快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

2018/02/18 柴田元幸×藤井光「死者たち」朗読&トーク@恵文社『死体展覧会』(ハサン・ブラーシム 著 藤井光 訳)

 さて、先日京都の恵文社で行われたイベント、柴田元幸&藤井光「死者たち」のレポートを書いておきたいと思います。といっても、おふたりの話がちゃんと理解できたか、固有名詞などまちがえてないか、ちょっと心もとないですが、ご了承のほどお願いします。
 
 第一部は朗読から。藤井さんが現在新訳しているという、スティーヴン・クレインの『The Red Badge of Courage』から。『世界文学大図鑑』(さまざまな小説を網羅していて、ほんと便利だ)から「赤い武功章』(1895年)スティーヴン・クレイン」の項を参照すると 

アメリカ南北戦争を舞台として書いたものである。主人公ヘンリー・フレミングは北部連邦軍の若い二等兵だ。武功をあげることを夢見ていたが、実際の戦場で容赦のない戦闘の現実に直面したとき、南部連合軍の進軍を前に逃亡する 

世界文学大図鑑

世界文学大図鑑

 

  という物語。逃げた兵士を描くことで、戦争とはなにか、勇敢であるとはどういうことかを問うている。新訳はどこから出るんだろう? それにしても、レアード・ハントの『ネバー・ホーム』など、最近また南北戦争を描いた文学がブームですね。
 
 そして柴田さんが朗読したのは、シリ・ハストヴェットの『食卓の幽霊たち』。シリ・ハストヴェットポール・オースターの妻であり、自らも小説を書いていて、『目かくし』などの作品がある。 

目かくし

目かくし

 

  私も以前なにかのエッセイだったかを読んだことがあり、たしか男性につきまとわれるような内容で、作品世界の繊細さに強い印象を受けつつ、美人はたいへんやな~みたいな感想を抱いてしまった記憶がある。
 
 今回の『食卓の幽霊たち』は、そういう話ではまったくなく、静物画をテーマにしたエッセイで、「不在の人間たち」――ひとはみな死ぬということ――について考察するものだった。
 
 次は藤井さんによる、レベッカマカーイの『歌う女たち』の朗読。レベッカマカーイハンガリー動乱の際にアメリカに移民してきた作家であり、この作品は、独裁者によって弾圧される世界で、死者たちの名前を口にして「嘆きと絶望の歌を歌う女たち」を描いている……のだが、寓話として語ることに語り手が疑問を呈するという構造になっている。
 
 最後はまた、藤井さんによる朗読で、インド系作家カニシュク・タルーアによる『イスカンダルの鏡』。イスカンダル、つまりアレキサンドロス大王を描いた物語で(アレキサンドロス大王を描くのは塩野七生だけではないのだ)、不老不死を求めてアリストテレスに尋ねるアレキサンドロス大王に周囲が右往左往させられるという、なかなかユーモラスな話だった。
 
 そのあとは、おふたりによるトーク。まずは柴田さんが、藤井さんが朗読した三作について質問。

 共通項のようなものとして言えるのは、三作ともその主題と距離をおいて描いているということだった。
 スティーヴン・クレインは南北戦争のあとに生まれているので、戦争体験はまったくなく、戦争自体も、功をあげようと思いつつ臆病な主人公の内面における自己正当化も突き放して描いているとのこと。

 マカーイも、語り手が顔を出すことによって客観性が生じている。
 タルーワは、アメリカでもインドでもないアレクサンドロス大王をテーマにするのも唐突な感じがあるが、宇宙ステーションを題材にしている作品すらあるらしく、いま住んでいる「アメリカ」を描くわけでもなく、かといって自分のルーツがある土地に重きをおくわけでもない感覚が、少し前までの移民系作家(ジュノ・ディアスなど)と異なる点とのこと。"ホーム"が抽象的なものに変化しつつある、と。
 
 それから、今回のイベントの主題でもある、藤井さんが訳したハサン・ブラーシムの『死体展覧会』について。 

死体展覧会 (エクス・リブリス)

死体展覧会 (エクス・リブリス)

 

  この本の解説によると、ブラーシムはイラクバグダッド生まれで映像作家で働いていたが、政府の圧力によって身の危険を感じ、2000年に出国し、現在はスウェーデンで創作活動を行っているとのこと。

 私もいまこの本を読んでいるけれど、タイトルからわかるように、死や暴力が非常に生々しく描かれている。そのため、アラビア語圏では、ブラーシムの作品は発禁扱いとなっている。この日の話によると、アラビア語圏の文学界では、いまだ美しい韻文調の作品が主流らしく、ミステリーやSFですらめったに見られないらしい。
 湾岸戦争後の自国でのおそろしい弾圧を目の当たりにしたブラーシムの作品は、人間であることの意味やヒューマニティの存在を根源から疑うものである、とのこと。
 
 そしてもちろん、「アメリカ」についての話も続きました。「9・11のあとで戦争を描くとはどういうことか」と『闇の中の男』『プロット・アゲンスト・アメリカ』をあげ、『プロット~』はブッシュ政権への怒りがテーマになっているが、いまはそれよりも悪い政権だしね……という柴田さんの嘆き。 

闇の中の男

闇の中の男

 

 

 ポーや、ホーソーンメルヴィルの時代から現代まで、戦争、そして生者と死者についての「当事者性」の問題や、「生と死の境界線はあるのか?」ということについてトークが展開しました。もちろん、どの観点についても、ポー、ホーソーンメルヴィル、そしてフォークナーと、作家によってそれぞれ立ち位置はちがうのですが。 

 あと、「どうして最近(のアメリカ文学)は家族の話ばっかりになったんだろうね?」という疑問も興味深かった。
 たしかに、以前に紹介した『コレクションズ』なんて典型的だが、たしかに、最近のアメリカ文学は家族病に憑かれている傾向があるように思える。藤井さんは「(先程の話から続いて)いわゆる”ホーム”と呼べる場所が失われ、家族だけが”ホーム”になったからではないか」と言われていました。
 
 と、文学についてならいくらでも語ることがある……という感じで、あっという間に時間が過ぎていきました。またどこかでお話を伺いたいものです。