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快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

”真実をそっくり語れ、だが斜めから語れ” 『誰でもない彼の秘密』(マイケラ・マッコール 小林浩子訳)

翻訳本 ミステリー

わたしはだれでもない人! あなたはだれ?
あなたもだれでもない人なの?

 I’m Nobody! Who are you? という、エミリー・ディキンソンの詩のなかで
もっとも有名なこのフレーズからはじまるこの物語。  

誰でもない彼の秘密

誰でもない彼の秘密

 

 アメリカの小さな町アマストに住む、15歳の利発な少女エミリーは、「名のるほどの者じゃないよ」と語るミスター・ノーバディと出会う。

 ミスター・ノーバディはアマストの住人ではないが、「身内のゴタゴタ」を片付けるためにこの町にやってきたと語る。「不愉快な問題を解決しないといけないんだ」とエミリーに話す。(なんで初対面のエミリーにいきなりそんなこと言うんだ、という気はいなめないが)ミスター・ノーバディに魅かれたエミリーは、町を案内する約束をするが、数日後、変わり果てた姿となったミスター・ノーバディが、家の敷地内で発見されるのだった…


 と、エミリー・ディキンソンを主役にした、思ってたより本格的な推理小説でした。
そしてもちろん、物語のあちこちにうまくエミリーの詩が埋めこまれ、サスペンスに加え、詩的な雰囲気も醸し出している。


 が、この物語で一番私の印象に残った、というか私に限らずだれでも感じると思うが、なにより一番熱心に描かれているのは、家事の苦痛っぷりだった。

 ディキンソン一家は、父親が弁護士で町の有力者でありながら、ピューリタン精神にのっとり、贅沢をせず質素な暮らしぶりで、「自分たちでできることは自分たちでする」という方針のもと、お手伝いを雇っていないため、母親とエミリー、そして妹のヴィニーはとにかく家事に追われている。
 もちろん、家事というのは、ただ重労働というだけではなく、古い価値観の象徴でもあり、エミリーは「女は本を読むな」(いらん思想を吹きこまれるから)という考えを持つ両親に強く反発している。

その(母の)背中に向かって、エミリーは話しかけた。「わたしは人生でなにかを成し遂げたいの。ときどき家を離れることもあるだろうけど、約束するわ、かならず帰ってくる……自分をまた見つけるために」
「冒険はありえません」母はぴしゃりと言った。「あなたは結婚して、自分の子供を持って、美しい家を維持するんです」
「わたしがほかのことをやりたかったらどうするの?」反抗的な声できいた。「夫も子供も必要じゃないようなことを」 

 この物語で描かれているエミリーは、危険をかえりみず探偵活動を行ったり、こんなふうに両親に逆らって、自分のやりたいことを主張したりと、かなり活発な少女だ。家にひきこもってほとんど外出せず、近所の人すらその姿を目にすることはめったになかったという、実際のエミリー・ディキンソンとはかなりイメージが異なる。


 しかし、この時代にめずらしく妻にも母にもならず、のちにアメリカ最大の詩人と呼ばれるほどの詩をひっそりと書きためていた実際のエミリーも、物語のエミリーと同様に、きっと強い意志や信念を持っていたのだろう。


 あと、妹のヴィニーがとってもいい子だった。ときに暴走する姉エミリーを陰に日向にフォローし、機転をきかして捜査を手伝う。エミリーが活発過ぎて、ちょっとうざい感もあるだけに、いっそう魅力的に感じる。たしか現実でも、エミリーの詩を発掘して世に出したのは妹のはず。素敵な姉妹愛だ。


 ミステリーとしては、ものすごい二転三転するとか、凝った仕掛けがあるわけではないが、決して甘い話ではない。初対面のエミリーとミスター・ノーバディがハチについて話をすることも象徴的だが、「毒」がこの物語のキーワードになっている。そう考えると、この物語全体が、「毒」を含み、「死」の影を描き続けたエミリーの詩をあらわしているとも言える。

”真実をそっくり語れ、だが斜めから語れ”

Tell all the Truth but tell it slant ――この物語も、家にひきこもって詩を書き続けたということばかりクローズアップされる、エミリー・ディキンソンのまた違った一面を、斜めからうまく切り取ったものといえるのではないでしょうか。