快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

2019年11月10日 柴田元幸さん講座「J・D・サリンジャーの声を聞く」 ホールデンからハック、そしてシルヴィア・プラスなど

If you really want to hear about it, the first thing you’ll probably want to know is where I was born, and what my lousy childhood was like, and how my parents were occupied and all before they had me, and all that David Copperfield kind of crap, but I don’t fee like going into it. 

もし君がほんとに僕の話を聞きたいんだったら、まず知りたがるのはたぶん、僕がどこで生まれたかとか、子供のころのしょうもない話とか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとかなんとか、そういうデイヴィッド・コッパフィールドっぽい寝言だろうと思うんだけど、そういうことって、話す気になれないんだよね。

  さて、朝日カルチャーセンター芦屋で行われた、柴田元幸さんの講座「J・D・サリンジャーの声を聞く」に参加してきたので、いくつか備忘録としてメモしたいと思います。

 まずは資料として、上記の『キャッチャー・イン・ザ・ライライ麦畑でつかまえて)』のように、本日取りあげるいくつかの作品の冒頭の英文と、柴田さんによる訳文が配られた。

 「キャッチャー」は、当時すでに32歳だったサリンジャーが、1950年代に生きる十代の少年の声、その焦燥感、せわしなさをたくみに作りあげていると解説されていた。
 それにしても、訳文も見事に日本語に移しかえている。……と、私が感じいっていると、柴田さん曰く、訳文は原文のぎすぎすした雰囲気をあまり出せていないとのこと。具体的には、lousyやkind of crapのとんがり具合が訳文では弱い、と。ここのLousy「しょうもない」や、そしてkind of crapの「寝言」とか、私には模範解答のようにすら思えたけれど。言葉の海はまだまだ深い。

 そして、1950年代(20世紀)のアメリカの声を表したものが、サリンジャーホールデンであるならば、19世紀で相応するのは、やはりマーク・トウェインハックルベリー・フィンである。 

ハックルベリー・フィンの冒けん

ハックルベリー・フィンの冒けん

 

  ちなみに、19世紀は南北戦争というアメリカ史における最大の事件が勃発した時期であり、なぜ南北戦争が最大の事件なのかというと、南北戦争によってアメリカが無垢でいられた時代が終わったから、と。そして、「ハックルベリー・フィン」は、南北戦争前の話を南北戦争後に描いた小説である、とのこと。 

You don’t know about me, without you have read a book by the name of “The Adventures of Tom Sawyer,” but that ain’t no matter. That book was made by Mr. Mark Twain, and he told the truth, mainly. 

「トム・ソーヤーの冒けん」てゆう本をよんでない人はおれのこと知らないわけだけど、それはべつにかまわない。あれはマーク・トウェインさんてゆう人がつくった本で、まあだいたいはホントのことが書いてある。

  マーク・トウェインは、このまちがいだらけのハックの語りこそが――上の短い箇所だけでも、withoutは前置詞なので、そのあとに主語・動詞は続かない(正しくはunlessになるが、ハックがunlessと言うのは想像できない、と)、ain’tはまちがいではないが、正しい言葉づかいではない、bookにmade(make)は使わず、正しくはwrittenになる――アメリカ人のほんとうの声であると提示した。

 最後の質疑応答のところでも、こういう文章を綴った狙い、また受け取られ方についての質問があったが、『ハックルベリー・フィンの冒けん』のマーク・トウェインによる序文に、「こうした差異化は(←方言を多用していること)無方針や当て推量でなされたものではなく、入念に、これら数種の喋り方に自ら親しんできた経験の導きと支えによってなされている」と、明確な意図があって書いたことが宣言されている。

 受けとられ方については、「ハックルベリー・フィン」は昔から、そしていまでも禁書とされることが多いとのこと。いま禁書とされるのは、おもに ”nigger” という言葉が大量に出てくるからであるが、発表当時はこのハックの語り口が下品で教養がないとして、偉い先生たちやお上品な方々からおおいに批判を受けたらしい。

 また、マーク・トウェインサリンジャーのあいだをつなぐアメリカの声として、ヘミングウェイがいる。ただ、トウェインとサリンジャーと同様に、ヘミングウェイもわかりやすい言葉で物語を書くことを信条としたが、その平易さがあまりにも先鋭化したため、逆にふつうの人々が交わす自然な会話から遠ざかってしまったところもある、と。

 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の女性版としては、1963年に発表されたシルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』が紹介された。 

The Bell Jar

The Bell Jar

 

  昔、私も『ベル・ジャー』の原書を読んで、いまより英語力も低かったので(いまもさして高くないが…)隅々まで理解できたとは言えないながらも、それでも主人公の苦しみ、その切実さに胸を衝かれた。ちょうど先日、Googleのヘッダーがシルヴィア・プラスになっていたので、読み返そうと思っていたところだった。 

It was a queer, sultry summer, the summer they electrocuted the Rosenberg, and I didn’t know what I was doing in New York. I’m stupid about executions. …… It had nothing to do with me, but I couldn’t help wondering what it would be like, being burned alive all young your nerves. 

それは奇妙な蒸し暑い夏、ローゼンバーグ夫妻が電気椅子で処刑された夏で、私は自分がニューヨークで何をしているのかわからなかった。私は死刑のことになると馬鹿みたいになる。…… 私とは何の関係もないのだけど、生きたまま体中の神経を焼かれて死ぬのってどんな感じだろうと考えずにいられなかった。

  ちなみに、ここでプラスはこう書いているけれど、のちに彼女は31歳でオーヴンの中に頭を突っこんで自殺している。体中の神経を焼かれることを想像したことはないけれど、オーヴンの中に頭を突っこんで死ぬとはどんな感じだろうとは時折考える。

 一方、サリンジャーは隠遁したもののかなり長生きして(91歳で死去)、晩年は孫くらい年下の女性とともに過ごしていた…と思うと、つい「やっぱ男って…」とステレオタイプな偏見にまみれたことを考えそうになるが、いやいや、といそいで頭から追い払う。

 柴田さんの講座に話を戻すと、キャッチャーと『ベル・ジャー』で共通しているのは「生きづらさ」であるとのこと。「生きづらさ」というのは、最近でもよく聞く言葉であるが、1940年代~50年代のアメリカの若者の生きづらさは独特のものであった。
 
 というのは、若者文化というものが皆無だったかららしい。たしかにロックにしても、チャック・ベリープレスリーの活動初期から考えたら50年代も入るかもしれないが、若者文化として普及したのは60年代以降というイメージがある。若者が感情移入できるもの、若者の気持ちを受けとめるものがまったくなかったようだ。

 とくに女性については、戦前から戦中は働き手が少なくなったため社会進出が進んだが、戦争が終わると再び家庭に閉じこめられるようになり、当時流行のホームドラマなどでも女は家を守るものという価値観が喧伝され、女性への抑圧が強かった時代だった。
 この『ベル・ジャー』の主人公は、流行最先端の雑誌『マドモワゼル』の編集部のインターンに採用され、誰もが憧れる華やかなニューヨーク生活をはじめるが、ホールデンと同じようにニューヨークの喧騒のなかで徐々に神経を病んでいく。

 最新号の『Monkey』に掲載されている、サリンジャーの「いまどきの若者」の朗読も聞けた。 

   この原題は ” The Young Folks” であり、これまで「若者たち」とされてきたが、young folksという言葉には大人が若者を揶揄するニュアンスもあるので、「いまどきの若者」という題にしたと語られていた。 

