快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

おおさか東線開通の今日、あらためて福知山線脱線事故を振り返る 『軌道』(松本 創 著)

 福知山線脱線事故の日のことは、いまでもよく覚えている。2005年4月25日、私もJRに乗って神戸に向かおうとしていたからだ。
 

 その日は神戸国際会館でのスピッツのライブに行こうと、有休をとっていた。午前中からテレビを見ていると、突然画面が切り替わり、電車の事故現場のようなものが映し出された。

 尼崎近くで、JRがマンションに衝突したという。第一報では「負傷者も出ている模様」くらいに伝えられたが、マンションに激突したように見える車両が実は先頭ではなく、先頭車両はマンションにめりこんでいるという情報を聞くと、とんでもない事故になるのでは……と、おそろしくなった。

 当時は大阪市の港区に住んでいたので、弁天町からJRに乗った。改札で駅員に「神戸線は動いてますか?」と念のために聞いたら、なんでそんなことを聞くのかとばかりに返事されたので(まだ事故の詳細がわからないときだった)そのまま神戸に向かった。
 何事もなく尼崎を通り過ぎ、ほんの少し先であれほどの事態になっているなんて実感がわかなかった。 

本事故による死亡者数は107名(乗客106名及び運転士)、負傷者は562名である。(事故調査報告書より)

  このノンフィクション『軌道』は、福知山線脱線事故を通じて、「組織」と「個人」のあり方をどこまでも追究している。 

  軸となるのは、この事故で妻と妹を失い、娘が重傷を負ったA氏である。(本では本名で書かれていますが、ブログで本名を書いていいのかわからないので匿名にしておきます)

 A氏は一級建築士として都市計画コンサルタント事務所で働いていたが、住民を置いてきぼりにした「官製まちづくり」に疑問を抱くようになり、技術屋として住民運動に関わりはじめる。
 二大大気汚染地域であった倉敷と尼崎の公害訴訟を支援し、阪神淡路大震災の復興にあたっては、培った知識と経験を総動員して、行政と住民の調停役をつとめてきた。

 つまり、ひたすら被害者の支援に尽力していたA氏が、この脱線事故で完全に当事者となってしまったのだ。

 これまでの経験から、被害者が連帯して交渉する重要性や手法はよくわかっていたが、いざ自分が当事者となれば話は別だった。傷のなめあいなんて鬱陶しいし、自分の苦しみなんて誰にもわかるわけがないとも思う。
 それでもやはり、遺族説明会でJR西日本相手にひるむことなく疑問を追及する手腕を見込まれ、遺族で結成された〈4.25ネットワーク〉の世話人になってほしいと依頼される。

 こうして、A氏という個人がJR西日本という巨大な組織と「対話」をはじめようとする。ところが、「対話」はまったく成立しない。


 JR西日本は「100パーセント私どもの責任。誠心誠意対応したい」と型通りの謝罪をくり返すばかりで、こんな事故がなぜ起きたのか、どうやって再発防止するのか説明してほしいと訴えても、とにかく言質をとられまいと言い逃れに終始し、遺族の要望にはまったく耳を貸さない。

 そもそも官僚的な硬直した体質から脱却するために、国鉄の分割・民営化が行われたはずだ。それがいったいどうしてこうなってしまったのか? 

 と、この本では民営化からの歴史を振り返る。すると、「私鉄王国」の関西で赤字路線ばかり抱えていたJR西日本が、カリスマ経営者井手正敬の辣腕によって、“アーバンネットワーク”(関西人は聞いたことありますね)を築き、収益性の高い組織として見事に生まれ変わったが、効率と利益を優先する過程で生じた弊害が露わになっていく。

 といっても、井出氏個人を攻撃しているわけではない。
 A氏およびこの本は、そういった個人に非を求める体質を真っ向から否定し、組織に原因があると考えている。

 この事故までのJR西日本の考え方は――井出氏個人の考え方でもあるが――事故の原因は個人の能力の欠如、あるいは気の緩みだと見なし、ミスを起こした個人を激しく叱責する「根性主義」「精神論」に依拠していた。「ミスをすれば犯罪者扱い」と証言した運転士もいる。

 しかし、人間は絶対にミスをする。

 重要なのは、そのミスをいかにして防ぎ、大事故につながらないようにするかということである。この事故のあと、JR西日本の懲罰的な「日勤教育」の実態が報道されたが、ミスをすると罰則を与えられる組織では、人間はなるだけミスを隠そうとする。亡くなった運転士も車掌にミスを報告しないよう頼んでいた。 

本件運転士のブレーキ使用が遅れたことについては、虚偽報告を求める車内電話を切られたと思い本件車掌と輸送指令員との交信に特段の注意を払っていたこと、日勤教育を受けさせられることを懸念するなどして言い訳等を考えていたこと等から、注意が運転からそれたことによるものと考えられる。(事故調査報告書より) 

 この事故から10年以上経った2016年、JR西日本は「ヒューマンエラーは非懲戒」とする画期的な方針を掲げた。すでに航空業界ではスタンダードになっているらしいが、意図的でないミスは不問とすることで、ミスをした乗務員が報告・相談しやすくなる仕組みだ。

  この考え方は、どんな仕事にもあてはまる。
 私の職場も法律関係なので、ひとつのミスが致命的な事態になりかねない(と、うるさく言われている)が、ミスを防ぐ仕組みが構築されているとは言い難い。結局、現場は個人の技量に任されており、ミスが発生したら「〇〇は仕事ができない」とレッテルを貼られて終わりとなる。
 会社で働いているひとなら誰でも、組織や構造を改革することの難しさについて思い当たるのではないだろうか。

 さらにこの本は、A氏という個人がJR西日本という硬直した組織と対峙する物語であるが、一方で、あくまで組織の一員であったJR西日本の社員たちがA氏との対話を通じて、個人としてのあり方を取り戻す姿も描かれている。

 なかでも、事故の後に子会社から呼び戻されてJR西日本の社長となり、「敗戦処理」を任された山崎社長の姿が興味深い。
 それまで事務方のエリートが中枢を占めていたJR西日本で、技術屋出身の山崎氏は異色であり、井出「天皇」とも反りが合わず出向していた。だが、官僚的な応答ではなく自分の言葉で語る山崎氏が社長に就任してはじめて、A氏は「対話」ができる人物が現れたと感じる。

