快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

未来を思い出す――『あなたの人生の物語』(テッド・チャン著 浅倉久志ほか訳)そして『スローターハウス5』

あなたを授かるあの晩、あの夜にまつわるお話は、してあげたいのはやまやまなんだけど、それにふさわしいのはあなたが自分の子を持つ用意ができたときでしょうし、わたしたちはその機会は持たずじまいになるの。

   最近、訃報や病気のニュースが多く、生と死について、いろいろ考えてしまう。生の延長線上に死はあるのだろうか? それとも、まったく異次元に存在しているのか? そもそも、時間というのはまっすぐに流れているのだろうか?

  そんなことを考えてしまうのは、テッド・チャンによる短編集『あなたの人生の物語』の「あなたの人生の物語」を読んだからでもある。 

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 

  この短編は、主人公「わたし」による娘への語りかけと、「わたし」が言語学者として召集され、捕らわれたエイリアンであるヘプタポッド(7本脚)と接触して、その言語を理解しようとするストーリーが交互に描かれている。

 しかし、後者のストーリーは、通常の物語のようにできごとが過去から未来へと直線的に語られるのに対して、娘への語りかけは時系列がランダムだ。ときにティーンエイジャーの娘の姿が語られたかと思うと、赤ちゃんの頃の思い出、そして25歳になった娘の運命まで語られる。いったい、どこの時点から「わたし」は話しているのか??

 実は――ネタバレになるかもしれませんが――「わたし」は〈ヘプタポッドB〉と呼ばれるエイリアンの書法体系を学ぶことで、未来を知るようになったのである。単なる予測などではなく、過去に起きたことと同じように、未来についても詳しく知ることができるようになった。つまり、「わたし」は、自分の運命も娘の将来もすべて見通したうえで語っているのである。 

未来を知ることは、ほんとうに可能なのか? たんに未来を推測するというのではない。さきになにが起こるかを、完全なる確信と明確な詳細をもって知ることは可能なのか?

 ……といっても、いったいどういうこと? とお思いでしょう。この短編では、魔法や超常能力で未来を知ることができると書かれているわけではなく、光の屈折といったフェルマーの原理などから、その理論が説明されているのだが、正直、私にはあまり理解できなかった。 


 ただ、未来は現在の延長線上にある「まだ起きていないこと」ではなく、過去も現在も未来も同じようにすでに存在しているという設定は、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』でも描かれているので、物語内容に入りこむことができた。 

 

ビリー・ビルグリムは時間のなかに解き放たれた。

ビリーは老いぼれた男やもめになって眠りにおち、自分の結婚式当日に目覚めた。あるドアから1955年に入り、1941年、べつのドアから歩みでた。そのドアをふたたび通りぬけると、そこは1963年だった。自分の誕生と死を何回見たかわからない、と彼はいう。そのあいだにあるあらゆるできごとを行きあたりばったりに訪問している。

 『スローターハウス5』では、戦争帰りの主人公ビリーが人生のあらゆる時間に無作為に放りこまれ、はてはトラルファマドール星まで行ってしまう。 

わたしがトラルファマドール星人から学んだもっとも重要なことは、人が死ぬとき、その人は死んだように見えるにすぎない、ということである。…… あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのである。

 テッド・チャンによるこの短編集の「作品覚え書き」でも、この話のテーマをもっとも端的にまとめたものは、『スローターハウス5』25周年記念版の自序でカート・ヴォネガットが語っているこの文章だと書かれている。 

未来を思い出すことなど、いまのわたしには児戯に等しく思える。……わたしより若い連中みんなにこう言ってやりたい。「しんぼうしていたまえ。諸君の未来は、諸君が何者であろうと、諸君のことをよく知り、愛してくれる飼い犬のように、諸君のもとにやってきて、足下に寝そべるだろう」と

  しかし、未来とは、自分の意志でいくらでも変更可能なものではないのか? 人間には自由意志があるかぎり、未来を知るなんて不可能なはずだ、という自由意志の問題がある。運命とは変えられない定められたものなのか?
 『スローターハウス5』では、「自由意志」なんてものは地球人の寝言のように片付けられているが、「あなたの人生の物語」では、「ボルヘスふうの寓話仕立て」でこの問題を解き明かしている。ぜひ読んで確認していただきたい。

 所詮SF、つまり小説なのだから、未来を知るとか荒唐無稽なことだっていくらでも書くことができる。そう思うかもしれない。しかし、ほんとうにそうだろうか?

 私たちは、確実な未来を知っている――生まれた者は、必ず死ぬことを。では、死ぬことはわかっているのに命を育むのは無駄なのだろうか? そんなことを考えさせられる小説である。

 また、ご存じの方も多いでしょうが、この小説は映画『メッセージ』の原作でもある。映画は未見なので、この小説がいったいどんなふうに映像化されたのか、まったく想像もできない。

 この短編集『あなたの人生の物語』は、このタイトル作以外もすべて珠玉の短編である。科学はもちろん、SFにもそんなに詳しくない私には理解が難しい作品もあったが、どの作品も二度三度読み返して、考えこんでしまうものばかりだ。

 『顔の美醜について』は、顔の美醜を判断する能力を奪う装置“カリー”が発明された世界を描いている。相貌失認という顔の判別ができなくなる病気は実際に存在しているが、この小説では判別はできるけれど、美醜についてだけわからなくなるのだ。
 まったく難しくなく、さくさく読むことができるユーモラスな作品だが(ユーモアSFの第一人者である浅倉久志訳)、ルッキズム現代社会の最大の差別かもしれないということを気づかせてくれる。


 『地獄とは神の不在なり』は、生まれつき脚に障害のあるニール・フィスクが最愛の妻に先立たれてからの地獄めぐりのような人生を描く救いのない話であるが、どことなく乾いたユーモアも感じられ、「あなたの人生の物語」と同様にヴォネガットに似たテイストがある。

 人生とはこんなに惨めなものなのに、神はほんとうに存在するのか? という命題については、遠藤周作の小説にもつながるものがあるかもしれない。テッド・チャンヴォネガットと同じく無神論者らしいが、キリスト教圏の国で無神論者を表明することと、日本のように事実上無神論の国で信仰の表明をすることは、似た立ち位置なのかもしれない。神の在/不在について真剣に考えている証として。

 
 そのほか、数学の不可能性の証明と夫婦関係の終わりが語られる『ゼロで割る』や、産業革命時代のパラレルワールドを描いた『七十二文字』なども印象深かった。テッド・チャンの作品をほかにも読んでみたいと思ったが、かなり寡作な作家らしく、本になっているのはこれだけのようだ。まずは映画『メッセージ』を見ようかな。