「でも俺、そんなによく知らないんだよ。俺ほんとはもう帰んないと。月曜に出すレポートがあるんだよ、この週末も帰ってくるつもりなかったんだ」

「え、だって、パーティまだ始まったばかりじゃない!」とエドナは言った。「まだ宵の口よ」

「なんの口?」

「宵の口。まだ早い時間だってこと」 

  と、こんな具合にだらだらと若者たちの会話が描写されたこの小説。(しかし、「宵の口」の原文の単語が気になる)

 ストーリー展開というものはまったくないが、この若者たちが持つ「言葉にできない何か」が伝わってくると解説されていた。私はこの朗読を聞いて、昔のクドカンドラマ、『木更津キャッツアイ』とかを思い出したりもした。ホールデンほどではないが、若者の焦燥感や不安定な気持ち(手すりがぐらぐらしているのが暗喩と考えるのは、単純すぎる読みかもしれないが)が垣間見えるやりとり。

 また、大学の恩師でもあり、デビュー作を『ストーリー』に掲載してくれたウィット・バーネットに、サリンジャーが捧げた文章も朗読してくれた。『Monkey』では版権の関係で翻訳を掲載できないと書かれていたので、来た甲斐があった!と思った。

 その文章で、サリンジャーはバーネットが短編小説を朗読する作法について、作者と作者の愛する読者に入りこまないという旨の賛辞を送っていた。
 もちろんこれは朗読のみならず、短編小説に情熱を注ぎながらも、冷静に向きあっていたバーネットそのものへの賛辞だと思うが、小説や創作物に関する文章を書いたり、訳したりする際に常に心掛けるべき言葉だと感じた。

 質疑応答もほんとうにレベルが高く、たいへん勉強になった。トウェイン~サリンジャー後のアメリカ文学についての質問もあったけれど、ただひとりの作家に焦点を当てただけでも、アメリカ文学、そして社会全体の俯瞰図につながることがよくわかった。

 もちろん、サリンジャーがそれだけアメリカ文学で重要な作家だということも大きいのだろうが。「キャッチャー」の村上春樹訳を皮切りに、どんどん新訳が出ているので、ひとつひとつ読み直していこう。

それぞれの作品が呼応する、意義深いアンソロジー 『世界文学アンソロジー いまからはじめる』(秋草俊一郎ほか編)

アンソロジーって何だろう? 

 一般的には、さまざまな物語(おもに短編)を集めて一冊にしたものという印象だろうか。スーパー大辞林では、「一定の主題・形式などによる、作品の選集。また、抜粋集。佳句集。詞華集。」と定義されている。goo辞書では「いろいろな詩人・作家の詩や文を、ある基準で選び集めた本。」となっている。
 そう、単に寄せ集めたものではなく、「一定の主題・形式」「ある基準」が必要なのだ。

 どうしてわざわざこんなことを言っているのかというと、『世界文学アンソロジー』を読んで、アンソロジーの意義というものについて気づかされたからである。 

世界文学アンソロジー: いまからはじめる

世界文学アンソロジー: いまからはじめる

 

  三省堂のこちらのページに、収録作品の一覧が掲載されている。

www.sanseido-publ.co.jp

 カフカやガルシア=マルケスといった有名な作家から、海外文学の愛読者でも知らないような作家まで、幅広く収録されている。幅広いのは知名度だけではない。日本やヨーロッパのみならず世界のあらゆる国から……というより、もっと正確に言うと、いわゆる「国籍」という概念を揺るがす作品が多く収録されている。

 まず冒頭の第一章に、李良枝の「由熙」と、サイイド・カシューアの「ヘルツル真夜中に消える」が収録されている。

 李良枝は日本で生まれ育った在日韓国人であり、この「由熙」では、故郷であるはずのソウルに留学した在日韓国人の由熙の姿が描かれている。目醒めた瞬間の「ことばの杖」が、日本語の「あ」なのか、韓国語の「아」なのかわからないと語る由熙の葛藤が、ふたつの国のあいだで生まれ育ち、どちらの国にも完全にアイデンティティを投影できない証となっている。 

――あの子はね、韓国に来て自分が思い描いていた理想がいっぺんに崩れちゃったのよ。だからきっと、韓国語までがいやになってしまったんだわ。言葉ってそういうものだと思うの。

  そして、サイイド・カシューアは、イスラエル国籍のパレスチナ人作家である。この「ヘルツル真夜中に消える」の主人公ヘルツルは、「毎晩零時を過ぎると『アラブ人』になる」。 

真夜中から夜明けにかけて、彼はヘブライ語がまったくわからなくなる。「OK」(ベ・セデル)、「シュケル」、「検問所」(マフソム)以外は。なぜかって? アラブ人も、こうした単語をまるで自分たちの言葉みたいに使っているんだから。

  このふたりの作家による物語は、どちらも単独でもじゅうぶん読み応えがある作品なのだけど、こうやって並べられると、複雑な歴史を持つ二国(二地域)の狭間で生きることの困難がいっそう胸をつき、これがアンソロジーの意義だと思った。

  それにしても、李良枝の名は目にしたことはあったものの、まったく読んだことがなかった。この「由熙」の一部だけでも、読み手の心を揺さぶる筆力が伝わってきたので、もっと読んでみたいと思ったけれど、1992年に37歳の若さで亡くなっている。もし、いま生きていたら64歳だ。韓流やK-POPブームが盛りあがる一方で、政治はどんどんと混迷する現状を見て、何を思うだろうか? 

 この本の解説によると、サイイド・カシューアはガザ侵攻を支持するイスラエル政府に絶望して、2014年にアメリカに移住したと書かれている。

「このアラブのお話って、いったいどうなるの?」――この問いの答えは、やはり明るいものになり得なかったのだろうか。

 さらに、チアヌ・アチェベとチママンダ・ンゴズィ・アディーチェという世代の異なるナイジェリア人作家がともに収録されている点も見逃せない。

 チアヌ・アチェベの「終わりの始まり」では、イボ族一家の一人息子がカラバルの女と結婚したことによって、家庭に亀裂が入る。これ自体は、ひとつの家族を描いたささやかな物語だが、こういった民族間の不和が積もり積もって、悲惨なビアフラ戦争へつながった。

 ビアフラ戦争にアチェベはビアフラ側で参戦し(この本の解説より)、戦争の当時まだ生まれていなかったアディーチェは、のちに『半分のぼった黄色い太陽』(このアンソロジーには収録されていない)でビアフラ戦争を取りあげ、民族間で殺しあう光景を描いた。(下記でも紹介しましたが)

dokusho-note.hatenablog.com

 そして現在、内戦を経たナイジェリアは、世界のあらゆる国と同様にグローバル化の波にさらされている。
 富裕層や高い教育を受けた者は、どんどんとアメリカやイギリスを目指すようになる。古い因習の残る祖国を去って、自由な新天地での成功を夢見る。
 けれども、それは簡単なことではない。ここに収録されているアディーチェの「なにかが首のまわりに」では、アメリカに移住したナイジェリア人女性が直面する違和感が綴られている。 

アメリカではみんな車や銃をもってる、ときみは思っていた。おじさんやおばさん、いとこたちもそう思っていた。

  先進国に移住してきた移民の苦しみというと、グローバル化する前からよくある題材のように思われるかもしれないが、この小説は一人称でも三人称でもなく、「きみ」に語りかけるスタイルを採用していて、その俯瞰の視点によって、従来の物語から刷新された現代性を感じる。

