で解説されている。時代の速度に呼応するかのように、ブラックミュージックのリズムもどんどんとヒートアップしていく。もうレコードでのんびり歌を聴くような優雅な時代じゃないと言わんばかりに、レコードをひっかき、言葉をテンポよくたたみかけるラップ/ヒップホップが誕生する。

わたしのなかのアフリカは

自分の子どもをとりもどし

わたしにプライドを与え

わたしを自由にした……

(アレスティッド ディヴェロップメント「アフリカズ インサイド ミー」) 

  と、ブラックミュージックの歴史において、新時代を切り開いたアーティストの歌も引用されている。

  なかでも印象に残るアーティストはビリー ホリディと、先日亡くなったアリーサ フランクリンだ。(お気づきのように、この絵本では日本で一般的に使われている表記ではなく、現地の読みに近い表記を採用しています) 

ビリー ホリディが必死に戦い

アメリカの黒人女性を代弁する「レイディ デイ」になる。

彼女の歌をきいていると、涙がこぼれる。 

 ちょうど、村上春樹の『雑文集』のなかの「ビリー・ホリデイの話」を読み返したところだったので、胸に迫るものがあった。 

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

 

 作者がジャズ・バーを経営していた時代に遭遇した、物静かな黒人兵の物語。
 うん、ビリー・ホリデイならなんでもいいよ。ときどきそんなリクエストをした彼は、一度だけ、ビリー・ホリデイを聴きながら、肩を震わせ静かに泣いていた。

 それ以降、彼の姿を見かけることはなかった。 

僕は今でも、ビリー・ホリデイの歌を聴くたびに、あの物静かな黒人兵のことをよく思い出す。遠く離れた土地のことを思いながら、カウンターの端っこで声を出さずにすすり泣いていた男のことを。その前で静かに融けていったオンザロックの氷のことを。それから、遠くに去っていった彼のためにビリー・ホリデイのレコードを聴きに来てくれた女性のことを。 

  アリーサ フランクリンで思い出すのは、やはり松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』だ。 

ナチュラル・ウーマン (河出文庫)

ナチュラル・ウーマン (河出文庫)

 

私はあなたに恋する愚か者の列に加わった、とアリサが歌っている。

「不思議なんだけど」背中の上から囁きかける。「私、あなたを抱きしめた時、生まれて初めて自分が女だと感じたの。男と寝てもそんな風に思ったことはなかったのに。」 

  この絵本の年表にも、1967年にアリーサ フランクリンが『リスペクト』でヒットチャートの1位に輝いたことが記されている。

 『リスペクト』は “All I'm askin' is for a little respect when you come home” と「ねえ、少しくらいは大事にしてよ」と恋人同士のいちゃつきのようにも聞こえる歌だけど、 

R-E-S-P-E-C-T
Find out what it means to me

というくだりでは、単に色恋や性愛にとどまらない、黒人として、そして女性としての尊厳を切に求める声として胸に迫る。

 黒人としての尊厳といえば、もちろん「ソウルのゴッドファーザー」ことジェイムズ ブラウンもこの絵本に登場する。 

大声で叫ぼう――

おれは黒い

それって最高。

それって最高。そう思えることがなにより大事なのだ。黒くても、白くても、黄色くても、男でも、女でも――。

 

レキシの池ちゃんにもオススメの『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』(高野秀行と清水克行の対談本)

 さて、『世界の辺境とハードボイルド室町時代』(さんざんネタになっているが、もう元ネタがいったい何なのかわからなくなっている)に続く、高野秀行&清水克行の対談本第2弾、『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』を読みました。 

辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦

辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦

 

  第2弾といっても、それぞれの専門分野(高野さんの辺境、清水さんの中世)を縦横無尽に語りつくした第1弾と異なり、今回はさらに見識を深めるべく(というか、ただでさえ常人離れした知識を誇るふたりなのに)課題本を読んで語りあう読書会形式となっている。

 ちなみに、清水さんの前書きによると、第1弾が好評だったので続編を、という話は早くからあったらしいが、高野さんがストイックな姿勢を示したらしい。 

いわく、前著は「世界の辺境」と「日本の中世」のミスマッチのインパクトがウケたのであって、二番煎じは当然、そのインパクトが薄らいでしまう。コンビは解消して、これからはお互いの専門分野に立ち返るべきである。

