快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

最近読んだ本(2019年1月)『作者を出せ!』(デイヴィッド・ロッジ 高儀進訳)『「女子」という呪い』(雨宮処凛)『ポップスで精神医学』

さて、最近読んだ本をさくっと数点紹介したいと思います。

(いや、ここ最近、1つのトピックで長々書いてしまいがちなので、そんなに長く書いたら、もともとその話題に興味あるひと以外誰も読まないぞー!というのは承知しているので、今年は短い紹介記事もアップしたいと思います)

 まずは、デイヴッド・ロッジ『作者を出せ!』。以前紹介した、デイヴッド・ロッジによる『絶倫の人』は、H・G・ウェルズの生涯を描いていたが、この本では『絶倫の人』ではウェルズの年長の友人であったヘンリー・ジェイムズが主人公になっている。 

作者を出せ!

作者を出せ!

 

  しかし、『タイムマシン』で大成功をおさめ、妻がいながら次から次へと恋愛沙汰を巻き起こしたウェルズと、純文学に身を捧げ、生涯独身で友人たちと節度ある交流を楽しんだヘンリー・ジェイムズとは、同じ作家であっても生き方は正反対だ。

 なので、内容も『絶倫の人』に比べると地味で淡々としているのは事実だが、「偉大な」作家として高く評価されつつも、一般受けしない(つまりは、売れない)ことに対するヘンリー・ジェイムズの鬱屈や足掻きが詳細に描かれていて読み応えがあった。

 その難解な作風から気難しい性格だったのかと思っていたが、この本によると、友人の多い社交的な人柄だったようだ。なかでも、挿絵画家ジョージ・デュモーリエ(『レベッカ』のダフネ・デュ・モーリアの祖父)と、女性作家コンスタンス・フェニモアとの関係がきわめて興味深かった。

 ヘンリーがデュモーリエに小説を書くよう激励したにもかかわらず、いざデュモーリエが大衆受けする作品を書いて一躍ベストセラー作家になると平常心ではいられず、しかしながら、善良で慎み深いヘンリーは妬み嫉みをあらわにすることもできず……という葛藤。
 そして、「友達以上恋人未満」という昭和の言葉(もう平成も終わるのに)がぴったりなフェニモアとの切ない関係は、最後まで印象に残った。

 また、登場場面は多くないが、あらゆる面でライバルとも言えるオスカー・ワイルドの存在感も大きかった。

 ヘンリーは同性愛者だったという説もあるようだが(同性の恋人がいたわけではないので、内面的に)、妻がありながら男の恋人を寵愛し、ロンドンの風紀を攪乱していたオスカー・ワイルドに、潔癖なヘンリーは反感を抱いている。


 文筆業においても、人気作家になるのを諦めつつあったヘンリーは、それならばと人気劇作家になるべく悪戦苦闘するのだが、すでに『真面目が肝心』などの舞台の成功で華々しい注目の的となっていたオスカー・ワイルドをどうしても意識し、ついつい嫉妬するヘンリーの人間らしさが、いいスパイスとなっている。

 ネタバレになるかもしれないが、伝記の事実なので書いてしまうと、そこからオスカー・ワイルドは逮捕され転落するのだが、人生の栄枯盛衰はさまざまだとあらためて感じた。

 次は、雨宮処凛の『「女子」という呪い』。 

「女子」という呪い

「女子」という呪い

 

  女であるゆえの生きづらさ、みたいなことは、『ヒロインズ』やスリッツの映画の感想と重複するのでくり返さないけれど、日本における日常的な事例が書かれているので、具体的に納得することが多かった。
 

 たとえば、作者が老後の不安を感じ、上野千鶴子の『おひとりさまの老後』を読むと、

〈わたしの世代である団塊世代の持ち家率は8割を超える〉

〈非婚のおひとりさまでも、働き続けていれば、自分名義の不動産のひとつくらいはあるだろう〉

と書かれており、自分たちの世代とあまりに違うことに愕然とするくだりとか。 

少なくとも私のまわりのいつも金欠な友人たちは、努力している。いろんな能力も持っている。だけど、たぶん彼ら・彼女らは〈不動産のひとつ〉も手にすることはないだろう。そういうことに、まったくリアリティーが持てないのだ。

 まさに同感。いや、努力すればするほど金欠になったりする。資格を取ろうとして学校に行ったり、「英語を活かせる仕事」を目指して留学したり、転職すればするほど貧しくなるのだ。

 部屋を借りるのに苦労するくだりも、よーくわかる。
 そもそも猫OKのマンションが非常に少なく、しかも雨宮さんはやっと見つけたと思いきや、フリーランスということで門前払いをくらうのだ。

 そして、保証人問題! 
 同意するあまりに「!」をつけてしまったが、父親が65歳以上だったり年金生活だったりすると、NGになることもあるのだ。

 私は前回の引っ越しのとき、父親がまだ仕事もしていて、かつ年金ももらっていると証明書を提出してなんとか通ったが、今後は保証会社をつけろとか言われるかもしれない。ちなみに、貧乏ゆえによりお金がかかるという、この倒錯した事態のことを「ポバティ・タックス」と言うらしい。 

男性を中心にした時代遅れの発想による社会保障制度設計が、「正社員の夫と専業主婦の妻、プラス子ども」みたいな標準世帯からもれる一人親世帯や単身女性の貧困リスクを高めているのだ。

「(保証人的なことで)頼れる男」――多くの場合は父親か夫――がいないと、女は「部屋を借りる」といった生活の基盤すら維持できないことがあるのだ

 あと、『ポップスで精神医学』。 

ポップスで精神医学  大衆音楽を“診る

ポップスで精神医学 大衆音楽を“診る"ための18の断章

 

  たまたま図書館で(すみません)目にして、「この本何やろ?」と借りたのだが、それぞれ著作を出している精神科医たちが、「精神疾患の隠喩として大衆音楽をサンプルに」(斎藤環の言葉より)したもの……

と「はしがき」に書かれているが、とくに難しかったり、学術的なものではなく、各先生方が思い出の曲や好きな曲を選んで、自身の専門に絡めてエッセイを書いている。

 で、その斎藤環は結構なロックファンらしく、RCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」から、神聖かまってちゃんまで取りあげている。
 かまってちゃんの「友達なんていらない死ね」から、「スクールカースト」や「いじめPTSD」について考察している。いまなら、岡崎体育の「弱者」あたりも聞いてみてほしい。

 春日武彦ゆらゆら帝国の「昆虫ロック」について書いているのは、イメージ通りで納得という気もするが、あざらしという(私は)まったく知らない猟奇パンクバンド(すでに解散しているらしい)を取りあげているのにはおどろいた。

 しかし、一番おもしろかったというか、これ書いていいの?と思ったのは、松本俊彦による岡村靖幸論だ。

 依存症が専門なだけあって、いまや封印されている岡村ちゃんの3回の覚せい剤逮捕に踏みこんでいる。
 といっても、非難や中傷しているわけではなく、松本さん自身も、四半世紀におよぶファンとして、岡村ちゃんのことを「掛け値なしの天才だと確信している」ので、ちゃんと愛を感じられる。

