快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

2017年の締めくくり――女子高生たちによる〈疑似家族〉を描いた『最愛の子ども』(松浦理英子 著)

お題「年末年始に見たもの・読んだもの」

 さて、きょうは大晦日。

 というわけで、なんとしてでもこれを読まないと年を越せん!! 
と思っていた、松浦理英子の新刊『最愛の子ども』をようやく読みました。大掃除もそっちのけで。(毎年そっちのけだろーっていう声もあるが) 

最愛の子ども

最愛の子ども

 

 「わたしたちの心をかき立てるのは同級の女子高生三人が演じる疑似家族」と帯にあるように、私立玉藻学園高等部二年四組の舞原日夏(ひなつ)、今里真汐(ましお)、薬井空穂(うつほ)の三人が親密な時間を過ごし、それぞれ〈パパ〉〈ママ〉〈王子様〉という役名をクラスメートからつけられ、まるで疑似家族のような関係を育んでいくという物語。
(話は逸れますが、松浦さんの小説の登場人物たちの名前がなんかかっこいいんですよね。『ナチュラル・ウーマン』の容子と花世にも憧れた)


 感情的で意固地なところのある真汐を、いつもあたたかくつつみこむ日夏。そして無邪気で天真爛漫、でもどことなく危なっかしい空穂が加わり、日夏と真汐は空穂の面倒をみることに夢中になる。母子家庭で育ちながらも、生活能力に乏しい空穂の弁当を作り、空穂の家で二人用の布団を並べて三人で眠る。

空穂を弄んでいる日夏と真汐は、さまざまに形を変える空穂の顔に見入るわけではない。しょっちゅうしていることだからでもあるだろうし、歪められる顔の面白さばかりではなく、顔の肉のやわらかさやなめらかさや弾力を指で味わうだけでも楽しいからだろう。

 定義づけることのできない三人の関係。ふつうの〈友達〉ともちがうし、しかし、恋愛や性愛関係、いわゆる〈百合〉というようなものでもない。(いや、BLとか百合とかまったく詳しくないのですが)

 松浦理英子はこういう名づけられない関係、手垢のついた言葉ではあらわすことのできない交流を描くことが、ほんとうにうまいとあらためて思う。

 『裏ヴァージョン』での〈元親友〉であり〈現同居人〉である昌子と鈴子の決して触れあったり性愛に発展することのない、愛憎が交錯する関係。 

裏ヴァージョン (文春文庫)

裏ヴァージョン (文春文庫)

 

 『犬身』の主人公房江は、愛しい人の犬になりたいと願い、そして文字通り犬になる。(エロス的な比喩ではない)

犬身 上 (朝日文庫)

犬身 上 (朝日文庫)

 

  『奇貨』では、つらい恋に苦しむレズビアンの七島と、恋心というものをいまいち理解できない中年男本田との奇妙な友情めいたものが描かれていた。(ちなみに、この『最愛の子ども』でも、本田のライバル?斑尾椀太郎が登場します) 

奇貨 (新潮文庫)

奇貨 (新潮文庫)

 

  傍目からは架空の家族のように見える三人だが、当然ながら、三人には架空ではない家族がいて、それぞれの家族にはかすかな、あるいは大きな、軋轢がある。
 未成年の高校生である以上、実の家族から逃れることができない。血のつながった家族と架空の家族が緊張関係に陥り、三人の〈ファミリー〉はゆらぎはじめる。


 三人の〈ファミリー〉が主筋となっているが、この小説には、ほかにもいろいろ着目すべき観点がある。
 
 まずひとつは、語り手の問題。日本の小説では珍しい「わたしたち」が語り手となっている。二年四組のクラスメートという共同体が語っているという構造である。
 日夏、真汐、空穂のあいだにおきた出来事、そして彼女たちの内面は「わたしたち」の憶測、なんなら妄想という形で語られる。

 以前に読んだジョシュア・フェリスの『私たち崖っぷち』は、会社が潰れていくさまを従業員である「私たち」が語るという、珍妙だけどおもしろいところのある意欲作だったけれど、やはり日本語の「私たち」は、英語の"We"以上に違和感があったのか、あまり話題にならなかった。 

私たち崖っぷち 上

私たち崖っぷち 上

 

  しかし、この『最愛の子ども』は、「わたしたち」の視点を使うことによって、三人の関係のあやふやな儚さがより際立ち、それゆえの貴重さがよく伝わっていたと思う。


 さらに、三人以外のクラスメートたちも丁寧に書きこまれていて、読みごたえがあった。

 キャラクターとして興味深かったのは、女子からも恋心を抱かれる美少女の苑子だ。美しいけれど、頭がいいわけでも感受性が豊かなわけでもなく、話していてもなんのおもしろみのない女子なんだけど、男子に言い寄られるまま付きあったかと思うと、あっさり別の男子に乗り換えたり、最終的にはその男子もさくっと捨てたりするあたりが、いわゆる「魔性の女」って、実はこういう何も考えてない感じなのかなーというリアルさがあった。

 登場するクラスメートも先生もだいたい人柄がよく、修学旅行といった学校行事もたいへん楽しそうで(修学旅行で旭山動物園に行っててうらやましかった。中学でも高校でも、修学旅行で信州の山の中に行かされた私からすると)、作者はあえて現実社会よりユートピア的な学校生活を描くことによって、学校を離れ、ばらばらになる三人の今後との対比をつけたのだろう。

まだまだ心の鍛え方が足りない、と反省した後、だけど、と真汐は考える。心を鍛えるだけでは幸せに生きて行くのに充分ではないのだ。……どれだけ性格がよければ今のわたしがまったく愛せない人たちを愛せるのだろう。気が遠くなる。美しいことばかりではない道が目の前に果てしなく続いている。 

 これからの彼女たちはどうなるのか? 

 よくあることだけれど、いつしか疎遠になって、もう二度と会わないのかもしれない。もしくは、『裏ヴァ―ジョン』の昌子と鈴子のように、二十年後くらいに再会し、「あなたは変わった」と激しい言葉の応酬を重ねながら、また新たな絆を深めていくのかもしれない。  

ああ、そうだ、山下公園で日夏とわたしは何年後かに空穂がどんなふうになっているか見に行くと約束したんだった。思い当たると憂鬱そうだった真汐の顔に微笑みがこぼれる。