快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

滑稽な人間の生について考えてみる 『深い河』(遠藤周作 著)『今日はヒョウ柄を着る日』(星野博美 著)

 手元にないのでうろ覚えだが(実家にあるはず)、学生時代に読んだエッセイ『佐藤君と柴田君』で、親が古びてきたので病院に通っていると柴田さんが書いていて、そのとき「そうか、親って古びるものなんだ」と思った記憶がある。 

佐藤君と柴田君 (新潮文庫)

佐藤君と柴田君 (新潮文庫)

 

 しかし、あれから幾年月が過ぎ、わが親もしっかり古びてしまい、病院や施設に同行する今日この頃。

 そんな日々のあいまに読んだ、星野博美『今日はヒョウ柄を着る日』でも、「いまだかつて経験したことのない『老い』という新しい世界に日々向き合っている」親と一緒に暮らす日々が綴られている。 

今日はヒョウ柄を着る日

今日はヒョウ柄を着る日

 

 自分より常に大人だったはずの人の変化は、若い世代にとっては苛立つものだ。昔はそうではなかった、を基準値にすれば、双方にとって受け入れがたいことが多くなる。彼らだってそう望んで変化しているわけではない。

 たしかにそのとおりだ。というか、「昔はそうではなかった」は、自分自身に対して思うことすらあるが。

そこで私は「親の住む老いという国に、留学している自分」という設定を思いついた。

 なるほど。たしかに、介護施設の「談話室」で老人ばかりに囲まれていると、当然ながら自分は少数派なので、言葉の通じない外国に行ったのと同じような気分になる。いずれ自分もたどる道と思うと、留学生というより、年長クラスにまぎれこんだ年少生といったほうがふさわしいのかもしれない。
 
 そんな感じで、老いの国の留学生として過ごしながら、職場の社長に勧められた遠藤周作の『深い河』を読んだ。 

深い河 (講談社文庫)

深い河 (講談社文庫)

 

やき芋ォ、やき芋ォ、ほかほかのやき芋ォ。

医師から手遅れになった妻の癌を宣告されたあの瞬間を思い出す時、磯辺は、診察室の窓の下から彼の狼狽を嗤うように聞えたやき芋屋の声がいつも甦ってくる。

  と、冒頭から「やき芋ォ」の呼び声と「手遅れになった妻の癌」と軽重な事柄が対照的に配置される。
 いわゆる「緊張と緩和」のようでもあるが、佐伯彰一の解説では、「いわば卑近な日常性モチーフのこの作家における根ざしの深さ」と書かれており、たしかに、かなり昔に読んだ『沈黙』でも、「神」と「卑近」な弱者である人間の関係が描かれていたと思い至る。
 
 この『深い河』は、現代(この小説が書かれた1990年前後?)を舞台とした群像劇である。
 上に引用した、妻に先立たれる「磯辺」、その磯辺の妻をボランティアとして看病した「美津子」、動物を愛する童話作家「沼田」、そして、第二次世界大戦インパール作戦で生き残った「木口」が、それぞれの思いとともにインドツアーに参加し、深い河ことガンジス河に向かう物語である。

 「美津子」のパートに一番の重点がおかれているが、美津子がインドに旅立った経緯は――若いときからずっと空虚感を抱いてきた「美津子」は、だれも愛することができなかった。月並みな男と平凡な結婚をするが、結局離婚し、病院でボランティアを試みたりもするが、心が満たされることはなかった。
 そんなとき、キリスト教系の大学に通っていたころ、残酷に弄んだ神学生大津が、いまインドにいると知って会いに行く。

ボランティアをはじめたのは、そんな彼女の倒錯した気持からだった。愛が燃えつきたのではなく、愛の火種のない女。男との愛欲の真似事だけは何度もやったが、火種に本当の炎がついたためしはなかった。病人の尿器を洗ったり、食事を食べさせたりして、美津子が自分の滑稽さを噛みしめていた頃、大津の手紙を読んだ。 

  なにも信じられない自分が、病院で愛情深い人間のふりをしていることを滑稽に思う美津子と同様に、神を求めて世界を放浪し、ガンジス河にたどりついた大津もどこまでも滑稽で、醜く、無力な存在として描かれている。ガンジス河のほとりで、瀕死の病人の手助けをすることに、いったいなんの意味があるのか?

 しかし、そんな滑稽な行為に執着しているのは、美津子や大津だけではない。妻の生まれ変わりを探す磯辺も、動物が主人公の童話を書く沼田も、仲間たちの鎮魂を願う木口も、だれもが自分の行為を滑稽なものだと感じ、こんなことに意味があるのかと自問し続ける。
 
 先に書いたように、留学生となって、帰りたい帰りたいとわめいたり、気に入らない椅子に頑として座らなかったり(なにがどう違うのか謎だが)、施設のひとたちをえらく困らせている老人たちを眺めていると、そういう光景も、それを見ている自分も滑稽だとつくづく感じる。しかし、そうやって生きていくしかないのだともあらためて思う。
 
 そういえば『沈黙』も、神の目の前で棄教させられる人間の滑稽さやみじめさをとことんまで描き、そんな生に意味があるのかを問うた作品だった。 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 ちなみに、『沈黙』のバックグラウンドを詳しく知りたければ、先にも引用した星野博美の『みんな彗星を見ていた』をおすすめします。 

 スペインやポルトガルの勢力争いと結びついた、西洋のキリスト教布教戦略に、対する日本での 徳川家康などによる風見鶏的なキリスト教対策、それに翻弄される信者と周囲の人間のそれぞれの人生――殉教した者、棄教した者、最終的に弾圧せざるを得なくなった武士たち――が詳細に描かれていて、たいへん興味深く、筆者の熱が伝わってくるノンフィクションだった。