 また、アルコール依存症への応援歌として、SUPER BUTTER DOGハナレグミやレキシの池ちゃんがいたバンドです)の「サヨナラCOLOR」(超名曲!)を挙げているのもよかった。アルコール依存症になると、「嘘」と切っても切れない関係になり、なにより自分自身に対して、もっとも「嘘」をつくらしい。

僕をだましてもいいけど 自分はもうだまさないで

 孤独ゆえに依存症となり、依存症になるとますます孤独になるという悪循環があるようだ。ともあれ、岡村ちゃんは現在は安泰のようで一安心。この本も買って読もうと思いつつ、まだ読めていない。 

岡村靖幸 結婚への道 迷宮編

岡村靖幸 結婚への道 迷宮編

 

 

 

 

女がパンクでなぜ悪い? スリッツ『ヒア・トゥ・ビー・ハード』/ヴィヴ・アルバータイン『Clothes, Clothes, Clothes. Music, Music, Music. Boys, Boys, Boys.』

    さて、2019年真っ先にしたことは(1月2日ですが)、女だけのパンクバンド、スリッツのドキュメンタリー映画『ヒア・トゥ・ビー・ハード』の鑑賞でした。 

theslits-l7.com

 スリッツは1976年に結成され、81年に解散したバンドで、もちろん私はリアルタイムでは知らないのだけど、岡崎京子がマンガの中やあちこちで「スリッツ大好き」と書いていたので、以前から気になっていた。

 そして、たまたま映画の公開前に、スリッツのギタリストであるヴィヴ・アルバータインの自伝『Clothes, Clothes, Clothes. Music, Music, Music. Boys, Boys, Boys.』を読んで、彼女たちの生きざま(って、大袈裟な物言いなので、極力使わないようにしているのですが)に、いっそう魅きつけられた。 

Clothes, Clothes, Clothes. Music, Music, Music. Boys, Boys, Boys.

Clothes, Clothes, Clothes. Music, Music, Music. Boys, Boys, Boys.

 

   といっても、この自伝はスリッツのことがメインではない。
    もちろん、スリッツや当時のパンク・シーンについてもたっぷりと書かれているけれど、ひとりの女性、そしてひとりの表現者として、ヴィヴがどう生きてきたかに焦点があてられている。

  内容は一部と二部にわかれていて、一部ではスリッツ解散まで、二部ではスリッツ以降の人生が書かれている。パンクや音楽にそれほど関心がなければ、あるいは客観的に読めば、再び自分の人生を取り戻そうとする二部の方が興味深いかもしれない。

 一部では、ロンドンの下町で育ったヴィヴがビートルズを聞いてロックに目覚め、アート・スクールに通い、バンドに夢中になり、Boysことバンドマンたちと知りあっていく。それでもヴィヴは、女である自分が、音楽を演奏する側になるなんて考えてもいなかった。 

Every cell in my body was steeped in music, but it never occurred to me that I could be in a band, not in a million years――

No girls played electric guitar. Especially not ordinary girls like me.

(身体中の細胞が音楽漬けになっていたけれど、自分がバンドの一員になれるだなんて考えもしなかった、夢にも思わなかった――
エレキギターを弾く女の子なんていなかった。まして、わたしのようなありふれた女の子が弾くなんてあり得ない)

  しかしある日、ロンドンで話題になりつつあったセックス・ピストルズのライブを見て、衝撃を受ける。
 
 ピストルズは、それまで遠い存在だと感じていたロックスターたちと、なにもかもが異なっていた。歌も演奏も上手ではない。けれども、ありのままのむき出しの姿で歌うジョン・ライドンを見て、ありのままの自分でもロックができるかもしれないと思うようになる。

 当時の恋人であったギタリストのミックは、自らのバンド、クラッシュを軌道にのせるのに悪戦苦闘していたので、先に成功をおさめたピストルズを見るのは拒んだが、ヴィヴがギターをはじめると、よろこんで協力してくれた。

 ふとした運命の悪戯で、ヴィヴはジョン・ライドンの友人のシド・ヴィシャスとFlowers of Romanceというバンドを組むが、一緒にいると楽しいけれどエキセントリックなシドにさんざん振り回された挙句、バンドを解雇される。

 そこで、スリッツがギタリストを探していると聞き、女だけのバンドには興味がなかったが、とりあえずライブを見に行くと、奔放にステージを駆け回る14歳のボーカリスト、アリ・アップの姿に、かつてジョン・ライドンを見たときと同じ衝撃を受け、バンドに加入する――

 アリの無邪気かつ奔放、そして生意気な魅力は、映画からもあふれていた。
 この本からは、アリがとてつもなく魅力的である一方、自我が強く尊大で、付きあうのはしんどそうな性格であることも伺えたが、映画でも同様だった。

 映画はベーシストのテッサがおもな語り手となっていて、謙虚で思いやり深いテッサが、最後までアリについていったようだった。バンドにはこういう人柄が絶対に必要ですね。

 ところで、本では、アリがステージの上でおしっこをしたと書かれていておどろいたが、映画でも、ステージの上ではなかったが、アリがそのへんの道端でおしっこをする映像があった。
 どうして女が立ちションしたらいけないの? ってことだろうか。

    いや、本では、そういうパンク的な理由でもなく、ただアリは音楽に夢中になっていてトイレに行き損ねた、と書かれていたけれど。ほんと自由だ。

 女の子だけでバンドを結成して、好きな服を着て、好きな音楽を作る――それだけのことが、当時どれだけ困難だったか、逆風や偏見にさらされたかは、映画からもヴィヴの本からもよくわかる。 

We don’t see ourselves as entertainers. …… We see ourselves as warriors. We’d rather people confronted their anger and dissatisfaction and did something about it.

(わたしたちはエンターテイナーのつもりはなかった。戦士だと考えていた。ひとびとに自らの怒りや不満と向きあい、そこから何か行動を起こしてほしかった)

  たまたま同じ日に、THE FUTURE TIMES 9号を入手したのだけど、CHAIのインタビューを読むと、「アートに戦いとか必要ない」(ユウキ)「フェミニズムって言葉も最近知ったもんね」(マナ)といった自然体で、ゆっくりとではあるが時代は変わりつつあるのだと感じた。

 といっても、戦うべき相手がいなくなったわけではない。女は可愛くないといけない、若くないといけない、反抗してはいけない……という価値観はいまだ根強く残っている。

  CHAIが一般的な「美人」ではない自分たちのルックスを肯定して「コンプレックスはアートなり」と掲げたのは、インタビュアーの後藤正文(ゴッチことアジカンのメガネのひと)が
「結果、それが既存の価値観に対するアンチテーゼになってるんだよね」
「いろいろな概念にしなやかに抵抗している感じがする」
と解説しているように、彼女たちの戦い方なのだろう。

 戦いが終わったわけではなく、戦い方が変わったのだ。

 この映画で、スリッツや当時のパンク・シーンに興味を持った方には、ヴィヴの自伝もオススメします。いまのところ英語だけですが。映画も話題になったし、翻訳の予定もあるのかな?

