快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

地図をやぶって歩き続けろーー女性がはたらいて生きるということ 『仕事文脈』  

 ときどき手にとってしまう雑誌、「仕事文脈」の最新号の特集が「家と仕事」で、なかなかおもしろそうだったので購入しました。 

仕事文脈 vol.7

仕事文脈 vol.7

 

  まずは、以前ここでも『はたらかないで、たらふく食べたい』をとりあげた栗原康の「はたらく女性は、方向音痴――地図はなくても歩いてゆける」を読む。

 冒頭から、「ある女性がわたしの本を読んでくれて、とても素敵な感想メールをくれたので、これはきちんと返信しなければ、そしてデートに誘わなければとおもっていたまさにそのとき」パソコンがぶっ壊れるという、『はたらかないで~』と同様の、みごとな脱力感あふれる出だしだった。
 しかし、こんなトホホ感あふれる文体で、人間の労働やそれにともなう賃金の本質に切り込むのが、氏のアナーキストたる所以(いや、知らんけど)。ここでも、放射能計測に行っても、地図も読めないうえに車の運転もできず、なにひとつ役にたたない自身の経験から、女性が「家」を出て自分ではたらいて生きていくことは、地図をやぶり捨てて歩いていくことと同じだと書く。
 
 もちろん、家も地図も捨てても、結局は違う地図――「企業」という地図に囲われることになるのも事実だ。でも、かつて家も地図も捨てることができたのだから、もしまた新たな地図に囲われても、それに捕らわれることなく、やぶり捨てることができるはずだと続ける。たしかに、女性がひとりではたらいて生きていくことは(いや、ほんとうは男性も同じなのかもしれないが)、地図のない世界を歩いていくことと非常に似ていると思う。先が見えず、模範となるものも見当たらない世界。前を見ても後ろを見ても道はない(高村光太郎のパロディみたいになってしまったが)。

 また、「家」は、一般的には「企業」や「社会」の対になるもの、つまり、愛情にもとづいた人間的なもの、とみなされる風潮があるように思うが、この論考では、「家」こそが、人間を財産とみなして囲いこむもの、奴隷制の原点となるものと指摘しており、そこも刺激的だった。現在の少子化対策の言説を考えると、まさにそのとおりですね。


 あと、ここで『映画系女子が行く!』を紹介した真魚八重子は「映画のインテリアのリアリティ」について書き、また、雨宮まみの「家と愛情」も非常に興味深かった。
 いつもの彼女の文章と同様に、先に書いたこととも共通するテーマですが、女性がひとりで生きていくことを、孤独から目をそらすことなく書いている。「一人暮らしになった母から、泣きながら電話がかかってくる」とはじまり、最後に「お母さん、私は、一人がつらいと思わない。だから、ごめんなさい、あなたの気持ちはわからない。一緒に暮らしたいと思うことができない。好きとか嫌いとかじゃなく、そう思えない。そして私はそのことに強い罪悪感を感じる」と、一人暮らしをしている女性ならきっとわかる、身を切るような思いを綴っている。


 しかし、この号には、30代独身男性たちの座談会も収録されているのですが、彼らは「三十代の今後の展望」を聞かれ、「うーん、やっぱり結婚かな。親に孫の顔を見せてやりたい」「したいですね。親も再婚しろってうるさいですよ」「風の噂では、どうも親父が孫の顔を見たがっているらしい」と無邪気に答え、上記の雨宮さんの文章と比べて、なんてぬるいんだ!と驚いたのですが、これこそが30代男子と女子のリアリティのような気がしますね。

 女子は、ある年齢を過ぎても結婚せず、ひとりで生きていると、そう、ただ生きているだけでも、世間の価値観に背いていることや、マイノリティであること(ヘテロセクシャルであっても)、親の期待(結婚するか、あるいは親と同居して面倒をみるという)を裏切っていることに、いやでも自覚的になり、腹を据える覚悟が必要になるのですが、男子の多くは、そのあたりを突きつめて考えることはなく、多数派の価値観に抗って生きるという覚悟があるわけでもなく、ただ、「そのうちいつかは結婚するつもりだけど…」とぼんやりしてるんでしょうね。いや、それは別に悪いことではなく、愛すべき点なのかもしれませんが。


 最後にひとつ気になったのが、映画ライターやプロデューサーをしていた綿野かおりさんが、東京から京都に移住した話を寄稿しているのですが、彼女のプロフィールで、「女の屁をテーマにしたzine『PU』の編集長もつとめる」とあるけれど、これはいったいなに??ということでした。