 そして、この山崎社長のもとでJR西日本は改革の道を進む……となれば、話はスムーズだったのだが、事故の処理に追いつめられた山崎氏もまた過ちをおかす。
 
 それでもなお、被害者と加害者という壁を越えて、A氏と山崎氏のあいだにはある種の絆が生まれる。独立独歩の「個人」として周囲を支援し続けてきたA氏の姿に、山崎氏は巨大組織の「官僚」として生きてきた自分に無いものを見出して感銘を受けたと語る。 

自分自身が“やられる側”になった彼は、妻と妹を亡くした遺族という「個人」の立場で、巨大企業に対峙した。…… 
糸口は、組織の中にいる個人を見つけることだった。…… 
Aと山崎という2人の技術屋が出会い、共鳴し、外と内から組織に穴を穿った

  そういえば今日は、JR西日本にとって記念すべき日だ。おおさか東線が放出~新大阪まで開通した。

 考えたら、私は港区の次には放出に住み、通勤にJR学研都市線を使っていたのだが、この事故のあと回復運転を止めたJRは毎日のように遅れ、しょっちゅうイライラしていた。
 利益よりも安全を最優先させる組織となってほしいと言いつつ、遅れたらイライラする乗客としての自分もいる。自省もこめて、社会全体がゆとりを取り戻すことが大事なのだろうとあらためて思った。

 

ヴァージニア・ウルフの言葉を思い出した 『対岸の彼女』(角田光代 著)

 さて、本日(3月9日)の『元年春之祭』読書会に備えて、「女と女の小説」に浸っていた今日この頃でした。

 このブログでも何度か引用している、松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』から、サラ・ウォーターズの『半身』に、ジャネット・ウィンターソンの『オレンジだけが果物じゃない』といった女同士の恋愛から、映画にもなった『思い出のマーニー』や金井美恵子の『小春日和』といった友情物語まで。

 そして、この角田光代の『対岸の彼女』も読み返したけれど、やはりまた泣きそうになってしまうのでした。 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

  この『対岸の彼女』は、3歳の娘を持つ35歳の小夜子が働きに出るところからはじまる。

 そのきっかけは、一枚のブラウスだった。

 1万5千円のブラウスが、35歳の女性の洋服として高いのか安いのか、さっぱり見当のつかない自分にショックを受け、働こうと決意するのである。(しかし、私はずっと働いているにもかかわらず、1万5千円の服が高いのか安いのかよくわからないが……)


 そして小夜子は、偶然にも同じ年齢で同じ出身大学の葵が経営する家事代行、実質は便利屋の会社で働くことになる。大学を卒業してすぐに旅行会社を立ちあげた葵は、専業主婦をしていた小夜子からすると、快活でエネルギーに満ちあふれた存在に見える。

 しかし、葵には秘められた過去があった。中学時代、葵はいじめに遭って学校に行けなくなってしまったのだ。

 と、物語は小夜子を主人公とする現在と、葵の過去が交錯する形で進んでいく。葵の「秘められた過去」とは、不登校児だったことではない。
 中学に行けなくなった葵は、高校生になるときに母の地元に引っ越し、知りあいのいない新しい土地でやり直すことにする。そこで、ナナコと出会う。

 

「ナナコでいいよ、アオちん」

ナナコはおどけた口調で言って葵の方を思いきりたたき、列の先へとスキップしていった。へんな人なのかもしれない。うしろ姿を眺めて葵は思う。

  特定のグループに所属することなく、誰とでも気さくに言葉を交わすナナコは、人間関係に疲れ果てた葵の目には異人種のように映った。葵は高校のクラスでは、とりあえず席の近い生徒たちとグループを組んで行動するが、放課後はずっとナナコと過ごすようになる。

 この小説のテーマは〇〇だ、なんて決めつけてしまうのは面白くない読み方だとはわかっているけれど、でもこの小説については、テーマは「友情」であると言い切ってしまってもいいように思える。

 葵の過去のパートでは、葵とナナコの友情がきめ細やかに、リアルに語られる。
 電話の子機(いまや「子機って何?」というひとも少なくないのだろうか)を握りしめて、どうという用事がなくてもえんえんと話し続ける。毎日会って散々話しているのに、手紙を交わす。(これはいまでもラインで行われているのでしょう)

 そして気がつくと、「ふたりだけの世界」ができあがっている。親やほかのクラスメートなんてどうでもよくなる。ふたりでいれば、何でもできるし、何にもいらない。

「あたし、ナナコと一緒だとなんでもできるような気がする」

  現在のパートでも、小夜子はママ友に混じれない自分を責め、保育園でなかなか友達を作れない娘に対して、自分の分身を見ているかのような苛立ちを抱く。そんな思いを打ち明けられた葵はこう語る。 

「私たちの世代って、ひとりぼっち恐怖症だと思わない? …… 友達が多い子は明るい子、友達のいない子は暗い子、暗い子はいけない子。そんなふうに、だれかに思いこまされてんだよね。私もずっとそう。ずっとそう思ってた ……

 「友情」がテーマといっても、「友達が多い子は明るい子、友達のいない子は暗い子」と主張しているわけではないのは言うまでもないが、逆に「友達は数ではなく質だ」「“ほんとうの友達”がいればいい」「見せかけではなく真の友情が大事だ」などと決めつけているわけでもない。 


 ただ誰かと親密になること、気持ちを分かちあうことが、葵とナナコの姿を通じて描かれている。そして、それがどれほど貴重ではかないものなのかが、ふたりのその後の顛末と現在のパートからひしひしと伝わってくる。

 同時に、葵とナナコのような関係は思春期の一時期しか持ちえないものかもしれないが、大人になってからでも、葵と小夜子のように、仕事などといった現実社会のしがらみを通じて、さまざまな形で他人との新たな結びつきを築きあげられるということも伝わってくる。

 さらに、この小説が胸に響くのは、巷でよく言われる「女は女が嫌い」「女の敵は女」理論を採用していないからだと思う。

 もちろん、女の友情は純粋で美しいものだとばかり描いているわけではない。いじめで苦しんだ経験を持つ葵は、自分は他人と関係を持つことができないのだろうかと悩み、小夜子は母親同士の軋轢に直面して心をかき乱される。
 それでも、いったんは別々の道を歩きかけたふたりが迎えるラストは、このうえなく清々しい。

