快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

大きな選択を迫られるとき――『ピンポン』(パク・ミンギュ 著 斎藤真理子 訳)『マレ・サカチのたったひとつの贈物』(王城夕紀)

 さて、第四回日本翻訳大賞が『殺人者の記憶法』と『人形』に決まりました。『殺人者の記憶法』は前にも紹介したように、原作も映画もおもしろかったので納得。
 『人形』はポーランドで人気の小説らしいが、手をつけるにはかなり気合のいる長さのよう。いや、『殺人者の記憶法』が中編なので、足して2で割ると考えると大丈夫なはず(?)

人形 (ポーランド文学古典叢書)

人形 (ポーランド文学古典叢書)

 

 それにしても韓国の小説は勢いあるなーとつくづく思い、第一回日本翻訳大賞の受賞作『カステラ』の作者パク・ミンギュの『ピンポン』を読んでみた。 

ピンポン (エクス・リブリス)

ピンポン (エクス・リブリス)

 

  世代的に『ピンポン』というと、どうしても当時きらきら輝いていた(いや、いまも独特の活動をしていると思いますが)窪塚洋介の「アーイキャンフラーイ」が頭に浮かぶ。
 こちらの『ピンポン』も、「ペコ」や「スマイル」と同様に、「釘」と「モアイ」がピンポンにうちこむ青春ストーリーなのかな……と予想しつつ読みはじめたら、思ってたのとぜんぜんちがった。

君と僕は、世界に「あちゃー」された人間なんだよ。

「釘」も「モアイ」も学校でいじめられているのだが、そのいじめのレベルがなかなかえげつない。(えげつないって関西弁かな? 通じるかな) いや、いじめというか、もう完全な犯罪やん、というレベル。

 実際、いじめのリーダーである「チス」は警察に追われる身になったりする。それにしても、このチスの描き方もうまかった。なに食わぬ顔で凄惨な暴力をふるい、周囲に恐怖をあたえて支配する。そして、時おり「釘」に優しい言葉をかけたりするので、そのおそろしさがいっそう際立つ。たまにいるモンスター犯罪者(尼崎や北九州での家族殺人事件など)のパーソナリティってこういうのではないかと、リアルに想像できる。

つまりピンポンというものは、僕の考えでは、人類がうっかり「あちゃー」しちゃったものと、絶対「あちゃー」されないものとの戦争なんだ。

 そして、「釘」と「モアイ」が原っぱでうち捨てられていた卓球台を見つけて、ピンポンをはじめることになるのだが、次から次へとさまざまな人々のさまざまなエピソードが、脈略なく、と思えるほど唐突に、挿入されてなかなか物語は進まない。

 卓球用品店の「セクラテン」による卓球史の語りから、コンビニを経営している夫婦の揉めごと、ハレー彗星を待ち望むひとびと、はてはモアイの従兄がファンだというアメリカの作家ジョン・メーソンの小説が語られたりもする。

 たしかに『カステラ』でも、リアリズムから離れた奇抜な展開があったけれど、短編なので取り残されるほどではなかったが、こちらは話を追うのが少々しんどくなるところもあった。
 
 物語は最後まで失速することはなく、これまた唐突に、「釘」はピンポンを通じて、大きな選択を迫られる。最後の「釘」の選択は、小説のよくある方程式のようなものから外れているかもしれないが、前半にもこうしっかり書かれていることを考えると、この小説を貫く価値観として理解できる。 

理由はただひとつ、僕が誰とも
意味のある関係を
結びたくないからだ。ほんとに、いやなんだ。
人間とは誰とも関係を持ちたくない、関係されたくないし、関係したくないんだ。頼むからって感じだ。なのに何で、なのに何で――僕をほっといてくれないんだ? 

  ディストピア世界を描き、最後に選択を迫られる小説というと、王城夕紀の『マレ・サカチのたったひとつの贈り物』もそうだ。 

マレ・サカチのたったひとつの贈物 (中公文庫)

マレ・サカチのたったひとつの贈物 (中公文庫)

 

  マレ・サカチこと坂知稀は、突然ちがう場所にワープするという(テレポーテーションというのか)「量子病」におかされている。

 いつ、どこに、移動するのかは自分では制御できない。日本の田舎町に行くこともあれば、マンハッタンの繁華街に現れることもあり、灼熱の砂漠に着いたと思えば、極寒の北極圏に跳んでしまうこともある。青い服だけが、動きをともにすることができる。つまり、それ以外の服を着ていたら、裸になってどこかで出没してしまうのだ。そして、行く先々でさまざまなひとと出会い、否応なしに別れていく。

 そんな坂知稀が生きている世界は、資本主義が極度に進んで格差が広がり、一度目のワールドダウンを経て、二度目のワールドダウンを目前にしている。テロとデモが止むことはなく、ひとびとはネットに逃げ場を求めるようになる。 

「これはネット上というフロンティアを急速に拡大させて、永遠の楽土資本主義を現実化するための装置なんだ」ネット上なら、物語も欲望も無限に広げられる。フロンティアは無限だ。人間に欲望がある限り、資本主義は死なない。

  最後に、坂知稀もとある選択を迫られる。この選択は倫理的にもコレクトのように思えるが、コレクトであることが小説の価値になっているわけではなく、量子病ゆえに断片的な出会いと別れをくり返してきた坂知稀が全編でしっかり描かれているから、小説として説得力があるのだろう。 

そしていつか、貴方が見てきたもの、貴方だけが見てきたもので、新しい選択をするの。

  けれども、実生活においては、選択って迫られたくないものですね。すべて流れのまま、なんとなく、なしくずし、という「三な主義」が一番いい処世術のような気がする。