  このくだりで、高野さんらしいなーと思った。
 これまでの本も、ほんと感心するくらい調査対象がばらばらで(もちろん「辺境」や「謎の生物探し」というテーマはあるが)、どれだけ評判がよかったものでも、絶対に二番煎じや焼きなおしをしない、自らに厳しい規律を課していることがよくわかる。

 「ミャンマーのアヘン栽培の本がおもしろかったから、またアヘンの本を出したらいいのに」や、「三畳記に感動したので、もっと自分の青春話も書いたらいいのに」という声も多くあったのではないかと思うけれど、一度書いたことをけっしてくり返さない。味のないガムをいつまでもしがんだりはしないのだ。

 しかし、高野さんの本はそこいらの身辺雑記ではなく(身辺雑記ですら、焼きなおしみたいな本を出すひとも多いのに)膨大な取材にもとづくものなので、毎度毎度その対象を変えるのは、尋常じゃなくたいへんなのではないかと思うのだけれど……

 

 前書きで長くなってしまったが、そんなふたりが選んだ課題本はどれもとてつもなく濃厚だった。

 私がとくに興味深く感じたのは、「言語」をテーマにした本で、まずはジュンク堂大阪書店の「翻訳難産フェア」にも取りあげられていた、アマゾンの奥地に住む少数民族のルポタージュである『ピダハン』。 

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

 

  『ピダハン』では、キリスト教伝道師かつ言語学者である作者が(そんなものが両立し得るのかと高野さんも疑念を呈しているが)、文字のないピダハンに聖書を与えるべくピダハン語を習得しようと格闘する過程を綴っている。

 しかしその結果、作者は、何百年にもわたって文明の影響を受けなかった、ピダハンの独特すぎるライフスタイルや哲学をつくづく思い知らされ、「すべての言語には共通する基本ルールがあり、そのルールは脳に由来するというノーム・チョムスキーの『普遍文法』理論に疑問を抱き」、さらには、「自らの信仰にも揺らぎが生じ、無神論へと」傾きはじめるようになる……という本らしく、ピダハンの生態ももちろん知りたいが、作者がこれからいったいどこへむかうのかも、めちゃくちゃ気になる。 

 この本によると、狩猟民族であるピダハンは、食料を保存する習慣もなく、あったらあるだけ食べ、なければ食べない。一日三食という概念も当然ない。自由でシンプルだ。

 清水さん曰く、中世の日本人も似たような考え方を持っていたらしく、『古語雑談』という本によると、中世の辞書には「懈怠」と「懶惰」という言葉があり、どちらも「怠ける」という意味なのだが、懈怠は「今日やることを明日やること」で、懶惰は「明日やることを今日やること」とのこと。

 なんと、「明日やることを今日やること」が怠けになるとはおどろきだ。
 私たちの価値観では、なんでも早いに越したことはない、Sooner is better. だと思いがちなのだけど、「中世人は必要以上の仕事をやることを良しとしない」らしい。この価値観はぜひとも職場で広めていきたい。 

古語雑談 (岩波新書 黄版 350)

古語雑談 (岩波新書 黄版 350)

 

   言語をめぐる謎は、アマゾンのピダハンに限らず、身近な日本語にもたくさん秘められている。
   この『日本語スタンダードの歴史』では、いわゆる「標準語」とはいったいどうやって成立されたのか? がテーマになっている。 

日本語スタンダードの歴史――ミヤコ言葉から言文一致まで

日本語スタンダードの歴史――ミヤコ言葉から言文一致まで

 

   その謎を解く鍵は、室町時代にある。「現代日本語の源流についても、約五百年前、すなわち応仁の乱以降の15・16世紀の日本語を眺めれば足りる」らしい。 
  そもそも、言語に限らず、日本人の生活文化の基礎は室町時代にできたようだ。あの「応仁の乱」が、ありとあらゆる点で分水嶺になったらしい。だから、書籍の『応仁の乱』もあれだけのベストセラーになったのだろうか。


 また、この本では「言文一致」についても考察しているらしく、作者は明治期の小説における文語体・口語体の比率を調べ上げて、1900年(明治33年)に口語体の小説の優位が確立したことを明らかにしているらしい。
 国語の授業で、明治になって二葉亭四迷などが口語体で小説を書き始め、文語体の小説が廃れていった……と漠然と習っていたが、実際に統計をとって示されると、なんだか心底納得してしまう。

