快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

災厄の男たちから逃れる女の連帯 『音もなく少女は』(ボストン・テラン 著 田口俊樹 訳)

わたしは殺人の隠蔽工作の手助けをしました。嘘の上塗りをする手助けもしました。自分の人生、宗教、職業が否定していることをしました。しかし、そのためにこそより幸福になれました。

 先日紹介した、ボストン・テランの『その犬の歩むところ』がおもしろかったので、続いて『音もなく少女は』も読みました。 

音もなく少女は (文春文庫)

音もなく少女は (文春文庫)

 

 まず引用のように、だれかの告白によって物語がはじまる。
 それから1950年代のニューヨークのブロンクスに舞台が移り、クラリッサが登場する。しかし、登場するやいなや、「人生の乱気流が彼女を貫いていた」「失意の波間を漂いながら、病気で聾者の娘メアリーと夫ロメインを世話する女」と、尋常ならぬ不幸の気配が漂う。

 その夫、ロメインが帰ってきて、銀のゴブレットやウサギの足といった「戦利品」をクラリッサに渡す。あとで描かれるが、ロメインは墓地の管理をしており、「戦利品」とは死者とともに棺に入れられた品々のことで、ロメインは棺を漁って、金目のものを盗んでいるのである。しかし、この”棺暴き業”は、この先ロメインが堕ちていく闇にくらべると、まだ健全な仕事なのであった。


 その夜、酒を飲んだロメインがクラリッサに襲いかかる。「病気でもなくて、ちゃんと聞こえるやつが欲しい」と。「どうか妊娠していませんように」というクラリッサの祈りもむなしく、ふたり目の子が授かる。
 女の子はイヴと名付けられるが、クラリッサの祈りのみならず、ロメインの願いも神に届かなかったようで、やはり聾者であることが判明する。「全部おまえのせいだ」とロメインはクラリッサを罵る。

クラリッサはわが身に起きることはすべて自分の過ちと信じ込む女だった。教育もちゃんと受けていない単純な女だった。だから、誤った認識のまま、聾者の子供が生まれたのは自分のせいだと信じていた。夫の虐待を受けるに任せすぎたせいだと。 

  えっ? どんだけ暗い話なんだって?? 

 実はこれはまだほんの序盤で、クラリッサとイヴの人生は、教会で偶然フランという女に出会ったことで大きく変わる。

 手話に通じ、自ら生計をたてて暮らしているフランに、イヴをどう育ててよいか途方にくれていたクラリッサは助けを求める。戦争中のドイツで想像を絶する凄惨な体験をしたフランは、ロメインの虐待におびえるクラリッサとイヴを見捨てることができず、三人は深く結びつき、北上次郎さんの解説に書かれているとおり「運命共同体」となる――
 
 少し前、というか、いままさに、ツイッターで「『女性専用の街』が欲しい」というツイートが炎上していたが、まさにこの小説のテーマは「災厄でしかない男――しかも父親――から逃れるために、どうやって女たちは力をあわせて戦うべきか」ということである。

 イヴとロメインのみならず、第二部で登場する、イヴが姉のように面倒をみるミミと、ミミの父親ボビー・ロペスにもあてはまる。
 
 ロメインやボビー・ロペスのような悪党は、荒廃しきったかつてのニューヨークに限定される話ではなく、現代でもよく似た事態は世界のあちらこちらで起きているようにも思える。
 まだDVなどの虐待への意識が低い国や地域はもちろん、いまの日本でも似たような感慨を抱いている人がいるから、上記のようなツイートが発生するのではないだろうか。

 作者は、ロメインやボビー・ロペスを人間とは思えない鬼畜のようには描いていない。ロメインやボビー・ロペスより、もっと直接的に娘を殴ったり殺したり、犯したりする親だって世の中には少なくない。
 ただ、ロメインやボビー・ロペスは、妻も娘も自分の「所有物」だと思っていて、そこから離れようとするイヴとミミを脅かす。


 そしてもちろん、すべての男がそんなふうではない。イヴの恋人チャーリーや、チャーリーとミミの養父ナポレオンなど、イヴやミミを助けようとする男たちもいる。 

その出自と身の上のせいだろう、チャーリーは自分でも恥ずかしくなるほど強く人とのつながりを求める人間だった。人に愛されることも。その思いは皮膚からにじみ出てきそうなほど彼の内側に溜まっていた。
 一方、彼はイヴの庇護者になりたかった。一緒にいて彼女が身の安全を感じられる相手にもなりたかった。

 だが、結局こういう善意の男たちは役立たずなのであった。いや、役立たずというと言葉が悪すぎるが、イヴの庇護者にはなり得なかった。

 この小説では、闇から手をのばす男に勝てるのは、「人とのつながりを求める」男ではない。女を救うのは男の愛ではない。クラリッサとフラン、そしてイヴとの絆から生まれた、女たちの強い連帯なのだった。
 
 物語の最後、写真家となったイヴはカメラの前に全裸で立つ。 

この作品に取りかかるまえに、イヴは何冊もの本を漁って、ピカソの『ゲルニカ』から、アジアの傾いた壁に描かれた壁画まで見ていた、そして、古代には、ギリシアの神からインドの神まで、神々がしばしば女の聖なる三位一体として表現されていることを学んでいた。創造者としても保護者としても破壊者としても表現されていることを。

  物語の前半でフランは神の存在を否定していたが、最後は、イヴがクラリッサとフランと自らを神になぞらえた表現をするところで終わる。

 正直、平凡な小説なら、なんと大仰なとちょっと鼻白んでしまうかもしれないが、この小説は最後まで濃密なストーリーが展開されるので、納得して読み終えることができる。
 
 けれど、男性はこの小説を読んで、どんな感想を抱くのだろう?? 
 解説の北上さんは「もうお前たちなどいらない、というイヴの覚悟の前に、男性たる私はただうなだれるのである」とのこと。先のツイートもそうですが、こういう小説をどう受け止めるかが、リトマス試験紙になりそうですね。