 アチェベとアディーチェがあわせて収録されることで、ひとつの国の歩みが見事につながり、ここでもアンソロジーの意義をあらためて感じさせられた。 

予測通り世論は二分し、専門家たちは、どの派閥に属しているか、楽観主義か悲観主義かで異なる意見を述べた。ある専門家は言った。いいえ、炉心がメルトスルーするはずがありません。別の専門家は言った。それは違います、あります。あります、ありますよ。可能性がゼロだなんてとんでもない。

 へえ、東日本大震災を反映した小説も収録されているのか、と思った方もいるのではないでしょうか。少なくとも、私はそう思った。

 が、このクリスタ・ヴォルフによる「故障――ある日について、いくつかの報告」は、1986年のチェルノブイリ原発事故を背景に、脳腫瘍の手術を受ける弟や、幼い子どものいる娘の姿を描いている。
 
 私たちは放射能という道具を使いこなせるのか? 自然への冒涜ではないのか?と問いかけている。世界のあらゆるところで過ちはくり返され続けている。自然に逆らい、過ちをおかし続ける人間の愚かさを、圧倒的なまでに力強い筆致で描いた作品も収録されている。 

チッソの人方もね、魂の高かお人なら、しゅり神山のおしゅらさまのことは、お解りになりそうなものでございますよねえ、位の高か狐ですがねえ」

  石牟礼道子の「神々の村」だ。水俣病を取りあげた『苦海浄土』三部作の第二部にあたる。
 自然への畏怖が刻みこまれたこの作品を読むと、原発事故や公害といった事例は、事故が起きた土地や、被害者やその家族といった当事者のみに関わるローカルな題材ではけっしてなく、国境すらも超えて、人間の営為そのものについて考え直さないといけない問題であることがよくわかる。

 いま紹介したのはこのアンソロジーのまだ一部であり、最初に書いたようにカフカやガルシア=マルケス、あとジョイス魯迅といった著名な作家も収録されていて、どれも短編(あるいは抜粋)なのに、どっしりとした読後感が残る。
 海外文学にはじめて触れるひとはもちろん、ふだんから海外文学を愛好しているひとにとっても、読書の幅が広がることまちがいなしの興味深い一冊だと思う。 

「不逞」に戦い続けること 『何が私をこうさせたか』(金子文子著)『三つ編み』(レティシア・コロンバニ 著 齋藤可津子訳)

 文体については、あくまでも単純に、率直に、そして、しゃちこ張らせぬようなるべく砕いて欲しい。
ある特殊な場合を除く外は、余り美しい詩的な文句を用いたり、あくどい技巧を弄したり廻り遠い形容詞を冠せたりすることを、出来るだけ避けて欲しい。

  前回の『女たちのテロル』によって、金子文子の生涯についてもっと知りたくなったので、『何が私をこうさせたか』も読んだ。 

  この手記は、金子文子が獄中で自分の人生を綴ったものであり、最初の記憶が残っている四歳から、朴烈と出会うまでを振り返っている。

 書かれている内容は、だらしのない父と母に翻弄されながら育ち、預けられた朝鮮の親戚の家では虐待され……と、『女たちのテロル』でまとめられているとおりの悲惨な身の上話である。

 しかし、文子の怜悧な頭脳は自分を哀れんだりせず、冷静な観察眼と状況を俯瞰する客観性によって過酷な状況を淡々と描き、どこかしらユーモアさえ感じられる筆致で、想像していたよりずっと読みやすく、力がわいてくる本だった。『女たちのテロル』でも触れられていたように、林芙美子の『放浪記』と共通するものを感じる。

 ちなみに上記の引用は、この本の冒頭に「添削されるについての私の希望」として文子が記したものだが、まさに「文章教室」というか、どんな文章を書くときでも忘れてはいけない心掛けのように思った。ここからも冷静さと客観性が伺える。 

その男は小林といった。小林は沖人夫であったが稀に見る怠け者であった。

 彼は恐るべきまた驚くべき色魔なのだ。一切の穢獨を断じて聖浄の楽土に住む得道出家の身にてありながら、徒にただ肉を追う餓鬼畜生の類なのだ。

  こんな描写など思わず笑ってしまう。小林というのは、父に捨てられた母がくっついた男のひとりであり、「彼」というのは、父が文子の結婚相手にあてがおうとした叔父である。
 ひとりでは生きていけなかった母は、ろくでもない男たちのもとを渡り歩くことで、かろうじて生き延びる。そして、文子もそんな人生を歩まされようとしていた。

 けれども、いろんな仕事を転々としながら必死で勉強していくうちに、文子はこう考えるようになる。

 私はあまりに多く他人の奴隷となりすぎてきた。余りにも多く男のおもちゃにされてきた。私は私自身を生きていなかった。

私は私自身の仕事をしなければならぬ。そうだ、私自身の仕事をだ。 

 そんな思いが最高潮に達したときに、あらわれたのが朴烈だった。この手記はそこで終わっていて、朴烈と出会ってからの経緯はほとんど述べられていない。
 しかし、出会ったばかりの朴烈とのやりとりは短いながらもどれも印象的で、とくに魅かれたのはこの台詞。 

「ねえ、ふみ子さん、ブルジュア連は結婚をすると新婚旅行というのをやるそうですね。で、僕らも一つ、同棲記念に秘密出版でもしようじゃありませんか」

 同棲記念が新婚旅行でも指輪でも宝石でもなく、秘密出版っていうのが最高にファンキーだ。それがのちの機関紙『太い鮮人』になる。この題はもともと「不逞鮮人」のつもりであったが、「不逞」なら取り締まりの対象となり発禁処分を受けかねないので、「太い」に変えたらしい。 

 「不逞」に「私自身の仕事」をするというと、最近読んだ『三つ編み』も思い浮かぶ。 

三つ編み

三つ編み

 

 スミタがしていることを表現する言葉はない。一日中、他人の糞便を素手で拾い集める。

  この『三つ編み』は、世界のまったく異なる場所に暮らす三人の女が、まったく異なる困難に直面する物語である。

 インドに住むスミタは、ダリット(不可触民)であり、他人の糞便を素手で拾い、ネズミ捕りの夫が狩った野生のネズミを食べて暮らしている。しかし、娘のラリータにはこんな人生を送らせたくはない。何としてでもここから脱出してほしい。学校に行って何になる? と言う夫を説き伏せて、ラリータを学校に行かせることにした。けれども、夢にまで見た学校に裏切られ……

 カナダに住むサラは、高名な法律事務所で女性初のアソシエイト弁護士として働いている。二度の離婚を経て、シングルマザーとして働いているが、絶対に「家庭」や「子供」を理由に仕事を休んだりはしない。自分は「成功した女」なのだから。けれども、身体に異変が生じ……

 イタリアに住むジュリアは、父が経営する毛髪の加工工場で働いている。平穏な日々を送っていたが、ターバンを巻き褐色の肌を持つ男に魅かれはじめ、母にも姉にも言えない秘密を抱えるようになる。そしてある日、病床についている父の作業机から、一家を襲いかかる容赦ない現実に気付く……

 「キム・ジヨン」と同じように、ある社会のある階層に生きる三人の女の姿が、寓話のように典型として描かれている。それぞれまったく別のストーリーなのだけれど、最後で髪によってきれいにつながる構成に感心させられる。