 同じように読み返していた、ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』には、こう書かれている。 

新聞とか小説とか伝記などをめくると、女性は女性に語りかけるときに、何かきわめて不快なものをこっそり用意しておかねばならない、とされています。女は女に手厳しいものだ。女は女が嫌いなものだ。女は――でも、こんな言葉はなくなってほしいと思うくらい、みなさんはこの言葉にうんざりしていませんか? じつはわたしがそうなのです。  

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

 

  同じ女だからといって、そう簡単にわかりあえたり、連帯できるわけではない。
 でも、くだらない話をしながらでも、ときに気持ちを分かちあい、ともに歩いて行ける友達は絶対に必要だなと、読むたびに強く実感させられる小説である。

 

喪失感を抱えたまま生きていく 『あまりにも真昼の恋愛』(キムグミ 著 すんみ 訳)

 前回書いた「はじめての海外文学」の翌日に、出町座で行われたトークショーで、海外文学の魅力とは? という話になり、「遠さ」と「近さ」ではないかという意見が出た。
 つまり、海を越えた「遠い」国の物語であるのに、その心情はおどろくほど「近い」というよろこびこそが、大きな魅力だと。たしかにそのとおりだと思う。


 ただ、ふだんから海外文学を読んでいないと、まずその「遠さ」が往々にして障害になる。実際のところ、地名などの設定にもなじみがあり、登場人物が身近に感じられ、より共感しやすい日本の小説を好むひとの方が圧倒的に多いのも事実である。

 ここから、『82年のキム・ジヨン』の大ヒットに代表される韓国小説のブームともいえる現状を考えると、この「遠さ」と「近さ」のバランスが絶妙なのではないかという気がする。

 遠い海外の話であるにもかかわらず、アメリカやヨーロッパとは異なり、まるでパラレルワールドのように似た状況、既視感すら感じる光景が描かれる。社会の在り方や登場人物のおかれた境遇も近く、心情がいっそう胸に迫る。

 いや、小説で描かれる心情はアメリカやヨーロッパのものでも変わらないと思うけれど、同じようなバックグラウンド――西洋を目標にして急激に近代化を進めた結果、ひとびとの意識が追いつかないまま豊かになり、そこで経済成長が頭打ちになると矛盾が噴出し、社会の格差や混乱が目立つようになる――を持つせいか、西洋の国々より身近に感じられるのかもしれない。

 この短編集『あまりにも真昼の恋愛』では、取り返しのつかない過去に囚われ、どこにも行き場の無くなったひとびとが描かれ、登場人物たちの現在のよるべなさ、足場のない宙ぶらりんの気持ちに韓国の多くの若者たちから共感が寄せられたらしいが、日本の読者もきっと同じような思いを抱くのではないかと思う。 

あまりにも真昼の恋愛 (韓国文学のオクリモノ)

あまりにも真昼の恋愛 (韓国文学のオクリモノ)

 

 表題作の「あまりにも真昼の恋愛」は会社で降格を言い渡されたピリョンが、16年前の学生時代に自分のことを好きだと言ったヤンヒを探し求める物語である。

ヤンヒからの唐突な愛の告白で、平凡で不毛だった二人の関係はそれまでとは違う色彩を放ち始めた。その日も、ピリョンが自分の話に酔ってしゃべりつづけるのを横で静かに聞いていたヤンヒが、先輩、私、先輩のことが好きです、と言った。

 ヤンヒは仲の良い後輩であったが、化粧気もなく女らしくないヤンヒと付きあうつもりはなかった。いや、それだけが理由ではない。自分のことを好きだと言いつつ、明日はどうだかわからないなんて口にするヤンヒを受け入れる勇気がなかった。プライドが許さなかった。 

「おまえさ、少しは見た目を気にしたら? おまえのためを思って言うけど、いっしょにいるのが恥ずかしいんだよ。青春は二度と戻ってこないからな。あと何年かしたら後悔するよ――

  もちろん、そんな台詞を吐いたピリョンが、そのときから現在に至るまで後悔を抱え続ける。 

 この作品のみならず、この本に収録された短編では、登場人物は失ったものを探し続け、せっかく見つけてももう元には戻らないことを痛感する。あるいは、探していたものなんてほんとうには存在しなかったことが判明する。

 昔のサークル仲間だったセシリアに会いに行く「セシリア」、兄妹で両親を殺した男を探し出して復讐しようとする「普通の時代」、育った孤児院が資金不足のため閉鎖の危機にあると聞いて動揺する看護士が、靴を探す患者に遭遇する「私たちがどこかの星で」など。

 なかでも、ペットを探す話がとくに印象深かった。「犬を待つこと」では、母親が散歩させているときに逃げ出してしまった犬を探しているうちに、母親との関係が不穏なものに変化していく。いや、以前から存在していた不穏さが水面に浮上する、と言った方が適切か。

 散々な人生のはてに迷子の猫を探すことをライフワークにした男が主人公の「猫はどのようにして鍛えられるのか」は、この短編集の最後の作品だからかもしれないが、とくに胸に残った。 

捨てられた猫を、飼い主のところに戻してあげたのが始まりだった。それがいまや毎晩こなさなければならない副業になっている。猫探偵になろうとしてなったわけではない。彼の望みは一日八時間の勤務と週10時間前後の残業と帰宅、それから猫たちと過ごす夜だけ。

  両親を早くに亡くした主人公は、苦労の末にキッチン用品メーカーの設計員というホワイトカラーになったものの、現場で檄を飛ばし、しばしば周囲と軋轢をおこす性格から、現代の会社組織においては完全に疎まれて窓際族となり、孤独な人生を送っていた。そんなある日、庭のタライで野良猫が子猫を産んでいるのを発見する。

彼が自殺を図ろうとするたびに、たとえば、壁の釘に紐を結んで首を吊ろうとすると、そのタライの中にいる猫たちが彼の死を邪魔した。どうすればいいんだろう、あの猫たちを。その邪魔者について考えることで、彼は何日かを生き延び、ついには自分を猫に託すことにした。

  そんな彼のもとへ、行方不明になったベンガル猫を探してほしいと少年が依頼する。「不適応」で学校には行っていないというその少年の、どこまでほんとうなのかわからない証言にときに翻弄され、ときに憤りながら猫を探す。

 一方、リストラされずに居残った会社では、「職能啓発」してクラフトマンになるために、ひたすら釘を打ち、女性社員と言葉を交わすようになる。主人公は失ったものを見つけることができるのだろうか? 

