快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

11/25 『アメリカ死にかけ物語』トークライブ リン・ディン&岸政彦@スタンダードブックストア心斎橋

 『アメリカ死にかけ物語』発売記念として行われた、リン・ディンさんと岸政彦さんのトークライブに行ってきました。

 前作の『血液と石鹸』を読んだきっかけは、柴田元幸さんが訳しているからという単純なものだったけれど、ベトナムからアメリカに移民したバックグラウンドも影響しているであろう寄る辺のない無国籍な世界、ときに悪夢のように不穏でありながら、シュールでユーモラスな詩のような物語にひきつけられた。 

戦争こそ唯一本物のゲーム、唯一プレーするに値するゲームと確信して、彼は傭兵たることに身を献げ、1971年のインド=パキスタン戦争に参加して指を一本失い、第四次中東戦争で右足を失い、フォークランド紛争で顔の右半分を失い、湾岸戦争で顔の左半分を失い、1995年のシエラネオネ内戦でもう1本指を失った。
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彼女は突然、夫の誕生日も、子供たちの名前も、夫の顔も、夫を裏切ったことがあるかどうかも、そもそも自分が結婚しているかどうかも思い出せなくなった。(「一文物語集」より) 

血液と石鹸 (ハヤカワepiブック・プラネット)

血液と石鹸 (ハヤカワepiブック・プラネット)

 

  次の作品は出るのかなと思いながら時は流れ、ようやく出たこの本は、意外にも小説でも詩でもなく、作者がアメリカ中をまわって出会った人々を描いたノンフィクションというのか、地べたからのリアルな声が凝縮されていた。 

俺は移民であり、大学中退者で、生まれてからずっと金で失敗してきた。アメリカではアウトサイダーなわけだが、この本の登場人物たちもみんな同じだ。アメリカを横断する間、30年住んだフィラデルフィアで既に馴染みのあるような人々に、引き寄せられるように出会った。……彼らはいわゆる “社会の底辺” に属している。しかし、そうした人たちの数は容赦なく増え続けているので、“底辺の大多数”と呼んだ方が適切かもしれない。 

アメリカ死にかけ物語

アメリカ死にかけ物語

 

  作者はえんえんと長距離バスに乗り、繁栄から取り残された町の寂れたバーに行き、けっしてメディアでは取りあげられない人々の話を聞く。
 いや、ここ最近は取りあげられているかもしれない。「こういうひとたちがトランプを支持しているのだ」と、高学歴でリベラルな報道人たちから「学のないホワイト・トラッシュ」の代表として。

 また、社会学者である岸政彦さんも、長年にわたり大阪や沖縄で様々なひとたちの生の声を聞きとっているため、この本に強いシンパシーを感じて帯文を書き、今回のトークライブの聞き手となったとのことだった。 


 『血液と石鹸』での野蛮なようで繊細な文体、詩を書いてアメリカ各地をまわって朗読し、アメリカの“底辺”を描いていること……などから、チャールズ・ブコウスキーのような姿が頭に浮かんでいたのだが、実際のリン・ディンさんはアジア人で(いや、わかってたけど)、まるでタイのお坊さんのような穏やかな物腰のひとだった。

 前日、岸さんが大阪、鶴橋のコリアンタウンや西成の釜ヶ崎を案内したそうで、リン・ディンさんは大阪が『アメリカ死にかけ物語』の世界と非常に似通っていることに感銘を受けたようだった。
 ちなみに、東京では六本木なども行ったそうだがピンとこず、川崎でやはり似たものを感じて安堵したらしい。

 また、その様子はご本人のブログで写真を見ることができる。この本も原著は写真が掲載されていたが(オリジナルタイトルが “Postcards from the End of America”なのだから)、翻訳本に載っていないのが残念、と岸さんが語っていたけれど、たしかにブログの写真もすばらしい。(写真を見る目など持っていない私から見ても)

 トークの内容は盛りだくさんで充実していたので、すべてを詳細にレポートするのは難しいが、まずはこの本のテーマであるアメリカ、アメリカの真の姿についての話になった。
 いくら観光でニューヨークや西海岸を見ても、ほんとうのアメリカを見たことにはならない。一般に報道されない、知られていない場所にこそ真の姿があると。

 リン・ディンさん曰く、アメリカの真の姿が見える場所のひとつは、フィラデルフィア近郊のカムデンらしい。
 ご存じのように、フィラデルフィアは独立宣言が起草された、アメリカ誕生の地である。さらにカムデンは、アメリカ精神の父とも言える詩人ウォルト・ホイットマンが暮らした町でもあり、家と墓が保存されているらしい。

 ところが、この本にも書かれているが、アメリカでもっとも危険な町のひとつに常にランクインされるカムデンの住人は、だれもホイットマンなんて知らず、何それおいしいの? という事態らしい。