 しかし、希望とともに美しくまとまるラストに感服しつつも、現実はこう上手くいくのかな?とも、一瞬ちらっと思ったのだが、考えたら、主人公たちに劇的なハッピーエンドが用意されているわけではない。ただ、三人の心に希望の光が灯されるだけだ。現実がすぐに変わることはなくても、それがあるかないかで大きく変わってくるのだろう。 

何度でも倒れ、また立ちあがる女たち、

うちのめされても、屈しない女たち

 「不逞」という言葉を和英辞典で調べると、insubordination, rebelliousness, recalcitrant……といった単語が出てくる。従属せず(insubordination)、反抗的で(rebelliousness)、手に負えない者たち(recalcitrant)。

 スミタもサラもジュリアも、それぞれの社会が押しつけてくる因習や古い価値観に従っていたならば、明るい未来を持ち得なかった。現状と戦わなければ、自分の人生、つまり「私自身の仕事」をまっとうすることができないのだ。
 髙崎順子さんの解説を読むと、この格闘の物語がフランスで書かれ、ベストセラーになった意義と必然性についてよく理解できる。 

この国では抑圧は打ち破るものであり、権利は勝ち取るもの。それはいまも市民の意識に強く刻まれている。

  そこから、「この本を、日本の読者はどう読むだろう?」「もし『三つ編み』の一編が、日本を舞台に書かれていたら……」と続けている。

 というのも、2018年の「グローバルジェンダーギャップ指数レポート」があらわす「男性と比較した際の、社会における不自由度」は、フランス12位、カナダ16位、イタリア70位、インド108位で、そして日本はなんと110位。スミタの住むインドより下という衝撃の結果になっている。

 もちろん、これは「男性と比較した際の」という男女格差を測ったものであり、社会全体の人権意識の低さなどは示されていない。しかしそれにしても……

 『三つ編み』で提示される希望と感動は、日本と地理的にも心理的にも遠く隔たった国だから生まれたものだろうか? 日本は金子文子が自殺したころから変化したのだろうか? と、どうしても考えてしまった。 

 

「私自身」であるために戦った女たち 『女たちのテロル』(ブレイディみかこ 著)

「僕はつまらんものです。僕はただ、死にきれずに生きているようなものです」
朴は岩のようにひんやりした、しかし厚みのある声で言った。
私たちは同類だと文子は思った。
死にきれなかった犬が二匹。我ら、犬ころズ。相手に不足はない。
こうして二人のアナキストの、短い、命をかけた闘争の道行きがはじまったのである。

 いまからおよそ百年前の二十世紀初頭に、日本、イギリス、アイルランドで命をかけて闘った三人の女たちがいた。
 ブレイディみかこ『女たちのテロル』は、日本のアナキスト金子文子、イギリスのサフラジェット(女性参政権運動家)エミリー・デイヴィソン、イギリスの圧政下にあったアイルランドの独立を求めて闘った凄腕スナイパー、マーガレット・スキニダーの生涯を辿った本である。 

女たちのテロル

女たちのテロル

 

  金子文子は著書『何が私をかうさせたか』や、話題になった映画『金子文子と朴烈』で、ご存じの方も多いのではないだろうか。
 しかし、あらためて生い立ちを読むと、想像していた以上に苦難の連続である。無戸籍児であり、しかも両親にもすぐに見捨てられ、預けられた朝鮮の祖母の家ではさんざんに虐待され……まさにリアル “おしん”と言うべきか。当時としてはさほど珍しい境遇ではなかったのかもしれないが、13歳の時点で真剣に自殺を考えたほどつらかったようだ。

 しかし、金子文子は苛酷な運命にただ翻弄されるだけの女ではなかった。
 何度も身売りされそうになったり、性暴力とも言える目に遭いつつも、居場所や仕事、さらに男たちのもとを転々としてたくましく生きのび、新聞売りをしながら学校に通い、社会主義者たちと親交を深めるようになる。

 そうして朴烈と出会うのだが、文子は男から求愛されるのをぼんやり待っている女ではない。
 「私は犬ころである」という朴烈の詩に衝撃を受けた文子は、すぐに知り合いのつてを頼って朴烈を紹介してもらう。仕事も家も無い朴烈は貧乏くさい身なりをしていたが、「ふてぶてしい風格」があった。この男だという確信を得た文子は、朴烈に同志としてでも交際したい、一緒に仕事をしたいと単刀直入に申し出る。

 一方、朴烈も素性のよくわからない女の申し出をあっさりと受けいれる。文子のように、これが運命の相手だという直感を得たのだろうか? よくわからない。

 そう、金子文子のパートで一番印象に残ったのは、朴烈の不気味なまでのわからなさというか、茫洋としたつかみどころのなさである。
 日本の占領下にあった朝鮮で生まれ育ち、3・1運動に刺激され、朝鮮の独立を目指す民族運動に加担するが、内部の揉め事や軋轢によって運動自体に幻滅して日本に渡り、虚無主義に共鳴してアナキストとなり、日本の権力階級を敵とみなすようになる……もちろんこの経歴に嘘偽りはないのだろうが、何と言うか、漠然としながらもすごくわかりやすいところが気になった。

 文子とともに暮らしはじめた朴烈は、日本の権力階級をぶっ飛ばすため爆弾を入手しようとするのだが、失敗の連続となる。本気でぶっ飛ばすつもりあったんかな?とも思ってしまう。
 そもそもぶっ飛ばす理屈も、虚無主義者である自分たちは「宇宙の存在を否定するので、その存在を滅亡させることが慈悲」ということらしいが、それもなんだか空論というか、やはりイメージ先行のような印象を受ける。
 で、結局捕まるのだが、そんな調子なので具体的な証拠も計画もまったく無く、捕まえた方も困惑したようだが、本人たちが爆破計画を語るのでそのまま獄中送りとなる。

 捕まってからのふたりの進路も対照的だ。
 ふたりとも死刑判決を受けたのちに恩赦を与えられて、無期懲役減刑されるが、文子は恩赦をよしとせず自殺する。朴烈も恩赦に抗議したが、終戦まで生き延びる。

 ウィキペディアでは、捕まってからの朴烈について「相次ぐ転向」と書かれている。獄中で「日本のために生きる」と転向し、戦争のプロパガンダに利用されたようだ。終戦後に出獄してからは反共主義になり、宗主国であった日本と戦ったという功績もあって在日朝鮮人の長として担がれたようだ。
 それから韓国に渡り、朝鮮戦争で北に拉致されて、今度は共産主義に転向した。そこでも抗日のヒーローとして北朝鮮政府である程度重用されたが、最後は粛清されたらしい。
――「思想に殉じた」女と、とことんまで生き延びた男。 

能動的な死は、必ずしも自殺――自分を殺すこと――ではない。
ダービーで競走馬の前に歩み出たエミリー・デイヴィソンの死ほど、「いったいどんな死だったのか」ということが議論され続けてきた死も珍しい。

  1913年6月4日、エミリー・デイヴィソンはダービーのレースに飛びこみ、国王ジョージ五世の愛馬アンマーに蹴り倒され、その4日後に死亡した。(『世界史大図鑑』にも詳しく書かれています)

世界史大図鑑

世界史大図鑑

 