 「あいつロンドンに友達いないんだ、頼むよ」とシドに言われて、ナンシーの相手をするところなどは、以前読んだキム・ゴードン(元ソニック・ユース)の自伝で、カートと親しくしていたため、コートニー・ラヴのホールのプロデュースもしぶしぶ(いや、そうは書いてなかったが)引き受けたというくだりを思い出した。

 スリッツ以後、ロンドン・カレッジ・オブ・プリンティングに入学して映像を学び、プライベートでは結婚をするが、不妊治療に病気との闘い……という第二の人生も読み応えがある。
 一度は専業主婦になっていたヴィヴがどうやって再び自らの表現と向きあうようになるのか、その背後には、まさかあの男が関わっていたとは?!と、意外な男の影があったのだった。

 長年のブランクののちに、ヴィヴが再びギターを手にとった矢先に、スリッツの復活話が舞いこむ。
 しかし、自分の表現を追求したいと思っていたヴィヴは、再びスリッツをするのはちがうと思って断る。映画では、ヴィヴがすげなく断ったように見えないこともなかったが、本を読むとそのあたりの事情も理解できる。

 スリッツは若いメンバーを加えて再結成するが、若いメンバーがアリについていけなくなって活動を休止し、まもなくアリが亡くなる。
 誰もそこまで病気が進んでいたとは知らなかった。アリは体調不良もあったのだろうし、残された時間が少ないことを知って焦っていたのかもしれない。

 音楽が好きなひとならよくわかっていることだと思いますが、バンドとはひとつの人格であり、ひとつの人生ですね。
 今年は読書にも励みますが、音楽(ライブの追っかけ、もとい、鑑賞)にも精進したいと思いました。(あれ、仕事は?)

 

女が自らを救うために――『ヒロインズ』(ケイト・ザンブレノ著 西山敦子訳)

精神病院で死んだ、モダニストの狂った妻たち。閉じ込められ、保護されて。忘れられ、消し去られ、書き換えられて。ヴィヴィアン・エリオットは自分の分身を書いた。名前はシビュラ。彼女の夫の詩『荒地』は、甕のなかに閉じ込められた彼女の声で始まる。それから、ゼルダフィッツジェラルド。夫の名声の陰で、色あせてしまった人気者。ノースカロライナ州アッシュビルで、精神病院の火事で死んだ。

  「ヒロイン」という言葉には、甘美な響きがある。華やかで可憐な女が脳裏に浮かぶ。そう、まさにゼルダフィッツジェラルドのような。

 しかし、ヒロインとはヒーローがいてはじめて成立するものなのだろうか? ヒーロー抜きのヒロインとはあり得ないのだろうか? 辞書で「ヒロイン」を検索すると、当然のように「女主人公」と出てくる。男の主人公の存在が前提となっているのだろうか? 

ヒロインズ

ヒロインズ

 

 この『ヒロインズ』の作者ケイト・ザンブレノは、夫の転勤にともない、知り合いのまったくいない町に引っ越し、孤独な日々を送る。

 仕事を見つけようとしても、よそ者の自分を雇ってくれるところなんて、なかなか見つからない。原稿書きに集中しようとしても、知らない町にひとりでいることに耐えがたいものを感じる。こんなはずじゃなかったのに。
 いつのまに、自分はただの「妻」になってしまったのか? 

 精神のバランスを失いつつある「私」はカウンセリングに通い、同じようにこんなはずじゃなかったとくり返す「妻」を描いた物語――『ボヴァリー夫人』を読みふけり、それから、実際に存在した「妻」たち――T・S・エリオットの妻のヴィヴィアン、スコット・フィッツジェラルドの妻のゼルダに、まるで憑依されたかのようにのめりこんでいく。 

ときどき、私は敵と暮らしているように感じる。
ときどき、私は敵と暮らしていると確信する。 

 夫に抑圧される妻を描いた文学について、女子学生たちに講義する私。それと同じ人生をひそかに送っている私。 

  ヴィヴィアンやゼルダが自ら綴った文章、発した言葉にふるまい、彼女たちの存在すべてが、夫の芸術の材料となって吸いつくされていった。

 彼女たちの才能や知性はすべて無きものと見なされ、ただその美しさや奔放さによって “ファムファタル” というレッテルをつけられ、男にとって都合のいい檻に入れられる。

 夫の作品のインスピレーションの源泉になったとむやみに称揚されたかと思えば、すぐに手のひらを返され、夫を破壊し、名声を損ねた悪女として攻撃される。ついに男の手に負えなくなれば、「狂気」に陥ったとして精神病院に幽閉される。
日本でいうと、高村光太郎の妻であった高村智恵子が似たような例だろうか。

 彼女たちには夫ほどの圧倒的な才能がなかったから仕方ない。そう思うかもしれない。
 けれども、輝かしい才能を持った女たちも苦しんでいた。

 子育てに加え、夫テッド・ヒューズの秘書やタイプ打ちも務めたシルヴィア・プラス
 『ジェイン・エア』の屋根裏の狂女に言葉を与えたジーン・リース
 ヴィヴィアン・エリオットに嫌悪感を示したヴァージニア・ウルフも、あり余るほどの知性と才能を持ちながら苦しんだ女のひとりだ。

 先日見た映画『メアリーの総て』も同じだった。
 アナーキストの父とフェミニストの母のもとに生まれたメアリーは、父を慕う若い詩人シェリーと恋におちる。
 
 しかし、シェリーには妻と子がいた。メアリーは義理の妹とともに家を出て、シェリーのもとに身を寄せる。「自由恋愛」を志向して一緒になったふたりは、ただひたすら愛に身を任そうとした。ところが、現実はそう甘くはなかった…… 

gaga.ne.jp

 苦悩と失意の日々を送るメアリーが、自らの絶望を怪物に重ね合わせて『フランケンシュタイン』を書きあげる。だが、出版社は若い女性の作者にふさわしくない物語だと難色を示す。結局、作者名は匿名で、シェリーの序文つきという条件で、なんとか出版が可能になる。

 この映画で描かれたメアリーとシェリーの関係、『フランケンシュタイン』の制作過程が史実に基づいているのかどうかは、よくわからない。(史実とちがうという評も目にした)

 もしかしたら、当時実在したメアリーはシェリーへの愛に疑問を持つことはなかったのかもしれない。でも、ふたりの関係をいま物語にするならば、こういう描き方になってしまうのではないだろうか。

 『ヒロインズ』に戻ると、先に述べたように、ヴィヴィアン、ゼルダジーン・リース……とさまざまな女の苦しみが描かれているが、一番胸に迫るのは、作者ケイト・ザンブレノの叫びだ。 

私はひそかに決めていた。いつか、自分と同じようにめちゃくちゃになってしまった女の子のための『インフィニット・ジェスト』を書こう。

けれど、めちゃくちゃな女の子について書いていい、と実際に言ってくれる人は誰もいなかった。……それは小説の題材として使えると教えられてきたような経験ではなかった。壊れてしまうこと。恋に溺れること。あまりにパーソナルで、ひどくエモーショナルで、まさに「女のたわごと」だから。 

  「女のたわごと」を攻撃するのは男だけではない。

  ヴァージニア・ウルフがヴィヴィアンを嫌ったように、メアリー・マッカーシーフェミニズムを批判した。ボーヴォワールは『審判』や『ユリシーズ』は女には書けないと言った。アンジェラ・カーターはジーン・リースの描くヒロインに反発した。

  ケイト・ザンブレノは、一部のフェミニストが「力や権利を勝ち取った女性像を書かねばいけない」という意識を持っているようだと書き、自分が化粧やファッションを好きだと言えるようになるまで何年もかかったと告白している。

 どうして一部の女たちは「愚かな女」や弱い女に反発するのだろうか? どうして女たちは分断されるのだろうか?