 できるのだろうか? と書いたが、どの短編も、探していたものがはっきり見つかる結末は用意されていない。
 先にも書いたように、登場人物たちは宙ぶらりんのまま置いてけぼりにされる。ヤンヒもセシリアも主人公の立っているところには戻ってこない。けれども、宙ぶらりんのままでも日々は過ぎていく。

 喪失感を抱えたまま生きていく――それは特別につらいことでも悲劇でもなく、当たり前のことであり、それこそがかけがえのない日常なのだと感じさせてくれる短編集だった。

 

文学は万能薬? はじめての海外文学@梅田蔦屋書店(2019/01/26)後編(『虫とけものと家族たち』ジェラルド・タレル 著 池澤夏樹 訳など)

 さて、遅くなってしまいましたが「はじめての海外文学」@梅田蔦屋書店のレポの続きです。

 田中亜希子さんの次の登壇者は、現在ご自身の訳書『タコの心身問題』が大ヒット中の夏目大さん。 

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

 

 タコというと、たこ焼きやたこ八郎(古い!)しか思いつかなかったが、この『タコの心身問題』はどちらとも関係なく(当然ながら)、「心とは何か」を哲学的に考察している本とのこと。

 オススメ本は、『ライ麦畑でつかまえて』に『ナイン・ストーリーズ』。
 とにかく読んでみてほしいと話されていて、サリンジャーへの熱い思いがひしひしと伝わってきた。“ライ麦畑”は野崎孝訳でも村上春樹訳でも読んだので、柴田元幸訳の『ナイン・ストーリーズ』も読んでみよう。 

ナイン・ストーリーズ (ヴィレッジブックス)

ナイン・ストーリーズ (ヴィレッジブックス)

 

  さらに、ウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』のモデルになった小説として、ヘミングウェイの『移動祝祭日』も紹介。1920年代の輝くパリと、まだマッチョになっていないヘミングウェイが堪能できる作品。 

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)

 

  次の古市真由美さんのオススメ本は『フローラ』。
 記憶を保っていられない少女フローラが、たったひとつのキスの思い出を辿って北極に旅する物語。

フローラ (SUPER!YA)

フローラ (SUPER!YA)

 

  えらい寒そうやな……いや、大阪の寒さでもじゅうぶん身体にこたえる私としては、どうしてもそう思ってしまったが、紹介を聞いただけでも、フローラがどうなるのかすごく気になって先が読みたくなった。

 古市さんはフィンランド語の翻訳者であるので、推しメンならぬ推しエリアは、やはり北欧とのこと。
 ちなみに、次の日の出町座でのトークで、どうしてフィンランド語を学んだのかという話になり、「やはり“ムーミン”が出発点で、原作を読むとアニメとはまた異なる雰囲気だったので興味を持った」というのが「公式回答」と語られていた。(非公式の回答も気になる)

 また、ご自身の訳書の『四人の交差点』も紹介。
 ある一家の物語が世代の異なる家族によって語られる、フィンランドで大ベストセラーとなった小説らしい。

四人の交差点 (新潮クレスト・ブックス)

四人の交差点 (新潮クレスト・ブックス)

 

 私はまったく北欧小説に詳しくないけれど、一般的には北欧というと、福祉国家といったほっこりしたイメージがあるが、出てくる小説は、『ドラゴン・タトゥーの女』のミレニアム・シリーズや、アーナルデュル・インドリダソンなど、全然ほっこりしていないように思える。

 村上春樹が訳したソールスターもすごくおもしろかったけれど、かなり奇妙な話だった。なので、この『四人の交差点』もサザエさんみたいなほっこり一家の話ではなく、不穏でシビアな物語であろうと期待する。

 次の吉澤康子さんのオススメは、『4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した』。
 タイトルからもわかるように、わずか4歳でアウシュヴィッツに送られ、最年少の生還者となった作者が語るホロコースト体験。 

4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した

4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した

  • 作者: マイケル・ボーンスタイン,デビー・ボーンスタイン・ホリンスタート,森内薫
  • 出版社/メーカー: NHK出版
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  おそらく私だけではないだろうが、ナチスホロコーストを題材とした本やドキュメンタリーを見るたびに、人間はここまで愚かしく、そして恐ろしい存在になれるのかと考えさせられる。

 もちろん、当時ナチスに従ったひとたちがとくに愚かだったわけではない。何かがおかしい、どこかで何かがおきているらしいとうすうす感じながらも、思考停止に陥り、見て見ぬふりをしてしまう可能性は誰にでもある。
 4歳の子を収容所に送るなんて信じられないと思うけれど、その信じられないことをしてしまうのも人間であり、そんな状況で助けあうのも人間なのだろう。

 ご自身の訳書『ローズ・アンダーファイア』も、第二次世界大戦中に強制収容所に送られた飛行士の少女の物語。 

ローズ・アンダーファイア (創元推理文庫)

ローズ・アンダーファイア (創元推理文庫)

 

 姉妹編である前作の『コードネーム・ヴァリティ』も、同様に戦場で活躍した少女たちの物語である。 

コードネーム・ヴェリティ (創元推理文庫)

コードネーム・ヴェリティ (創元推理文庫)

 

 原書は“ヤングアダルト”として出版されたというので、戦争ものであっても重くなく読みやすい物語なのかなと思って、実際に手に取ってみたら、いい意味で期待を裏切られた。
 向こうの中高生はほんとうにこんなの読んでるの? とおどろいてしまうくらい容赦なく、胸に迫る物語だった。『ローズ・アンダーファイア』も購入したので、また感想をアップします。

 最後の和爾桃子さんのオススメ本は、『虫とけものと家族たち』。 

  紹介文によると、作者ジェラルド・ダレルは「英国のナチュラリスト、作家」であり、1925年生まれで、8歳のときに家族とともにギリシアのコルフ島へ移住と書かれている。そのコルフ島での生活を綴ったのが、この本である。