 女性参政権運動への注目を集めるための行動であったことはまちがいないが、殉死しようとしていたのか、あるいはダービーを妨害するだけのつもりだったのかは、はっきりとはわからない。

 私が以前に読んだ本では、エミリーが電車の往復チケットを買っていたことが、死ぬつもりはなかった証として挙げられていたが、この『女たちのテロル』によると、その日は往復チケットしか売っていなかった(買えなかった)と書かれている。
 考えたら、自殺しようと心に決めていたら、「えっ!? 往復チケットしか売ってへんの? どうせ死ぬから片道でいいのに、往復買ったらめっちゃ損やん」とは、いちいち思わない気がする。
 殉死が最終的な目的だったのかどうかはわからないが、この本でも書かれているように、馬が走り回っている中に身を投じるのだから、どう考えても無事でいられるとは思っていなかったはずだ。

 エミリーが死ぬと、女性参政権運動の主導者であるパンクハースト親子が、あまりに過激なエミリーを見放しつつあったことをすっかり忘れたかのように、エミリーを殉教者として祭りあげる。
 そう、死んだら好きなように意味付けされてしまうのだ。

 金子文子も、朴烈との愛に殉じた女と書かれるときもあれば、朝鮮の独立のために命を擲ったと祭りあげられるときもある。
 しかし、金子文子自身が、「私自身の仕事をする」と再三書いているように、金子文子もエミリー・デイヴィソンも、思想や運動のために命を擲ったというより、まして男との愛や政治目的のために殉じたわけではないのは言うまでもなく、ただ「私自身の仕事をする」ため、あるいは「私自身」であろうとしたら、死を選ばざるを得ない状況に陥ったのではないかと考える。

 それでもやはり、死んでしまったのは惜しい。
 先に、朴烈は戦中も戦後も生き延びたと書いたが、そこに批判的な意味合いは込めていない。というのは、転向してでも何をしてでも、やはり生き抜いた者の勝ちではないかと思うからだ。金子文子やエミリー・デイヴィソンが「私自身」であるためには、死を選ぶしかない世の中だったのが悲しい。

 エミリー・デイヴィソンの項では、強制摂食の恐ろしさもあらためて感じた。
 強制摂食というのは、刑務所内でハンガーストライキを行うサフラジェットたちに無理やりに食事を詰めこむ(のどや鼻に管を通すなどして)ものだが、サフラジェットにまつわるあらゆる資料や本において、強制摂食が耐えがたいほどの苦しみであったことが書かれている。この『女たちのテロル』ではレイプに等しいものとされていて、彼女たちの味わった苦痛や屈辱がよく理解できた。

 しかし、それでも当時のイギリス政府は、ハンストをする受刑者に対しては強制摂食を行ったり、あるいは一時的に釈放するなどして、とにかく死なせてはいけないとは思っていたのだ。人道的というより、殉教者にしてはいけないという理由ではあったが、命を奪うことの重大さはわかっていたのだろう。
 そう考えると、ハンストをする受刑者をそのまま殺してしまういまの日本っていったい……と考えると、なんだか寒気を感じたりもしますが。

 アイルランド独立のために戦ったマーガレット・スキニダーまで行きつかなかったが、マーガレットの指南役としてイースター蜂起で活躍した ”マダム”こと、イギリス初の女性議員となったコンスタンツ・マルキエビッチ伯爵夫人の生涯に興味をひかれた。
 自らリボルバーを持ち、戦争の前線で戦う伯爵夫人とはそうそういない。日本で言うと……巴御前とか?(古すぎ) ちなみに、伯爵夫人の妹は、女性参政権運動家として活躍したエヴァ・ゴア=ブースである。

しょうがない、いつだって末端は哀れな被害者なんだから、ではいつまでたっても隷属は終わらない。忖度は犯罪ではないが隷属制度の強化に与している。

求められてもするな。期待をかけられたらあっさり裏切れ。隷属の鎖を真に断ち切ることができるのは主人ではない。当の奴隷だけだ。

  百年前の女たちが、「私自身」であるためには、ときには死をも恐れず戦わなければならなかったのが、よく伝わってきた。いや、ほんとうは「百年前の女たち」にかぎらず、現代の私たちにもあてはまるのかもしれないけれど…… 

 

「中立・客観的」って可能なのか?『情報生産者になる』(上野千鶴子)から『大学教授のように小説を読む方法』『パームサンデー』まで

すべての問いはわたし自身の問いであり、わたしの問いはあなたの問いではないからです。そして人間には、他人の問いを解くことはついにはできないからです。

  なんとなく上野千鶴子の『情報生産者になる』を手に取り――なんとなく、というのは、私は研究者でもなく、社会学を専攻したわけでもないので、情報生産者って何やろ? くらいの感じで読みはじめたのだけど、「自分の問いを立てる」というテーマのこの本を読んでいると、大学時代の卒論を思い出し、そしてまた、いま現在の読書についてもあれこれ考えてしまった。 

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

  上野さんが学生につねに言っているのは、「答えの出る問いを立てる」「手に負える問いを立てる」「データアクセスのある対象を選ぶ」ことらしい。

 例として、「霊魂は存在するのか?」は証明しようがないし、「トランプ大統領以後のアメリカはどうなるか?」は、すでに多くのプロが詳細な分析を行っているので、学生が研究する意味はない。
 「地球温暖化のゆくえ」は大きすぎて手に負えないが、「日本のメディアにおいて地球温暖化はどう語られてきたか」なら、ある程度調べきることができる。 “focus”、あるいは ”narrow down” が必要なのだ。

 大学時代、私は国文学専攻だったけれど、たしかに、「『こころ』の先生はどうして自殺したのか?」とか「光源氏はどうして女を渡り歩いたのか?」なんてテーマにしてしまうと、先行研究を調べるだけで死亡することは目に見えていたな…と思い出す。

 この本を読むかぎりでは、社会学は最近の事例を調べた方がいいようだが(データアクセスがたやすいので)、私のいた文学部のゼミでは、評価の定まっていない生きている作家はやめた方がいいと言われていた。
 なので、島田雅彦に心酔していた(当時は颯爽としたイケメン作家だったのだ…いや、いまでもイケオジなのかもしれんけど)男子は、三島由紀夫をテーマにしていた。そういえば、小林秀雄のファンの男子もいたが、中原中也と女を取り合ったことくらいしか知らない私は、どこがそんなに偉大なのか当時よくわからなかったが、いまでもよくわからない。

 で、そんなことを言っていると、おまえは何やってんと思われそうだが、私は内田百閒の「件」(ひとことで言うと、人面牛の話です)や「山高帽子」を卒論のテーマにして、坂部恵の『仮面の解釈学』などを参考にしようとしたのだが、いまとなっては何を書いたのか、さっぱり覚えていない……まさに「手に負える問いを立てる」の反面教師でした。 

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

 

  『情報生産者になる』に戻ると、「問い」について、一番印象に残ったのは「当事者性」と「中立・客観性」の問題だ。上野千鶴子はこう書く。 

わたしが女であることは、子どものころからわたしをつかんで離さない謎でしたから、わたしはそれを問いにすることにしました。

  そして「ほんとうに解きたい問いでない限り、研究には本気になれない」と続ける。問いには、問いかけるべき相手がいるのだ。

 しかし、「当事者」であれば、学問の中立性や客観性を保てないのではないか? という疑問の声もある。それについて、上野千鶴子は「中立・客観性の神話」と述べている。「神話」というのは「根拠のない信念集合」だと。そもそも、「問いというのは、つねに主観的なもの」なのだと。

