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快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

女の幸せって?? 『無頼化した女たち』 水無田気流

フェミニズム ノンフィクション

 

無頼化した女たち

無頼化した女たち

 

  NHKなどに出演している論客、水無田気流の『無頼化した女たち』を読んだ。

 女性の生き方や働き方をテーマにした本は、最近非常に多いけれど、ほとんどが “子育てと仕事の両立” とか “ワークライフバランスの重要性” “夫をイクメンにする” といった「正しいこと」ばかり推奨していて、そういうまっとうな道から外れた女性――“いきいき働くこと”にも、結婚にも出産にも家族にも興味がない女性――はいったいどうしたらいいのかと考える今日この頃なのですが、この本は“無頼”をうたっているだけに、そういう真の意味でマイノリティな女性への目配りもきいた本だった。

(マイノリティということで、話はそれるけれど、最近同性婚を求める運動が盛りあがっていますが、同性婚運動によって、恋愛・性愛の多様性が認められるのはいいことだと思いますが、逆に、“結婚して家族を持つこと” が、異性愛者にとっても同性愛者にとっても、絶対的に大事なことであるという一元的な価値観が強まるのでは、という危惧も感じる)

 とくに共感したのが、

「女の幸せ」についての、世間からの余計なツッコミが、いかに執拗かつ不等であるか


 ということで、上野千鶴子が『おひとりさまの老後』のなかで、一人暮らしの女性が、よく「おさびしいでしょう」と声をかけられることについて、「おおきなお世話だ」と怒りをあらわにしているところを例にあげ、作者も「大いにうなずいた。そのとおりである」と同意している。続けて、作者は、出産してから無条件で「お幸せそうですね」と声をかけられることにも疑問を呈し、

 これはひょっとして「おひとりさま」を不幸と決めつける風潮と表裏一体ではないのか

と考える。
 ほんとうに私もつくづく思うが、「幸せ」を目標にすると、かならず不幸になる。というのも、「幸せ」という言葉には、どうしても他人との比較や世間の価値観がつきまとっているからだろう。結婚しているのとしていないのでは、している方が幸せ。子供がいるのといないのでは、いる方が幸せ。子供が一人よりは二人の方が幸せ……と、際限なく "幸せ地獄" が続くのだ。
    とりあえず、「女の幸せ」は、はやいことドブに捨てないといけない。


 この本では、そのあとのライターの西森路代との対談でも、「女子の国見取り図」を提示していて、その図は「縦軸が上に行くほど『私の幸せ』寄りに、下に行くほど『女の幸せ』寄りに」なっていて、「私の幸せ」と「女の幸せ」を対極においていた点に納得した。

 この対談は、いまの女子界の潮流に精通した西森さんの視点もあって、的を射た意見が多くて、たいへんおもしろかった。高度に無頼化した女子は米倉涼子だそうです。たしかに…。この対談は、現在の結婚即別居騒動の前ですが。
 『おおかみこどもの雨と雪』、私はまだ見てないのですが、ここで読む限り、キショク悪そうな話ですね。(好きな人がいたらすいませんが)
 
 そしてこういう話題では、かならずあがる「東電OL」に「『逆襲の癒し系』木嶋佳苗」。「逆襲の癒し系」、まさにそのとおり。前に書いた『毒婦』でも同じようなことを言ってたけど、水無田さんも「男に愛情を感じていないと、ここまで愛情たっぷりに振舞えるのかと感心」している。
 世間から、もっとはっきり言うと、男から「求められる女の姿」がはっきりあるからこそ、「東電OL」は売春することによって「求められる女」になろうとしたのかもしれないし(あるいは逆襲しようとしたのかもしれない)、木嶋佳苗はそれを最大限に利用して自らの欲望を満たそうとし、最終的にどちらも破滅した。

 しかし、この本もいろいろな興味深い論点をあげているが、現実的な解決策は示されていない。
 「女の幸せ」問題にしても、もっと実際的な、仕事と家庭(育児や介護)との両立にしても、現実では解決どころか、うまくやりぬく道筋すら見つけるのは困難だ。
 
 仕事については、みんな長時間労働を止めて、仕事をシェアリングして定時に帰るべきだ……というのは簡単だけど、実際に会社で働いていると、なかなか難しいことだと感じる。仕事をシェアリングするためには、余裕をもって人員を確保する必要があるが、まずそれができる職場がきわめて少ない。
 ほとんどの人が、まじめにせっせと働いているのに、どうしてこの社会はこんなに余裕がないのだろう??
 ここで書かれているとおり、女子が働きつづけることは「クソゲー」で、この社会はだれも幸福にしない制度で成り立っているのだろうか? そうかもしれない。
 とりあえず、私たちひとりひとりができることは、先に書いたように、世間に認められた「幸せ」ではなく、「私の幸せ」を追求することなんでしょう。