  いや、言語をテーマとする本についてだけで長くなってしまったけれど、この対談本では、ほかにもイブン・バットゥーダ『大旅行記』全八巻(「誰がこんなの課題図書にしたんだ!」と高野さんは思ったらしい。自分で選んだというのに。おかげで、清水さんは貴重な夏休みを棒に振ったそうだ)や、町田康『ギケイキ』といった、華々しい歴史大作についても語りあっていて(おそらく、そのあたりがこの本の目玉だと思われる)、登場人物へのツッコミ(バットゥーダが女好きだとか、弁慶がTwitter攻撃を仕掛けるくだりとか)だけでもじゅうぶんおもしろい。 

ギケイキ: 千年の流転 (河出文庫)

ギケイキ: 千年の流転 (河出文庫)

 

   また、『世界史の中の戦国日本』の項では、ザビエルは現代のバックパッカーと同じように、その場のノリで日本に来たのではないかと推測したり、『将門記』の項では、「私が天皇になってなにか問題でも?」と、しれっと手紙を送る将門のキャラについて語りあったりと、ふたりの想像力(妄想力?)はとどまるところをしらない。 

世界史のなかの戦国日本 (ちくま学芸文庫)

世界史のなかの戦国日本 (ちくま学芸文庫)

 

  『列島創世記』の項では、「『縄文から弥生へ』と一言で言ってしまうと、稲作が始まらなかった北海道や沖縄の文化を遅れたものと見なすことにもなってしまう」という清水さんの発言を読んで、つい、レキシの池ちゃんに言わないと! 「狩りから稲作へ」って簡単に歌っていいの?? と思ってしまった。 

旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記 (全集 日本の歴史 1)

旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記 (全集 日本の歴史 1)

 

  と、この本を読むだけでも、じゅうぶん物識りになったような気になるし、さらに取りあげられている本を実際に読んでみると、もう常人の世界には帰ってこれないほど(?)膨大な知識が身につくことまちがいなし、のオススメ本です。
 まあ、私も『大旅行記』全八巻を読むことはないと思いますが……

 

欲望から目をそらさず対峙した一冊 『愛と欲望の雑談』(雨宮まみ、岸政彦)

 このひとがいま生きていたなら、どう言っただろう?


 と、ふとした瞬間に考えさせられるひとたちがいる。

 前回取りあげたヴォネガットや、最近またベスト本が出るらしいナンシー関など。

 そして、雨宮まみもたしかにそのひとりだなと、岸政彦との対談本『愛と欲望の雑談』をひさしぶりに読み返して思った。 

愛と欲望の雑談 (コーヒーと一冊)

愛と欲望の雑談 (コーヒーと一冊)

 

 90年代頃は、そういう社会的規範から外れたものがかっこいいという考え方が強かったように思います。(略)その頃は性的なことにしろ、ドラッグカルチャーにしろ、そういうものを突き詰めてる人がすごいし偉い、という雰囲気があったんですよ。援交しているほうが偉い、女といっぱいヤってるほうが偉いみたいな。

  いま読み返しても、出版された当時と自分の感想はさほど変わらないけれど、世の中の流れは変わってきたように思う。変わったというか、この本で語られていたことに時代が追いついたというか。

 上記のくだりにおいては、最近もうひとりの雨宮さん、雨宮処凛も似たようなことを書いていて、ネットで話題に、というかちょっとした炎上騒ぎになっていた。 

maga9.jp

 私には「90年代サブカルスイッチ」というものがあって、そのスイッチを押すと、すべてに鈍感になり、普段「人権」とか言っている自分がどこかにすっ飛んでしまうような感覚がある。

  と、雨宮処凛はAVやドラッグといった、いわゆる「良識に反するもの」が散々もてはやされた時代を振り返り、「より鬼畜な方が偉い」という価値観が蔓延し、実際に過激なAVや体験ルポをやってのけ、「身体を張って」男たちの承認を得ていた女たちについて書いている。
 そして、そんなカルチャーを「わかっている」自分も、そのへんの女たちとはちがうという顔をしていたと。

 百人中百人が「ひどすぎる」と思うような状況であっても、それを言ってしまえば私が否定した「つまらない人間」と同じになるだけだった。それの究極が「正論を振りかざすPTAのオバサン」的な存在で、だからこそ、私は痛みを感じることを頑なに拒んだ。

  ちなみに、この文章については、「読解力がなく、サブカルの上澄みしか理解していなかったのが悪い」「オリジネイターたちの精神をわかっていない」という批判も目にしたけれど、受け取る側全員が高いリテラシーを持っているとは限らないと思う。とはいえ表現規制的なものを支持したくはないので、難しい問題ではあるけれど……