 「神話」とは、見事な言い方だなと納得した。というのは、「中立・客観的」とはいったい何なのか? 完全に「中立・客観的」に考えたり、本を読んだりすることは可能なのか? と疑問を感じることが多いからだ。

 読書においても、基本的には書かれたものだけを「中立・客観的」に読むことが正しいのだろう。先に書いた大学の卒論のときも、”テクスト” がすべてだと教わった。言うまでもなく、作者のプライベートや人柄などを考慮するのは、まちがっているのだろう。

 けれども、少し前に『大学教授のように小説を読む方法』を読んだところ、エズラ・パウンドの作品とどう向きあうべきかと書かれていて、思わず考えこんでしまった。 

大学教授のように小説を読む方法[増補新版]

大学教授のように小説を読む方法[増補新版]

 

 エズラ・パウンド文学史的な説明をすると、T・S・エリオットとともにイマジズムなどのモダニズム運動を率いて、詩を革新した偉大な詩人である。そしてまた、ファシズム反ユダヤ主義の熱狂的な支持者であったことも知られている。

『大学教授のように小説を読む方法』で、作者はこう書いている。 

私は今でもパウンドを読み、何か得るものがあるというユダヤ人読者を知っている。パウンドと聞いただけで拒否する人たちも知っている。パウンドを読みつつ罵倒する人もいる。それはユダヤ人とは限らない。私自身は今でもときどきパウンドを読む。そこには驚くほど美しく、脳裏に焼きついて離れない、力強い語句が散りばめられている。それでも問いかけずにはいられない。これほどの才能に恵まれた人間が、なぜこれほど視野が狭く、独りよがりで、偏見に凝り固まっていたのだろうと。答えは見つからない。

  作者の主義や信条を棚上げして、書かれたテクストのみを、「中立・客観的」に読むことができるのだろうか? やはり思想信条が相容れなければ、文章も読むことができないような気もする…と言いつつ、一方で、いわゆる「いいひと」や高潔な人格者が必ずしもおもしろいテクストを書くとは限らないという事実も承知している。

 パウンドと同じく反ユダヤ主義を支持し、第二次世界大戦後は亡命生活を送ったセリーヌについて、カート・ヴォネガットはエッセイ集『パームサンデー ――自伝的コラージュ』に収録されている「多少の非難は覚悟して、ナチの一同調者を弁護する」という章でこう書いている。 

セリーヌは、文学と医療における長年に及ぶ、欲得を超えた、そしてしばしば輝かしい奉仕のあと、猛烈な反ユダヤ主義者およびナチ同調者としての正体を暴露した。1930年代後半のことである。それに対する納得のいく説明を、わたしはまだだれからも聞いたことがない。 

わたしはセリーヌについて書くたびに、頭の割れるような痛みを感じる。いまもそうだ。ほかにはたった一度だって頭痛を感じたことなどないのに。 

その作品(『スローターハウス5』)のなかで、わたしは登場人物のだれかが死ぬたびに「そういうものだ」と言う必要を感じた。これは多くの批評家たちを激怒させたし、わたし自身にも奇妙で退屈な言い草のように思われた。けれども、どういうわけか、そう言わずにはいられなかったのだ。

それは、セリーヌがあらゆる作品において、それよりもはるかに自然な言い方で暗示することのできた理念を、不細工に表現したものである。

  ヴォネガットの言葉を借りると、「のろわしいことを考えた」「決して許すことのできない人物」が、すばらしい作品を生み出すこともある。そんな場合、私たちはどうテクストを読むべきなのかと考えたりする。

 「当事者」であるかどうかも関係するのかもしれないが、『大学教授のように小説を読む方法』で書かれているように、エズラ・パウンドに感銘を受けるユダヤ人が存在する一方、パウンドと聞いただけで拒否したり、罵倒するのはユダヤ人に限らないのだから、「当事者」だから許せないといった単純な話でもない。

 おそらく、永遠に答えが出ることはないのだろう。卒論なら「答えの出る問い」を自分で設定すればいいが、生きていると答えの出ないことだらけだ。  

わたしがこれを書いているいま(1974年の秋だが)、精神的制動装置が完全に作動している一般庶民のあいだでさえ、人生はまさしくセリーヌがかつて言ったとおり、危険で不寛容で、反理性的だという事実が明らかになっている。

  ヴォネガットが書いた1974年から、そしてセリーヌが執筆した1930年代からはいっそう長い時間が経ったいま、世の中はどんどん「危険で不寛容で、反理性的」になっているような気がする。どうしてそういう鋭敏な感覚のあったセリーヌが、「のろわしいことを考えた」りしたのか(逆の問いを立ててもいいが)なんて考えると、人間とは不可思議なものだなと、あらためて強く思ったりする。

私たちはみな、ポムゼルではないのか?『ゲッベルスと私――ナチ宣伝相秘書の告白』(ブルンヒルデ・ポムゼル, トーレ・D.ハンゼン, 石田勇治監修, 森内薫,赤坂桃子訳)

ブルンヒルデ・ポムゼルは政治に興味はなかった。彼女にとって重要なのは仕事であり、物質的な安定であり、上司への義務を果たすことであり、何かに所属することだった。彼女は自身のキャリアの変遷について非常に鮮明に、詳細に語った。だが、ナチ体制の犯罪に話が及ぶと、彼女は自身の個人としての責任をいっさい否定した。

    少し前に映画も話題になったこの『ゲッベルスと私――ナチ宣伝相秘書の告白』は、ナチスドイツの宣伝省でヨーゼフ・ゲッベルスタイピスト兼秘書をつとめた、ブルンヒルデ・ポムゼルのインタビューから構成されている。

 ヒトラーゲッベルスが自殺してナチスドイツが崩壊し、第二次大戦が終結してから七十年近く沈黙を守っていた彼女が、百歳を過ぎてようやくインタビューに応じたのである。 

ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白

ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白

 

 しかし、そこに新鮮なおどろきや、誰も知らなかった事実、ナチスドイツの真実の姿はない。ただ、とりたてて政治に興味のないごくふつうの若い女性が、生活のため懸命に仕事をしていたら、その仕事ぶりを買われて当時最高峰の職場――ナチスドイツによる国営放送局――を紹介され、出世の階段をのぼっていったというだけだ。 

1933年より前は、誰もとりたててユダヤ人について考えていなかった。あれは、ナチスがあとで発明したようなものだった。ナチズムを通じて私たちは初めて、あの人たちは私たちとちがうのだと認識した。何もかも、彼らによってのちに計画されたユダヤ人殲滅計画の一部だった。私たちは、ユダヤ人に敵意などもっていなかった。(ポムゼルの語り)

  「誰も」ユダヤ人について考えていなかったのかはわからないが、実際ポムゼルには仲のいいユダヤ人の友達エヴァもいた。なんと仕事のためにナチスへの入党手続きに行った際にも、エヴァに付き添ってもらっている。ナチスの宣伝省で働き出してからも、エヴァの家に遊びに行っていた。
 
 ポムゼルは国営放送局で働く前には、午前中はユダヤ人のゴルトベルク博士のところで働き、午後はナチのヴルフ・ブライのところで働くという生活を送っていたこともあり、ユダヤ人の恋人との別れも経験している。

 では、なぜナチスドイツに最後まで忠実だったのか? 

