快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

男と女は永遠の回り道? 『女のいない男たち』 村上春樹

女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。

 

女のいない男たち

女のいない男たち

 

  この本『女のいない男たち』は上記の引用にもある通り、女に去られてしまった男たちの話が綴られている。どの男たちも、女を蔑んだり、異常に鈍感で身勝手だったり、暴力的だったり、女から金を巻きあげたりしているわけではない。ふつうに親切で思いやりのある男たちである。でも、女たちは彼らから去っていき、そして読者もそのことを必然的なことのように受けとめてしまう。


 どうして女たちは、彼らから去っていってしまうのだろう?

 そう考えて、ふと気づいた。ここに出てくる男たちは、さっきも書いたように、頭もよく、親切で思いやりもある、きちんとした人物ばかりだ。
 しかし、『木野』の主人公木野は、妻の不倫現場(しかも現行犯であった)に出くわすという痛い体験をし、会社を辞めて自分で店を開き、ようやく離婚も成立させて思う。

おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の傷みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。


 この小説に出てくる男たちは、虚ろな心を抱えている。妻がずっと浮気をしていることに気づかぬふりをし続けた『ドライブ・マイ・カー』の家福、東京人なのにかたくなにエセ関西弁で話し続け、友達の「僕」に自分の彼女とつきあうことを勧める『イエスタデイ』の木樽、あるいは、虚ろな心で生きてきた結果、悲痛なしっぺ返しを受けた『独立器官』の渡会医師。

 女は、そういう男の虚ろさを必ず見破り、そして去っていってしまう。ときには、客観的に考えると絶対に損をする不幸な選択であっても、女は、虚ろな心を抱えた男より、さっき挙げたような、鈍感だったり暴力的だったり、頭が悪かったり働かなかったりする男を選ぶことさえある。女に去られてしまった男も不幸だが、去っていった女も、たいていの場合幸せにはならない。
 そう考えると、『イエスタデイ』の木樽と彼女が、孤独を抱えながらも、新しい人生に進んでいるのは、”素敵じゃないか”(村上春樹なので、一応ビーチボーイズで)という気もする。


 僕らはみんな終わりなく回り道をしているんだよ


 ここに出てくる男たちは、基本的には、村上春樹の過去の小説に出てきた男たちと同じである。しかし、過去の小説では、こんなにあからさまに女に捨てられることが描かれてこなかった。
 『ノルウェイの森』では緑に電話をするところで終わり、『ねじまき鳥クロニクル』では妻が去っていくが、そこには「大きな物語」が存在していたけれど、この短編集では、女はただ男を見限って去っていくだけで、そこには「大きな物語」も、寓話的なものもない。


 この前に出た『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』でも、主人公の多崎つくるは、今までの村上作品の主人公と同じような人物でありつつも、これまで村上作品の世界では描かれることのなかった「嫉妬」で苦しみ、恋人沙羅に飾りのない言葉で愛を告げる。

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

  ここ数年の近作で、登場人物の行動や心情がより直接的になっているのは、デタッチメントな登場人物や寓話的な物語を書きつくしたからか、あるいは、いまや全世界に伝えるためのストーリーを意識しているからなのだろうか? その答えは不明ですが、やはり次の小説もまた読んでしまうんだろうなとは思います。