 雨宮処凛は、上記の文章で「90年代サブカルスイッチ」が内蔵された自分がいま、#MeTooといった問題にどうやって取り組むべきなのか問うているけれど、雨宮まみが生きていたら、#MeTooブームや、「生産性」発言にどういう声を発したのだろうか? なんて考えたりもする。

 この『愛と欲望の雑談』に戻ると、この対談が行われた2015年は、そんな90年代の狂騒も過去の遺物となり、すっかり「過激さがダサイ」(雨宮まみの発言より)という風潮に落ち着きつつあった。カップルのデートも、ふたりで漫画喫茶に行って、それぞれ別の漫画を読んでいるような。

 しかし、完全に非日常を求める欲望を捨てきれるのか? そう簡単にロマンチックに陶酔することを諦められるのだろうか? 

欲望の話に戻ると、幸せになれないとわかっていても求める気持ちというのもあって、それは理解できないまま自分の中に存在してますね。

  欲望や陶酔とつきあうのは難しい。
 なにかに陶酔するというのは、その対象に自分勝手な幻想やロマンティシズムを押しつけることになる。対象が人間なら、自分のみならず相手やその関係者を傷つけることにもなりかねない。

 アイドルとかに陶酔しているとかが一番罪がないのかもしれないが、対象が身近な人間でないからといって、まったく問題がないとは限らない。岸政彦は自分のテーマである沖縄について、こう書いている。 

僕がいま沖縄に関して書いていることは、全部沖縄にハマっていた自分を否定する作業なんですよ。(略)沖縄に対するくだらない自分のセンチメンタリズムに落とし前をつけたくて。そのロマンはマジョリティ側の考えであって、沖縄に基地を押し付けている側が沖縄に癒しを求めるということに、何かすごく偽善的なものを感じるんです。

  しかも、欲望のやっかいなところは、それがほんとうに自分の欲望なのかわからなくなるところだ。
 この本でも、「欲望の三角形」「欲望自体が他者の欲望の内面化」ということが語られているけれど、自分が心から欲していたつもりでも、実はみんなが欲しがっているから欲しいような気がしていただけだった、ということも往々にある。

 じゃあ、こんな混沌とした欲望など捨て去って、あるいは蓋をして、身のまわりの生活に満足を見出して、淡々と生きていくのが正解なのだろうか? それが正解なのだろうとは思うけれど――

希望を持たないほうが楽だというのは、何かを放棄してると思うんです。希望を持たないほうが楽っていうのは、私は……こういう言い方は変ですが、「美しくない」と思うんです。生き方として。傷ついても希望を引き受ける人のほうが美しい。やっぱり、欲望が好きなんですね。

  この発言からわかるように、雨宮まみは混沌とした欲望から逃げたり、けっして目をそらしたりしなかったのだろうな、とつくづく感じる。全身で欲望も希望、そして絶望もネガティヴな感情もすべて受け止めていたのだろう。 

アカデミズムクソ野郎みたいな人がいっぱいいましたよね。ただのヤリチンのくせに威張れる神経、どうかしてますよね。それで性とか語っちゃうんだけど、「俗は極めると聖になる」みたいな、しょうもないことしか言わないんですよ。女に対する幻想もすごかったりして。

  こんな発言を読むと、ほんとうにほんとのことしか言わなかったひとなんだな、とあらためて思う。このひとがいま生きていたなら、なんと言っただろう?(お盆だからかな)

灼熱の8月6日に読むべき1冊 『猫のゆりかご』(カート・ヴォネガット・ジュニア 著 伊藤典夫 訳)(with 村上RADIO)

 今よりずっと若かったころ、わたしは『世界が終末をむかえた日』と題されることになる本の資料を集めはじめた。
それは、事実に基づいた本になるはずだった。
 それは、日本の広島に最初の原子爆弾が投下された日、アメリカの重要人物たちがどんなことをしていたかを記録した本になるはずだった。
それは、キリスト教の立場をとった本になるはずだった。そのことわたしはキリスト教徒だったのだ。
いまわたしはボコノン教徒である。

  いつもいつも思うけれど、ほんとうに人間はたいていのことに慣れてしまう。ここ最近は、予想最高気温が35度以下なら、「あ、今日はちょっと涼しいかな」などと思う始末。36度くらいではまあ平常運転で、38度を超えそうになってようやく、さすがに暑いな……とヘロってくるのは私だけではないでしょう。

 さて、そんな酷暑の日々には、世界中を♪毎日 吹雪 吹雪 氷の世界~(古いですかね)にする『猫のゆりかご』を読んで、涼んでみるのもよいのではないでしょうか。 

猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)

猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)

 

  冒頭の引用にあるように、この小説は、ライターの「わたし」が『世界が終末をむかえた日』という本を書くために、原子爆弾の主要な開発者であった故ハニカー博士について取材するところからはじまる。

 

 ハニカー博士は、自らが開発した原子爆弾が広島に落とされた日、いったいなにをしていたのか?