 というと、どうということのない軽いエッセイなのかと思ってしまいそうになるが、訳者の池澤夏樹があとがきで「幸福の典型的な例を書いた本」と称し、「ここに溢れる幸福感につられてギリシアに渡った」というのだから、幸福ってなんなん? と常に思う身としては、見過ごすことはできない。「幸福の典型的な例」を学ぶためにも、ぜひとも読んでみないと。

 訳者の和爾さんも、つらかったときにこの本を読んで救われた体験談を話されていた。そう、誰でもつらいときに同じ本をくりかえし読んだ経験はあるのではないでしょうか。これがないと眠れないとばかりに。
 たしかに“つら本”は、小説よりも作者がより身近に感じられる、上質の随筆がいいかもしれない。

 また和爾さんは、「コルフ島こぼれ話」という小冊子も作られていて、本を購入するとおまけとしてもらえた。そこでもこう書かれている。 

人生の辛い時、悲しい時、騙されたと思ってぜひお試しください。

あなたの人生の薬箱に特効薬がひとつ増えますように

  和爾さんご自身の訳書にはサキのシリーズがあるが、その中でも池澤夏樹氏がとくにお気に入りだというのが、この『けだものと超けだもの』らしい。 

けだものと超けだもの (白水Uブックス)

けだものと超けだもの (白水Uブックス)

 

  前編でも紹介したように、サキのアンソロジーは数多いけれど、オリジナル短編集の全訳はめずらしい。どれも短編で、ショートショートくらいのものも結構あるので、「はじめての海外文学」にはまさにうってつけではないでしょうか。

「超けだもの」、つまり“super beast”をタイトルに冠しているだけあって、サキもかなりの動物好きだったようで、この本のあとがきにはサキ自身による動物のスケッチもおさめられている。しかし、イギリス人ってほんとうに動物好きですね。(なんなら人間より動物の方が好きなのかもしれない)

 それにしても、この日に挙げられた本だけでも、サリンジャーのような痛々しい青春の物語に、切ない恋愛小説、戦争や移民といった厳しい現実を反映したもの、つらいときの助けになる本……そしてタコまでと、ほんとうに幅広い。

 よく言われることだけど、人生は一度しか生きられないけれど、本を読めば、さまざまな国のさまざまな人生を味わうことができる。文学とは人生のどんなシチュエーションにも対応可能の万能薬だと、あらためて感じ入ったのでした。

 

 

「役に立つ」英語って何? 外国語を学ぶということは――『英会話不要論』(行方昭夫)

※「はじめての海外文学」レポの途中ですが、諸事情により?こちらを先にアップします。

 今年こそは英語を話せるようになりたい! 

 そう思っている方は少なくないのではないでしょうか。かくいう私もそのひとりです。

 英語圏で暮らしたことも働いたこともなく、仕事では英語を使ってメールでやりとりしていても(特許事務所で働いているので)、ふだんは英語を話す必要に迫られることもなく、のほほんと日本語オンリーの生活を送っているのですが、
時おり訪れるアメリカやヨーロッパ、インドからのアトーニーがミーティングしようといらんことを言ってきたり、はてはクライアントに訪問するのでアテンドしろだのという事態すら発生し、
そのたびに日頃から英会話の練習をすればよかった……と痛感する日々。

 もちろんその後は、ECCに行こうかな、いやオンライン英会話の方が安くて便利なのか? と検討するけれど、結局(当然ながら)お金も時間もかかることが判明し、今度考えようと延び延びにしていると、再び「また来んの?」とふりだしに戻る、の繰り返し。

 そこで目についたのが、勇ましいタイトルのこの本。しかも、翻訳書や英文読解の本を多数出されている行方先生が書かれているのだからまちがいない。 

英会話不要論 (文春新書)

英会話不要論 (文春新書)

 

  しかし、一見過激なタイトルだが、その趣旨は、昨今英語教育業界で吹き荒れている「これまでの日本の英語教育は文法や訳読ばかりで、ちっとも英語を話せるようにならない、役に立たない無駄な勉強だ」という意見に対する、至極まっとうな反論。


 言うまでもなく、英語なんて話せなくともよい、外国人と話す必要なんてないじゃないか、こっちは仕事が忙しいのにミーティングなんて提案するな(あれ?)というものではない。

 英語と日本語はまったく構造がちがうのだから、文法の勉強は不可欠であることや、英語の四技能(読む、書く、聞く、話す)は密接に絡み合っているので、遠回りのようでもじっくり勉強をした方がいいということが、「役に立つ」英語を教えろ!と主張するひとたちにも納得してもらえるよう、懇切丁寧に説明されている。

 最近もてはやされている小学校からの英語教育についても、「帰国子女は不幸な結果に終わることが予想外に多い」と例をいくつか挙げ、いくら子どもの頃から外国語教育をしても、真の「バイリンガル」になることはきわめて困難だとして、早期教育はマイナスの結果に終わるのではないかと語られている。

 帰国子女が往々にして日本でなじめず、いじめにあったり(時には拒食症などに陥ったり)するという話では、言語の問題以外にも、日本の学校同調圧力の根強さを思い知らされて胸が痛み、帰国子女は英語ペラペラでいいなーとつい浅はかに思ってしまう自分を省みた。

 また、(読む、書く)の勉強をしっかりしていれば、話す能力も自然と身につくはずという点については、そうかな~~いくら(読む、書く)をしても、ちっとも話せるようにならないけれど、と正直ちらっと疑ったが、
あとの「『読み書きはできるが話せない聞けない』は本当か?」という章で、そんなことを言う者の大半は、実際には読む力も本格的ではないと書かれており、そのとおりです…!と再び自省した。

 そして、この本の後半では英語教育から離れ、「異文化交流の壁」として誤訳の問題などを取り扱っていて、一段と興味をひかれた。

 誤訳というと、自らもおかしがちな英語を日本語にする際の誤訳をまっさきに思い浮かべるが、ここではまちがって英訳された日本語の名作の例が最初にいくつか挙げられている。
 たしかに主語を省略しがちな日本語は、日本語話者でないひとたちが完璧に理解するのは難しいだろうとつくづく感じた。

 さらに、これは誤訳かどうかと作者が問うているのが、原文も英訳もともに名文とされているこの作品だ。 

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。 

The train came out of the long tunnel into the snow country.  The earth lay white under the night sky.  The train pulled up at a signal stop.