 ポムゼルは何も知らなかったと強調する。強制収容所が作られはじめたのは知っていたが、犯罪者が矯正のために送られるのであろうとぼんやり考えていた。ナチがユダヤ人の商店を襲撃したときは衝撃を受けたが、事態が落ち着くと、日常生活に戻った。
 そして、宣伝省での情報は、ゲッベルスとその側近によって厳重に管理されていて、その内容を深く知ることはできなかった。知ろうとも思わなかった、と。

 このなかで一番印象的だったエピソードは、戦争の末期、ナチスドイツが破滅する直前の出来事だ。1945年4月、ベルリンの上空には爆撃機が飛び交うようになり、ソ連軍の侵攻が刻一刻と近づいていた。

 ゲッベルス邸で仕事をしていたポムゼルのもとに、ゲッベルスの側近のひとり、コラッツ博士がやって来る。コラッツ博士は状況がこれ以上悪化する前に、ポツダムにいる妻子に別れを告げると話す。そして、ポムゼルの両親もポツダムにいることを知っていたので、一緒に家まで連れていくと申し出る。ポムゼルも両親の顔を見たいので有難く誘いに乗り、コラッツ博士はまた夜に迎えに来ると約束して去る。

 ところが、コラッツ博士は迎えに来なかった。約束の7時を過ぎ、8時になっても9時になっても。翌朝になっても。ポムゼルはパニックに陥る。 

私にはなすべき仕事があった。そして私は職場のチームの一員だった。だから戻らなくてはならなかった。ぜったいに、帰らなくてはならなかった。 

 ナチスドイツの崩壊の直前に、宣伝省でいったい何の仕事をしないといけないのか? 

 傍から見るとそう思う。本人もあとから振り返るとそう思ったことだろう。おそらく、割り当てられたタイプ打ちが残っているとか、会議資料を作成しないといけないといった程度だろう。数日後にはベルリンが爆撃され、なにもかもが無くなってしまうというのに。

 けれども、ポムゼムは「ほんとうに帰らなくてはいけない?」と聞く母親をふりきって、奇跡的にまだ運行していた電車に乗って、ベルリンに戻る。仕事があるから。

 なんとか宣伝省に戻ったものの、空襲が激しくなったためタイプどころではなくなり、宣伝省の防空壕に入る。そこで最後の最後まで、ドイツ軍(といっても、即席で年少者をかき集めたヴェンク軍しか残っていなかった)が迫りつつあるソ連軍を打ち負かすことを、「愚かにも」期待しつつ終戦を迎えるのであった。

 結局ポムゼムは防空壕ソ連兵に捕えられ、ソ連の収容所に5年抑留させられる。あのときベルリンに戻らなければ、民間人として無事に終戦後の日々を暮らすことができただろうに。

 とはいえ、あんな状況でも「仕事に戻らないと」と必死になるポムゼルを、他人事だと思えるだろうか? アホやなって笑えるだろうか? 私は笑えない。

 ちょうど先日、関東で台風が直撃した直後、すぐさま会社に向かう人たちによってパニックが発生していたが、その気持ちは理解できる。去年、大阪北部地震のときも、超大型台風に襲われたときも、まっさきに頭に浮かんだのが、きょうは会社に行かなくていいのか? ということだった。

 ふだんも通勤時間に電車が遅れたら、「延着証明もらわないと遅刻になる!」と、あわてて駅員のもとに向かってしまう。うっかり忘れてしまい、一駅戻ってもらったこともあった。(うちの職場はwebのものはNGで、配られる紙をもらわないと認められない)

 わかっている、こういう精神が一切の思考停止を生み、会社や上司への無条件服従につながるのだろうということは。ポムゼムの場合は、その「会社や上司」が、たまたまナチスドイツであったのだろう。

 ポムゼムはナチスの思想に共感していたわけでもなく、宣伝省の仕事については、単調でおもしろくなく、やりがいが感じられる職場ではなかったと語っている。
 けれども、それを失いたくなかった。そこでの自分の評価を落としたくなかった。
 もちろん、生活の安定といった物質面も大きかっただろうが、それだけではないように思える。ナチスドイツという「エリート」から落ちこぼれたくないという心情、帰属や承認の欲求、居場所の問題……誰でも身に覚えのある感情だ。
 

 このドキュメンタリーを見た編集者は、「私たちはみな、多かれ少なかれポムゼルではないのか?」と問いかける。 

そして何百万人ものポムゼムの――自分の出世と物質的保証ばかりをいつも考え、社会の不公正や他者の差別を受け入れてしまう人間の――存在は、人々を巧みに操る権威主義体制の強固な土台にほかならない。だからこそそうした人々は、過激な党に投票する急進的で強硬路線の有権者よりよほど危険なのだ。

  いったいどうしたら、自分の中のポムゼムを克服することができるのか? どうすれば世間の潮流や価値観に抗い、自分の生活が危険にさらされようても、内なるモラルを大事にすることができるのだろうか? 尋常ではない勇敢さが必要なのだろうか? 
 でも誰もがみな、人並み以上の勇気を持つことなんてできない。(そもそも、誰もが「人並み以上」になることは、語義としてもあり得ないが)

 簡単に答えは出ないけれど、まずはひとりひとりが自分のことを大切にすることが重要なのかもしれない。自分より他人を大切にすべきだって? いや、それはそうかもしれないけれど、自分のことも大切にできないひとが、他人のことを思いやるなんてそうそうできない。

 自分のことを大切にできないから、自分の軸が消え、他人からよい評価を得ることがなによりも大切な生きがいとなる。すると、自分の評判を守るためなら、まわりでどれほど理不尽な事態やあからさまな差別が横行していても、見て見ぬふりをする……となるような気がする。
 自尊心というのは、単なるプライドの問題ではなく、自分やまわりの他人を守るために欠かせないものなのだとつくづく思った。

 あの日迎えに来なかったコラッツ博士は、ナチス幹部の例にもれず、ポムゼムと別れて家に戻ったあと、妻と娘を銃で撃ち、自らも命を絶っていた。自分の命を粗末にするものは、他人の命も粗末にする。

 ユダヤ人の友達エヴァは、ある日突然姿を消した。おそらく強制収容所に送られたのだろうとのことだった。強制収容所がどんなところか知らなかった(と語る)ポムゼムは、危険なベルリンにいるより安全なのかもしれないと考える。エヴァは1945年にアウシュヴィッツで殺された。

 ナチスドイツのような悪夢と狂気は二度とくり返されるはずがない……と言いたいが、そう言い切れない雰囲気が世界中に、そして日本にも漂っている。自分は加害者に加担することが絶対ないと言い切れるのか、常に心に留めておかなければならないと思った。

ナチス政権内部の少年たちを描いた、ジョン・ボイン『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹 訳)『ヒトラーと暮らした少年』(原田勝 訳)

花の咲きほこる庭や銘板のついたベンチから五、六メートルほど先で、すべてががらりと変わってしまう。そこには巨大な金網のフェンスがあった。家と平行に張りめぐらされたフェンスのてっぺんはむこう側にむかって折れていて、目の届くかぎり左右へつづいている。家の屋根よりも高いほどのフェンスで、電信柱のように太くて高い木の柱が点々とあってささえている。フェンスのてっぺんには、ごちゃごちゃとからまりあった有刺鉄線が山のように積まれていて、グレーテルは見ているだけで体中に鋭いとげがささるような痛みを感じた。

  ジョン・ボインの『縞模様のパジャマの少年』と『ヒトラーと暮らした少年』を読みました。
 先に読んだのは『ヒトラーと暮らした少年』ですが、第二次世界大戦下のナチス政権を描いた連作なので(話の内容はまったく別ですが)、発表順にあわせて『縞模様のパジャマの少年』から感想を書いていきます。 

縞模様のパジャマの少年

縞模様のパジャマの少年

 

  第二次世界大戦中、ベルリンの豪邸で暮らしていたブルーノは、一家が見知らぬ土地へ引っ越すことになったと唐突に告げられる。なんでも、偉い軍人であるお父さんの仕事場が変わったためらしい。新しい家は辺鄙な森のなかにあり、周囲には何もない。ブルーノは学校に通うこともできず、家庭教師と勉強することになったので、同年代の友達もまったくできない。

 でも窓の外をよく見ると、森の向こうにフェンスが立っていて、フェンスの奥に小屋のようなものが並んでいるのが見える。もしかして、あれがお父さんの仕事場なのだろうか? 

