快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

私たちに与えられた短い無限の時間 『さよならを待つふたりのために』 ジョン・グリーン (金原瑞人・竹内茜訳)

十六歳でがんで死ぬより最悪なことはこの世でたったひとつ。がんで死ぬ子どもを持つことだ。 

  相次ぐ有名人のがん闘病が大きなニュースになり、もし自分や、自分の身近な人が病気になったら……と、だれでも考えてみたりするかと思いますが、この『さよならを待つふたりのために』は、そんな人たち、つまりはすべての人におすすめします。 

さよならを待つふたりのために (STAMP BOOKS)

さよならを待つふたりのために (STAMP BOOKS)

 

  主人公のヘイゼルは、「死ぬほど気がめいる」サポートグループでこう自己紹介する。
「ヘイゼル、十六歳。はじめは甲状腺がんだったけど、今は立派な腫瘍が肺に転移して居座り続けている。」
 そこで十七歳のオーガスタスと出会う。肺の腫瘍のため、常に酸素ボンベが手放せないヘイゼルと、骨肉腫で片足を失ったオーガスタスの物語がはじまる。


 病気を題材にした本なんて読みたくない、という人も少なからずいるのではないでしょうか。私もそうでした。まず、確実に気分が暗くなる。憂鬱になる。くわえて、病人の前向きなポジティヴさや周囲の善意が本からあふれていたりすると、なんだかいたたまれない気分になる。と思っていたら、読書家のヘイゼルが、大好きな『至高の痛み』という本について語るところに、同じ気持ちがはっきりと描かれていておどろいた。

これは「がん本」じゃない。がん本はうんざりするだけ。がん本だと、がん患者たちが闘病に必要なお金を集めるためにチャリティ活動をはじめる。で、がん患者はチャリティ活動を通じて人の思いやりに気づき、愛されていることを知り、自分はほかのがん患者に遺産を残すことができると思って元気になる。でも『至高』だと、アンナはチャリティをするようながん患者はちょっとナルシストだと考えている。 

 そう、チャリティ活動とか、「人の思いやり」や「愛されていること」に気づくとかがほんと苦手という人にこそ、この『さよならを待つふたりのために』をぜひ読んでもらいたい。

 この小説は闘病ものの定型におさまらず、お涙頂戴の感傷におぼれることがまったくない。ヘイゼルはいつも冷静に周囲の人々、すぐに泣くパパ(ヘイゼルやママより一番泣き虫なんだ、これが)や「フルタイムで私のまわりをうろうろする仕事がある」ママを観察している。冒頭の引用にもそれがよくあらわれている。自分の病状に対しても動転することはなく、ERに運びこまれ、痛みの段階を10段階で聞かれたときは、どれだけ苦しくとも10は取っておかないと、と考えて、9と答える。私なら10からはじめて、勝手に11,12と上げていきそうだ。悲劇のヒロインになることもなく、また、リアリティに欠けるいい子ちゃんでもない、ヘイゼルのキャラクターがこの小説の一番の魅力だと思う。


 ストーリーは、この『至高の痛み』の登場人物たちのその後が知りたくてたまらないヘイゼルとオーガスタスが、秘書を通じて作者のヴァン・ホーテンと連絡をとることに成功し、ふたりはアムステルダムに向かう……と展開するのだが、このヴァン・ホーテンとの顛末も、「がん本」にありがちな感動的な方向には進まない。酒びたりの元作家ヴァン・ホーテンは、「病気の子どもはみんな同じだ」「同情はいらないといいながら、同情にすがって生きている」と言ってのけるような男だったのだ。

 けれど、このアムステルダムでのふたりは、ほんとうにきらきらと輝いている。がんの子供だちと同じように過酷な少女時代を送った、アンネ・フランクの家でのシーンは、主人公ふたりと、その背景にあるアンネ・フランクから、救いのない状況での救いのようなものをたしかに感じられた。


 それにしても、強く印象に残るのは、読書家のヘイゼルがさまざまな詩を暗唱するところだ。アムステルダムに向かう飛行機のなかで、T・S・エリオットの『J・アルフレッド・プルフロックのラブソング』を暗唱するシーンが素敵だった。さまざまなイメージを喚起する、エリオットの断片的な言葉がこんなにもはまる空間があるとは思わなかった。作者ジョン・グリーンのサイトのQ&Aによると、この詩を引用した理由のひとつは、「多くのティーンエイジャーが暗唱しているから」とのことですが、ほんとにそうなの?? 
 
 けど、このQ&Aもすごい充実している。ジョン・グリーンの好きな小説は『ギャツビー』とのことで、この『さよならを待つふたりのために』でも、緑を希望の色として使っているとか、なるほど!と思った。(ヘイゼルの瞳の色も緑である)一番最後の言葉は『ユリシーズ』が念頭にあったとかも。

 ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの『あかい ておしぐるま』の使い方にも感服しました。いままでも、極限まで言葉がそぎ落とされたこの詩のことを、よくわからんけどすごいなとは感じていたけど、はじめてこの詩の意味が自分の内面にまで伝わったような気がした。詩を読むのは好きだけど創作はしない、と最初に言っていたヘイゼルが、この続きを作るところもうまい構成だ。


 ここまででも結構長くなってしまったけれど、この小説のもうひとつの大きな魅力は、言うまでもなくオーガスタスのキャラクタ―だ。いつか太陽も宇宙も消え去るのだから、自分の存在が忘れ去られるのも当然と語るヘイゼルと違い、オーガスタスは自分の生きた痕跡を残したいと考えている。このオーガスタスの強い思いが、どこかで固まったままだったヘイゼルの心を動かし、そして物語を動かしていく。

たいていの人が世界に自分がいた証を残そうとやっきになる。自分の痕跡を後世に残そうとする。自分の死後も、自分を生かそうとする。だれだって覚えていてほしいんだ。おれだってそう。おれを一番悩ませたのはまさにそれだった。記憶に残らない犠牲者のひとりになること。はるか昔の、なんの意味もない病気との戦いで死ぬこと。

自分がいた証を残したい。 

  主人公のふたりだけではなく、先にも書いたヘイゼルのパパとママ、そして触れられなかったが、珍しい目のがんのせいで盲目になるオーガスタスの親友、アイザックのキャラクターもとてもいい。(ジョン・グリーンによると、最初はアイザックの視点で語ることを考えていたらしい)卵のシーン、痛快でした。


 映画『きっと、星のせいじゃない』も見てみないと。『(500)日のサマー』と同じスタッフなので公開時も興味はあったけれど、まさに先程書いたように、病気の子供の話か。。と劇場に足を運ぶ気になれなかったのですが。小説と違い、タイトルは原題と同じ……いや、よく見たら逆やん!というのも、どういう含みや脚色があるのか気になります。