快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

どうして女が自分を肯定することは、こんなにむずかしいのだろう? 「BUTTER」(柚木麻子)

 どうして私たちは木嶋佳苗に注目してしまうのだろう? 

 木嶋佳苗をめぐる事件は、まるでプリズムのようにさまざまな角度から語ることができる。援助交際、性の売買、婚活、女の容姿、「家庭的」な女、父と娘、母と娘、地方と東京、セレブ志向……

 柚木麻子の『BUTTER』ではこう語られる。

こんなにもこの事件が注目されたのは彼女の容姿のせいだろう。美しい、美しくない以前に、彼女は痩せていなかったのだ。このことで女達は激しく動揺し、男たちは異常なまでの嫌悪感と憎しみを露わにした。…… 女は痩せていなければお話にならない、と物心ついた時から誰もが社会にすり込まれている。 

BUTTER

BUTTER

 

  この小説は、週刊誌記者の里佳が、木嶋佳苗をモデルにしたと思われる梶井真奈子、交際していた男を次々に殺したとして刑務所に入っている“カジマナ”に独占取材を試みるところからはじまる。

 しかし、ボーイッシュでスレンダーな里佳は、女子高時代は女子からラブレターをもらう王子様的な存在であり、食べることにもさほど興味がなく、“カジマナ”とはあまりに対照的で、どこから取っ掛かりをつけたらいいのかもわからない。

 そこへ、里佳の学生時代からの親友であり、いまは専業主婦をしている伶子が「料理好きな女にはレシピを聞いたらいい」と助言する。そうして料理の話題から“カジマナ”に接近した里佳は、まるで“カジマナ”に洗脳されたかのように次から次へと食べはじめ、あれほど細かった身体の線はすっかり崩れてしまう……

 この小説では、「自己肯定」、自分を愛して大切にするとはどういうことなのか? という角度から、“カジマナ”をめぐる事件と、里佳をはじめとする登場人物たちを描いている。

 上記の引用にあるように、多くの女は、きれいでいないといけない、太ったらダメだ、醜い女には価値がない、と強くすりこまれている。

 醜くてなにが悪いのか? 男に選ばれないから? 男に選ばれないといけないのか? 
 と、つきつめて考えると、たとえ実際に男から選ばれることを求めていなくても、男から見て(多少なりとも)「魅力的な女」でないといけない、というすりこみがあるのは事実だ。

 そうでなければ、男からはもちろん、同性である女からも蔑まれるような気がする。人並みの容姿でなければ、身の程をわきまえて、分相応に振る舞わなければいけない。つまり、いわゆる「ブス」のくせに自信満々だったら物笑いの種になるような気がする。

ところが、梶井は何よりもまず、自分を許している。己のスペックを無視して、自分が一人前の女であることにOKを出していたのだ。大切にされること、あがめられること、プレゼントや愛を与えられること、そして労働や集団行動など苦手なものから極力距離をとること。それらをごく当たり前のこととして要求し続け、その結果、自分にとっての居心地の良い環境を得て超然と振る舞っていたのだ。

 そう、だから“カジマナ”、あるいは木嶋佳苗は、女たちからある種の喝采を浴びたのだ。
 太っているのにもかかわらず、まったく物怖じすることなく欲望を全開にし、男に近づいて堂々と金を巻きあげ、そして最終的には息の根まで止める(比喩ではなく)姿が、常に男の視線にジャッジされることに脅え、せめて人並みの容姿を維持しようと汲々としている女たちから、ある種の羨望のまなざしをむけられたのだ。

 この小説の主人公里佳は、これまで自分の欲望とむきあったことはなかった。しかし、「バター醤油ご飯を作りなさい」からはじまる“カジマナ”の手ほどきを受け、「自らが欲するもの」について真剣に考えるようになる。

