快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

ただの「ええ話」ではなかったO・ヘンリー 『最後のひと葉』(小川高義訳)『1ドルの価値/賢者の贈り物』(芹澤恵訳)

 さて、先日の『月と六ペンス』に続いて、今度はO・ヘンリーの『最後の一葉(ひと葉)』をまた複数の訳で読んでみた。

 

最後のひと葉―O・ヘンリー傑作選II―(新潮文庫)

最後のひと葉―O・ヘンリー傑作選II―(新潮文庫)

 

 

1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編 (光文社古典新訳文庫)

1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編 (光文社古典新訳文庫)

 

 『最後の一葉(ひと葉)』は、ストーリーをご存じの方は多いでしょうが、私も学生の頃に教科書かなにかで読まされて、なんか病気になった女の子が、窓の外で葉を落とす木を見て、「最後の一葉も落ちたら、自分も死んでしまうんだわ……」とかなんとか辛気臭いことを言う話だとは覚えていました。

 
 そこで今回あらためてちゃんと読んでみると、この物語は、現在でも芸術家が集まる場所として知られるニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジを舞台としており、病気のジョンジーと看病するスーはどちらも画家志望で、共同でアトリエを構えているという設定である。
 
 で、新潮文庫小川高義さんの解説を読むと、

 

 「最後のひと葉」では、女性同士の恋人関係として構想されている。このことには訳しながら薄々感づいて、訳し終えるまでには確信していた。 

  

 と書かれていて、おどろいた。そうなんだろうか?? 考えたら、たしかにニューヨークのヴィレッジは芸術家のたまり場であるが、同時にさまざまなセクシュアリティの人たちが集まるところとしても有名だ。O・ヘンリーは、当時を生きる働く女性(つまり当時では最先端の女性)をいきいきと描いたことに定評があるらしいが、なら、当時の恋愛観にとらわれない女性に対しても偏見などなかったのだろう。そもそも、この時代に、画家を目指してニューヨークで女性同士で暮らしているなんて、恋愛事情がどうあれ、じゅうぶんはみだした存在だったろう。
 
 で、小川さんは続けて「訳者の妄想による新説ではない」とし、そのあとの医者とのやりとりを根拠としている。医者は、いくら治療しようとも、ジョンジー本人が生きようと思わなければどうにもならないと言う。そしてジョンジーの望みはなにかとスーに聞く。 

「ああ、そう言えば――いつかはナポリ湾の絵を描きたいと」
「絵を?――つまらん。もうちょっと気になってならないような――たとえば、男とか」
「男?」スーは口琴をくわえて弾いたような声を出した。「男なんてものは――あ、いえ、先生、そういうことはありません」 

  それにしても、絵を描きたいというジョンジーの望みを一蹴して、男について詮索する医者は、女は仕事や夢やと寝言を言ってないで男とつがうべし、という考えを表明していて(それがこの時代の常識だったんでしょうが、、、ていうか、いまでも?)、ゲスいな~と思わずにはいられないが、しかし、先の小川さんの解説を念頭に入れて読むと、たしかに意味深な箇所だ。原文では

"She - she wanted to paint the Bay of Naples some day." said Sue.
"Paint? - bosh! Has she anything on her mind worth thinking twice - a man for instance?"
"A man?" said Sue, with a jew's-harp twang in her voice. "Is a man worth - but, no, doctor; there is nothing of the kind."

 "Is a man worth - but" と、男にそんな価値なんてない、くらいのことを示唆している。光文社古典新訳の芹澤恵さんの訳では 

 「恋人?」口琴を弾いたような、尻上がりの裏返った声でスウは言った。「恋人なんかにそれほどの――いいえ、先生、あの子にはそういうものはないと思います」

  と、この頃は女性にとって "man" イコール恋人だったろうから、やはり恋人にそれほどの(価値はない)と書いてある。

  で、実際ジョンジーの命を救うのは、男や恋人ではなく、芸術への執念なのである。といっても、スーやジョンジーの執念ではなく、酒びたりのベアマン老人の執念である。雪のなか葉っぱの絵を描いて、自らの命を落とすベアマン老人が、いつかは傑作をものしてやるぞという酒びたりの元画家であるというのは忘れていた。いつか傑作をという執念が、命と引きかえに発揮され、そしてジョンジーけでなく、ベアマン老人自身も救われたのだろう。


 なぜベアマン老人が自らの命を投げ出してまでも、絵を描いてスーを救おうと思ったのかというと、大都会ニューヨークで絵を描いて生計をたてようという、無謀なふたりへの激励でもあったろうし、芸術とはこういうものだというのを見せつけてやりたかったのかもしれない。芸術とは命を賭けるに値するものだと。いやしくも芸術で生きていこうとするなら、傑作をものしていないのに、軽々しく死ぬなんて言ってはいけないと。

 ちなみに、作者O・ヘンリーの生涯を見てみると、銀行で働きながら文筆活動を行うが、なんと銀行の金の横領容疑で刑務所に入れられ、刑務所の中からも執筆を続け、釈放されたあとは文筆業一本で生活するが、酒びたりになり四十七歳で死亡、とベアマン老人以上にハードな人生のようだ。
 O・ヘンリーの小説というと、とにかく「ええ話」のような印象があったけど、いま読み直すと、さまざまな陰影に富んでいるのが感じられました。