快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

愛がつまった罐詰のような一冊 『孤独な夜のココア』 田辺聖子

あの恋は、私の心の中では、愛の罐詰にされていた。
しかし、それは、空気の罐詰といっしょで、あけてみても、何も見えず、何の音もしないものかもしれなかった。ただ何かが詰っている。そしてそれは罐詰になっている、ということしか、わからないのだった。 

  いま売ってる『Frau』の読書特集を立ち読みして、カズレーザーが紹介していた『おとうさんがいっぱい』と『幼年期の終わり』が非常に興味深かった。 

おとうさんがいっぱい (新・名作の愛蔵版)

おとうさんがいっぱい (新・名作の愛蔵版)

 

 

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

 

 『おとうさんがいっぱい』は、赤を背景にした(だから紹介したのだろうか)表紙の佐々木マキによるシュールなイラストのインパクトが強いが、中身も負けず劣らずシュールらしく、アマゾンのレビューを読んだところ、子どものトラウマになりそうな短編集らしい。めちゃ読みたい。

幼年期の終り』は、アーサー・C・クラークの古典SFで、宇宙人がやって来て、人間はどこから来てどこへ行くのかということが明かされるらしい。(アマゾンなどのレビューからの推測。違うかな)


 で、その読書特集で、ちょうどいま読んでいた田辺聖子の『孤独な夜のココア』を加藤千恵が紹介していた。関西人のせいか、田辺聖子作品は折に触れて読んでしまうけれど、冒頭の引用がまるで作品世界の象徴のように、恋や愛や切なさや不安が、なにげない文章のなかで罐詰にされている。 

孤独な夜のココア (新潮文庫)

孤独な夜のココア (新潮文庫)

 

 恋というものは、生まれる前がいちばんすばらしいのかもしれない。

 いや、この短編集のなかには、くっついたり別れたりといった恋や愛の話もあるけれど、冒頭に引用した「愛の罐詰」をはじめ、恋にも愛にも至っていない話も多く、そんななんでもない物語をさらっと綴っているのに、過去の思い出が呼び起こされるような、切ない気分にさせられた。 


 「ちさという女」という短編では、「私」の職場の先輩「ちさ」の描写の鋭さに感服した。三十二のハイミスで(昔の話なので、いまの感覚だとプラス5~10くらいの年齢ですかね)「醜女としかいいよう」なく、「がらがら声でモノをいい」、いまの女の子がまず使わない古い落語にあるような関西弁で話す……こんな人いるなあって。もちろん、このわざとらしく古くさい関西弁は、彼女なりの処世術なのであり、「私」の思うに、

ちさはちさなりに、自分の年齢化粧をしているのだろう、と考えた。私の思うのに、二十六、七からさきの女は、もうあるがままの自分ではやっていけなくなる。
 こういう女になろうと、自分に似合わしく設計して、少しずつ、それに近づくように矯めたり修練したりしてゆく。それを、私はひそかに、
(年齢化粧)
とよんでいた。 

  そして、この仕事熱心で親切ではあるが、下品で押しつけがましく、老後とそのためのお金のことで頭がいっぱいの「ちさ」が、意外な一面を見せることになるくだりがおもしろい。

 解説で綿矢りさが一番好きだと書いている「ひなげしの家」は、姪である「私」の目を通して、叔母さんとその恋人の生活を描いていて、世間の常識から外れて暮らす中年男女の深い情愛が胸に残る。

わたしは生涯のうち、いくつになってもいいから、双方から愛し愛される恋にめぐりあいたいと思っている。片思いの恋や、条件つきの結婚でなく。そんな恋は、もしかしたら叔母さんみたいに、四十や五十になってから、やっと訪れるものかもしれない。

  ほんまにそうなんかな???とつい思ってしまうが、いや、そうなのだと信じたい。
 そしてまた、たとえそうでなくても、いくつかの短編で描かれているように、恋が石に変わっても、愛が罐詰になって封されてしまっても、

やれやれ、また世の中へ出ていけるのだ。
世の中にはいい男もいっぱい、いるだろう。

 と、女はいくらでも前を向いて歩いていけるのもまた事実なのだから。