 アメリカがこんな状態に陥ったのは、やはり経済的な問題が大きいとのこと。
 雇用がない、貯金もない、家賃も学費も高くて払えない、アメリカはなにも生みだしていない、いま身に着けているものもアメリカ製なんてなにひとつない……そして、雇用を取りもどす、アメリカを再び偉大にするとぶちあげたトランプに大衆は希望を感じてしまった、と。

 海沿いに生息する(というと甲殻類みたいですが……まあ東海岸・西海岸です)知識人によるリベラル層も、大陸の真ん中に生息する大衆に目をむけない。
 リン・ディンさんはリベラルなメディアに政治的な書き物を寄稿したこともあるが、抽象的な話には食いつきがいいのに、具体的な人々の話には興味を抱かないという傾向が見られたそうだ。

 そこで、そんなアメリカと非常に似通っている大阪の話にも。
 経済がどんどん沈み、カリスマ的な政治家に希望を見出して熱狂するが、結局どうなったかというと、病院などの生活に必要なインフラや文化への予算がどんどん削られ、生活がますます苦しくなるなか、どういうわけか万博を誘致する現状について。

 維新政治が導入したもののひとつに「民営化」があるが(悪評高い民間校長とか)、それによって主要な公園も入場料が必要になり、岸さんがツイッターでそれに異議を唱えたところ、「その方が公園がきれいになっていい」というリプが大量に届いたらしい。

 入場料が必要なら、DQN層(岸さんはこんな言葉を使ってませんでしたが)やホームレスが入りこまないのでいいと考えているひとが多いようだ。
 そこに大衆の分断化、中産階級による底辺層への見下しが感じられると岸さんは話していた。大衆を分断するのは支配層の常套手段だと、リン・ディンさんも語っていた。


 それにしても、客観的に考えても、夢洲から関空への人工島って、海沿いなので地盤も緩く、地震や台風で完全に麻痺することが今年あきらかになったところなのに、万博を誘致するって正気か?? と思いますが。

 インフラにしても、病院不足のみならず、うちの近所にある中学校、建物が黒ずんでボロボロなため廃校になっているのかと思いこんでいたら、まだ生徒が通っていると知って仰天したりと、ほんとどこもかしこもオンボロなのだが……。

(それにしても、1970年の大阪万博がやたらひきあいに出されるが、世間的には忘れられている1990年の花博はどんな感じだったんだろう? 近所なのに行ってもいないし、子どもだったので ”花ずきんちゃん”しか覚えていないが)

 こういった分断化は、アメリカや大阪だけではない。移民問題に揺れるヨーロッパも同じか、あるいはもっと深刻であり、リン・ディンさんは、アメリカやヨーロッパよりは東アジアに希望を見出しているとのこと(”move forward”と言っていたような)。

 そうかな…? とつい思ってしまうが、リン・ディンさんはシビアな現実を綴りつつも、けっしてシニシズムに陥らず、対話を通して互いに理解し、未来を築くことができると考えているようだった。

 客席との質疑応答でも、そんな信念が感じられた。
 客席からは、ツイッターの自己紹介で「日本を愛する“ふつう”の日本人です」などと書いている人々の言う、“ふつう”とは何なのか? とか、ヘイトスピーチをするような人たちとも関係を築くことができるか? など、差別意識や右傾化が露わになってきた現在を反映した質問がいくつか出たが(しかも質問した方たちはみんな若く、ほんと偉いな~と思った)、リン・ディンさんはやはり対話に重きを置いているようだった。

 リン・ディンさんはこの本を書くにあたり、出会った人々の話し方をありのままに再現するよう注意を払ったと語っていたが、「対話に重きを置く」とは、けっして judgmental なものではなく(突然ルー大柴のようになってしまったが)、批判や分析などをせず、まずは相手の言うことをありのままに受けとめる姿勢なのだろう。

 岸政彦さんが『断片的なものの社会学』のイントロダクションで書いていたことに通じると思った。断片を断片として大事に扱い、おおまかに一括りにするのではなく、自分の思想や信条の正しさを証明する材料にするのでもなく、ひとりひとりの話をただただ聞く姿勢。 

社会学者として、語りを分析することは、とても大切な仕事だ。しかし、本書では、私がどうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたいと思う。……この世界のいたるところに転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まってこの世界ができあがっていることについて、そしてさらに、そうした世界で他の誰かとつながることについて、思いつくままに書いていこう。 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 と、聞きごたえのあるトークライブだった。行ってよかった。
 あと、リン・ディンさんの通訳をされていたのは、翻訳の小澤身和子さんだったのではないかと思うが(「ミワコ」と呼ばれていたので)、この本の翻訳についての話も聞きたかったかな。