 「猫のゆりかご」――あやとり遊びに夢中になっていたのだった。

 

 「わたし」は、ハニカー博士の息子であるこびとのニュートと手紙でやりとりし、ハニカー博士の純粋かつ奇矯な人となりや、友達も恋人も作らず、ひたすら家族に尽くした姉アンジェリカや、失踪した兄フランクについてのエピソードを知る。 

実験が済んで、アメリカがたった一個で都市を消滅させる爆弾を保有したことがはっきりすると、一人の科学者が父のほうをふりかえって言いました。“今や科学は罪を知った” 父がどういう返事をしたかわかりますか? こう言ったのです、“罪とは何だ?”

  ハニカー博士は世界を消滅しようと目論んだわけでもなく、アメリカに戦争協力しようと考えていたわけでもない。ただただ無邪気に、目の前の研究に夢中になっていただけなのだ。あやとりに心を奪われるのと同じように。

 取材を進めるうちに、博士が原子爆弾だけではなく、世界を消滅させることのできる武器をもうひとつ開発したという噂を耳にする。そのアイスナインとは、たった一滴で全世界を凍りつかせることができるらしい。しかし、関係者はことごとくその存在を否定する。

 そして、「わたし」は行方不明の博士の長男フランクがサン・ロレンゾという島国にいることを知る。すると同時に、「“定められていたとおり”とボコノンならいうだろう」と、仕事でサン・ロレンゾにむかうことになる。
 そのサン・ロレンゾとは、キリスト教の価値観が一切通用しない、新興宗教「ボコノン教」を信仰する島国であった――

 

 とまあ、前の『タイタンの妖女』と同様に、かなり荒唐無稽な話である。しかし、『タイタンの妖女』とはちがい、『猫のゆりかご』はその後の作品と同じ断章形式なので、読みやすいのではないかと思う。

 

 いま読むと、「世界の終わり」を取材していたはずなのに、いきなり南の島に行くってかなり唐突な印象を受けるが、この小説が書かれた当時は、キューバ危機でほんとうに世界が終末をむかえてしまうと世界中が戦慄していた。

 

 サン・ロレンゾがキューバをモデルにしているのかどうかはわからない。
 ただ、サン・ロレンゾは、建国者である独裁者“パパ”モンザーノに支配され、国民は泥棒をしても、火をつけても、殺しても、覗きをしても、「鉤吊り」(腹に鉤を打ちこまれる)の刑に処せられる。よって、犯罪が極端に少ない「理想郷」となった。

 しかし、独裁者や共産主義のパロディよりなにより一番印象に残るのは、既存の宗教をパロディにした「ボコノン教」だ。前の「タイタンの妖女」でも「徹底的に無関心な神の教会」など、ところどころで宗教がおちょくられていた。

 
 しかし、『猫のゆりかご』においては、ボコノン教は「世界の終わり」とならんで、この小説で重要なモチーフとなっている。
 ボコノン教とは、かつて“パパ”モンザーノとともにサン・ロレンゾを建国したボコノンがはじめたものであり、多くの宗教の例にならって、この国では禁じられている。しかし、禁じられているゆえに、熱心な信者が多くひそんでいるというお決まりのパターンだ。ボコノン教の教義はカリプソにのせて歌われる。 

“パパ”モンザーノはわるいやつ

だけど“パパ”がいなければ

おれはきっと悲しいだろう

だって、悪者の“パパ”なしで

このごろつきのボコノンが

善人面できるわけがない

  ボコノン教では、従来の家族とはちがうつながり〈カラース〉を重視し、信者同士は互いの足の裏をあわせる〈ボコマル〉という儀式で意識を通じあわせるという、独特の風習がある。このあたりの作りこみは、宗教をおちょくっていた『タイタンの妖女』とはちがい、

 ボコノン教、つまり宗教は、世界を救うことができるのか? 
 来るべき「世界の終わり」から人々を救うことができるのか?