 こっそりとフェンスのそばまで探検すると、丸刈りに縞模様のパジャマ姿の同じ歳くらいの男の子に出会った。引っ越してきて、はじめてのお友達だ! ブルーノは喜んで、その男の子と仲良くなろうとするが、どうも様子がおかしい……

 そう、この小屋というのが強制収容所であり、お父さんはおそらく収容所の所長クラスの職についているのだと想像できる。家には「ソートーさま」と「エバ」が訪ねてくるくらいなのだから、かなりの高い地位であるようだ。

 しかし、ブルーノはお父さんの仕事についてはもちろん、収容所についても何も知らず、新しい「友達」シュムエルが見たこともないくらいやせ細り、悲しげであっても深く考えたりはしない。
 9歳だから当然なのかもしれないと思いつつ、それでももうちょっと世事に通じていたり、カンのいい子はいるのではないかという気もするが、裕福な家のお坊ちゃまとして育てられてきたブルーノは無邪気で優しい心の持ち主ではあるが、おそろしいほど無知で鈍感だ。

 もちろん、人並みの敏感さを持ち合わせていたら、いくら子どもであっても、収容所には近づいてはいけないと察しがつくだろうから、中盤くらいまでイライラさせられたブルーノの無知と鈍感さが、この物語を成立させるのに必要な要素となっている。しかも、このブルーノの無邪気さが、最後の悲劇をいっそう引き立てている。

 この悲劇は、「友情」の帰結なのか、それとも「因果応報」、親の因果が子に報い…というと古すぎだが、と読み取るべきなのか、判断に困った。いや、どちらかが正解というわけではないとわかっているのだけれど。
 ブルーノがシュムエルを思う気持ちは純粋な友情だったと言ってもいいが、シュムエルの方はどう思っていたのか、大体あれほどの無理解のもとで友情が成り立つのか?など考えてしまった。

 そして、この姉妹編とも言える『ヒトラーと暮らした少年』。こちらの主人公ピエロは、ブルーノとはまったく異なる境遇にいる。 

ヒトラーと暮らした少年

ヒトラーと暮らした少年

 

  ドイツ人の父親とフランス人の母親のもとに生まれ、パリで暮らすピエロだったが、父親は第一次世界大戦に従軍したトラウマのせいでアルコール依存症となり、まともに働くこともできず、酒を飲んでは母親に暴力をふるっていた。結局、父親はピエロが四歳のときに家を出て、そのまま列車に轢かれて死んでしまう。 

ピエロは四歳から七歳までの三年間、毎日、二階でママンが客に給仕をしているあいだ、その部屋にすわって午後を過ごした。そして、口には出さないものの、毎日父親のことを思いだしていた。目の前にパパがいて、朝、制服に着がえ、一日の終わりにチップを数える姿を……

  そうして、ピエロと母親のふたり暮らしがはじまるが、ちょうどアパートの下の階に住むユダヤ人のアンシェルも父親を亡くしていたため、まるで兄弟のようにずっと一緒に過ごすようになる。
 アンシェルは生まれつき耳が聞こえないので、ふたりは手話で会話をしながらボール遊びや読書に興じ、ときにはアンシェルが作った物語で遊ぶこともあった。アンシェルは作家になるのが夢だったのだ。

 ところが、ピエロが七歳のときに母親が結核にかかり、あっという間に命を落とす。身寄りのなくなったピエロは、アンシェルともはなればなれになって孤児院に送られ、父親の妹のベアトリクスおばさんに引き取られることになる。

 ピエロはベアトリクスおばさんが家政婦をしている山荘で暮らしはじめる。ある日、ふだんは留守にしている山荘の主がやって来たので、ピエロはおばさんに言われたとおり、力強く、はっきりと挨拶する。「ハイル・ヒトラー!」と……

 本格的に物語が展開するのはここからだが、ピエロの人格が形成される背景が描かれた序章が、この小説の要だと思う。
 このあと、ピエロはヒトラーの信奉者となっていくのだが、その心理の裏には、父親への憧憬、自分を庇護してくれる強い者を求める気持ちがあったことが、この悲しい生い立ちから理解できる。

 先にも書いたように、『縞模様のパジャマの少年』とはまったく別の物語だけど、あとから読み返して気づいたが、『縞模様のパジャマの少年』に出てくる登場人物がちらほらと顔を出している。

 どちらの作品も、ナチス政権下において、正反対の立場にある者同士のあいだで生まれる「友情」がテーマとなっている。
 しかし、「友情」と言えるものなのかあやふやだった『縞模様のパジャマの少年』とちがい、この『ヒトラーと暮らした少年』は正面から「友情」を取り扱っていて、洞察がより深まっている。
 さらに、登場人物たちの人物像も『ヒトラーと暮らした少年』の方が複雑に描かれているので、『縞模様のパジャマの少年』のような衝撃はないが、最後の場面の感動はいっそう胸に迫る。なので、二冊とも読むのをおすすめします。 

わたしは彼の手の動きを追った。そしてそれは、心に愛情と慎みをもっていた少年が、権力によって堕落していく物語だ、と。死ぬまでかかえていかなければならない罪をおかし、自分を愛してくれた人たちを傷つけ、いつもやさしくしてくれた人たちを死に追いやることに力を貸してしまった少年の物語であり、また、捨ててしまった自分の名前を一生かけてとりもどさなければならない少年の物語なのだ、と。

  ナチス政権やユダヤ人迫害を取り扱った物語は数多くあると思うが、ジョン・ボインのこの二作のように、ナチスの内部に入りこんだ子どもの視点から、つまり加害に加担した子どもという立場から描くというのは異色なのではないだろうか。

 彼らは知識もなく、自分たちの周囲が何をしているのかもよくわからないまま巻きこまれていく。恐ろしいと感じる反面、誰の身にも起こり得る物語だともつくづく思う。『ヒトラーと暮らした少年』の訳者あとがきではこう書かれている。 

ピエロを変えてしまった力は、現代の世界にも、そしてわたしたちの暮らす日本社会にも潜んでいることを忘れてはなりません。この作品は、わたしたち読者に、引き返せるうちに引き返す勇気をもつことを訴えているのではないでしょうか。

  隣国との小競り合いやさまざまな問題が噴出している日本の現状において、この言葉が、まさにほんとうにそのとおりだと思えてなりません。