快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

冬のロスマク祭 『さむけ』『ウィチャリー家の女』(ロス・マクドナルド 著 小笠原豊樹 訳)『象牙色の嘲笑』(小鷹信光 松下祥子 訳)

この女が問題にしてもらいたがっているほど、わたしはこの女を問題にしていない。そもそもこの女を全面的に信用してはいないのだ。女の美しい肉体には二つの人格が交互に現れるようだった。一つは感受性の強い、しかも無邪気な性格。もう一つは、かたくなで捉えがたい性格。

 これまで私にとって、「かたくなで捉えがたい」ハードボイルドを追求すべく、ロス・マクドナルドの『さむけ』を読んでみたところ、おもしろくてすっかりひきこまれ、『ウィチャリー家の女』『象牙色の嘲笑』とたて続けに読んでしまいました。 

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

さむけ (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-4)

 

 『さむけ』は、ひと仕事を終えた探偵リュウ・アーチャーが、突然アレックスと名乗る青年に声をかけられるところからはじまる。


 結婚したばかりの妻、ドリーが行方不明になったとのこと。ちょっとした気まぐれの失踪、あるいは結婚詐欺などよくある事件かと思いつつ、アレックスに懇願されて捜査したところ、ドリーはあっさり見つかったが、アレックスのもとに帰るつもりはないという。

 どうやらドリーには母親が殺された過去があるらしい。ドリーの友達だという大学教授ヘレンと知りあい、話を聞こうとするが、「感受性の強い」しかし「かたくなで捉えがたい」ヘレンは、だれかに脅迫されているなど要領を得ないことを話しだし、リュウ・アーチャーはヘレンを相手にするのをやめる。そしてすぐに、ヘレンが死体で発見される……


 で、これはまだ話の発端で、ここからまた新たな殺人や、謎だらけの登場人物が続々と発覚する。正直、物語が進むにつれて、そもそものドリーとアレックスの話はいったいどうなったの??という瞬間すらおとずれる。といっても、物語は一貫してリュウ・アーチャーの視線から語られるので、さほど混乱はしない。


 さて、ハードボイルドというと、一匹狼で徹底した〈個〉である探偵が、〈多〉である社会と対峙する物語というのが、一般的な定義だと思う。その〈多〉は、ギャングの社会であったり、あるいは警察であったり、荒廃した都会に住む人々であったりするが、リュウ・アーチャーが向きあう社会は、徹底して「家族」である。機能不全に陥った家族。


 この『さむけ』でも、アレックスの父親、ドリーの父親、ヘレンの両親……など、さまざまな「家族」が出てくる。直接事件に関係がなくても、その描かれ方はどれも印象深い。なかでも、喧嘩して家を出て行ってしまった娘ヘレンの訃報を聞かされるホフマンの姿はもの哀しい。

激しく、何度も何度も、ホフマンは自分の顔を殴った。目、頬、口、顎。みるみる粘土色の皮膚にどす黒い殴打の跡が生じた。下くちびるが切れた。
血まみれのくちびるで、ホフマンは言った。「うちのかわいい娘を駄目にしたのは、わしなんだ。わしがぶん殴って家から追い出したんだ。あれはもう帰ってこなかったんだ」 

 愛情があってもうまく通じあえない親子。夫婦の関係はもっと悲惨だ。愛情は消え去り(あるいは、最初からそんなもの存在していないか)、互いに裏切り、欺きあう。そしてまた性懲りもなく、次の相手を漁る。

「しかし、あなたは生き残って、また恋愛をした」
「男はだれでもそうしたものじゃないでしょうか」

『さむけ』と並ぶもうひとつの代表作、『ウィチャリー家の女』も、タイトルからはっきりわかるように家族の話だ。 

ウィチャリー家の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-1)

ウィチャリー家の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 8-1)

 

 リュウ・アーチャーのもとへ、ホーマー・ウィチャリーという金持ちの男がやってくる。一人娘のフィービーが行方不明になったという。

 調べるとすぐに、失踪の少し前に、フィービーは母親キャサリンの姦通を告発する手紙を目にしていることが判明する。ホーマーはキャサリンとはもう別れたので決して話をするなと、リュウ・アーチャーに強く命令する。フィービーとキャサリンを探しはじめるリュウ・アーチャー。フィービーは生きているのか? キャサリンの姦通の真相は……?

