快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

邪悪な子供その1 『チューリップ・タッチ』 (アン・ファイン 灰島かり訳)

「ねえ、あたしと友だちにならない?」
 あたしは、なんてバカなことを言ったのだろう。 

 

チューリップ・タッチ

チューリップ・タッチ

 

 ちょうどこの本を読みおえたところに、灰島かりさんの訃報を知りました。


 主人公の「あたし」ナタリーは、ホテルの雇われマネージャーのパパが新しいホテル(パレス・ホテル)に勤務するのに伴って、ママとまだ幼い弟と引っ越しをする。そして、子猫を抱いてボサボサの髪の毛をした、同じ歳のチューリップという女の子と出会う。「新しい学校ではまだ友だちがいなかったから、何かバカみたいなことを言って笑い合うチャンスをのがしたくなかったのだ」と冒頭の引用のように話しかける。


 しかし、「チューリップはどのグループにも入れてもらえない、仲間はずれ」であり、そもそも学校に来ないことも多く、そのうえパパはチューリップの家に行くことを禁ずる。「あたし」はチューリップの家の詳しい事情を知らないけれど、父親が暴力をふるっているらしいことと、母親がいつも脅えた顔をしているのはわかる。

 ほんとうならチューリップはかわいそうな子として同情を集め、庇護してもらうべき存在なのだけど、周囲の人間の関わりたくないという思いに加え、なにより、チューリップ自身の邪悪さにより、みんなから見放されている。しかし、「あたし」は、次々と周囲の人間にいたずら、いや、無邪気ないたずらなどではなく、悪意のあるいたずらを仕掛けるチューリップの魅力に取りつかれてしまう。


 だれでも子供時代を振り返ると、この物語の要素にいくつもあてはまる思い出があるのではないでしょうか。裕福な私立の学校でもないかぎり、チューリップのような家庭環境の子は学校に一人、あるいは数人はいたのではないかと思うし、「子供は無邪気で愛らしい存在」なんて思いこみを吹き飛ばすくらい、悪意に満ちた子供もいる。(チューリップのような家庭環境でなく、一見まったく問題なさそうな家庭の子のなかにもいる)
 そして、女の子は、一人の同性の友達と息苦しくなるほどいつもべったりと一緒にいて、「二人だけの世界」を築きあげ、親や学校の先生、ほかのクラスメイトを遠ざけてしまうことも珍しくない。

訳者あとがきで

ある子にひどくひきつけられ、その子の奴隷のようになってしまったら? このままつきあいを続けたら、自分はおかしくなってしまうと感じたら? 

  とあるように、常に大人の監視下にある子供にとって、「悪」というのはきわめて魅力的で、周囲の世界や大人にたいしての悪意を堂々と発散する仲間に強くひきつけられるものだと思う。次々に新しい餌食を見つけるいじめっ子に取り巻きが絶えないのも、「あたし」がチューリップから離れられないのも同じ理由で、そのうちに、その悪意の主から見放されたり、あるいは自分が悪意の対象になるのを恐れ、はたから見るとまるで奴隷のようになっていく。


 たしかに、この物語で、チューリップが思いつくいたずらはなかなか魅力的だ。道やバスで大人のそばによって、「あれ? なんかこの人くさい…」ってふりをするとか、かわいそうな困った子供のふりをして、他人の家にあがりこんでいたずらをするとか。


 けれど、成長するにつれ、「あたし」とチューリップのあいだに距離が生まれる。しかし、距離が生まれることによって、いっそう「あたし」とチューリップの関係がどういうものであったかが浮き彫りになっていく。主人と奴隷の共犯関係というようなものが、最後にあきらかになる。

チューリップのめんどうをみてあげなさい。(でも、彼女にけしかけられて、悪いことをしたりしないようにね)。
チューリップに親切にしてあげなさい(でも、彼女の餌食にならないよう気をつけてね)。
魔女と遊んでくるといい(でも、魔法をかけられないよう注意してね)。
そう、そうやって、いつまでもいい気になっているといい。 

  あとがきによると、この本がイギリスで出版されたあと、議論がわきおこったらしい。「チューリップはこれからどうなるのか? 救いがあるのだろうか?」と。
 しかし、救いがあってもなくても生きていくしかないわけで、訳者灰島かりさんの「ナタリーもチューリップも、そしてわたしたちも、今いる場所はとちゅう。とちゅうを大切に生きていけるといいですね」というのは、そういうことなんだと思う。


 以前、娘の鈴木涼美さんの本を取りあげたとき、母親との真摯な対話が興味深いので(あの本を読んだだけでは、母親が翻訳家だとはわからなかったのですが)、この先も読んでみたいと書いたけれど……