  もちろん書かれている光景は同じだが、原文と英訳の視点のちがい(原文は島村の内面から描かれているが、英訳は俯瞰した視点になっている)から誤訳という意見もあるらしい。

 作者は、「英語と日本語のように差異が大きい言語同士の場合、複数の解釈があるのは当然」として、「誤訳だと決め付ける必要はないし、肯定的に受け入れるのがよい」との考えとのこと。
 翻訳書も(たまに)原書も読む者として私も、英語と日本語は隔たりが大きいので、一字一句対応していないとか、そんなことでいちいち誤訳だと騒ぐのはいかがなものかと思うことが多い。

 とはいえ、やはり誤訳が大きな問題になることもある。その例として挙げられているのが、サミュエル・バトラーの『万人の道』事件。

 そもそも、サミュエル・バトラーって誰?? と思われる方も多いだろうが、19世紀のイギリスの小説家で、代表作『エレホン』は、昨今流行りのユートピアディストピア小説の先取りともいえる作品であり、デイヴィッド・ロッジの『小説の技巧』でも取りあげられているところから、イギリスでは古典作品とみなされているようだ。 

小説の技巧

小説の技巧

 

  『エレホン』については、また後日紹介できればと思うけれど、そのバトラーの半自伝的小説『万人の道』の翻訳が出た際に、行方さんの先生である朱牟田夏雄さんが、『英語青年』で多くの誤訳を指摘したところ、岩波書店が販売停止にしたらしい。
……稲川淳二の怪談なみに怖いですね。(いや、朱牟田先生はたまたま指摘しただけで、当時はそのレベルの翻訳書も珍しくなかったと、行方さんは補足されてますが)

 こういった誤訳の問題も含めて、外国語である英語を使って異文化交流を行うのは困難な面もあるが、

英語母語話者と英語非母語話者とが相互に寛容の精神を十分に発揮すれば、よい成果が得られると思う 

というのが作者の結論だ。「それには、英語母語話者が、自分らは母語だけ知っていれば事足りるという従来の態度を改めるべき」だと。

 そこで思い出したのが、最近の“こんまり”を巡る騒動。
 アメリカで大ブレイク中の片付けの女王“こんまり”が、英語を話さないことを嘆くひとがいるらしい。 

cakes.mu

 この渡辺由佳里さんのコラムを読むと、多くのアメリカ人が、外国人同士で話している場合ですらも「ここはアメリカなのだから英語で話すべき」と思っていることにおどろかされる。
 日本人のなかでも、日本にやって来た外国人に対して不寛容なひとがいるのは事実だが、外国人同士の会話であっても日本語で話せ!とまでは思わないのではないだろうか。

 そういったアメリカ人たちは、もともと偏見を抱いているというより、外国語を身につけなければいけないと必死になった経験がないから、ごく自然にそんな物言いをするのではないかと思う。(ちなみに、冒頭の諸事情とは、このコラムが無料で読める期間が限られているからです)

 となると、やはり行方さんが書かれているとおり、「外国語を学ぶ経験が必要」なのだろう。
 「役に立つ」英語かどうかという問題ではなく、外国語を学び、外国文学や異文化と触れあうことによって、自分の中にある偏見や縛りから解放され、より自由な自分になれるのだと、あらためて強く感じた。 

はじめての海外文学@梅田蔦屋書店(2019/01/26)前編 『ピアノ・レッスン』(アリス・マンロー 著 小竹由美子訳)など

 さて、先週土曜日は、梅田蔦屋書店で行われたイベント「はじめての海外文学」に行ってきました。 

 「はじめての海外文学」って何なんそれ?
 という方もいるかと思いますが、ふだん海外文学になじみのない読者に向けて、翻訳者さんがおすすめの本を紹介するという趣旨のもと、書店でのフェアや読書会を開催し、今回のように、翻訳者さんが登壇しておすすめの本をプレゼンするというイベントも行ったりと、
 要は、海外文学ビギナーのためのファンミのようなもの……? いや、ファンミというと閉鎖的な感じもしますが、誰でも参加できるオープンな会です。

 で、東京では何回か開催されていたけれど、大阪では今回が初のイベント。8人の翻訳者さんが、10分の持ち時間でそれぞれのおすすめ本について語ってくれました。
 ※ちなみに、以下のレポートは、誰々がこう語ったと明記しているところ以外は、私の(勝手な)感想です。

 まず、トップバッターの越前敏弥さんがプレゼンしたのは、自らの訳書『おやすみ、リリー』。 

おやすみ、リリー

おやすみ、リリー

 

  ここでも紹介したように、動物を愛するひとすべてに読んでもらいたい本。

 犬でも猫でもペットを飼っているひとなら、常に感じていることだろうが、私たちが犬や猫にしてあげていることより、犬や猫から私たちが受けとるものの方がずっと多い。(おそらく子育てもそうなのでしょう)そのことがひしひしと強く伝わってくる。


 ずっとリリーに支えられてきた「ぼく」が、これからは自分がリリーを守ろうと奮闘するさまが、ときにコミカルに、ときに胸に迫り、思わず「ぼく」に感情移入し、ひきこまれてしまう。

 動物が好きだからこそ、こういう本はつらくて読めない……というのはよくわかる。でも、別れはいつかは訪れるものなので、そのときの予行演習だと心を決めて読んでみてはどうでしょうか。


 越前さんが話されていたように、タコと「ぼく」のやりとりも絶妙。ビートたけしの口調を意識して訳したとのことだけど、『テッド』の有吉あたりを想像してもよさそう。

 ほかには、先日惜しくも亡くなられた(「惜しくも」という言葉がこれほどあてはまる事態はそうそうない)天野健太郎さんの訳書『星空』を紹介し、先日のお別れ会で配られた遺稿集をまわしてくれたのが有難かった。 

星空 The Starry Starry Night

星空 The Starry Starry Night

 