という問題を真剣に考察しているように感じられる。

 

 といっても、カリプソのメロディーに象徴されるように、小説のトーンはけっして重苦しくも深刻でもなく、冗談まじりのひたすらに軽い筆致で描かれる。英語で読んでもすごく易しい。


 科学と宗教という、人類の進歩における両輪と言っても過言ではないこのふたつをテーマにして、こんなにばかばかしくおもしろい、奇想天外な物語を作りあげるとは、やはり感服してしまう。

 さて、ヴォネガットから影響を受けた作家はたくさんいるけれど、なかでもとくに有名なのは村上春樹である。

www.tfm.co.jp


 その春樹氏がどういうわけだかラジオをするというので、きのう聞いていると、坂本美雨とのコーナーで「猫のいない世界と、音楽のない世界とどちらを選びますか?」という、想像するだにおそろしい質問がリスナーから届いた。

 すると春樹氏は、「そんな二者択一には答えないことにしている」と、きっぱり答えた。「だって、そんな質問につい答えてしまって、それが現実のものとなったらおそろしいから」たしかに! 言葉は予言になり得ますからね。さすがだなと思いました。


 以前、村上さんに聞いてみようシリーズの本が出たときに、ホームページで声を聴いてみたことがあり、そのときも想像していたより低く深い声だなと思ったが、話をしているのを聞くと、また印象が変わった。思っていたよりよくしゃべるな~って、ラジオだから当たり前なのですが。


 もちろん、話していたブライアン・ウィルソンやドアーズといった音楽、そしてランニングについては、これまでのエッセイで語っている内容と変わらないのだけれど、語りも上手だし、またラジオをやってほしい。 


 しかし、「猫のいない世界」「音楽のない世界」とは、まさに「世界の終わり」そのものだ。ほんとうにそんな日が来ないことを祈りたいものです。

ささやかで中途半端な逃避行 『黄色いマンション 黒い猫』(小泉今日子 著)

 月曜日、古川橋駅京阪電車がいきなり止まった。車内灯が消え、エアコンも止まる。

 停電したので、各車両の一番後ろの窓を手動で開けてくださいと車掌からのアナウンスが流れた。乗客が職場に電話をしはじめる。私も電話をして、ランチミーティングのお弁当の手配をまだしていないことと、そもそも自分が昼までに行けるかどうかわからないと連絡した。

 そうこうしているうちに車内の温度が上昇し、車掌室のドアが開かれ、下車したいひとはここから降りるように言われた。運転再開がいつになるかわからないと言うので、電車を降りて、振替輸送をしている駅へ進んだ。

 日が照りつけるなか一駅分歩いて、伊丹空港行きのモノレールに乗る。すると心の声が聞こえる。

 仕事もランチミーティングも放り出して、伊丹まで行って飛行機に乗ってしまいたい。いや、空港まで行かなくてもいい。万博公園太陽の塔を眺めたっていい。みんぱくで変なお面を見てもいいし、ニフレルでカピバラと遊んでもいい。(万博公園には国立民族学博物館と、動物園とミュージアムのあいのこみたいなニフレルがあるのです)


 けれども、やっぱり次の駅でモノレールを降り、地下鉄に乗りかえて会社へむかった。

 やはり逃避行は難しい。すべてを捨てて遠くへ旅立つなんて、そうそうできることではない。捨てるものなんてたいしてないはずなのに。 

四十三歳から四十六歳までの三年間、私はこの海の景色を眺めながら猫と二人で静かに暮らしていた。

  キョンキョンこと小泉今日子のエッセイ『黄色いマンション 黒い猫』には、「小さな乗用車に積めるだけの荷物を積んで、ほんの思いつきだけで」東京から葉山に移住した、「謂わば、ちょっとした逃避行」が綴られている。 

黄色いマンション 黒い猫 (Switch library)

黄色いマンション 黒い猫 (Switch library)

 

  私、何かを間違えているのかもしれない。なんか危険だな。この先の人生を豊かに生きるためにするべきことを見つけなければならない。まずはこの場所からの脱出だ。

  私もいま、大阪の片田舎で(あえて選んだわけではなく、予算の範囲内で猫が飼えるマンションを探すと、必然的に片田舎に行きついたのだが)もちろん海はないけれど、横に田んぼがあるマンションで、猫とふたり暮らしをしている。

