快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

人間の感情は一括りにはできないし、他人との関係も一筋縄でいかない――『奇貨』 松浦理英子

 なにやら、雑誌elleのオンラインサイトで、二村ヒトシさんが、映画『マッドマックス 怒りのデスロード』で、フュリオサとイモータン・ジョーがかつて恋愛関係にあった説を書いて炎上しているようだ。

 たしかに、設定としては、フュリオサはさらわれて、ジョーの支配下に置かれていたわけなので、そこに「恋愛」があったと読み取るのは、男の都合のいい考えであり、性暴力につながるものだという批判はもっともなのだろう。

 ただ、二村さんの以前からの基本的な主張としては、一般的に「恋愛」と呼ばれているものが、そもそも暴力と支配/被支配、そして憎悪から逃れられない関係であり、世間から称賛されるものでもなければ、美しい感情でもないということなのだと思う。
 たしかに、いわゆる「恋愛」と言われている関係を因数分解すると、力の強い方(恋されている方)が弱い方(恋している方)を、精神的、あるいは肉体的に支配するものであり、要は、支配される方が、自分は相手に恋しているのだと思いこんで自主的にその関係を構築しようとしたら「恋愛」であり、そうではなく関係を強制されたら、「暴力」「虐待」になるだけのような気すらする。

 私の大好きな作家である、松浦理英子は、こういう愛情と憎悪が交錯する緊張関係を描くのが非常にたくみだ。『奇貨』では、七島と寒咲の関係が、まさに恋をしながら相手を深く憎んでいる状態だ。

 

奇貨 (新潮文庫)

奇貨 (新潮文庫)

 

  レズビアンである七島に興味を持って近づくが、関係を持ったあとは七島からのラブコールを完全にスルーして、何事もなかったことのようにふるまう寒咲。
 同性愛ということを抜きにしたら、だれにでも覚えのある関係なのではないだろうか。真心の通じない相手に恋をしたこともあれば、罪悪感を感じつつも、自分に恋する相手と正面から向き合わない(ちゃんとつきあう気もないが、完全に切るのも惜しい)こともあるのではないだろうか。

 また、二村さんのレビューで反論が大きかったのは、マックスを「インポ」よばわりしていたことで、フュリオサと恋に落ちず、欲望を感じているようにも見えないので、そう表現したようだ。
 
 それはまったくの偏見だ、異性同士だって、恋愛ではなく深く結びつくことは可能だ――
 と主張したいのはやまやまだが、しかし、よく考えたら、個人的にはそんな関係を築いたことがないのでなんとも言えない。女友達以上に信頼できて理解しあえる男友達って存在し得るのだろうか?

 この『奇貨』では、主人公の四十男である本田と七島が、恋愛ではない親密な関係を築くが、それは七島がレズビアンだから可能だったのかもしれないし、友達というものに免疫のなかった本田の暴走により、最終的には二人の関係は奇妙な顛末にいたる。

 ちなみに、この本田は異性愛者ではあるが、他人に強い恋愛感情を抱いたこともなく、親密な関係を築いたこともない“珍しい”人間とされているが、実はそういう人間はいっぱいいるんじゃないかとも思う。こういう人間は昔から結構いて、現代は男女とも世間から結婚を強制されなくなったので、非婚・少子化という言葉とともに、可視化されるようになったのではないだろうか。


 人間の感情は一括りにはできないし、他人との関係も一筋縄でいかないし、二つとして同じものはない。この本を読むと、あらためてそう思う。

 寒咲を憎みながらも未練がある七島は言う。
「性的な間柄じゃなくても、いい関係になれると思ってたのに。どこで間違ったんだろう。」
 七島の一番の親友になったヒサちゃんは答える。
「しょうがないよ。わたしたちが思うような愛情や友情が成立しない人もたくさんいるんだよ。」

 この問いと答えを、これから何回心の中で繰り返していくのだろうか?
 いつかいろんなことに納得したり、あるいは諦めたりする日が来るのだろうか?