  じっくりとは読めなかったけれど、台湾の本を日本に紹介するにあたり、天野さんがどれくらい真剣に戦略を練っていたのかがよくわかった。『歩道橋の魔術師』のヒットは偶然の産物ではなく、ある意味必然ですらあったのだろう。
 だからこそ、ほんとうに惜しいひとを失ったな、と……

 次の小竹由美子さんがプレゼンしたのは、BOOKMARK13号にも紹介されているグラフィックノベル、『マッド・ジャーマンズ ドイツ移民物語』。冷戦下にアフリカのモザンピークから東ドイツに移民した、ふたりの少年とひとりの少女の物語。小竹さん曰く、文章も絵もシンプルでありながらリリカルな物語らしい。 

マッドジャーマンズ  ドイツ移民物語

マッドジャーマンズ ドイツ移民物語

 

   小竹さんと言えば、やはりノーベル賞作家アリス・マンローの翻訳の印象が強い。
ということで、マンローの『ピアノ・レッスン』も紹介された。 

ピアノ・レッスン (新潮クレスト・ブックス)

ピアノ・レッスン (新潮クレスト・ブックス)

 

  こちらはマンローの初期作品集で、マンローをはじめて読むひとにもおすすめとのこと。これを読めば、「男のひとは女がわかる、女のひとならぐっとくるはず」という小竹さんの熱弁に胸を打たれて購入した。(いや、最初から買うつもりだったのですが)


  さっそくいま読んでいるところだけど、たしかにどの短編もストーリーにすっと入りこめる。これだけ読みやすいのに、短い物語に人生がぎゅっと凝縮されている味わいは、のちのマンローの作品と変わらない。

 訳者あとがきで、「マンローはまさに真のフェミニストであると思う」と書かれているけれど、「わたしには仕事場が要る」とマンローに近いと思われる主人公が決意する「仕事場」は、どうしてもヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』を想起させる。

 この短編では、仕事場を借りることはすんなりと成功するのだが、その後の顛末がなかなか数奇で(でも、こういうひといるよな…という気もする)、人生の奇妙な味わいについて考えさせられる。
 そのほかにも、作者の子供時代や少女時代の思い出を材料にしているような、少女たちの繊細な心の動きや痛ましさが描かれている物語がとくに印象的だった。

 

 次の芹澤恵さんがプレゼンしたのは、『マンゴー通り、ときどきさよなら』。 

マンゴー通り、ときどきさよなら (白水Uブックス)

マンゴー通り、ときどきさよなら (白水Uブックス)

 

  先程の『ピアノ・レッスン』も、少女が成長していく過程の出来事が綴られている短編が多かったが、こちらも移民一家の少女の成長を描いた物語らしい。

 移民というとアメリカンドリーム的なものを連想するが、この主人公の少女は、「希望」という意味を持つ自分の名前を毛嫌いしているとのこと。自分なりの「希望」を探し求める話なのだろうか。読んでみたくなった。

 そして、自らの訳書のキャサリンマンスフィールドの『不機嫌な女たち』と、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』の紹介も。 

  キャサリンマンスフィールドは日本では早くから紹介されていたけれど、早すぎたのではないか、と。いまようやく時代が追いついたような気がする、と語られていた。

 たしかにそんな気もする。いや、「ガーデン・パーティー」などの代表作しか読んだことがないけれど、アリス・マンローのところで表現した「女ならぐっとくる」「少女の繊細さや痛ましさ」という言葉が、こちらにもぴったりとあてはまるように思えるので、いまこそ読むべき作家なのかもしれない。

 『フランケンシュタイン』は、やはり映画『メアリーの総て』も話題になったので。ここで『ヒロインズ』を紹介したときに、『メアリーの総て』の感想も書いたけれど、おもしろかったので原作も読まないと。

 次の田中亜希子さんは、『サキ 森の少年』をプレゼン。 

サキ―森の少年 (世界名作ショートストーリー)

サキ―森の少年 (世界名作ショートストーリー)

 

 あとに登壇された和爾桃子さんも訳されているように、サキのアンソロジーはたくさんあるけれど、こちらは児童文学の翻訳で定評のある千葉茂樹さんの訳なので、海外文学のビギナーにもたいへん読みやすく、けれども、サキ特有のシニカルなオチはじゅうぶんに楽しめる短編集とのこと。

 いま検索したら、有名な「開いた窓」に、言葉を理解する猫が登場する、私も好きな「トバモリー」が収録されている。ほかの訳と読み比べてみるのもいいかも。

 また、千葉さんと同じく田中さんも児童文学を専門としているので、自分の訳書では『ぼくはアイスクリーム博士』という絵本を紹介。 

ぼくはアイスクリーム博士

ぼくはアイスクリーム博士

 

 「だいすきなアイスでいつも頭がいっぱい」で「なんでもアイスに結びつけ」るジョーくんの物語らしい。
 
 気持ちわかる! いや、私はアイスはそれほど好きではないけれど、パンやあずきのことばっか考えたり、しょっちゅう食べログでおいしいぜんざいの店を探したりしてしまう。

 しかし、おとながお菓子ばっかり食べていても、絵本にならないのが悲しい。絵本どころか、セットになるのは肥満や糖尿病だ。はては、勝手に検索履歴をチェックされて、こんな本が広告欄にあがってきたりする始末。 

あんこ読本  あんこなしでは生きられない

あんこ読本 あんこなしでは生きられない

 

と、最後はついどうでもいいことを書いてしまったが、とりあえず前編はここまで。


 イベントでは個々の本の話を聞くのが楽しく、またあとで振り返ると、現在の日本ではどのように海外文学が受容されているのか、海外文学を読んでもらうためにはどうしたらいいのか、考えるきっかけになった2日間でした。自分なりに、考えをまとめていきたいと思います。

生身の人間たちによる公民権運動の記録 『March』(ジョン・ルイス、アンドリュー・アイディン 作 ネイト・パウエル 画 押野素子 訳)

 先週末、スーパーで買ったお好み焼きと焼きそばのセットを食べたところ、焼きそばの油が合わなかったのか(もしくは単に食べ過ぎたのか)、食あたりになって寝込んでしまいました。
 読書会の告知文書きにも、日本翻訳大賞の投票にも後れを取ってしまいましたが、とりあえず、BOOKMARK最新号にも紹介されているこちらの本をご紹介。 