 ケイト・ザンブレノも示唆しているが、抑圧された結果として、女同士の分断が発生するのだろう。
 心のなかに刻まれた傷によって、女は女を攻撃するのだ。
 攻撃対象は「愚かな女」だったり、「男並みになろうとする女」だったり、あるいは自罰にむかったりする。 


 「抑圧と闘うこと」「自分を抑えないこと」「自分自身に確信を持つこと」
 これが自分を救う方法なのだとつくづく教えられた一冊だった。胸に刻み、2019年を迎えたいと思います。

 

ディケンズとクリスマス 『Merry Christmas! ロンドンに奇跡を起こした男』と『クリスマス・キャロル』(池央耿 訳)

 さて、きょうはクリスマス・イヴ。

 ここ数年は本気でその存在を忘れてしまいがちなクリスマスですが、実は19世紀においても、すでに廃れつつある行事になりかけていたらしい。

 という事実を、先日映画『メリークリスマス ロンドンに奇跡を起こした男』を見て知った。想像していたよりずっと、ディケンズの生涯やヴィクトリア朝の世相に肉迫した映画で、かなり見応えがあって楽しめた。 

merrychristmas-movie.jp

 『オリヴァー・トゥイスト』などで一躍人気作家になったディケンズだが、ここ数年はヒット作に恵まれず、その一方、子どもは次から次へと生まれ、生活が苦しくなりつつあった。
 アメリカでの講演旅行は好評だったが、アメリカでは海賊版が横行していて、いくら本が売れても自分の懐にはまともに入ってこず、頭が痛い。(ここも史実に忠実)

 そこで、クリスマスをテーマにした本を作ろうと思い立つが、周囲からはクリスマスなんて、ただ家で過ごすだけでなにひとつおもしろいことのない、シケた行事じゃないかと言われる。しかし、ディケンズは屈することなく、自ら挿絵画家のジョン・リーチを説得し、出版の準備を進める。 

クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)

クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)

 

 が、突然両親がロンドンの家にやって来る。昔から変わらない、よく言えば豪放磊落、悪く言えばだらしない父親の姿を見て、子ども時代のトラウマが蘇り、仕事どころではなくなるディケンズ。そんなディケンズの前に、自分がいま書いているはずのスクルージがあらわれる……

 映画の中で再三描かれていた、ディケンズのトラウマである靴墨工場も、もちろん史実に即している。

 かつて両親と姉は、父親の借金のため債務者監獄に入れられたことがあり、ひとり残された12歳のディケンズは靴墨工場での労働を強いられたのだ。
 以前『絶倫の人』を紹介したウェルズも、苦しい家計のため、呉服屋の丁稚奉公をさせられたことがトラウマになったようだが、12歳ながら靴墨工場で働かされたディケンズの方が上ですね。
(しかし、当時革靴は非常に高価なものであり、靴墨工場は破格の給料だったらしいので、労働と稼いだ額の比率で考えると、ウェルズの方が損だったかもしれない)

 ただ、ディケンズがとくに異例だったわけではない。産業革命まっただなかのヴィクトリア朝では、児童労働はまったく珍しいことではなかった。

 スラムに生まれた子どもたちは、煙突掃除や路上のごみ拾いなど散々にこき使われて健康を損ね、深刻な社会問題となっていた。
 そこで、チャールズ・キングズリーが煙突掃除の子どもを主人公にした小説『水の子』を発表し、ディケンズも『荒涼館』において、どこに行っても追い払われる路上掃除の少年ジョーを登場させたり、作家たちはそんな社会を告発していたのだ。

 

 この映画でも、スラム育ちと思われる汚い子どもたちが、随所できちんと描かれていた。そして、『クリスマス・キャロル』のインスピレーションの素となる、ディケンズ家の若いメイドのタラも、救貧院出身の身寄りのない子どもという設定だった。

 

 そして、そんなディケンズの前にスクルージがあらわれるのだが……

 しかし、『クリスマス・キャロル』をいま読んでみると、スクルージ、そこまで悪いやつなのか? と思ってしまう。
 恵まれない他人のことなど一切無視して、自分の稼いだ金を必死に守る……現代社会では当たり前の姿のように感じる。 

「今のあなたは拝金主義」

「商売は誰に恥じることもない、正々堂々の行為だ! 世の中に、貧乏ほど始末の悪いものはない。それなのに、金儲けというと、世間では蛇蝎のように忌み嫌う!」 

 さらに現代の企業や国家レベルで考えると、スクルージなんてまだまだ甘ちゃんとすら言える。

 派遣や契約、さらには外国人労働者と、感心するほど次から次へと手を変え品を変えて、安い労働力の確保に余念のない企業。いくら企業が潤っても労働者に還元されることはなく、一方で、税金や医療・介護費は右肩上がりに増え続け、どんどんと一般庶民の家計は苦しくなっていく。


 スクルージは精霊によって、金をしこたま貯めこんで惨めに死んでいく将来の自分を見せられるが、現実においては、金のない人間の方が惨めに死ぬ可能性が圧倒的に高い。だから、みんなスクルージ化して、自分のことしか考えられなくなっているのだろう。

 けれども、ディケンズスクルージを悪人として描いているわけではない。先に引用した、恋人との別れの場面や、さらに昔の幼少時代のひとりぼっちのスクルージには、誰だって同情するはずだ。 

「考えてみれば、気の毒な人だよ。どうしても、伯父には腹が立たないんだなあ。あの頑固でひねくれた根性で、いつも結局は自分が損してばかりだからね」

と、甥が言うように、愛すべき気の毒な人物であるからこそ、『クリスマス・キャロル』がこれほどの人気を誇っているのだろう。 


 映画では、このスクルージがどうしても老けメイクをした古田新太に見えて仕方がなかったが……。なんなら吹替も古田新太でいいのではと思ったが、市村正親が演じている。

 なんでも、パンフレットの市村正親のコメントによると、「『クリスマス・キャロル』を1人54役で演じたこともある」らしい。ということは、スクルージはもちろん、スクルージを訪れる精霊も、なんならタイニー・ティムもひとりで演じたのだろうか??

