快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

ハイスミス印の執着・狂気・破滅に陥る主人公たち 『見知らぬ乗客』 パトリシア・ハイスミス

 少し前に書いたとおり、ハイスミスの『キャロル』を読み、恋をすることでたくましい大人の女性になる主人公の姿に感銘を受け、こんなことが成り立つのは、社会通念から解放された同性同士の恋愛であることも関係しているのだろうか、と考えた。

 そしてもうすぐ読書会があるので、ほかのハイスミスの本も読もうと思い、「太陽がいっぱい」でおなじみの『リプリー』や『短編集』は読んだことがあるため、『キャロル』の前に書きあげた長編デビュー作『見知らぬ乗客』を読んでみました。
 しかし、というか、案の定というか、『キャロル』の恋愛模様とはまったく違う、まさにハイスミス印の作品で、主人公たちは偏執、執着、狂気、そして破滅への道を辿るのであった…… 

見知らぬ乗客 (角川文庫)

見知らぬ乗客 (角川文庫)

 

  新進建築家として成功をおさめつつあるガイは、妻ミリアムとの離婚問題に頭を悩ましていた。ミリアムは常に身辺に男をはべらしておきたい女で、ガイと結婚しているあいだも浮気が絶えず、ついにほかの男の子供を妊娠してしまった。また、ガイにもアンという美しく聡明な恋人ができたので、早急に離婚を進めたいが、ミリアムはほかの男の子供を妊娠していながらも、簡単に離婚に承諾する女ではない。ミリアムとの話し合いに向かう電車で、ガイはブルーノーという青年と出会う。ブルーノーは、金持ちの父親への憎悪と母親への執着を聞いてもいないのに勝手に語り始める……


 トリックの解明や犯人探しがメインの推理小説ではなく、物語がどう展開するかにひやひやさせられるサスペンス小説なので、これ以上の筋の説明は極力避けたいと思いますが、まあ一言で言うなら、「よう知らん人に身の上話をするもんじゃない」というのが、一番の教訓として心に残った。


 なにより、きわめて綿密な心理描写に圧倒され、ときには読んでいてうんざりさせられるほどであった。ガイに執着するブルーノの狂気。ハイスミスは後年の『愛しすぎた男』という作品で、”ストーカー”を早くから描いたと評価されているようだが、このブルーノもじゅうぶんストーカーのように感じられた。ガイにしても、読んでいる側からすると、ブルーノなんてとっとと警察に突き出したらいいのにと思えてならないのだが、なぜかそれができず、ずるずるとブルーノに取りこまれていく。ブルーノの狂気以上に、そこが恐ろしくなった。

この男を無視しろ、と彼は思った。彼に近よらぬことだ。警察が彼を捕えるなら、捕えるがいい。彼は狂人だから、へたに動くとこっちが殺されるかもしれない。
「あんたはぼくが好きだから、メトカーフでぼくを密告しなかったんだろう、ガイ。あんたはぼくが好きなんじゃないか?」
「きみなんか好きなもんか」
「だが、ぼくを警察に引き渡す気はないだろう?」
「ない」ガイは唇を動かさずに言った。 

  この二人の感情のせめぎあいが読みごたえがあった。いや、男と男の関係が好きな人なら、もっと食いつけたのかもしれない。正直、私は男にはすぐうんざりしてしまうので、読んでてちょっとイライラしたが。はっきりとした恋愛関係ではなく、まるで同一化を求めるような、男から男への執着は『リプリー』を思い出した。


 この主人公二人に取りつく女、ガイの妻ミリアムと、ブルーノの母親の描かれ方も興味深かった。男なしではいられないだらしない女ミリアムと、夫(ブルーノの父)に愛はないが、ただ金のために離れないブルーノの母親はまったく同じ種類の女なのだが、ブルーノは父親が母親を虐げていると解釈して父親を憎み、そうやって抑圧した母親への憎悪をミリアムに向けるという構造になっているのだ。本来なら母親に向けるべき憎悪を世間一般の女性に向ける、典型的なミソジニーの図式である。
 また、ガイの恋人であるアンは、この物語のなかで唯一の良心と言える、非の打ちどころのない完璧な女性なのだが、それゆえに印象が薄くなってしまい、人間的な面白みが感じられないのも、人の魅力の不思議さだなと感じた。


 ラストは、ガイが唐突な相手に唐突に吐露しだすあたりは少々強引なものを感じたが、わかりやすい勧善懲悪の結末でもなく、完全なバッドエンドでもなく、微妙な塩梅の宙ぶらりんで終わるところもハイスミスらしい。ヒッチコックの映画とは話の展開はかなり違うらしいので(レイモンド・チャンドラーが脚本として参加するはずが頓挫した)、映画の方も見てみたくなりました。