快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

2017年ベスト本――最愛の犬本② 『その犬の歩むところ』(ボストン・テラン 著 田口俊樹 訳)

この若い犬をご覧。血のように赤い石のそばにじっと佇み、体を休めている。四肢をすっくと伸ばし、胸を張り、頭を高く掲げて。

 さて、今年のベストといえるもう1冊の犬本は、2017年のミステリーランキングにもよく挙げられている『その犬の歩むところ』です。 

その犬の歩むところ (文春文庫)

その犬の歩むところ (文春文庫)

 

 ミステリーランキングにも挙げられていると書きましたが、犬が探偵役を務めたり、犯人を捜したりする物語ではない。
 ただ一匹の犬の足取りを、その父親の代から丁寧に追うことによって、犬をめぐる人々の物語が、「アメリカ」という大きい物語を映し出す小説である。


 まず語り手の「ぼく」は、一匹の老いた犬がさまよい歩いたすえに、〈セント・ピーターズ・モーテル〉にたどり着くところから物語をはじめる。

 そこで犬の話が続くのかと思いきや、まずはそのモーテルに住むアンナが、動乱する祖国ハンガリーから脱出してなんとかアメリカに渡り、そこでようやく幸せな暮らしを手にしたはずが悲劇に襲われ、老婆が経営するモーテルに流れ着くまでの顛末が語られる。
 老婆が亡くなり、ひとりでモーテルに暮らしはじめたアンナのもとに、次から次へと犬がやって来る。そして、この老いた犬もその一匹であった。

 当然のように、アンナはその老犬の面倒をみるようになり、つけていた首輪にに質札のようなものを発見する。そこには GIV と刻まれていた。ギヴがこの犬の名前なのだとアンナは思う。老犬は、アンナとアンナの飼い犬エンジェルと束の間幸せな時間を過ごし、エンジェルとのあいだに牡の仔犬をつくり、静かに息絶える。

老犬よ、おまえはひとりぼっちではない。なぜなら天国はここに――おまえが身を埋めるこの偉大な木々の中に、名が刻まれた石の中に、おまえの骨を覆う土の中にあるのだから。おまえにもすぐに恵みが与えられるだろう。

で、ここまでが序章なのです。ここからこの小説のメインとなる、父親と同じギヴという名を与えられた牡の仔犬の物語がはじまる。

 父親が亡くなってすぐ、ギヴに試練がおとずれる。モーテルの客であったバンドマンの兄弟にさらわれてしまう。ここからギヴの波乱万丈の犬生が幕を開ける。

 そして、まだ語り手の「ぼく」は姿を見せない。「ぼく」はいったいどこでギヴと出会うのか?

 この小説は、犬も人間も等しく運命に翻弄されて過酷な目に遭う。虐待、戦争、自然災害、愛する者との別れ――どれも犬にも人間にも襲いかかってくる。

 それでも犬は、ギヴは、人を信じることと愛することをやめない。前回紹介した『おやすみ、リリー』のように、犬が老いたり病気になったりする話はもちろんつらいけれど、この小説のように、ひたすら無償の愛を注ぎ続ける犬の姿も泣けてしまう。

ギヴは誰が相手でもルーシーを守ろうとするだろう。必要とあらば、宇宙のあらゆるものを敵にまわしても。なぜなら、ギヴにとってルーシーは自分が生きることそのものだからだ。そして、ギヴは混じりけなしの愛の塊だからだ。 

  この小説の試練として、虐待、戦争、自然災害と書いたけれど、どれも決して架空のできごとではない。イラク戦争カトリーナがこの小説の重要な背景となっている。生の「アメリカ」が、ギヴの歩みに刻まれている。

 ギヴを盗む兄弟が父親から受ける虐待の場面では、かなり前に読んだ、村上春樹訳のノンフィクション『心臓を貫かれて』に出てくる父親を思い出した。 

心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

 

  アメリカの物語においては、「大草原の小さな家」のような理想の父親像が確固としてある反面、異常としか思えない父親像も往々にして描かれる。もちろん、実際に存在しているからだろう。


 この小説の最後の試練にギヴが立ち向かうとき、読んでいて、もうギヴを行かさんでええやん、そっとしてあげて!と思った。

 でも考えたら、その前の最大の試練の悲しみからギヴが立ち直るためには、もう一度愛する者を守るために戦うことが必要だったのかもしれない。
 「混じりけなしの愛の塊」であるギヴは、愛することが「生きることそのもの」なのだから。


 うちの祖母は犬を飼っていて、口癖は「犬は裏切らへん」であった。母親は「まるでだれかに裏切られたみたいなこと言って!」と文句を言っていたけれど、ほんとうにそのとおりだなあ……としみじみ思い出した。なんでも、旧石器時代からヒトは犬を飼っていた形跡があるそうだ。


 犬好きという松浦理英子のエッセイ『優しい去勢のために』所収の「犬よ! 犬よ!」でも、野良犬が駆逐された環境で育つ子供たちについて、

人間に本当になつき慕ってくれる唯一の動物である犬という素敵な友達と大いに触れ合う機会がないとしたら、何かとても有意義なことを学べないで成長することになりはしまいか。

と書いている。われわれ人間は、できるだけ犬と触れ合って、ほんの少しでも見習うべきなのかもしれない。 

優しい去勢のために

優しい去勢のために

 

 ちなみに、この小説の原題は、『GIV: The Story of a Dog and America』と、そのとおりのストレートなタイトルのよう。悪くはないけれど、『その犬の歩むところ』という邦題の方がストーリーを暗示させる要素が強く、冴えたタイトルだと思った。