 というわけで、日本のスクルージ市村正親だったのか、と納得しつつあったのだが、なんと、最近ホリエモンが『クリスマス・キャロル』を演じていると知って、またおどろいた。 

christmascarol.jp

“お金に執着した偏屈な自分の生き方にサヨナラし、本当はこうなりたかった素直な自分に回帰する”をテーマとし、IT企業の経営者として未曾有の成功を収めたものの、社内ではお金が全ての守銭奴と恐れられ、特にクリスマスに対し何故かほとんど憎しみとも思えるような感情をもつ主人公・スクルージを演じるのは“ホリエモン”の愛称で馴染みのある、実業家でタレントとしても活躍中の<堀江貴文>。

  こう書かれると、たしかにホリエモンこそが日本のスクルージにふさわしい人物なのかも、と思えてくる。それにしても、目下は宇宙旅行に専念しているのかと思っていたが、演劇にも手を染めていたとは。まさに「多動力」を実践していますね。

 ディケンズホリエモンを一緒にしたら怒られそうだが、ディケンズもたしかに多動力のひとではあったようで、小説を書くだけではなく、自ら雑誌を発刊して編集長を務め、そして生涯を通じて素人劇団に情熱を注いだ。

 この映画では、妻との夫婦愛も柱のひとつになっていたが、実際は、のちにディケンズは劇団で知り合った若い女優と不倫し、とっとと妻をお払い箱にして、愛人と暮らそうと目論むのである。

 愛人に送ったはずのプレゼントが間違って妻のもとに届けられたり、ディケンズの愛人は義理の妹らしいという誤った噂がロンドンに広まると、作家仲間のサッカレーが、「いや、相手は女優だよ」といらん証言をしたりと(サッカレー、映画でもいい味出してましたね)、コントのようなドタバタ劇が繰り広げられたようである。(このあたりのことは、『大いなる遺産』の解説に書かれています) 

大いなる遺産(上) (岩波文庫)
 

 と、クリスマスにふさわしいのかふさわしくないのか、よくわからない話になりましたが、こんな人間らしい一面のあるディケンズだからこそ、スクルージのような愛すべき人物を次々産みだせたのではないかと思うのでした。

 これからは、クリスマスを祝う心を、年中、忘れないようにしよう。過去、現在、未来――三世を生きるこの身にクリスマスの霊は宿る。……ここに、神とクリスマスの時候をたたえよう。

 

ひとりでも多くのひとに知ってもらいたい『THE LAST GIRL――イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』(ナディア・ムラド 著 吉井智津 訳)

ナディアは、ISISによって連れ去られ、フェイスブック上に開設された市場で、ときにはたったの20ドル程度で売買された数千人のヤズィディ教徒のひとりだった。ナディアの母親は、80人の高齢女性たちとともに処刑され、目印ひとつない墓穴に埋められた。彼女の兄たちのうち6人は、数百人の男性たちと一緒に、一日のうちに殺された。

             ――アマル・クルーニーの序文より

  さて、今週はノーベル賞ウィーク。前回もちらっと書きましたが、今年のノーベル平和賞を受賞したナディア・ムラドさんの『THE LAST GIRL――イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』を読みました。 

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

 

  それにしても、自分が何も知らないということは知っていたつもりだったけれど、こういう本を読むと、思っていた以上に自分は何も知らないのだということをつくづく思い知らされる。

 この本の語り手であるナディアはヤズィディ教徒として生まれ、イラク北部の小さな村コーチョで育った。

 実はヤズィディ教というのも、この本を読むまで知らなかったのだが、中東に古代から伝わる宗教のひとつで、クジャクを天使とする教義は口承のみで伝えられている。
 他教からヤズィディ教への改宗も許されないため、イラク国内においても少数派である。(世界全体でヤズィディ教徒は100万人程度とのこと)コーチョにはヤズィディ教徒約200家族が暮らし、まるで村全体がひとつの大きな家族のようだった。

 圧倒的な多数派であるイスラム教信者のアラブ人やクルド人からは、長きにわたり迫害されてきたが、その一方、学校や交易などを通じてイスラム教信者と友情が生まれることもあり、平和な時代においては、周囲とも良好な関係が保たれ、おおむね平穏に暮らしていた。

 ところが、イラクの平和は瞬く間に失われた。

 いや、ナディアにとっては存在しなかったとも言える。93年生まれのナディアにとって、戦争が終わることはなかった。イラン・イラク戦争サダム・フセインによる専制、そしてクウェート侵攻、湾岸戦争……。

 サダム・フセインクルド人を迫害し、ヤズィディ教徒にはアラブ化を強制し、アイデンティティを奪おうとした。湾岸戦争後の海外からの経済制裁によって苦しめられたのは、当然ながらサダム・フセインではなく、イラクの一般庶民だった。

 その後、2003年にアメリカがバグダッドに侵攻し、サダム・フセインが政権から追われると、クルド人とヤズィディ教徒は解放されたかのように思えた。携帯電話を入手し、衛星放送を見ることができるようになった。アメリカ資本によって、クルド人はどんどんと豊かになり、ヤズィディ教徒の暮らしも楽になると期待した。

 ところが、富と自治政府を手に入れたクルド人とヤズィディ教徒が結びつくのを、スンニ派アラブ人は快く思っていなかった。
 サダム・フセイン政権の恩恵を受けていたスンニ派アラブ人は、アメリカの侵攻後はシーア派に権力を掌握されて没落し、怒りの矛先をヤズィディ教徒に向けるようになった。

 2007年にはヤズィディ教徒を狙ったテロが起き、800人という史上二番目の犠牲者を出した。そうして、イラク国内のヤズィディ教徒が迫りくる危険を感じているなか、どんどんとISISは勢力を拡大していった。 

2010年の議会選挙から数か月後にアメリカ軍が去ったあと、国内のグループが権力争いを始めた。毎日のようにイラクの至るところで爆弾が爆発し、シーア派の巡礼者やバグダッドでは子供たちも命を落とし、私たちがアメリカ侵攻後のイラクの平和に対して抱いていたどんな希望も引き裂かれてしまった。

  状況の説明だけで長くなってしまったが、「イスラム国の奴隷になった女性の物語」というと、いったいどんなふうにイスラム国に襲われてさらわれたのか、連れていかれた先ではどんな目にあったのか、どうやってそこから脱出したのかがメインテーマのように思えるけれども、この本全体を読んで一番印象に残ったのは、ISISに襲われるまでの、平和で愛情に満ちた家族の暮らしだった。

 先にも書いたように、ヤズィディ教に他教から改宗することは認められていない。親から子へ伝えるしかない。ということは、子供をたくさん産まないと廃れてしまうのだ。

 ナディアの家も例外ではなく、末っ子であるナディアには10人の兄と姉がいる。母は父の二番目の妻なので、腹違いの兄と姉も4人いる。

 父はナディアが生まれてまもなく、新しい女性を家に入れるようになった。案の定、その女性が父の新しい妻となり、母は金も土地もろくに分けてもらえないまま11人の子供たちとともに捨てられ、一家は父の土地の外れにある粗末な小屋での生活を強いられる。

 しかし、母はどんなに大変な状況であっても冗談に変えてしまう明るさを持っていた。11人の子供を養うために朝から晩まで働きどおし、子供たちの服も手縫いし、兄たちも母や姉たちと一緒にほかの家の畑を耕したり、ときには井戸掘りなどもして、なんとか生計を立てた。

 経済制裁が厳しかったときも、母は大麦をお菓子に交換してもらったり、衣料品をツケで売ってもらうよう頼みこんだり、子供たちにみじめな思いをさせないよう必死だった。

 アメリカ軍の侵攻後、ヤズィディ教徒も公職に就けるようになり、兄たちが警察などの安定した職を得たことで、一家は小屋から出て、自分たちの家を持てるようになった。 

 これまでひたすらに頑張ってきた母がようやく報われるときがきた。
 そんなときだった。ISISがコーチョの村を襲ったのは。 

21年のあいだ、私の母はいつも毎日の中心にいた。毎朝早く起きては、中庭の窯のまえで低い椅子に腰を下ろし、パンを焼いていた。丸めた生地を平らにして、窯の内側にたたきつけ、気泡ができるまで焼き上げ、黄金色に溶けた羊のバターをつけて食べられるよう準備をするのだ。

