快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

スパイ今昔物語 21世紀のスパイの実態?? 『放たれた虎』(ミック・ヘロン 著 田村義進 訳)

 前回紹介した『殺人者の記憶法』、日本翻訳大賞にもノミネートされたようで、よかったよかった。

 さて、スパイというと、いったいなにが頭に浮かぶでしょうか? 
 
 やはり007? あるいは、キム・フィルビー? もしくは、ゾルゲ?(古いか) いやいや、マタ・ハリ??(もっと古い)
 なんにせよ、正体を偽って敵国に侵入し、機密情報を自国に流して、要人暗殺を謀る……といったイメージのはず。
 
 がしかし、ミック・ヘロンの〈泥沼の家〉シリーズに出てくるスパイは、そんな従来のスパイとは一味も二味もちがう。『窓際のスパイ』『死んだライオン』に続く、この第三弾『放たれた虎』でも同様だ。 

放たれた虎 (ハヤカワ文庫NV)

放たれた虎 (ハヤカワ文庫NV)

 

 主人公リヴァーは、伝統ある英国情報部保安局、通称MI5の局員でありながらも、任務をはたすべく地下鉄の駅へと向かいながら、こんなことを思う。

ジェイムズ・ボンドなら、歩道橋から走っているバスの上に飛びおりるか、オートバイを奪いとるためにライダーにドロップキックを食わせるだろう。ジェイソン・ボーンなら、車のルーフ伝いに通りを進むか、パルクールの技を駆使して、壁やゴミ容器を跳び越えていくにちがいない。

 しかし、地下鉄の駅へ向かう任務があるだけでも、まだスパイらしいとも言える。
 なにしろリヴァーはMI5の局員といっても、ふだんは薄暗い〈泥沼の家〉で、ひたすら「魂を一度に一ピクセルずつかき消していく」ような書類仕事(パスポートの履歴をチェックするとか)に従事し、ときにはゴミ漁りをさせられることすらあるのだ。

 というのも、この〈泥沼の家〉とは、保安局の落ちこぼれたちが送りこまれる部署であり、企業でいうと "リストラ部屋" であるからだ。
 
 メンバーは、"伝説のスパイ"を祖父に持ちながらも、昇級試験のときにキングス・クロス駅を大混乱に陥らせてしまったため(実は策略にはめられていたのだが)、〈泥沼の家〉送りになったリヴァーを筆頭に、元アル中のキャサリン、尾行に失敗して大量の銃器を街中に流出させたルイーザ。
 さらに、元ではなく現ギャンブル依存症であるマーカス、同じく現ドラッグ中毒のシャーリー、ただ単に嫌われ者であるがゆえに〈泥沼の家〉に送られた、コンピューターおたくのホーである。

 〈泥沼の家〉の長であるジャクソン・ラムは、冷戦時代にはまさに敵国に忍びこんだりしていたようだが、いまはところ構わず放屁をする(そのせいか、この小説を『放たれた屁』とカン違いした人が多いようだ)下品でむさ苦しい中年男だ。
 
 しかし、〈泥沼の家〉であるがゆえに華々しいスパイ行為とは無縁、というわけではない。
 保安局の中枢部リージェンツ・パークでも、目下最大の議題となっているのは、予算削減、効率化、人事、あふれかえる書類の管理である。世のほとんどの職場と同じだ。
 ちなみに、書類は機密ランクによって、スコット・レベル、ヴァージル・レベルと《サンダーバード》の登場人物にちなんだ名前で区分されている。
 21世紀のスパイは、007やサンダーバードの幻影のなかで生きているのかもしれない。
 
 つまり、冷戦時代は遠くなりにけり……ということで、「敵」は敵国にいるとはかぎらない。見えないところ――組織の内部――に潜んでいることが多いのが、このシリーズの特徴である。
 
 前置きが長くなったが、この『放たれた虎』は、〈泥沼の家〉のメンバーであるキャサリンが誘拐されるところからはじまる。
 リヴァーのもとに犯人の一味から連絡があり、キャサリンを返してほしければ、リージェンツ・パークに潜入して、機密書類を奪うよう指示される。犯人の目的は?
  
 キャサリンを救おうとするリヴァーの前に、さまざまな難敵が立ちはだかる。難敵といっても、敵国のスパイではない。
 保安局の長であり、大英勲章 "Dame" の称号を持つイングリッド・ターニー。その「犬」であるニック・ダフィー。イングリッド・ターニーの地位を虎視眈々と狙っている、保安局ナンバー2のダイアナ・タヴァナー。そして、保安局を掌握して手柄をたて、首相の地位にまで手をのばそうと目論んでいる、内務大臣ピーター・ジャド。
 
 このシリーズは、ミッション・インポッシブル系のものを期待する人には物足りないかもしれないが、クセが強すぎる登場人物たちを、イギリス流の辛辣なユーモアでシニカルに描いているところが最大の魅力である。

 〈泥沼の家〉のメンバーたちの描き方も容赦ないが、保安局の悪役たちの食わせものぷりには感心してしまうほどだ。

 イングリッド・ターニーとダイアナ・タヴァナーの闘争は、女の敵は女とか、女同士の戦いなんていうベタな言葉では、表現しきれない恐ろしさである。イングリッド・ターニーの部下の操縦法は、企業に勤める人でも参考にできるかもしれない。
 また、ピーター・ジャドのどす黒いポピュリズム政治家ぶり――

親の莫大な遺産を受け継いだ自己陶酔的なサイコパスであり、権力欲のかたまりであり、決して恨みを忘れない男

某国の大統領を意識して書いたのかもしれないが、大阪に住んでいる私はごく身近な政治も想起してしまい、思わず膝を打った。

 〈泥沼の家〉を守って、といっても結果的にだが、こういった連中と渡りあう、ジャクソン・ラムのくさやのような魅力にいったんとりつかれてしまうと、これまでの前二作も一気に読んでしまうにちがいない。
  
 ちなみに、今後のこのシリーズは、『The List』というスピンオフのような中編を挟んで、四作目の『SPOOK STREET』まで出ているよう。 

Spook Street: Jackson Lamb Thriller 4 (English Edition)

Spook Street: Jackson Lamb Thriller 4 (English Edition)

 

 『SPOOK STREET』はCWAのゴールド・ダガー賞にノミネートされ、スチール・ダガー賞に輝いたりと、かなり高く評価されているよう。なんでも、"伝説のスパイ"であるリヴァーの祖父が認知症に陥る……?(アマゾンの紹介文より)こちらも楽しみにしておきます。