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快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

人生に影響を与えた一冊 『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』 カート・ヴォネガット・ジュニア

「ぼくは、この見捨てられたアメリカ人たちを愛していきたい――たとえ彼らが、役立たずで、なんの魅力もなくてもね、それがぼくの芸術ってわけさ」

“I’m going to love these discarded Americans, even though they’re useless and unattractive. That is going to be my work of art.”

 さて、前回『ハーモニー』の感想を書きましたが、愛にあふれた心優しき世界を描いたSFというと、どうしてもこの作品が頭に浮かびます。
 ちょうどはてなブログが "今週のお題「人生に影響を与えた1冊」" なので、まさにあてはまっていると思い、いままでペイパーバックで読んでいたけれど、kindle浅倉久志さんによる翻訳本を買って読み直しました。

 

  大富豪ローズ・ウォーター家の跡取りで、上院議員を父に持つエリオットは、第二次世界大戦に従軍した際に、ドイツ兵とまちがえて民間の消防団員たちを殺してしまい、神経衰弱状態におちいる。戦争から戻ってからは、酒びたりになる一方、慈善と博愛主義にめざめ、自分の持つ財力と時間と労力すべてを貧しい人々に与えようと、ローズウォーター郡の貧民街にぼろぼろのオフィスを構え、貧しい人々からの助けを求める電話を待ち続ける。
 当然ながら、上院議員の父親をはじめ、周囲の人たちは、エリオットを“キ印”とみなし、妻シルヴィアも最初は理解をしめそうとしていたが、やはりエリオットについていくことができず、二度の神経衰弱の発作に見舞われ、エリオットのもとを永遠に去ってしまう……


 そして、悪徳弁護士ノーマン・ムシャリがエリオットが狂気におちいっていると主張して、ローズウォーター家の財産を奪おうとする、というのがストーリーなのだが、正直、その筋立てはこの小説のなかでは大事なポイントではなく、エリオットとシルヴィア、そして父親とのあいだで交わされる、「愛と資本主義」をめぐる哲学的な会話、そして、ムシャリが担ぎ出そうとする、エリオットの遠い係累のフレッドとその周囲の人間模様が心に刻まれる。


 父親が言うように、エリオットが愛して身を捧げようとする貧しい人たちは、まじめに働いて努力したにもかかわらず、思いもよらぬ不幸や不運に見舞われて人生に失敗した、という人たちではまったくない。
 怠惰で利己的で、“しかし”というか、“そのうえ”というか、頭も悪いので、もちろん金持ちになることもなく、エリオット以外にはだれにも気にかけられることもなく、社会の底辺で醜くはいつくばっている人種だ。そしてエリオットもそのことをよくわかっている。エリオットはシルヴィアの前でだけ、そのことをほのめかす。


エリオットは、彼が一生を捧げて親身につくしている人びとに対してなんの幻想もいだいていないことを明らかにした。


 また、エリオットが貧しい人たちにつくそうとしているのは事実だが、ほんとうに彼らを愛しているのかも疑わしい。実際、エリオットは電話をかけてくる者のことも、その内容も、次の瞬間には忘れてしまう。本質的になんの関心もいだいていない。


 では、エリオットのしていることは、ただの偽善で無意味なことだと書かれているのかというと、決してそうではない。いや、無意味なのかもしれないが、ローズウォーター郡の人たちはエリオットを熱狂的に愛する。そして、読んでいる私たちは、ひたすら自己の利益を追求して、私有財産の拡大にしがみつく生き方が正しいのかどうか、考えさせられる。


 また、昔読んだときには、エリオットの印象が強烈でかすんでしまったが、読み返してみて、エリオットの遠い係累であるフレッドの悲惨な人生も印象に残った。
 フレッドは、ローズウォーター郡の貧しい人たちとは違って教養もあり、まじめに働いているのだが、その仕事は町の貧乏人に保険を売りつけるという、だれにも尊敬されないもので、


内心では、この男(フレッド)の提供するものが自分たち(町の人たち)に許された唯一の一攫千金の手段だと知っていた――それには、自分に保険をかけて、さっさと死ねばいいのである。


自殺した父親からの遺伝のせいか、しばしば自殺を考えるという、結局はローズウォーター郡の人と同様のみじめな生活を送っていた。
 フレッドの妻キャロラインは金持ちのレズビアン、アマニータと仲良くなって、恋人というか腰ぎんちゃくになり、フレッドにはなんの関心を払わなくなっていた。アマニータの夫は、エリオットの劣化版というか、金持ちであることに罪悪感を感じつつ、エリオットのような使命に目覚めることもなく、ひたすら酒におぼれる毎日を送っている。

 フレッドの町で、というか、この小説で唯一とも言える、地に足をつけてまっとうに働いている漁師のハリー親子が出てくるのだが、彼らも結局は、アマニータとキャロラインが通う、富裕層相手のレストランの窓から見える景色、“動く壁紙”としての役割をはたすだけに過ぎず、最終的には破産を宣告される。


現実の人間は、もうあんなふうな暮らしの立て方はしないのよ。あそこで三人のロマンチストがやってることは、マリー・アントワネットのお上品な牧場ごっことおなじくらいの意味しかないの。


 それにしても、よく言われていることだろうけれど、ヴォネガットの作品は、ほんとうに時代を先取りしている。これは1965年、なんと昭和40年の作品だが、2000年以降の現在における新自由主義経済の発展、そして破綻、格差の拡大、それらによってもたらされる人々のあいだに広がる不寛容を見事に描いている。


昔からアメリカ人は、働こうとしない人間や働きたくても働けない人間を憎むように、また、それとおなじ理由で自分自身をも憎むように教育されてきました。


 政治状況についても同様だ。さっきテレビを見ていたら、アメリカの大統領選挙に出馬するらしい大富豪トランプ氏が、メキシコ人移民の排斥を訴えて支持率を上げ(下げ、ではない)たというニュースが流れた。また、トランプ氏は自分の髪をひっぱらせてカツラではないとユーモラスにアピールしていた。(ほんとうにヅラではないのか、それでも疑問だが)

 まさに、ヴォネガットの小説の実写版のような、絶望的でスラップスティックなことが現実に起こりつつある。私たちみんなが、エリオットのように、どんな時間にかかってくる電話にたいしても、こんなふうに答えられるようになりたいと真剣に思えるようになれば、世の中は変わるのでしょうか?


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