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快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

国家を股にかけない落ちこぼれスパイの奮闘記 『窓際のスパイ』 (ミック・ヘロン 田村義進訳)

「祖父が枕もとではじめて読んでくれた本は『少年キム』だ」シドはその本を知っているようなので、説明はしなかった。「そのあとはコンラッドとか、グレアム・グリーンとか、サマセット・モームとか」
「『アシェンデン』ね」
「そう、十二歳の誕生日には、ル・カレの著作集を買ってくれた。そのときの祖父の言葉はいまでも覚えてる」
”ここに書かれているのは作り話だ。でも、それは嘘っぱちだという意味じゃない” 

 とあるように、スパイと文学とのかかわりはかなり深いようだ。

 キプリングの『少年キム』やコンラッドの『密偵』など、スパイが登場する文学作品も多く、また、グレアム・グリーンサマセット・モームジョン・ル・カレなど、スパイとしての経験を小説に生かす作家も少なくない。

 この『窓際のスパイ』は、本場イギリスが生んだスパイ小説の新機軸だと言える。 

窓際のスパイ (ハヤカワ文庫NV)

窓際のスパイ (ハヤカワ文庫NV)

 

 いったいどこが新機軸なのかというと、タイトルから想像できるように、この小説の登場人物たちは、国家を股にかけて暗躍したり、テロリストと戦ったりするようなスパイのイメージとはまったくかけ離れている。
 
 夢や野望を抱いて保安局(MI5)に入ったものの、信じられないようなミスを犯したり(機密ファイルを電車に置き忘れるとか)、アルコール依存症になったり、ただ単純にみんなから嫌われたりした結果、「泥沼の家」という”窓際”に追いやられて、来る日も来る日も書類の整理やデータ入力といった雑務や、ときにはゴミあさりまでさせられる落ちこぼれスパイたちだ。


 主人公リヴァーは、上記の引用でも示唆されているように、「伝説のスパイ」である祖父によって、子供のころからスパイの英才教育を受け、意気揚々とMI5の一員になったにもかかわらず、早々にテロリストの「捕獲」に失敗し、通勤ラッシュ時のキングス・クロス駅を大混乱に陥れ、「泥沼の家」送りとなる。そんなリヴァーを待ち受けていたのは、太鼓腹であたり構わず放屁する「泥沼の家」のボス、ジャクソン・ラムであった……(ちなみに、ジャクソン・ラムは「盛りを過ぎたティモシー・スポールによく似ている」と描写されている。ティモシー・スポールといっても、ピンとこないひとも多いでしょうが(私も含め)、こんな感じのよう)

 冒頭でえらそうに書いたけれど、実のところ、スパイ小説とか本格サスペンスとかぜんぜん詳しくないのですが、そんな私が読んでもすごくおもしろかった。いや、詳しくないというより、本格的なハードボイルドやアクション小説などは苦手といってもいいのですが、この小説は人間ドラマという面が強く、セリフはもちろん、地の文もユーモアとペーソスにあふれていて、一気に読んでしまった。英国風のユーモアというか、皮肉な笑いを好む人にはオススメです。皮肉な笑いといっても、頭脳型の笑いばかりではなくドタバタ要素も多い。(スラップスティックも、モンティ・パイソンに代表される英国流ユーモアですね)

 日本の作家でいうと、ユーモアのテイストや人間の描き方が奥田英朗に近い気がした。ジャクソン・ラムが伊良部一郎に似ているかというと……体型は似ているか。あと、この「泥沼の家」が好評だったらしく、二作目(『死んだライオン』)、三作目と続く人気シリーズになっているところも共通項といえる。


 ストーリー展開としては、パキスタン系イギリス人の少年が極右グループによって人質に取られるという事件が起こり、「泥沼の家」のメンバーが一丸となって捜査にあたるのだが、冷戦時代とは違い、またこの小説の性格からか、「国家を股にかけた」アクションがあるわけではないので、本格スパイ小説を好む向きには少々不満かもしれない。でも私はじゅうぶん楽しめました。


 あと、この作品と二作目『死んだライオン』を読んでつくづく感じたのは、女が強い!ということだった。女性陣のキャラがたってるな、と。こういう作品に出てくる女性って、ふつうはどうしても”ヒロイン”感が出るように思うけど、この作品の女性陣はヒロインからほど遠い、”鉄の女”ぞろいだ。MI5のトップもナンバー・ツーも女だし。訳者解説によると、現実でもMI5のトップが女性だったことがあるらしく、それがモデルになっているのかもしれない。さすがスパイのみならず、”鉄の女”についても本場のイギリス。


 それにしても、MI5MI6のオフィシャルサイトを見てみると、なかなか興味深い。仕事内容について丁寧に説明されていたり、スパイあるあるを逆手にとった(?)クイズ形式になっていたりする。Careersのところを見ると、意外にもオープンに募集をしているようだ。秘密裡にスカウトしたり、ときにはクロロフォルムを嗅がせて仲間に引き入れるなどではないようだった。(そりゃそうか)