  村にやって来たISISの戦闘員が、村人全員に学校に集まるよう命令したとき、ナディアはパンをビニール袋に入れて携える。お腹が空いたときのためだけではない。(最初私は「たしかに、腹が減っては戦も何もできへんからな」と思ってしまったが)
 パンは祈りなのだ。 

パンはもう干からびて固くなり、埃や糸くずにまみれていた。私たち家族を守ってくれるはずのものなのに、守ってくれはしなかった。 

 そのあと、ISISによって家族や親戚と引き裂かれ、トラックの荷台につめこまれたナディアはこう思う。
 そしてパンを投げ捨てる。ナディアからすると、たしかにそのとおりだ。
 
 けれども、母はきっとこう思っているだろう。パンがナディアの命を救ったのだと。


  ISISが支配するイラク第二の都市モースルでナディアの身におきたことは、言うまでもなく想像を絶するむごたらしさだ。しかし、ナディアも語っているように、それと同じくらい、町の人々の様子もおぞましく感じる。

 目の前でISISによってサビーヤ(性奴隷)にさせられる女たちがトラックで運ばれているのに、見て見ぬふりをする一般市民たち。隣の家に、なんなら自分の家にサビーヤが連れこまれていても、同情の色を浮かべることもない(ように思える)女たち。 

なぜ女たちまでもがジハーディストたちと一緒になって女性の奴隷化を大っぴらに祝うことができるのかは、私には理解できなかった。イラクに住む女性が手に入れてきたものには、宗教に関係なく、どの人も苦しい戦いを経ないものはなかった。議会における議席も、生殖に関する権利も、大学における地位も。これらはみな、長きにわたる戦いの結果として女性たちが手にしてきたものだ。

  読んでいるともちろん、なんてひどい……と怒りと悲しみを覚える。

 だが、いざ自分だったら、自分の身の危険もかえりみず、囚われた者を救おうと動けるだろうか? 正直、自信がない。
 とはいえ、こんな異常な状況に適応できる気もしないが、戦時下では、かつての日本人もそうだったように、あらゆる感覚が麻痺し、相手も同じ人間だということがわからなくなるのだろう。自分だっていつ命が奪われるかわからない事態なのだから。


 けれども、なかにはほんとうに自らの危険もかえりみず、囚われた者に手を差し伸べるひとたちも存在する。
 ナディアもそうして救われるのだが、この脱出場面はかなりスリリングなのでぜひ読んでみてほしい。もちろん、いま彼女は生きて活動しているので、脱出に失敗して処刑されたり、イスラム国に戻される話ではないとわかっているのだが、それでもなお緊迫感に満ちている。

 この本は、ナディアの話をライターがまとめたもののようだが、先に書いたISISに襲われるまでの家族の暮らしぶりにしても、イスラム国に捕えられてからにしても、情景がありありと目に浮かんできて、ただの「勉強になる本」ではなく、読みものとしても価値が高い。 

 この本を読んでいるあいだ、以前ここでも紹介した『死体展覧会』(ハサン・ブラーシム著 藤井光訳)を思い出した。『死体展覧会』で描かれていたイラクの凄惨な日常はフィクションではあるが、この『THE LAST GIRL』を読むと、現実と地続きであることがよくわかる。

2018/02/18 柴田元幸×藤井光「死者たち」朗読&トーク@恵文社『死体展覧会』(ハサン・ブラーシム 著 藤井光 訳) - 快適読書生活


  なんとか助かったナディアだが、最初は自分の体験を話すことができなかった。同じく生き残り、ようやく再会した家族の前でも口にできず、ただ毎日泣き暮らしていた。
 しかし、テロリストが犯した罪を罰するためには、どんなにつらくても自らが語らないといけないと決心する。 

きっと神には私を助ける理由があり、ヤズダの活動家と出会わせる理由もあったのだと思う。だから私はこの自由を当然のものと受け止めはしない。…… 私たちは、彼らの犯罪に対して、報いのないままにさせておかないことで、彼らに挑んでいく。私が自分の体験をどこかで話すたび、テロリストからいくらかでも力を奪っているように感じている。

 戦争、宗教間の争い、マイノリティへの差別、性暴力…… 簡単には語ることのできない重要な問題が、この本にはいくつも含まれている。


 まずは知ること――世界のどこかでこんなことが起きていたなんて、自分は何も知らなかった――ということを知ることが、最初の一歩になるはずだ。
 ひとりでも多くのひとに知ってもらうために、ノーベル平和賞も与えられたのだろう。その取っかかりとして、ぜひ読んでもらいたい一冊だ。

 

 

消えることのない光を求めて 『ヨーロッパ・コーリング』『いまモリッシーを聴くということ』(ブレイディみかこ)

   さて、前回の『アメリカ死にかけ物語』で、「ヨーロッパも同じか、あるいはもっと深刻」と書いたけれど、そのヨーロッパを詳細に伝えているのが、ブレイディみかこの『ヨーロッパ・コーリング』だ。 

   この本には、2014年から2015年のイギリスで起きつつあることが綴られているが、おどろくほどいまの日本とシンクロしている。

 コラムのタイトルを挙げただけでも、それがうかがえる。「こどもの貧困とスーパープア」、「格差社会であることが国にもたらすコスト」、「アンチ・ホームレス建築の非人道性」、「地べたから見たグローバリズム」……

 イギリスでも日本と同様に(というか、イギリスの方が先んじているのか)、グローバリズムによって格差が広がり、底辺層の生活は苦しくなる一方。そして、その一部が排外主義へと流れ、ネトウヨや外国人排斥を主張するひとたちが跋扈し、ついには国民投票EU離脱を選択する。

……と、大雑把に書いてしまうと簡単な話だが、もちろん実際はそんなにシンプルなものではない。

 『アメリカ死にかけ物語』で、リン・ディンが “white trash” と一括りにされるようなひとたちひとりひとりの話を聞いてまわり、そこではじめて見えてくるものがあったように、この本を読むと、「外国人に自分の仕事を奪われたと文句を言う、怠け者で差別主義の労働者たちが、排外主義に陥りEU離脱に票を投じた」といった単純なものではないことがわかる。

 EU離脱国民投票を控えた時期のコラムで、ブレイディみかこはこう書いている。

英国でEU離脱を訴えているのは移民制限を訴える右派のUKIPだが、緊縮や今回のギリシャ問題では英国の左派もかなりEUに反感を抱き、失望している。このまま右と左の両サイドから徐々に浸食されていけば、EU支持者はどれくらい残るのだろう。 

 まさにこの予言が当たったわけだ。

 差別は許されない、移民や外国人労働者を広く受け入れるべきだ、難民を助けないといけないといったような、メルケル首相の「人道主義は欧州の普遍的価値観」という言葉に代表される言説は正しいのだろう。しかし、 

そもそも緊縮自体が非人道的な政策であり、生活保護を切られて餓死する人々が現れ、若者には職がない、フードバンクに並ぶ人の数が前代未聞などと国内で報道されているときに、「浜辺に打ち上げられた男の子を殺したのは我々だ」などといきなりヒューマニティを持ち出されても、下側の人々の心はハードになっている。 

