快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

あなたにとってのファンタジーとは? 『翻訳百景』イベント~『ウィーツィ・バット』(フランチェスカ・リア・ブロック 金原瑞人・小川美紀訳)

 さて、少し間が空いてしまいましたが、先週末の続き。
 神奈川近代文学館での、いとうせいこう奥泉光の文芸漫談のあとは、一路東京へ。
 翻訳者の越前敏弥先生主催の『翻訳百景~ファンタジーを徹底的に語ろう~』@表参道に行ってきました。

 金原瑞人さん、三辺律子さん、酒寄進一さんという三人のお話が一度に聞けるので、こりゃおトクだ(関西人的発想)と思って参加したものの、とくにファンタジーには詳しくないので、ついていけるかな、退屈しないだろうか……という一抹の不安もあったのですが、みなさん、一人あたり20分という短い時間で、たいへん濃密なお話をして頂き、退屈どころか、一冊のおもしろい物語を読んだような充実感を得ることができました。


 そもそもファンタジーとはなんぞや、ってとこからよくわかっていないのですが、金原さんのお話によると、ファンタジーはあくまで小説であって、神話でもなければ詩でもない、と。そうか、ギリシア神話のあのいやらしい神様たちは、あくまで神話であり、ファンタジー小説の登場人物ではないのだ。(あ、いやらしい云々は、あくまで私の感想で、講座の内容ではないです)
 小説は "novel"(新しい)という言葉が示すように、文学の世界では新参者であり、18世紀ごろになって、『ロビンソン・クルーソー』『パメラ』などが出てきて、ようやく発展したジャンルであり、そして『不思議の国のアリス』『水の子』といった児童文学や、『フランケンシュタイン』『吸血鬼カーミラ』『ドラキュラ』などの怪奇小説が続々と出てきて、そして1960年代に『指輪物語』により、世界的なファンタジーブームが巻き起こる……という流れを、短い時間にすらすら説明してくれたのが、とにかくファンタスティックでした。私がいまメモを見て思い出しているだけで、20分の三倍以上の時間がかかっています。


 ファンタジーには詳しくないとさっき書いたけど、正直なところ、実は苦手意識もありました。というのも、ファンタジーは、「(素直な)子供向けの明るく楽しくてきらきらした物語」というイメージがあり、「 」内の要素すべて自分には縁がないので。
 けれど、こういったファンタジーへの固定概念も、このファンタジーブームのときにつくられたもののようでした。(あと、私の偏見では、ディズニーの功罪もありそうだ)もともとのファンタジーとは、ポーなどのゴシック小説がルーツにあるように、幻想小説一般を含む幅広いものとのこと。大昔に読んだ『ドグラ・マグラ』などもファンタジーと思って読み返してみようかな。


 三辺さんのお話では、ハリーポッター以後のファンタジーがテーマで、アメリカではやはり『トワイライト』などの、ヤングアダルト向けのファンタジーの人気が根強いとのこと。(それにしても、ほんとアメリカ人ってヴァンパイヤとかゾンビやたら好きですね)しかし、人気が高い分、書き手が軽んじられる面もあると、映画『ヤング≒アダルト』を例にあげられていたのが非常に興味深かった。
 というのも、前にも書きましたが、いま思い出しても胸がぞわっとしておそろしい気分になる(ホラーではない)、他人事とは思えず愛着のある映画なので。いや、私は元プロムクイーンなんかではないのだけれど、この映画を見て、どんなに気持ちが弱っても、むかし自分を好いてくれた男子に会いに行くなんて、絶対に!死んでも!!してはいけないと強く心に決めた……って、ファンタジーから話がそれましたが。


 そして、酒寄さんのドイツ編は、金原さんのふりもあって、まずはミヒャエル・エンデの話からはじまりました。エンデ、私が小学生のときも読書感想文の定番でしたね。酒寄さんによると、ドイツはナチズムという絶対悪の時代を経験しているので、すべてがリセットされた真っ白な状態で戦後の文学がはじまり、エンデの作品のなかにある「虚無」もその感覚にフィットしたのではないか、という分析でした。また、どうして金原さんがそれをふったのかというと、ファンタジーとは基本的には英米のものなので、エンデがどうしてあれだけ世界中で売れたのかということについて意見を聞きたかったとのこと。

 あと、ファンタジーとは「別世界との行き来」であることを説明する際に、ハサミとノリでメビウスの輪を実際に作ってくれたのが楽しかった。酒寄さんは、最後の質問コーナーでも話題になった、まさに「ファンタジーに出てくる賢者」みたいな風貌をされているのですが、「わしは~じゃ」みたいな語りをすることもなく(当たり前か)、すごい気さくそうな方でした。


 さて、あらためてファンタジーとはなんぞやと考えてみると、結局まだはっきりとはわかっていない。現実に起こり得ないことが起きるという定義なら、村上春樹の小説なんかも入りそうだが、やはりファンタジーではない気がする。

 自分にとってのファンタジーを考えると、まずは大島弓子のマンガが頭に浮かぶ。 

ロストハウス (白泉社文庫)

ロストハウス (白泉社文庫)

 

 失われた解放区を求めて、鍵のかけない部屋を探す女の子を描いた、この本の表題作「ロストハウス」もいいけど、この本に収録されている、少女がどんどんと年老いる奇病にかかった「八月に生まれる子供」もファンタジーの傑作だ。(でもこの病気、現実にある病気みたいですね)
 人間の形をした猫と暮らすサバシリーズも、エッセイマンガなのだろうけど、私にはファンタジーのように感じられるし、心を病んだ妻とその夫を描いた『ダリアの帯』もファンタジーだ。

 が、上記の基準によると、「ファンタジーはあくまで小説」とのことなので、小説で考えると、この『ウィーツィ・バット』をあげたい。 

ウィーツィ・バット (ウィーツィ・バットブックス)

ウィーツィ・バット (ウィーツィ・バットブックス)

 

 ハリウッドの街で、学校で一番クールな男の子、ダークとつきあいはじめるウィーツィー。するとダークはさくっと言う。「おれ、ゲイなんだ」と。そしてウィーツィーはランプの精に願いをたくす。

「ダークにダックが、あたしにマイ・シークレット・エージェント・ラヴァー・マンがそれぞれ見つかりますように」

ランプの精、なんとかして私のところに来てくれないものか。
この本の最後、恋人であり、親友であり、仲間である家族たちに囲まれて、ウィーツィーは愛と死について考える。

 ウィーツィーの心は愛でいっぱいだった。いっぱいすぎて、あふれてしまいそうなほど。恐れを抱かない人なんて、だれもいない。でも、愛と病は、どちらも電気みたいなものだとウィーツィは思う。そのふたつはいつも近くにある――見ることも、嗅ぐことも、きくことも、触れることも、味わうこともできないけれど、空気の流れのように、身近にある。そしてあたしたちは、選べる。いつも愛の流れにプラグを差しこむことを選べる。

 ”それからずっと幸せに”――"happily ever after"(原文見ていないので、違っているかもしれませんが)っていうのが、やはり究極のファンタジーですね。起こり得ないという意味からも。