快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

優等生を演じてきた少女に降りかかる恋愛と悲劇 『ハティの最期の舞台』(ミンディ・メヒア 著 坂本あおい 訳) 

演技するうえで最初に学ぶべき大切なことは、観客の心を読むことだ。どんな自分を期待されているのか察知して、そのとおりにする。

 翻訳ミステリー大賞シンジケートのサイトでの、「シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』であり、ローレン・ワイズバーガーの『プラダを着た悪魔』に連なる〈ニューヨークに憧れる早熟な地方の文系女子の挫折〉の物語」という霜月蒼さんの紹介文を見て、これは読んでみないと!と思っていた『ハティの最期の舞台』を読みました。 

ハティの最期の舞台 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ハティの最期の舞台 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 物語の筋は単純だ。アメリカの田舎町で、美人で利発なうえに演技の才能もあり、周囲から一目置かれていた高校生のハティが死体となって発見される。
 ハティの両親と昔からの付き合いである保安官デルが捜査にあたり、クラスメートから聞き込みをすると、まずはハティのボーイフレンドのトミーが浮上するが、実は、ハティは最近学校に赴任してきた国語教師ピーターに思いをよせていたということが判明する……


 こう書くと、ごく平凡なストーリーのように思えるが、事件を担当する保安官デルによる一人称で捜査の展開が語られるメインパートと、ハティとピーターが交互に過去を語るサブパートが重なりあって、徐々に事件の真相がみえていく構成がうまく作られていて、退屈することなく一気に読んでしまった。


 解説では、この小説は『ゴーン・ガール』を引き合いに出されることがあると書かれているが、たしかにピーターのパートは、『ゴーン・ガール』の夫ニック(映画ではベン・アフレックがにやにやと演じていた)の語りと似ていないこともない。やむを得ない事情で田舎に来たものの、文化水準の低さに絶望し、完璧なはずだった自分たちの夫婦関係に疑問を抱きはじめるあたりが。 

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

 

 けれど、解説でも「ただし読後感はだいぶちがいそうだ」とあるように、最終的にはまったくちがう話だった。

 どこがちがうかというと、単純に、登場人物すべて『ゴーン・ガール』の夫婦のような"イヤなやつ"ではないということだ。
 いや、ハティもピーターも、自分は周囲の無教養な田舎者たちとはちがうという選民意識を持っているので、"イヤなやつ"ではあるのかもしれないが、ふたりともピュア過ぎたため(英語でいう"naive" なところを多く持っていたため)"イヤなやつ"にはなりきれず、互いを信じ、未来への希望を抱き、それゆえに悲劇がおきる。


 この小説で一番心に残るのは、内省的でありながらも、いきいきとしたハティの語り口だ。
 最初の引用にあるように、実際に女優志望であるハティは、ふだんでも常に演技をしている。優等生として求められる自分を演じている。

心のどこかでは、一度でいいから演技よりも深いところまで見通して、ブリジット・ジョーンズみたいにありのままのあなたが好きと言ってほしいと思ったりするかもしれないけど、そんなことは絶対に起こらない。いっしょにインディペンデント映画を見にいこうと思ってくれる人はいない。読んでいる本は笑われるし、話し方から気取ってるって思われる。だから、いつか本当の自分の人生がはじまるのを待ちながら、わたしは舞台に立つ。

と、なかば諦めにも似た思いで、この田舎町での高校生活をやり過ごしていたハティ。
高校を卒業して、ニューヨークへ引っ越したら、ようやく自分の本当の人生がはじまるのだと思っていた。

 ところが、ピーターがあらわれる。この田舎町でトマス・ピンチョンのサインを欲しがる男が。(しかし、トマス・ピンチョンってアメリカでも「文学」のシンボルなんですね) 演技をしなくてもわかってくる相手があらわれたのかもしれないと思ったハティは、情熱をそのままピーターにぶつけるようになる。

「人生すべてが演技なのか?」
 ハティは頭を垂れ、やがて顔に恥のような何かがよぎった。
「そう」ささやきだった。
「それで、僕はどんな役を演じることになってるんだ?」
「そんなことは求めてない!」顔が勢いよくあがった。 

  自意識過剰な優等生の少女が壊れはじめるというところが、『ベル・ジャー』を想起させるのだろうか。 

ベル・ジャー (Modern&Classic)

ベル・ジャー (Modern&Classic)

 

私が『ベル・ジャー』を読んだのは、新訳もまだ出ていなかった昔で、しかもペーパーバックで読んだので記憶はあやふやだけど、シルヴィア・プラス本人がモデルと思われる主人公の精神が徐々に蝕まれ、精神病院に入れられる描写が心に焼きついている。

 この小説で、最終的にハティが襲われる悲劇は『ベル・ジャー』的なものではないが、冒頭の場面で、家出を決行しようとするハティの切羽詰まった姿からは、これまで拠りどころにしていた精神の崩壊と再生を感じる。

 わたしは――たぶん、生まれてはじめて――自分がだれなのかはっきり理解して、そして自分は何を求めていて、それを手に入れるにはどうしたらいいか理解した。

 それだけに、結局のところ、ハティは新しい世界に羽ばたくことができないまま、人生の幕がおろされたのが痛ましい。

 仮にピーターと脱出できていたらどうなったのだろうか? 
 文科系カップルとして幸せに暮らせたのだろうか? いや、『ゴーン・ガール』のように、文科系カップルの凄惨な結末を迎えたのだろうか? あるいは、ハティはオーヴンに頭を突っこむことになるのだろうか? など、読み終えたあとも、「もしも」の可能性を幾度も考えてしまう小説だった。