 なので、逃避行ムードにひたることもあるけれど、もっと本格的な逃避行に憧れたりもする。海が見えるところ、あるいは、うっそうとした森や山奥にひきこもり、仕事やこれまでの知りあいもぜんぶ捨てるーー

 もちろんそんなことそうそうできるわけもなく、キョンキョンだって仕事のたびに東京に通う「とっても中途半端」な逃避行で、贖罪のような、修行のような日々だったと書いている。
 たしかに、外国にひとりで旅行に行ったりすると、解放感を感じるよりも、修行しているような気分になるときがある。次になにがおきるのかわからない不安や心もとなさ。

 そして、逃避行にせよひとり旅にせよ、かならず終わりが来る。終わりがなければ逃避行でもなんでもない、ただの日常になってしまう。キョンキョンは朝ドラという新しい仕事の波に乗るために、東京に戻ることを決める。

 ちょうどそのとき、逃避行の終わりを象徴するような、あるいは最大の修行とも言えるような、思いもよらぬ悲しい出来事、「人生最大の悲しみ」がやってくる。

あの子は私を笑わせてくれました。私を励ましてもくれました。どれだけ愛情を注いでも変わることなくいつも側にいてくれました。愛って言葉の意味を初めて理解できたような気がしたんです。 

  この愛猫への言葉には、思わず涙が出てしまった。
 かなわぬ逃避行を夢見つつ、結局毎日朝が来ると働き、夜になると猫と一緒に眠る自分には、あらゆるくだりでつい共感してしまうエッセイだった。

  いや、私も頭わいてる(←関西弁でいう”crazy”です)わけではないので、私が子どものころから超スーパーアイドルだったキョンキョンと自分とのあいだには、「人間である」とか「性別が女」くらいしか共通項がないのは重々承知しているが、それでもなんというか、腑に落ちるというか、だって

私はこのまま死ぬまで誰に対しても本当に意味で心を開かないまま生きていくのかしら? と、ふと考えてしまうことがある。今のところ九年間一緒に暮らしていた愛猫だけが私の全てを知っているような気がする。

  こんな一節には、いつのまに私の気持ち見抜かれたの? なんて思ってしまう。

きっと死ぬまでずっと修行は続くのだろう。だから人は考えることを止めないし、だからこそ人生は楽しいのだ。神様だって苦行ばかりを強いたりしないはずだもの。 

 そう、死ぬまでずっと修行なんだろう。ダンテの『神曲』のように、天国に行くためには、地獄と煉獄をめぐらなければいけないのかもしれない。

 でも、「人生最大の悲しみ」にはまだまだ遭遇したくないけれど……なんて考えていたら、うちの子が、なにを考えているんだ!と叱責するかのように、ニャアと言って壁をひっかきはじめる。私のささやかで中途半端な逃避行、うちの子との同行二人はまだまだ続きそう。

理不尽な社会で愛は存在するのか? 『ヒトラーの描いた薔薇』(ハーラン・エリスン 著 伊藤典夫・他 訳)

その都市の地下には、またひとつの都市がある。じめじめした暗い異境。下水道をかけまわる濡れた生き物と、逃れることにあまりにも死にもの狂いのため冥府のリステックスさえも抑えきれぬ急流の都市。その失われた地底の都市で、ぼくは子どもを見つけた。

 『ヒトラーの描いた薔薇』を読みはじめた途端、ハーラン・エリスンの訃報がとびこんできた。 

 この短編集『ヒトラーの描いた薔薇』の冒頭に収められた「ロボット外科医」は、ロボットが医者となって手術を行い、人間の医者はロボットの助手にまわされるという近未来を描いている。

 昔から定番のモチーフであり、最近にわかに現実味をおびてきた「機械が人間にとってかわる」小説である。
 医療を心のないロボットに任せていいのか? 人間よりロボットの医者の方がすぐれているのか? と、主人公である人間の医者が葛藤する。このあたりはよくある展開だが、最終的に主人公がロボットと思いっきり格闘する場面――憎悪と暴力の炸裂(「憎悪を吐き出し抵抗しつづけた」)――に、この作者の特徴があらわれていると感じた。

 同じく前半に収められた「恐怖の夜」や「死人の眼から消えた銀貨」は、SFというより、黒人差別の事象を切り取った短編である。といっても、声高に社会正義を訴えているわけではなく、極寒のなか暖を求めて入ったレストランから追い出される黒人の一家を描いた「恐怖の夜」(伊藤典夫訳)のラストは、暴力的で不気味な気配が感じられる。

