快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

ファンタジーと現実の境界線って? デイヴィッド・アーモンド『肩胛骨は翼のなごり』(山田順子訳) 『火を喰うものたち』(金原瑞人訳)

  さて、先日の『翻訳百景~ファンタジーを徹底的に語ろう~』に引き続き、
デイヴィッド・アーモンドの『肩胛骨は翼のなごり』と『火を喰う者たち』を読んで
ファンタジーとはなんぞや問題について、またまた考えてみました。 

肩胛骨は翼のなごり (創元推理文庫)

肩胛骨は翼のなごり (創元推理文庫)

 

  

火を喰う者たち

火を喰う者たち

 

  どちらも舞台はイギリスの田舎町。主人公の少年「ぼく」と、「ぼく」をあたたかく見守る父さんと母さん。そして、ミナやエイルサといった近所に住む女の子。彼女たちは学校教育からドロップアウトしているものの、学校では得られないすぐれた知性を有していて、「ぼく」の大事な友達になり、かつ導き手ともなる。


 そんな「ぼく」の前に、不思議な生き物があらわれることで物語がはじまる。『肩胛骨は翼のなごり』では、崩れかけのガレージで「彼」を見つける。

ほこりまみれで蜘蛛の巣だらけだし、顔はやせおとろえ、蒼白い。髪や肩にはアオバエの死骸が散らばっている。 

  「彼」はブラウンエールとアスピリンと中華料理の「27番」と「53番」を欲する。と書くと、そのへんにいるただのおっさんのようだが、「彼」の背中には翼があるのだった……(けど、こう書いたら書いたで、キンキキッズの歌みたいですね)


 『火を喰うものたち』で出会うのは身体をはる芸人、というと、今度は出川哲朗とかみたいですがそうではなく、炎を食べる大道芸人であり、また、父さんが戦争に行ったときの古い知りあいであると判明する。つまり、超常現象でもなんでもなく、れっきとした人間である。この物語の背景には、キューバ危機というれっきとした現実が描かれている。 

 

 『肩胛骨は翼のなごり』は、「ぼく」とミナとその不思議な生き物スケリグが空中浮揚する場面に象徴されるように、現実から少し遊離した物語であるが、『火を喰うものたち』は、リアルで鮮烈な、そしてなにより、痛々しい物語である。炎を喰らう大道芸人マクナルティーは、はじめに「ぼく」と母さんの前で頬に串を突き刺す芸を披露する。

串の先端が頬にぐっと刺さる。マクナルティーはまばたきをして、大きく息をつくと、さらに串をおしこんだ。串がするりと頬の中へ入っていく。血が一滴、頬から滴った。…… 串はさらに深く入っていく、たちまちその先端が反対側の頬の内側へ届いた。
串を押し続けると、尖った先は皮膚を突きやぶり、もう一方の頬からも血が滴る。串が両方の頬を貫くと…… 

  って、まともに読めない!って人もいるんじゃないでしょうか。私もそうです。頑張って引用しましたが、自分で読むときは、こんな恐ろしいシーンは飛ばし読みしてしまう。
 マクナルティーの姿だけではなく、労働者階級出身の優等生「ぼく」が、お金持ちの子供たちが通う優秀な学校に入学したものの、下層階級と嘲られ、鞭打ちの体罰を受けるところも痛々しい。先生に「ご両親はこの手紙を読めるのかね?」と聞かれるところも辛い。


 だからといって、『肩胛骨は翼のなごり』は完全なファンタジーで、『火を喰うものたち』は完全な現実を描いたものかというと、そうとも思えない。
 狂気をはらんだ瞳で、炎を食い、鎖で身体を縛り、重い車輪を持ち上げ、ひたすら自分の体を痛めつけるマクナルティーは、やはり現実から遊離している存在だ。

マクナルティーは振りかえり、父さんの目を見つめた。マクナルティーの目に切ない表情が浮かんでいた。まるでぼくたちと一緒にいたい、語りあいたい、杖と袋と商売道具を投げだして、マクナルティーであることをやめてしまいたいと願っているかのようだった。だが、その思いを振り切るかのように、そそくさとそばにあった車輪に向かった。 

 

 そして最後は、解説にもあるように、核戦争一歩手前の世界を、マクナルティーが救ったかのように感じられる。

「大丈夫?」ぼくはいった。
マクナルティーはぼくの手をとった。一瞬、すべての狂気がマクナルティーから消え失せたように思えた。マクナルティーはやさしい目でぼくを見た。「心配することはない」マクナルティーはいった。「おまえを愛してる」 

  あと、デイヴィッド・アーモンドの小説で強く印象に残るのは描写のリアルさで、それは先にも書いた痛々しさと結びついているのだけど、痛い辛いだけではなく、『火を喰うものたち』の最初と最後に出てくる「焦げ目のついた薄皮の下は、甘くてとろりとしている」ライス・プディングもめちゃめちゃ食べたくなるし、なんなら、『肩胛骨は翼のなごり』の残飯の中華料理とブラウンエールも、ほんとうに「甘し糧」のように思えてきました。