快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

中心のない機械になれ 『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』栗原康

まわりから、女はこうあるべきだ、おとなしくしろとかいわれていると、ほんとうはちがうとおもっていても、ついついそうふるまってしまう。しかも、それができてほめられると、なんだかうれしくなってやっぱりまたしたがってしまう。 

まわりにほめられるようなことだけしているうちに、自分には殻がかぶせられてしまった。 

   以前、『はたらかないで、たらふく食べたい』を紹介した栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』をようやく読んだ。 

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

 

  伊藤野枝というと、無理やりに結婚させられた故郷の夫から脱出して、女学校時代の教師であったダダイスト辻潤のもとに転がりこんだかと思うと、次はアナーキスト大杉栄と駆け落ちするが、自由恋愛を標榜する大杉には、すでに妻のみならず愛人の神近市子もいて、この三角関係は神近市子が大杉栄を刺すという日陰茶屋事件となり、最終的に野枝が勝利して、めでたく大杉のパートナーとなるが、関東大震災後の甘粕事件により官兵たちに虐殺されてしまう……

 という波瀾万丈の恋愛の顛末はもう有名な話なので、とくに新しいおどろきなどはなかったが(この顛末について詳しく知りたい人は、中森明夫の『アナーキー・イン・ザ・JP』を読んでもいいかも)この本で一番印象深かったのは、女をめぐる状況が、この野枝の時代と、いま私たちの生きている時代とほとんど変わっていないような気がしたことだった。 

アナーキー・イン・ザ・JP (新潮文庫)

アナーキー・イン・ザ・JP (新潮文庫)

 

 伊藤野枝は、小学校時代に面倒をよくみてくれた担任の女性教師が池に身を投げて自殺したときに、それまでの手紙のやりとりをもとに、自殺した先生になりきって、当時の社会で女として生きる苦しみを『遺書の一部より』という文章に綴った。冒頭の引用は、野枝の文章ではなく、それを解説する栗原さんの文章だけど、女はこうあるべきという枷にはめられ、追いつめられていく苦しみがよく伝わってくる。

 また、のちに大杉と野枝は労働運動に関わるが、そこでも野枝は印刷工場で働く女工さんの話を聞いて、その苦境に深く共鳴する。「女は、はたらきすぎだと」。(この引用も栗原さんの解説ですが)

女工さんたちは、朝から晩まで単純な肉体労働をさせられ、しかし男の補助作業と見なされているので給料は安く、だが、抗議の声をあげるでもなく、希望を結婚に託してしまう。――

つらければつらいほど、結婚を意識して、いい旦那をみつけよう、そうすればぜったいにしあわせになれるとおもいこんでしまう。夢想だ。

 しかし、そんな女工さんたちの夢がかなって結婚すると、よけいに忙しくなる。「二重の労働をしいられるのだ」。

 家では家事と育児をこなし、夫の収入だけでは足りないから、外に出て、またはたらかなくてはいけない。「女は奴隷なんだからタダではたらくのがあたりまえ。工場ではちょびっとでも賃金が出るんだから、おまえらありがたくおもえと。」
 いまの女の状況とどこがちがうのだろうか?  と思ってしまった。

 女が、いやそして男も、自由に生きるためにはどうしたらいいのだろうか? 

 野枝は結婚制度や家族制度が、自由を阻む「奴隷制」のもととして考えていた。

愛しあって夢中になっているときには、お互いにできるだけ相手の越権を許してよろこんでいます。けれども、次第にそれが許せなくなってきて、結婚生活が暗くなってきます。もしも大して暗くならないならば大抵の場合に、その一方のどっちかが自分の生活を失ってしまっているのですね。そしてその歩の悪い役回りをつとめるのは女なんです。

そして、理想の男女関係、結婚制度や家庭にとらわれない男女のありかたとして、

私は、親密な男女間をつなぐ第一のものが、決して『性の差別』でなくて、人と人との間に生ずる最も深い感激をもった『フレンドシップ』だということを固く信じるようになりました。

 伊藤野枝というと、自由恋愛を信じて奔放に生きたという印象が強いが、男女間については、意外なくらい冷静な意見を述べている。恋愛感情は消えるものなので、男女の仲に一番大切なのは『フレンドシップ』だと。『フレンドシップ』があり、互いに話ををすることがおもしろく、尊敬できる関係であれば、一時の情熱が覚めたあとでも、仲良く暮らすことが可能である、と。辻潤との関係は『フレンドシップ』がなかったのだろうか。

 『フレンドシップ』とは、主従関係ではもちろんなく、どちらか一方が取りこまれる「同化」でもない関係。野枝はこれをふたつの機械に例えている。機械といっても、時代が時代なのでコンピューターなどではもちろんなく、ミシンのようにふたつの歯車がかみあって動く機械。中心のない機械になれば、愛の力をめいっぱい拡充していくことができる、と。

 伊藤野枝というと、特異なメンタリティーをもった女傑のように思っていたが、いや、たしかに規格外の人生を送ったのは事実なのだけど、現実への問題意識、その提言はいまの社会にも通じる普遍のものがあることを強く感じた一冊だった。