 というのが現実であるようだ。

 私は経済に詳しくないので、緊縮経済がどのようなものなのか、きちんと理解できている自信はないけれど、この本の言葉を借りると「あなたたちのためにはお金を使いたくないの」と国が国民に言い放つことなのだろう。

 イギリスでは、失業者に自分の貯金を使って起業することを強制し、名目上の失業者を減らしているという事態すら起きているらしい。 

緊縮をやりながら数字の上では景気回復を果たすという高度な技をやるには、このぐらいのビジネス魂が必要だ。マーガレット・サッチャーが他界したというのは誤報だったのではないか。

  日本でここ数年「起業」や「副業」がもてはやされているのも、同じ流れのように感じる。

 たしかに、「起業」や「副業」で自分のほんとうにやりたい仕事にチャレンジするというのはすばらしいけれども、本気で「起業」を推奨したいなら、新卒→就職のレールを外れるとやり直しができない社会制度を変えることがなにより必要だろうし、「副業」に至っては、もう会社はまともな(生活できる水準の)給料を払えないから、バイトをかけもちしてやりくりしてくれ、と言っているように感じられるときもある。

 それにしても、イギリス関係の本を読むと、サッチャーの存在って大きかったんだなとつくづく感じる。もちろん、いい意味ではなく。
 「ゆりかごから墓場まで」というキャッチフレーズまであった(学校で習った記憶すらある)、世界に名だたる福祉国家であったイギリスを根本から破壊した人物なのだろう。

  そんなサッチャーをとことんまで攻撃したのが、ワーキングクラス出身で非モテ・オタク気質のままザ・スミスで一躍ロックスターとなり、ザ・スミス解散後はソロ・アーティストとして独特の存在感を放っているモリッシーだ。

 『いまモリッシーを聴くということ』を読むと、とにかくモリッシーサッチャーに対して、再三「死んだらええのに」と呪うところが笑える。(いや、モリッシーは関西弁ではないが) 

いまモリッシーを聴くということ (ele-king books)

いまモリッシーを聴くということ (ele-king books)

 

  1988年のファースト・ソロ・アルバム『Viva Hate』(タイトルも最高ですね)に収録されている「Margaret on the Guillotine」(ギロチンにかけられたマーガレット)という曲では、「いつ死んでくれるの? いつ死んでくれるの?」と歌い、しかも「サッチャーにいますぐ死んでほしいという僕の願望を素直に表現しただけ」と明言し、さらに大騒ぎになったらしい。

(ところで、You Tubeでのこの曲のコメントに ”this song is far too beautiful to be about thatcher.”とあるのも、ちょっと笑える)


 ブレイディみかこはこのアルバムについてこう書いている。 

このタイトルは、国民投票ブレグジットが決まった後の英国にも妙にしっくりくる。あれもまた、離脱に投票した人々は、すべからく(国内のみならず世界から)レイシスト認定されたからである。しかし、あの問題にはEU主導の経済政策への不満という要素も絡んでいた。 

  モリッシーはこの投票の後、「BBCが離脱票を投じた人々を執拗に侮辱したのは衝撃だった」とインタビューで語ったらしいが、BBCなどのリベラルなメディアや多くの知識人たちが、離脱に票を投じた労働者たちを「無知な差別主義者」と決めつけていた風潮に物を申したのは、モリッシージョン・ライドンセックス・ピストルズ/PiL)だけだったらしい。

 個人的には、1987年に解散したザ・スミスはリアルタイムではなく、90年代以降のブリット・ポップの旗手オアシス、ブラー、そしてレディオヘッドはリアルタイムで追いかけたものの、彼らがリスペクトしていたザ・スミスモリッシーはほとんど聞いたことがなかった。

 しかしこの本を読んで、実際にザ・スミスを聞いてみると、ジョニー・マーのキラキラしたギターに、奇妙でねじくれた、でも切ないモリッシーの歌はたしかに唯一無二の組み合わせであり、ものすごくポップでありながら、すんなりとは聞き流せない、聞く者の胸に爪痕を残すロックだと感じた。(ロッキング・オンみたいな言い回しでナンですが)

  「アンチ・サッチャリズム(反新自由主義)の象徴」であり、「モテと非モテリア充とオタク、人間と動物、クールとアンクール、ノーマルとアブノーマル、金持ちと貧乏人」なら常に後者の側に立つモリッシーに、いまでも熱烈なファンがいるのはよくわかる。

 いや、ブラーのデーモンは当時から勝ち組感が強かったし、ギャラガー兄弟は荒くれ者のイメージがぬぐえないし(ノエルはオタク気質があるかもしれんけど)、トム・ヨークは上の対立軸では後者のキャラだと思うけれど、深刻過ぎるというかユーモアが希薄なような。(※すべて個人の印象です) 


 『ヨーロッパ・コーリング』に戻ると、EU離脱以外にも、イギリスの教育や中東問題などについても興味深いコラムが多かった。

 イギリスのテロリストと人質に対しての考え方については、なるほど、と思った。(もちろん、日本のように「自己責任」論が噴出するわけではない)
 性暴力を扱った「フェミニズムとIS問題」については、ちょうどこの本を読もうとしているので、また感想を書きたい。 

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

 

 そして、今年のクリスマスはこの曲を聞いて過ごしましょう。

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11/25 『アメリカ死にかけ物語』トークライブ リン・ディン&岸政彦@スタンダードブックストア心斎橋

 『アメリカ死にかけ物語』発売記念として行われた、リン・ディンさんと岸政彦さんのトークライブに行ってきました。

 前作の『血液と石鹸』を読んだきっかけは、柴田元幸さんが訳しているからという単純なものだったけれど、ベトナムからアメリカに移民したバックグラウンドも影響しているであろう寄る辺のない無国籍な世界、ときに悪夢のように不穏でありながら、シュールでユーモラスな詩のような物語にひきつけられた。 

戦争こそ唯一本物のゲーム、唯一プレーするに値するゲームと確信して、彼は傭兵たることに身を献げ、1971年のインド=パキスタン戦争に参加して指を一本失い、第四次中東戦争で右足を失い、フォークランド紛争で顔の右半分を失い、湾岸戦争で顔の左半分を失い、1995年のシエラネオネ内戦でもう1本指を失った。
                    ◆

彼女は突然、夫の誕生日も、子供たちの名前も、夫の顔も、夫を裏切ったことがあるかどうかも、そもそも自分が結婚しているかどうかも思い出せなくなった。(「一文物語集」より) 

血液と石鹸 (ハヤカワepiブック・プラネット)

血液と石鹸 (ハヤカワepiブック・プラネット)

 

  次の作品は出るのかなと思いながら時は流れ、ようやく出たこの本は、意外にも小説でも詩でもなく、作者がアメリカ中をまわって出会った人々を描いたノンフィクションというのか、地べたからのリアルな声が凝縮されていた。 

俺は移民であり、大学中退者で、生まれてからずっと金で失敗してきた。アメリカではアウトサイダーなわけだが、この本の登場人物たちもみんな同じだ。アメリカを横断する間、30年住んだフィラデルフィアで既に馴染みのあるような人々に、引き寄せられるように出会った。……彼らはいわゆる “社会の底辺” に属している。しかし、そうした人たちの数は容赦なく増え続けているので、“底辺の大多数”と呼んだ方が適切かもしれない。 

アメリカ死にかけ物語

アメリカ死にかけ物語

 