 そして体型が変わるにつれて、太っている女(里佳はそれまでが細すぎただけだが)がどれだけ世間から冷たい目で見られるかということにも気づく。ついには、自分のこれまでの人生ををふりかえり、蓋をしていた父親との記憶にも対峙するようになる。
 
 一方、親友伶子は、“カジマナ”に洗脳されてどんどん太っていく里佳に恐怖を感じ、“カジマナ”に激しい反発を覚える。

 もともと“カジマナ”と接点のなかった里佳とちがい、料理好きであるが肥満とは無縁の体型で、完璧に家事をこなし、きちんと「母」になるために仕事を辞めた伶子は、“カジマナ”とは「裏と表」ともいえる関係にある。里佳の知らないところで、ひとりで勝手に“カジマナ”について調査した伶子は、ひとつの疑問への答えを求め、思いもよらぬ行動をとる。
 どうして男は華奢で美しい自分より、“カジマナ”に癒しを求め、欲情するのか?
 
 どうして女が自分を肯定することは、こんなにむずかしいのだろう? と、あらためて考えてしまう。 

 また、この小説は女の自己肯定だけを描いているわけではない。男にも焦点をあてている。 
 どうして男たちは、あれほどたやすく“カジマナ”にひっかったのか? ちょっと料理を作ってもらっただけで、話を聞いてもらっただけで、全面的に(何度も何度も睡眠薬で眠らされるほど)自分の存在を託してしまったのか? 
 
 ここで“カジマナ”に関わった男だけでなく、先に触れた里佳の父親も浮上する。里佳の父親は、母親が里佳を連れて家を出て行ったあと、自暴自棄な生活を送るようになって、早々に死んでしまったのだ。
 どうして彼らは、自分で自分の面倒がみれないのか? ケアをしてくれる女が去ってしまうと、まるであてつけのように、自分を痛めつけるような生活を送るのか? 

男性を喜ばせるのはとても楽しいことで、私にとっては、あなたが思うような『仕事』ではないの。男の人をケアし、支え、温めることが神が女に与えた使命であり、それをまっとうすることで女はみんな美しくなれるのよ。……
話す内容とは裏腹に、梶井の顔は激しい怒りと苛立ちでじわじわと歪みつつあった。 

 “カジマナ”は男が憎くて犯罪をおかしたわけではない。少なくとも自分ではそれを否定し、男性を喜ばせ、ケアを与えることが女の使命だと語る。フェミニストが語る「女の自立」なんて、“カジマナ”にとっては寝言以下だ。

 しかし、自分が殺したとされている男たちについて語り出すと、口調は冷ややかになり、軽蔑といらだちが露わになる。

婚活市場にいるような男性の、理想のタイプって、突き詰めると生命力をできるだけ感じさせない女ってことよ。死人とか幽霊がベストなんだと思う。
そう、現代の日本女性が心の底から異性に愛されるには『死体になる』のがいいのかもしれない。そういう女を望む彼らだって、とっくに死んでいるようなものなんだもの。

 まるで19世紀の小説のように、この小説では、登場人物たちによる議論がえんえんと交わされる。

 しかし、最終的には、作者はなにも結論づけることはなく、登場人物たちがそれぞれ抱えた悩みがはっきり解決されることもなく、また、いわゆる“イヤミス”にありがちな破綻にむかうこともない。
 なにひとつとして、だれひとりとして――“カジマナ”ですらも――断罪されない。

 ネットの感想などを見ると、そこが中途半端だと不満を抱いているものもいくつかあったが、それこそがこの小説の一番大事な意図なのではないだろうか。
 なぜなら、これほどまでに女が、そして男も、生きづらくなったのは、まさに「女は(男は)こうでなければいけない」という断罪する姿勢のせいなのだから。

 なにひとつ変わらなくても、変わろうとしなくても、そのままであなたは肯定される、あなたには「居場所」がある――こういってしまうと怪しげな自己啓発本のメッセージのようでナンですが、この小説の着地点は、まさにそのことを描いているのだと思った。