わたしは正面の鏡に映った女の顔を盗み見た。ひどい厚化粧である。塗りたくったおしろいの下の肉が腫れているように見えるのは、暴力のためばかりではなく、悲しみと恥辱の絶えざる打撃のせいであるらしい。それにしても、かつて魅力的な女性だったろうことは、はっきり見てとれた。 (略)

 「わたしって、お化けみたいでしょ?」

『さむけ』でも『ウィチャリー家の女』でも、家族の関係が壊れるのに呼応して、女たちもどんどんと壊れていく。自分を愛し、支えてくれる男とともに立ち直る女もいれば、年齢とともに愛した男や若さへの執着がどんどん膨張して「お化けみたい」になる女もいれば、ヘレンのようにまるでなにかの殉教者のようにあっさりと命を奪われる女もいる。


 この二作より前に発表された『象牙色の嘲笑』は、初期はチャンドラーの影響が濃いと言われているように、たしかに『さよなら、愛しい人』やダシール・ハメット『マルタの鷹』など通じる、いわゆる一種の「悪女(ファム・ファタール)もの」である。(ちなみに、『ロング・グッドバイ』はこの作品の一年後に発表されている) 

  リュウ・アーチャーのもとに、ユーナ・ラーキンと名乗る年配の女が依頼にやってくる。家で働いていたルーシーという黒人の若い女を探してほしいという。探すといっても居場所の見当はついていたので、リュウ・アーチャーはすぐにルーシーを見つける。ユーナの指示に従って、ルーシーを観察していたが、街を出ようとしたルーシーは何者かに殺されてしまう。

 殺されたルーシーは、チャールズ・シングルトンという行方不明の男の情報を求める新聞記事を手にしていた。男には懸賞金がかけられている。
 チャールズ・シングルトンを調べはじめたリュウ・アーチャーは、愛憎の迷宮へと足を踏み入れてしまう。いくら愛しても裏切られる。愛した相手には愛されない。報われない愛情の行き先が悲劇を生む。

「ほんとうにおかしいのはね」しばらく間を置いてから先を続けた。「愛している相手は絶対にこっちを愛してくれないってこと。こっちを愛してくれる人、(略)そういう人たちはこっちが愛せない。

 先に書いたように、この物語は「悪女(ファム・ファタール)もの」のフォーマットを使っているが、後の『さむけ』『ウィチャリー家の女』と同様に、リュウ・アーチャーの目に映る人物はどれも類型的ではなく、なかでも、ちょっとしか出てこない脇役の女性たちがいきいきと描かれているのが印象深かった。
 
 ルーシーが転がりこんでいた家の隣に住む黒人の婆さんや、チャールズ・シングルトンの家で働くシルヴィアといった、善良な魂がきちんと書かれ、最後に倫理が説かれていたので、陰惨な事件が主題になっていても後味が悪くない。

「あんたが殺したのは、個々の人間だけじゃない。切り刻み、煮つめ、焼いて消し去ろうとしてきたのは、人間らしさという観念だ。人間らしさという観念が我慢ならなかった」

 それにしても、ロス・マクドナルドの妻が、以前『まるで天使のような』を紹介したマーガレット・ミラーなのですが、人間の心理を暴くミステリーばかりえんえんと書く夫婦って、、、ほんと興味深いというか、空恐ろしいというか(女子高生に流行っている「マジ卍」ってこんなときに使えばいいのだろうか?)、またどちらかの次の作品を読んで考察を続けたいと思います。