快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

90年代の失われた青春、そして再生の物語 『アンダー、サンダー、テンダー』(チョンセラン 著 吉川凪 訳)

 さて、アジアシリーズの続き?として、『アンダー、サンダー、テンダー』を読みました。それにしても、『殺人者の記憶法』のときも思ったけれど、吉川凪さんの翻訳はほんとうに読みやすくて、すうっと文章が頭に入ってきます。 

アンダー、サンダー、テンダー (新しい韓国の文学)

アンダー、サンダー、テンダー (新しい韓国の文学)

 

 私は人生で最も秘めやかな真実を、ピピンククスを通して学んだ。  

人は、どの内面にどうしようもない空洞を抱えていても、生きていけるということを。悲劇と同じくらい、ククスの薬味や調味料も重要なのだということを。 

  韓国の郊外、坡州(パジュ)の町でこの物語ははじまる。北朝鮮との国境に近いという以外になんの特徴もないこの町では、「水タンク」といった適当な名前がつけられたバス停をオンボロバスがガタコトと走り抜け、「私」はソンイやチョンギョム、スミやミヌンといった仲間たちと高校に通っている。

 そんな町に、ある日突然、安藤忠雄風の打ちっぱなしの家(韓国でも「安藤忠雄風」というのは、コンクリート打ちっぱなしの代名詞らしい)が建てられ、ジョヨンがインドからの転校生として、「私」たちの通学仲間に加わる。

 ジョヨンと仲良くなった「私」が、その殺風景な家に遊びに行くと、ジョヨンによく似た少年がいた。少年はジュワンといい、ジョヨンの一歳上の兄だった。学校にまったく行かずに、家でひたすら映画を観て過ごしているらしい。ジョワンに魅かれた「私」は、毎日のようにジョヨンの家に通いつめるようになる……
 
 と、現在の「私」が1990年代の高校時代を回想するという、過去と現在が交錯するスタイルの物語である。三十代になった私は、映画の美術係から映像作家となり、ピピンククス屋を営む親や、ソンイやジョヨンといった高校時代の友人など身近な人間を撮影している。

思えば、私はあの時もMDレコーダーにマイクをつけて友人たちの声を録音したりしていた。結局、大人になればすごいことができるようになるのではなく、もともとやっていたことを本格的にするようになるのだろう。

 高校時代の「私」がジュワンをはじめて見て、ポール・マッカートニーみたいだと思う場面は切ない。

 といっても、90年代の高校生である「私」は、もちろんビートルズ世代でもなんでもなく、ポールのことを「しょっちゅう結婚するイギリスの変なじいさん」くらいにしか思っていなかった。
 けれども、ジュワンとポールが結びついたあとでは、ビートルズを聞き、ウィングスでかすかに聴こえる妻のリンダの声に耳をすませる。ポールとリンダが互いにとってかけがえのない唯一無二の関係だったことを知り、「私」は思いをはせる。

リンダ・マッカートニーが1998年、私がジュワンに会う一年前に死んで以来、ポール・マッカートニーが彼女に似た女性たちと何度も結婚しなければならなかった理由を。
二人のような関係は、一生を支配する。そんな愛は終わっても終わらないけれど、取り戻すことはできない。

 一生を支配する関係。失ったら、ジュワンの言葉でいう「マルファンクション」になってしまう相手。高校時代の「私」も、そして「私」はいまもまだ、その関係に、その相手に絡みとられている。

 高校時代の「私」とジュワンは、週ごとにテーマを決めて映画を観ていた。「ウォン・カーウァイ週間」「ウッディ・アレン週間」……。そして、「私」はいまもカメラをまわしつづけている。

 私自身も(この小説のなかの「私」ではなく、このブログを書いている私です)最近つくづく感じることですが、ひとは結局、十代にすりこまれた価値観から脱却することはなかなかできず、そのとき追い求めたものを死ぬまで追い続けてしまうのではないか、と。この小説の「私」のように、「一生を支配される」相手に具体的に出会ったわけではないけれど、そう思えてならない。

 「私」のみならず、高校時代から郊外の町では浮いてしまうくらい、とんがったお洒落をしていたソンイは、のちにちょこっと整形をして、フラッグシップ(大韓航空ですね)のCAとなり、最終的にはニューヨークへ旅立つ。高校時代から読書家で聡明だったジュヨンは編集者となり、編集の仕事に幻滅したあとも留学して勉強を続ける。
 
 しかし、前回の映画『タクシー運転手』で描かれた1980年の韓国は、遠い昔の光景のように思えたが(いや、日本も1980年はあんな感じだったのかもしれないが)、90年代の青春は日本も韓国もほとんど同じだということも強く印象に残った。私もMDを聞いてミニシアターに行き、ウォン・カーウァイウッディ・アレン、そしてもちろん、『パルプ・フィクション』などのタランティーノ作品を観ていました。


 この物語は、高校時代を描いたまぎれもない青春小説であると同時に、それ以降の「私」が、悲劇によって失われた青春から再生する小説でもある。完全な「マルファンクション」に陥った「私」が、徐々に立ち直っていく過程が描かれている。

 失われた青春から再生する、といま自分で書いたけれど、それは青春に別れを告げることなのか、青春を再び甦らせることなのかは、考えてもよくわからない。ただ、この物語の「私」は、ジョヨンの助けも得て、映像作家としてのキャリアを歩きはじめる。

 また、この悲劇で破壊されたのは「私」だけではない。ある意味、坡州の町の共同体が破壊されてしまう。

 そこから読み直すと、冒頭からバス通学の場面などでさりげなく描写されていた、ソンイ、スミ、ミヌン、チョンギョムといった仲間たちの境遇が伏線となっていることに気づく。「私」やジョヨンのみならず、仲間たち全員がそれぞれ悲劇を乗りこえて、自分の道を進んでいくところがきちんと描かれているので、後味のいい小説だった。 

人のいないバス停には匂いだけが残っていた。なじみのある匂いだけれど、名前を知らない。風船ガムの匂いだけを残したのは誰だろう。なぜだか、知っている人のような気がした。