  作者はえんえんと長距離バスに乗り、繁栄から取り残された町の寂れたバーに行き、けっしてメディアでは取りあげられない人々の話を聞く。
 いや、ここ最近は取りあげられているかもしれない。「こういうひとたちがトランプを支持しているのだ」と、高学歴でリベラルな報道人たちから「学のないホワイト・トラッシュ」の代表として。

 また、社会学者である岸政彦さんも、長年にわたり大阪や沖縄で様々なひとたちの生の声を聞きとっているため、この本に強いシンパシーを感じて帯文を書き、今回のトークライブの聞き手となったとのことだった。 


 『血液と石鹸』での野蛮なようで繊細な文体、詩を書いてアメリカ各地をまわって朗読し、アメリカの“底辺”を描いていること……などから、チャールズ・ブコウスキーのような姿が頭に浮かんでいたのだが、実際のリン・ディンさんはアジア人で(いや、わかってたけど)、まるでタイのお坊さんのような穏やかな物腰のひとだった。

 前日、岸さんが大阪、鶴橋のコリアンタウンや西成の釜ヶ崎を案内したそうで、リン・ディンさんは大阪が『アメリカ死にかけ物語』の世界と非常に似通っていることに感銘を受けたようだった。
 ちなみに、東京では六本木なども行ったそうだがピンとこず、川崎でやはり似たものを感じて安堵したらしい。

 また、その様子はご本人のブログで写真を見ることができる。この本も原著は写真が掲載されていたが(オリジナルタイトルが “Postcards from the End of America”なのだから)、翻訳本に載っていないのが残念、と岸さんが語っていたけれど、たしかにブログの写真もすばらしい。(写真を見る目など持っていない私から見ても)

 トークの内容は盛りだくさんで充実していたので、すべてを詳細にレポートするのは難しいが、まずはこの本のテーマであるアメリカ、アメリカの真の姿についての話になった。
 いくら観光でニューヨークや西海岸を見ても、ほんとうのアメリカを見たことにはならない。一般に報道されない、知られていない場所にこそ真の姿があると。

 リン・ディンさん曰く、アメリカの真の姿が見える場所のひとつは、フィラデルフィア近郊のカムデンらしい。
 ご存じのように、フィラデルフィアは独立宣言が起草された、アメリカ誕生の地である。さらにカムデンは、アメリカ精神の父とも言える詩人ウォルト・ホイットマンが暮らした町でもあり、家と墓が保存されているらしい。

 ところが、この本にも書かれているが、アメリカでもっとも危険な町のひとつに常にランクインされるカムデンの住人は、だれもホイットマンなんて知らず、何それおいしいの? という事態らしい。

 アメリカがこんな状態に陥ったのは、やはり経済的な問題が大きいとのこと。
 雇用がない、貯金もない、家賃も学費も高くて払えない、アメリカはなにも生みだしていない、いま身に着けているものもアメリカ製なんてなにひとつない……そして、雇用を取りもどす、アメリカを再び偉大にするとぶちあげたトランプに大衆は希望を感じてしまった、と。

 海沿いに生息する(というと甲殻類みたいですが……まあ東海岸・西海岸です)知識人によるリベラル層も、大陸の真ん中に生息する大衆に目をむけない。
 リン・ディンさんはリベラルなメディアに政治的な書き物を寄稿したこともあるが、抽象的な話には食いつきがいいのに、具体的な人々の話には興味を抱かないという傾向が見られたそうだ。

 そこで、そんなアメリカと非常に似通っている大阪の話にも。
 経済がどんどん沈み、カリスマ的な政治家に希望を見出して熱狂するが、結局どうなったかというと、病院などの生活に必要なインフラや文化への予算がどんどん削られ、生活がますます苦しくなるなか、どういうわけか万博を誘致する現状について。

 維新政治が導入したもののひとつに「民営化」があるが(悪評高い民間校長とか)、それによって主要な公園も入場料が必要になり、岸さんがツイッターでそれに異議を唱えたところ、「その方が公園がきれいになっていい」というリプが大量に届いたらしい。

 入場料が必要なら、DQN層(岸さんはこんな言葉を使ってませんでしたが)やホームレスが入りこまないのでいいと考えているひとが多いようだ。
 そこに大衆の分断化、中産階級による底辺層への見下しが感じられると岸さんは話していた。大衆を分断するのは支配層の常套手段だと、リン・ディンさんも語っていた。


 それにしても、客観的に考えても、夢洲から関空への人工島って、海沿いなので地盤も緩く、地震や台風で完全に麻痺することが今年あきらかになったところなのに、万博を誘致するって正気か?? と思いますが。

 インフラにしても、病院不足のみならず、うちの近所にある中学校、建物が黒ずんでボロボロなため廃校になっているのかと思いこんでいたら、まだ生徒が通っていると知って仰天したりと、ほんとどこもかしこもオンボロなのだが……。

(それにしても、1970年の大阪万博がやたらひきあいに出されるが、世間的には忘れられている1990年の花博はどんな感じだったんだろう? 近所なのに行ってもいないし、子どもだったので ”花ずきんちゃん”しか覚えていないが)

 こういった分断化は、アメリカや大阪だけではない。移民問題に揺れるヨーロッパも同じか、あるいはもっと深刻であり、リン・ディンさんは、アメリカやヨーロッパよりは東アジアに希望を見出しているとのこと(”move forward”と言っていたような)。

 そうかな…? とつい思ってしまうが、リン・ディンさんはシビアな現実を綴りつつも、けっしてシニシズムに陥らず、対話を通して互いに理解し、未来を築くことができると考えているようだった。

 客席との質疑応答でも、そんな信念が感じられた。
 客席からは、ツイッターの自己紹介で「日本を愛する“ふつう”の日本人です」などと書いている人々の言う、“ふつう”とは何なのか? とか、ヘイトスピーチをするような人たちとも関係を築くことができるか? など、差別意識や右傾化が露わになってきた現在を反映した質問がいくつか出たが(しかも質問した方たちはみんな若く、ほんと偉いな~と思った)、リン・ディンさんはやはり対話に重きを置いているようだった。

 リン・ディンさんはこの本を書くにあたり、出会った人々の話し方をありのままに再現するよう注意を払ったと語っていたが、「対話に重きを置く」とは、けっして judgmental なものではなく(突然ルー大柴のようになってしまったが)、批判や分析などをせず、まずは相手の言うことをありのままに受けとめる姿勢なのだろう。

 岸政彦さんが『断片的なものの社会学』のイントロダクションで書いていたことに通じると思った。断片を断片として大事に扱い、おおまかに一括りにするのではなく、自分の思想や信条の正しさを証明する材料にするのでもなく、ひとりひとりの話をただただ聞く姿勢。 

社会学者として、語りを分析することは、とても大切な仕事だ。しかし、本書では、私がどうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたいと思う。……この世界のいたるところに転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まってこの世界ができあがっていることについて、そしてさらに、そうした世界で他の誰かとつながることについて、思いつくままに書いていこう。 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 と、聞きごたえのあるトークライブだった。行ってよかった。
 あと、リン・ディンさんの通訳をされていたのは、翻訳の小澤身和子さんだったのではないかと思うが(「ミワコ」と呼ばれていたので)、この本の翻訳についての話も聞きたかったかな。