白人たちは、長いあいだ、あまりにも長いあいだ権力をほしいままにしてきた。だが今こそその地位は逆転するのだ。もはや、それをくいとめることはできない。今まで態度を保留してきたのは、彼が暴力を好まぬ人間だったからだ……だが、もうちがう。こうなるほかはないのだ。なぜなら、白人たちが彼らにこうなることを強いたのだから。 

 「バシリスク」では、暴力は気配にとどまららない。
 バシリスクとは、「死の息」を吐く(というと、口臭いんかな? って感じですが)伝説の怪物であり、主人公は戦争中にバシリスクに襲われ、敵軍に捉えられて捕虜となる。敵軍から拷問に近い取り調べを受けるが、襲われたことで自らもバシリスクになった主人公は死の息を吐き……と、捕虜となり怪物となった主人公があらゆるところで虐げられ、そこからスペクタクルな大殺戮へと展開するさまは、まさに理不尽な社会から生まれる憎悪と暴力の炸裂である。

 しかし、後半に収録されている作品では、また少し様相が変わってくる。冒頭に引用した「クロウトウン」(伊藤典夫訳)は、斎藤美奈子の『妊娠小説』のラインナップに加えてほしい作品だが、主人公の「ぼく」が闇に葬った子どもを探しに地下へ降りる物語である。するとそこには異境が広がり、「ぼく」が次から次へと流した子どもたちがいる。どうしようもなくなってトイレに流したアリゲーターもいる。ここでの「ぼく」は、理不尽な社会の犠牲者ではない。

 

 その次の「解消日」は、「ぼく」がもうひとり存在するという、わりとよくあるモチーフの作品だが、もともとの「ぼく」は、親にも恋人にも酷薄な人でなしで、もうひとりの「ぼく」から、「あんたはミザントロープなんだ。人間嫌いだ」「女に不幸しかもたらさない男だ」(いますね、こういうひと)と糾弾されるさまがおもしろい。
 ここでの「ぼく」は犠牲者ではなく、加害者であることを突きつけられている。

 ちなみに、この原題は、”Shatterday”とSaturdayをもじったものであり、解説によると、伊藤典夫が苦労して「火曜日」とひっかけたらしく、章題も「酔狂日」「目標日」「緊張日」「動揺日」「忍従日」「欠用日」と工夫がこらしてある。

 

 表題作の『ヒトラーの描いた薔薇』も、一家殺戮の濡れ衣を着せられてヒトラーと同じ地獄に落とされた女の物語である。彼女を蹂躙した男たちは―ーそして真犯人もーー天国にいる。

 地獄の扉が開いた瞬間、彼女は天国にいる神様に問いただす。どうしてなにも悪いことをしていない自分が地獄にいないといけないのか? ほんとうに地獄に落ちるべきはーー

あまりにも長い時が、地獄で過ごしたあまりにも多くの瞬間が、あの夜の記憶とともに二人を隔てていた。

そして彼は泣いた。

途方に暮れた眼差しで彼女を見つめた。いまや男は完全に屈服していた。彼女の名をささやき、もう一度ささやいた。

  しかし、神は無実の彼女をなんとしても地獄へ落とそうとする。「世の中には、恋をする資格のない人間もいるんですね」と神に告げ、彼女は結局地獄へ戻る。「雄々しく姿勢を正して」、「ここから先はひとりで行けます」と言う。

 この本に収められた物語には、おさまりのいい「愛」なんてものは存在しない。消滅した世界で生き残った少年と少女を描いた「冷たい友達」も、ふつうなら “小さな恋のメロディ”のような展開になるかと思いきや、そうはいかない。せっかくの愛の告白も、失われた世界と同様に、無意味なものとなる。

 世界がわたしとあなただけであったらいいのにーーそう願ったことのあるひとは少なくないかもしれないが、ハーラン・エリスンの世界では、そんなものは通用しない。「愛」はねじれて、ゆがんだものになる。

 
 ちなみに、ハーラン・エリスンの本を読もうと思ったきっかけは、以前紹介したウェルズの『タイムマシン』の原型である、『時の冒険者たち』が収録されたアンソロジー『ベータ2のバラッド』から「プリティ・マギー・マネーアイズ」を読んだことだった。 

ベータ2のバラッド (未来の文学)

ベータ2のバラッド (未来の文学)

 

 で、この本についても紹介したいと思っていたけれど、長くなってしまったので、またそのうちに……