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快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

この恐怖を他人事に思えますか? 『YOU』  キャロライン・ケプネス

 ニューヨークのブルックリンに住み、ロウワー・イーストサイドの書店で働くジョーのもとに、作家志望の女子学生ベックが、スポルディング・グレイとポーラ・フォックスの本を買いにやって来る。ベックこと「きみ」は、ポーラ・フォックスについてこう語る。


「最高の作家じゃない? もっと有名にならないのが腹立たしくてならないのよ――ったく、(ジョナサン・)フランゼンがあれだけ大々的に褒めてるっていうのに」


 そして「ぼく」は「きみ」にこう語る。「ベックつながりでいうと、アルバム《ミッドナイト・ヴァルチャーズ》は傑作だよ」


 まるで絵に描いたような、理想的な文科系男女の出会い。映画『(500)日のサマー』のズーイー・デシャネルとジョゼフ・ゴードン=レヴィットも太刀打ちできないような。村上春樹の書く「100パーセントの女の子」とはこういうことだったのかと思うような。  

 ところが、「ぼく」の正体はキモオタストーカーで、そして「きみ」の正体は、インチキな自己愛まみれでメンヘラ製造機(あるいはメンヘラホイホイ)の、超イタい女だった……というのが、このキャロライン・ケプネスの『YOU』です。 

YOU(上) (講談社文庫)

YOU(上) (講談社文庫)

 

 ほんとどっちもどっちとはまさにこのことかと思う、イタさ満開の男女が繰り広げる恋愛模様。
 家の中をのぞいたり忍び込んだり、はてはベックから盗んだスマホでメールのやりとりを監視する、「ぼく」もじゅうぶんおかしい(というか、立派な犯罪者だ)が、それ以上に、ベックの文科系女子としてのイタさが容赦なく書きこまれていて、背筋が寒くなった。
 いや、ベックほど性悪でも嘘つきでもビッチでもないつもりだけど、でも、本を読みふけったり、ネットで文章を書いたり、現実社会よりも「ここではないなにか」を求めてしまう文科系女子にとって、ベックの歪んだ心象はまったくの他人事とは思えないのではないだろうか。


 これだけ女子のイタい実態をあけすけに描写できるのは、女性である作者が、自身のなかにもあるベック要素を凝視してさらけ出したのだと感じた。実際、作者のプロフィールを見てみると、年齢非公表だけど、ベックと同じブラウン大学に行っていて、大学を出たあとは、ライターなどの仕事をしながら短編を発表していたようだ。

 そしてまた、ベック自身がインチキ(二村ヒトシさんの本の"インチキ自己肯定"より)なので、「ぼく」の恋敵となる相手も、そろいもそろってインチキばかりなのだ。”オーガニック”なホームソーダの事業を興そうとしている、うさんくさい青年実業家とか、完璧メンヘラ金持ちスポイル娘とか、精神科医気取りのエセ心理カウンセラーとか。そういった面々と「ぼく」との対決が、どちらにもまったく共感できなくて、それはそれで面白い。


 冒頭の場面からもわかるように、この小説には大量のポップカルチャーが顔を出す。映画では、先にも書いた『(500)日のサマー』(IKEAで買い物するシーンもあるし、パロってるのでしょうね)に、文科系男女の教祖ウッディ・アレンの『ハンナとその姉妹』が「ぼく」と「きみ」の心を結ぶ。音楽では、ベックはデート前にデイヴィッド・ボウイの〈レア・アンド・ウェルダン〉を聞き(私も今度聞いてみようと思った……)、プリンスやダフト・パンクなども出てくる。ちなみに、こちらの作者のページに、おすすめのソングリストがあります。

 そして本屋が舞台だけに、小説が重要な役目をはたしている。トマス・ピンチョンティム・オブライエンから、冒頭の場面で言及される『ダ・ヴィンチ・コード』が終盤で思いもよらない使われ方をする。 こんな場面でシオン修道会の名前を聞くとは。いや、場面にあってるのかな?

ダ・ヴィンチ・コード(上) (角川文庫)

ダ・ヴィンチ・コード(上) (角川文庫)

 

  スティーヴン・キングも何回も登場しますが、ご本人もこの小説に推薦文を出していますね。(ダン・ブラウンはどう思っているのか気になるが)あと、ベックは女友達とドラマ『ガールズ』の悪口を言っているけれど、Amazon.comを見ると、レナ・ダナムもケプネスの本に推薦文を寄せています。


 「ぼく」も「きみ」も、「きみ」のまわりの連中も、結局は他人を愛することができない人々だ。相手を好きなつもりでいても、自分の思うようにならない相手を受け入れて愛することはできない。相手の幸せを願うこともできない。

 「きみ」ことベックは、エセ精神科医のカウンセリングで、自分あての手紙を書く。

親愛なるベック 自分の最悪の敵になったり、あなたを求めてもいない男を追いまわしたりするのは禁物。自分の最良の友となり、あなたを求めている男を愛するすべを身につけなさい。また、人はだれしも完全ではないと肝に銘じておくこと、愛をこめて、ベック。 

  完全に正しい内容だ。言うだけなら、いくらでも正しいことを言えるのだなとつくづく思う。けれど、できないのだ。
 「ぼく」もベックに捨てられかけたとき、ベックと正反対のタイプのカレンとつきあってみたけれど(料理が得意で、本などは一切読まず、「レナ・ダナムってだれ?」と言うような)、自分を愛してくれるカレンを愛することはできなかった。

 「ぼく」と「きみ」の物語は、案の定カタストロフィをむかえ、「そして――いや、それでも、人生は続く」としか言いようのない皮肉なラストだったけれど(ラストも『(500)日のサマー』のパロディなのかな)、私たちの人生も、この小説ほど猟奇的なことはないにせよ、同じあやまちを延々と繰り返しながら続いていくのか、それともどこかに突破口が開けるのだろうか?