「修正」は可能なのか? 『コレクションズ』 ジョナサン・フランゼン
老化とパーキンソン病で身体が不自由になりつつある夫、アルフレッドと二人で暮らすイーニッドの一番の楽しみは、巣立っていった三人の子供と孫たちでクリスマスを過ごすことだった……
- 作者: ジョナサンフランゼン,Jonathan Franzen,黒原 敏行
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/08/10
- メディア: 文庫
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この小説は、アメリカ中西部に住む一家が、「家族そろった幸せなクリスマス」を迎えようとする話である。
アルフレッドは、長年鉄道会社の技術者として真面目に働き、イーニッドは愛情深く、夫と子供たちに献身的につくしてきた。
子供たちは三人ともすこぶる優秀で、長男ゲイリーは銀行の投資部門に勤め、順調に出世して高収入を得て、美しい妻キャロラインと子供三人と暮らす。次男チップは東部の名門大学に進み、大学でのテニュア(終身雇用資格)も得て、気鋭の若手研究者として活躍している。幼いころから兄二人よりできが良かった、末っ子の妹デニースは、若いうちの結婚、そして離婚と苦労もしたが、雑誌に取り上げられるような有名シェフとして成功する。端から見ると、幸せで満たされた、なんの不自由のない一家であった。
ところが、家族それぞれの人生の歯車が狂いはじめ、幸せの象徴だったクリスマスが、不穏な徴候をみせる。
まずは次男チップの現状から語られる。チップは順調に大学教授の地位を得るも、女子学生と深い仲になったうえに、「ストーカー行為」をはたらいたと糾弾されてクビになり、大学街からニューヨークに逃れ、法律事務所で細々と校正をするバイト暮らしに転落する。ほぼ無一文になり、デニースからの借金(二万ドル以上)に頼って生活する毎日。
ゲイリーの家では、都会出身で洗練された妻キャロラインは、古い価値観にとらわれたイーニッド(とゲイリーの実家)を激しく忌み嫌い、軽蔑している。しかも、それをまったく隠すこともなく、クリスマスに会いに行くのは死んでも嫌だとヒステリックに主張し、ゲイリーが子供を連れて帰るのも阻止する。ゲイリーは、両親と妻とのあいだに立たされ、精神を病む。
デニースは、学生時代から男性とうまく関係が結べず、大学を中退して勤めはじめたレストランで出会った、十歳以上も年上の男と若くして結婚するが、それもすぐに破綻する。現在のレストランオーナーであるブライアンと不倫関係に陥りかけるが、ブライアンとも関係が築けず、最終的にはブライアンの妻であるロビンとの関係にはまりこむ。
まあつまりは、優秀だった三人の子供たちがそれぞれ、ストーカー、セックス依存症、無職(貧困)、鬱病、同性愛……と、アメリカを象徴する病巣(無職や同性愛は病気ではないですが)に取り込まれていく過程が綴られる。どれも現代アメリカ小説では珍しくないテーマだが、フランゼンの筆力――シリアスでありながら、全体的にはユーモラスに「悲喜劇」として描き、比喩の使い方がたくみな文章もあって、すっと物語の中に入りこんでしまう。
(感心するような比喩がいくつも出てきたのですが、ひとつ例をあげると、一発あてるためにリトアニアに発ったチップが、詐欺まがいのビジネスに従事した挙句、政情の混乱に巻き込まれて、命からがらアメリカに戻るところで、空港でへたりこみながら
「以前はきちんと文字が書かれていたのに、水に濡れて判読不能になった紙のような気分だった」と表現されていて、わかるな~と思った)
デニースの遍歴についても、頭がよくて繊細な女子が、社会にどんどん傷つけられていくさまは、アメリカ小説にほんとうによくあるパターンだなと考えさせられた。シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』もあるし、また、デニースが妹ということから、サリンジャーの『フラニーとズーイー』も思い出した。
しかしこの小説のフレームを作っているのは、子供たちではない。年老いた両親である。子供たちが人生を彷徨っているあいだにも、父アルフレッドのパーキンソン病と痴呆はどんどん進み、身体はますます自由がきかなくなり、しばしば失禁すらし、幻影を見て、話もほとんど通じなくなる。けれど性格の頑迷さは衰えない。身につまされますね。ヴォネガット風に、そういうものだ、としか言いようがない。
なんだかんだありつつも、子供たちはどうにかクリスマスには家にたどり着き、完全に親子水入らず(ゲイリーの子供を連れて帰るのは阻止されたので)のクリスマスを迎える。
子供たちは、ほんの数ヶ月前と比べても、父親の老化が進行しているのに衝撃を受ける。これ以上家で面倒をみるのは無理だ、手すりをつけても無駄だ、そもそもどうしてこんなにガラクタばかりためこんでいるんだ(実家あるあるですね)……と、ゲイリーは癇癪を爆発させる。デニースはアルフレッドの面倒をみようとするが、アルフレッドの失禁を目撃して終わる。それでもクリスマスは容赦なくやってくる。
最後の飾りは胡桃の中の幼子イエスだ。それをツリーにピンで留めるのは子供の役目、純真で前途に希望のある子供の役目だ。だが、デニースは今、この家に満ちている感情、子供時代の記憶とそれにまつわる意味をたっぷり含んで飽和した空気に、硬く身構えるプログラムが身内にできているのがはっきりわかった。自分はこの役目を果す子供にはなれない。
「これはお母さんのカレンダーなんだから、お母さんがやればいいのよ」と彼女は言った。
母親の顔に表れた失望は事の瑣末さに不釣合いなほど大きかった。それは彼女が昔から抱きつづけてきた、世界から拒絶されているという一般的な失望、また、個別に言えば、子供たちが自分の夢に参加してくれないという失望だった。
しかし、悲惨に思えた家族の現実も、なんとかアルフレッドを施設に入れ、チップが主に面倒をみることによって(なんといってもほぼ無職なので)、落ち着きをみせはじめる。長年夫と子供につくし、その結果として散々失望を味わってきたイーニッドは、はじめて自分でも不思議な解放感をおぼえる。
ゲイリーが拝金主義者で、チップが落伍者で、デニースに子供がないという、長年のあいだ深夜に悩み自責の念に駆られてきた事柄が、夫が家を出た途端あまり気にならなくなった理由も理解できなかった。
そして最後はこう閉じられる――
今まで夫がいかにまちがっていたか、自分がいかに正しかったか、時間があるうちに話しておきたいというのがイーニッドの気持ちだった。
夫婦というものはよくわからないけれど、家族(親子)間での「修正」が難しいのはわかる。
いったいどこでまちがってしまったのか? そもそも、なにがまちがいだったのか?
修正は可能なのか? 子供としては、どうするべきだったのか? 親になにをしてほしかったのか? 考えてもわからない。
日本では、クリスマスだから実家に帰るってひとは少ないでしょうが、年末年始には多くのひとが帰ることでしょう。実家に帰る前に、読んでみてはいかがでしょうか??