快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

ささやかで中途半端な逃避行 『黄色いマンション 黒い猫』(小泉今日子 著)

 月曜日、古川橋駅京阪電車がいきなり止まった。車内灯が消え、エアコンも止まる。

 停電したので、各車両の一番後ろの窓を手動で開けてくださいと車掌からのアナウンスが流れた。乗客が職場に電話をしはじめる。私も電話をして、ランチミーティングのお弁当の手配をまだしていないことと、そもそも自分が昼までに行けるかどうかわからないと連絡した。

 そうこうしているうちに車内の温度が上昇し、車掌室のドアが開かれ、下車したいひとはここから降りるように言われた。運転再開がいつになるかわからないと言うので、電車を降りて、振替輸送をしている駅へ進んだ。

 日が照りつけるなか一駅分歩いて、伊丹空港行きのモノレールに乗る。すると心の声が聞こえる。

 仕事もランチミーティングも放り出して、伊丹まで行って飛行機に乗ってしまいたい。いや、空港まで行かなくてもいい。万博公園太陽の塔を眺めたっていい。みんぱくで変なお面を見てもいいし、ニフレルでカピバラと遊んでもいい。(万博公園には国立民族学博物館と、動物園とミュージアムのあいのこみたいなニフレルがあるのです)


 けれども、やっぱり次の駅でモノレールを降り、地下鉄に乗りかえて会社へむかった。

 やはり逃避行は難しい。すべてを捨てて遠くへ旅立つなんて、そうそうできることではない。捨てるものなんてたいしてないはずなのに。 

四十三歳から四十六歳までの三年間、私はこの海の景色を眺めながら猫と二人で静かに暮らしていた。

  キョンキョンこと小泉今日子のエッセイ『黄色いマンション 黒い猫』には、「小さな乗用車に積めるだけの荷物を積んで、ほんの思いつきだけで」東京から葉山に移住した、「謂わば、ちょっとした逃避行」が綴られている。 

黄色いマンション 黒い猫 (Switch library)

黄色いマンション 黒い猫 (Switch library)

 

  私、何かを間違えているのかもしれない。なんか危険だな。この先の人生を豊かに生きるためにするべきことを見つけなければならない。まずはこの場所からの脱出だ。

  私もいま、大阪の片田舎で(あえて選んだわけではなく、予算の範囲内で猫が飼えるマンションを探すと、必然的に片田舎に行きついたのだが)もちろん海はないけれど、横に田んぼがあるマンションで、猫とふたり暮らしをしている。

 なので、逃避行ムードにひたることもあるけれど、もっと本格的な逃避行に憧れたりもする。海が見えるところ、あるいは、うっそうとした森や山奥にひきこもり、仕事やこれまでの知りあいもぜんぶ捨てるーー

 もちろんそんなことそうそうできるわけもなく、キョンキョンだって仕事のたびに東京に通う「とっても中途半端」な逃避行で、贖罪のような、修行のような日々だったと書いている。
 たしかに、外国にひとりで旅行に行ったりすると、解放感を感じるよりも、修行しているような気分になるときがある。次になにがおきるのかわからない不安や心もとなさ。

 そして、逃避行にせよひとり旅にせよ、かならず終わりが来る。終わりがなければ逃避行でもなんでもない、ただの日常になってしまう。キョンキョンは朝ドラという新しい仕事の波に乗るために、東京に戻ることを決める。

 ちょうどそのとき、逃避行の終わりを象徴するような、あるいは最大の修行とも言えるような、思いもよらぬ悲しい出来事、「人生最大の悲しみ」がやってくる。

あの子は私を笑わせてくれました。私を励ましてもくれました。どれだけ愛情を注いでも変わることなくいつも側にいてくれました。愛って言葉の意味を初めて理解できたような気がしたんです。 

  この愛猫への言葉には、思わず涙が出てしまった。
 かなわぬ逃避行を夢見つつ、結局毎日朝が来ると働き、夜になると猫と一緒に眠る自分には、あらゆるくだりでつい共感してしまうエッセイだった。

  いや、私も頭わいてる(←関西弁でいう”crazy”です)わけではないので、私が子どものころから超スーパーアイドルだったキョンキョンと自分とのあいだには、「人間である」とか「性別が女」くらいしか共通項がないのは重々承知しているが、それでもなんというか、腑に落ちるというか、だって

私はこのまま死ぬまで誰に対しても本当に意味で心を開かないまま生きていくのかしら? と、ふと考えてしまうことがある。今のところ九年間一緒に暮らしていた愛猫だけが私の全てを知っているような気がする。

  こんな一節には、いつのまに私の気持ち見抜かれたの? なんて思ってしまう。

きっと死ぬまでずっと修行は続くのだろう。だから人は考えることを止めないし、だからこそ人生は楽しいのだ。神様だって苦行ばかりを強いたりしないはずだもの。 

 そう、死ぬまでずっと修行なんだろう。ダンテの『神曲』のように、天国に行くためには、地獄と煉獄をめぐらなければいけないのかもしれない。

 でも、「人生最大の悲しみ」にはまだまだ遭遇したくないけれど……なんて考えていたら、うちの子が、なにを考えているんだ!と叱責するかのように、ニャアと言って壁をひっかきはじめる。私のささやかで中途半端な逃避行、うちの子との同行二人はまだまだ続きそう。