快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

破綻の予兆に満ちた世界から生じるノスタルジー 『歩道橋の魔術師』 (呉明益 天野健太郎訳)

猫はまるで白い影のように、机の上から唐さんを見ていた。唐さんはギターのピックみたいな平らなチャコペンで、生地に線を描いていた。唐さんはときどき手を休め、猫を見た。猫もまた唐さんを見た。なんだか眼差しだけで会話をしているようだった。唐さんがふいに、猫に訊いた。「どう思う?」ドキンと鼓動が突き上げた。全身がこわばる。だって、猫の顔が本当にその質問に答えようとしていたから。
  猫は本当に答えた。(『唐さんの仕立屋』)


 猫にかかりきりで、じっくり本を読めない今日この頃ですが、この『歩道橋の魔術師』は短編なので、なんとか読み通せた。 

歩道橋の魔術師 (エクス・リブリス)

歩道橋の魔術師 (エクス・リブリス)

 

  1980年代の台北、いまはもう解体された中華商場を舞台に、「夢と現実の境界線」(「唐さんの仕立屋』)のような物語が繰り広げられる。

 どことなく懐かしい……という印象のあるこの短編集だが、しかしよく考えると、昭和50年代生まれで、郊外の団地育ちの私にとって、こういった風景が実際の記憶に残っているわけではない。なのにどうして、懐かしいという印象があるのか考えると、家族や近所の人たちとの距離感や、年長の相手に感じた淡い恋心などが、幼いころに感じたものと呼応するのかもしれない。

 といっても、ノスタルジーに満ちたほのぼの短編集では決してなく、愛と性、そして死が密接に絡みあっている。淡い恋心を抱いても、相手の女は去っていく。去っていった女を追う男は、自らもそっと姿を消すか、あるいは女を殺して自分も死ぬ。

ある朝、目が覚めたら、鳥の鳴き声が聞こえなくて、不吉な予感がした。わたしは屋根裏部屋から駆け下りて、鳥かごを見た。すると、クロちゃんの頭と首が消えて、下半身だけになっていた。シロちゃんは脚と体が亡くなり、頭だけになっていた。半分だけ残されたブンチョウは、どちらもきれいに空っぽだった。なかは内臓も血も残ってなくて、まるでゴムの指人形みたいだった。(『鳥を飼う』) 

 鳥は猫に殺され、唐さんがあれほど可愛がっていた猫は姿を消す。

げっそりと痩せ、もはやそのスーツも着られないであろう唐さんが作業机の前に座っていた。憔悴して、もはや正気の顔じゃなかった。ハサミで音楽を奏でる、あの自信に満ちた姿は、まるで四十年前の夏の思い出と消えてしまったようだ。作業机には、裁ちばさみがぽつんを置かれ、それを見る猫はいなかった。(『唐さんの仕立屋』)  

と、ここまで書いて気づいたが、大人になると、明日も今日と同じ平穏な一日が来るものだとなんとなく思いこんでいるが、子供のころはそうではなかった。世界はもっと残酷で、破綻の予兆で満ちていたし、愛するものはいつ失なわれるかわからず、いつもおびえていた。親が病気になったらどうしようとか、そんなことで夜も眠れなくなった。その子供のころの不安の感覚が、この短編集の世界と感応して、ノスタルジーがうまれているようにも思える。


 しかし、韓国の『カステラ』といい、アジアの現代小説もすごい豊かだ。個人的にはどちらかというと、『カステラ』のシュールな乾いたユーモアの方が好みかなという気もするけど、アジアの小説ももっといろいろ読んでみないと。 

カステラ

カステラ