MARCH 1 非暴力の闘い

MARCH 1 非暴力の闘い

 

    この『March』は、アメリカの公民権運動の闘士、ジョン・ルイス議員の半生を描いたグラフィックノベルである。

 第一巻の冒頭は、アラバマ州セルマのエドモンド・ベタス橋で黒人のデモ隊が警官隊と衝突するところからはじまる。
 「やってやれ!」「ニガ―ども」と、警官隊は力でデモ隊を制圧するだけにとどまらず、容赦なく催涙ガスまでふりまく。

 次の舞台は2009年1月20日のワシントンDCへ飛ぶ。オバマ大統領の就任式だ。そこに招かれるジョン・ルイスが、少年時代からここに至るまでの歩みを振り返るという形で、ストーリーが語られていく。

 おそらく大方の人は、1861年南北戦争勃発、1863年エイブラハム・リンカン(最近の教科書は「リンカーン」ではないらしい)の奴隷解放宣言、そして1950年代、白人に席を譲ろうとしなかったローザ・パークスが逮捕された事件を皮切りに公民権運動が盛りあがり、マーチン・ルーサー・キング牧師の指揮のもと1964年に公民権法が成立された、といった世界史的な流れはご存じのことだろう。

 しかし、この本を読むと、歴史の教科書では、「公民権運動が盛りあがった」という一行で片付けている事実の裏側で、どれほどの怒りや悔しさといった生身の人間の感情があふれ、どれほどの痛みが伴い、どれほどの血や涙が流れたのかが、痛烈に伝わってくる。

 そう、この本からは、差別をする側もされる側も、生身の人間であるということがよくわかる。

 差別をされる側も、差別を覆したいという目的を共有していても、当たり前だが、考えていることはひとりひとり異なっている。よって、「公民権運動」といっても、実際にはなかなか一枚岩にまとまらない。

 徹底的に非暴力でありながら、どこまでも妥協せず、黒人禁止の場所で座りこみやデモを続けるジョン・ルイスたちに対し、「いったん中止すべきだ」と宥和策を提案する仲間もいれば、逆に、そんなやり方は手ぬるい、少なくとも暴力を受けたら反撃すべきだと主張する仲間もいる。

 第一巻では、当時の代表的指導者であるサーグッド・マーシャル(ウィキペディアによると、アフリカ系アメリカ人初の合衆国最高裁判所判事になった人物らしい)が、「刑務所を出してやるといわれたら出るんだ!」と同胞たちを諭しているのを聞いた、若きルイスは納得できないものを感じ、「伝統的な黒人の指導者層に対しても抵抗しなければならない」と決意する姿が印象的だった。

 フェミニズムや反貧困運動など、どんな運動であっても、内部でのさまざまな意見の対立や、過去の指導者が脱け出せない価値観や因習を乗り越えることがなによりも大事な点であり、それによって運動体はさらに力を得て、その哲学が研ぎ澄まされるのだろう。

 そして、差別する側も生身の人間である、ということも忘れてはならない。

 認めたくない事実、とまで言うとおおげさだが、しかしこの本の中で、とことんまでルイスたち運動家を痛めつけ、女でも子どもでも暴力の標的にし、何人もの命を奪っていく白人至上主義者たちが、私たちと同じ人間であるとはどうしても信じがたい。
 けれども、第二巻の大森一輝の解説にあるように、「南部の白人は狂人でも鬼や悪魔でもなかった」のである。 

人種差別をしていたのは、生まれ育った地域を愛し、それまで「当たり前」だった暮らしや流儀を壊させまいとしていた、私たちと同じ「普通」の人間だったのです。

  大森氏は続けて、非難する相手を悪魔化し、自分は絶対にあんなことをしないと思ってしまうと、差別を「自分と関係のない特殊な出来事」だと考えてしまう陥穽に陥る可能性を指摘している。

 そうではなく、差別をする側、される側が無くならないかぎり、自分もまた差別する側、される側であり続けるのだ。自由ではないひとがいる限り、自分もまた自由ではないのだ。

 第三巻で指導者のひとりであるボブ・モーゼズが、「ミシシッピの黒人を『助ける』ためには来ないでほしい 彼らの自由と君たちの自由が一つのものだと心から理解できたら来てくれ」と呼びかけているのは、きっとそういうことなのだろう。

 といっても、いまの私たちの感覚では、人種隔離を主張する白人たちの気持ちを理解するのは難しい。そういう相手も同じ人間で、愛や良心を持ちあわせているはずだ、とはなかなか思えない。

 だが、ルイスはガンジーの非暴力の哲学がベースにあるからかもしれないが、自分をおそう者に対しても、愛を持ちつづけようとする。

 どうしてそんなことができるのか――そこで、物語の冒頭で描かれていたルイスの少年時代に思い至る。

 綿花やコーンを栽培していた実家で、ルイスは鶏の面倒をみていた。
 聖書に心うたれたルイスは鶏やひよこ相手に演説をし、ときには洗礼式まで行い、鶏やひよこが死んでしまうと悲しみにくれた。そして、養鶏にはつきものの事態――家で鶏をつぶした日の夕食時には姿を消した。鶏やひよこを真剣に愛していたのだ。

 一見、公民権運動の闘士というキャリアには何の関係もないように思えるエピソードだが、ここで振り返ると、最初に置かれていた意味が理解できる。
 陳腐な言葉かもしれないが、差別に抵抗できるのは愛ということだろう。

 また、登場場面は多くないが、マルコムXも強い印象を残す。
 とくにルイスが最後に会ったとき、これからは「活動の焦点を人種から階級に移すべきだ」「階級こそがアメリカだけでなく 世界各地の問題の根源なのだ」と、マルコムXが語るところは、現在から考えると、まさに慧眼である。

 人種や階級が異なる者同士が共生することは可能なのだろうか? 
 2019年現在の世界を見ると、残念だが、どうしても悲観的な気持ちになりそうになるが――

 少し前に読んだ、レイ・ブラッドベリの短編「さなぎ」を思い出す。
 白人になりたい黒人の少年と、黒人になりたい白人の少年が夏の海辺で邂逅する。大人が黒人の少年を無視しようとも、彼らの夏はそんなことでは色褪せない。
 こんな世界ならば、共生は可能なのかもしれない。