快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

『ストーナー』の訳者が遺した翻訳への愛と情熱、そして脱力ギャグ 『ねみみにみみず』(東江一紀 著 越前敏弥 編)

 さて前回、第四回日本翻訳大賞が決まったと書きましたが、第一回読者賞を受賞した『ストーナー』の翻訳家、東江一紀のエッセイ『ねみみにみみず』を読み、ほんと翻訳家はエッセイがうまいひとが多い、とつくづく思った。 

ねみみにみみず

ねみみにみみず

 

  

ストーナー

ストーナー

 

  「執筆は父としてはかどらず」や「訳介な仕事だ、まったく」という章タイトルからわかるように(?)、翻訳という仕事をテーマとする文章が多数収録されており、翻訳や語学の学習者はもちろん、翻訳本の読者にとっても、非常にためになる本である。

 たとえば、翻訳書につきものの「訳者あとがき」について、作者はこう語る。

訳者が作品について、あるいは作者について、ぐたぐたと、あることないこと(あることばかりじゃ、ページが稼げない)、知ってること知らないこと(知ってることばかりじゃ、箔が付かない)、思ってること思ってないこと(思ってることばかりじゃ、商売にならない)書き連ねるという趣向

  そうだったのか。いや、最後の「思ってることばかりじゃ、商売にならない」というのは、これまでもうっすら勘付いてはいたが、前のふたつについては想定外だった。まだまだ自分は修業が足りない世間知らずだと痛感するが、このあとを読んで、さらに自分の甘さを思い知る。

もうひとつ問題なのは、いえ、問題と言っても、べつに取り立てて書くほどの大問題じゃなくて、ぜひとも皆様にお聞かせしたいほどの中問題でもなくて、実にまあ枝葉末節の、気にするのもばかばかしいようなフォーク、じゃなくてナイフ、じゃなくて瑣事なので、読者諸兄にはすっと読み飛ばしていただきたいのだが、それはつまり、このあとがきを書くという仕事がですね、なんとただ働きだっちゅうことだ。 

  なんということか。訳者があとがきで「ぐたぐたと、あることないこと」を書き連ねるかと思えば、出版社は出版社でそれに一銭も支払っていないとは。翻訳本の現場では、労働にはすべて対価が生じるという資本主義の原則が破壊されていたのだった……

 とまあこんな具合に、随所に、というより、いたるところに、なんなら本題より多く、脱力ギャグを散りばめながら翻訳家の日常生活が綴られている。そのギャグのくだらなさ(いい意味で)やトホホ感は宮田珠己のエッセイに近いかもしれない。
(ちなみに、きのう出町座で行われた、この本の刊行記念のトークイベントに行きましたが、最近はあとがきに原稿料を払う出版社もあるそうです)

 え? 脱力ギャグはともかく、ほんとうにためになるのかって? いやもちろん、実際に英語を訳してみるコラムも収録されている。ひとつ例をあげると 

 George Bush is a fake, a fool, and a wimp.

 という文が課題になっているコラムでは、「ペテン師、ピエロ、ポンコツの3P」とか「インチキ、トンチキ、おまけにチャンチキ野郎」などの読者からの投稿が楽しい。最優秀賞に選ばれた作品については、ぜひ本で確認してください。

 最後の編集後記では、実際に作者が蒐集してきた罵倒語集の一部が披露されているが、これがまたどれもひねりがきいていて感心させられるので、ぜひとも読んでみてください。個人的には「トマトのへた」と「しわん中に顔が同居」が気に入った。 

He has big lips. I saw him suck an egg out of a chicken. This man has got child bearing lips. 

  とはいったいだれの悪口か? これもぜひ実際に本を読んで確かめてください。

 しかし、どれほど脱力ギャグによって埋めつくされていても、作者の壮絶な仕事ぶりもじゅうぶんに伝わってくる。
 「わたし、塀の中の懲りない訳者です」と題されたエッセイでは、七か月間で「ミステリー四冊、ノンフィクション二冊」を翻訳しないといけない「締切り地獄」にいることが語られる。 

というわけで、一念発起、一意専心、猪突猛進、乾坤一擲、委細面談、地獄のワーカホリッキングライクチックフルネスリー生活に突入する決意を固めました。七か月間、わき目もふらずに働きまくるのだ。言うなれば、長期ひとり合宿。執行猶予なしの自主懲役。

  次のエッセイでは「なんでわたしが、錯乱するほど忙しく働かなくちゃなんないのかってこと」について、「ひと言で言えば、食えない」からと書かれているが、もちろん翻訳書が売れなくなり、初版部数がひところの半分になって一冊あたりの収入が減ったというのは事実だろうけれど、それほどまでに文字通りに身を削って働いたのは、やはり仕事への情熱、絶対に手を抜かないという完璧主義が大きかったのではないだろうか。

 先にあげた『ストーナー』の美しい訳文でも、その凄みがよくわかると思うけれど、私のおすすめは(といっても、全訳書を読破しているわけでは全然ないが)、やはりドン・ウィンズロウの『ストリート・キッズ』だ。 

ストリート・キッズ (創元推理文庫)

ストリート・キッズ (創元推理文庫)

 

  ニューヨークの下町を舞台に、父親の顔も知らず、ドラッグ中毒の母親になかば育児放棄されたストリート・キッズのニールが、グレアムという謎の男のもとで探偵稼業をはじめる物語。
 というと、ワルで荒くれ者の(死語ですね)ニールがハードなドンパチ(これも死語ですね)をくり広げるのかと想像するかもしれないが、まったくそうではなく、ピュアで繊細、しかも聡明で、コロンビア大学で英文学を専攻しているというニールのキャラがとっても新鮮だった。
 
 さて、先に引用した訳者あとがきについてのエッセイには、続いて 

いえ、いえ労力に見合う報酬をよこせと言ってるんじゃないの(くれるんだったら、固辞はしないけど)。訳者あとがきにはね、作者と作品と読者に対する翻訳者の無償の愛が込められているのだということを、ちょっとだけわかってほしいのであった。

 とあるが、まさにそのとおり、翻訳の仕事に一生を捧げた東江さんの「作者と作品と読者に対する翻訳者の無償の愛」が、ギャグという含羞(あるいは含羞というギャグ)の合間から、深津絵里、まちがい、深田恭子、いやちがう、なによりも深く(←ちょっと東江さん風に書いてみた)伝わってくる一冊だった。