快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

ディケンズとクリスマス 『Merry Christmas! ロンドンに奇跡を起こした男』と『クリスマス・キャロル』(池央耿 訳)

 さて、きょうはクリスマス・イヴ。

 ここ数年は本気でその存在を忘れてしまいがちなクリスマスですが、実は19世紀においても、すでに廃れつつある行事になりかけていたらしい。

 という事実を、先日映画『メリークリスマス ロンドンに奇跡を起こした男』を見て知った。想像していたよりずっと、ディケンズの生涯やヴィクトリア朝の世相に肉迫した映画で、かなり見応えがあって楽しめた。 

merrychristmas-movie.jp

 『オリヴァー・トゥイスト』などで一躍人気作家になったディケンズだが、ここ数年はヒット作に恵まれず、その一方、子どもは次から次へと生まれ、生活が苦しくなりつつあった。
 アメリカでの講演旅行は好評だったが、アメリカでは海賊版が横行していて、いくら本が売れても自分の懐にはまともに入ってこず、頭が痛い。(ここも史実に忠実)

 そこで、クリスマスをテーマにした本を作ろうと思い立つが、周囲からはクリスマスなんて、ただ家で過ごすだけでなにひとつおもしろいことのない、シケた行事じゃないかと言われる。しかし、ディケンズは屈することなく、自ら挿絵画家のジョン・リーチを説得し、出版の準備を進める。 

クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)

クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)

 

 が、突然両親がロンドンの家にやって来る。昔から変わらない、よく言えば豪放磊落、悪く言えばだらしない父親の姿を見て、子ども時代のトラウマが蘇り、仕事どころではなくなるディケンズ。そんなディケンズの前に、自分がいま書いているはずのスクルージがあらわれる……

 映画の中で再三描かれていた、ディケンズのトラウマである靴墨工場も、もちろん史実に即している。

 かつて両親と姉は、父親の借金のため債務者監獄に入れられたことがあり、ひとり残された12歳のディケンズは靴墨工場での労働を強いられたのだ。
 以前『絶倫の人』を紹介したウェルズも、苦しい家計のため、呉服屋の丁稚奉公をさせられたことがトラウマになったようだが、12歳ながら靴墨工場で働かされたディケンズの方が上ですね。
(しかし、当時革靴は非常に高価なものであり、靴墨工場は破格の給料だったらしいので、労働と稼いだ額の比率で考えると、ウェルズの方が損だったかもしれない)

 ただ、ディケンズがとくに異例だったわけではない。産業革命まっただなかのヴィクトリア朝では、児童労働はまったく珍しいことではなかった。

 スラムに生まれた子どもたちは、煙突掃除や路上のごみ拾いなど散々にこき使われて健康を損ね、深刻な社会問題となっていた。
 そこで、チャールズ・キングズリーが煙突掃除の子どもを主人公にした小説『水の子』を発表し、ディケンズも『荒涼館』において、どこに行っても追い払われる路上掃除の少年ジョーを登場させたり、作家たちはそんな社会を告発していたのだ。

 

 この映画でも、スラム育ちと思われる汚い子どもたちが、随所できちんと描かれていた。そして、『クリスマス・キャロル』のインスピレーションの素となる、ディケンズ家の若いメイドのタラも、救貧院出身の身寄りのない子どもという設定だった。

 

 そして、そんなディケンズの前にスクルージがあらわれるのだが……

 しかし、『クリスマス・キャロル』をいま読んでみると、スクルージ、そこまで悪いやつなのか? と思ってしまう。
 恵まれない他人のことなど一切無視して、自分の稼いだ金を必死に守る……現代社会では当たり前の姿のように感じる。 

「今のあなたは拝金主義」

「商売は誰に恥じることもない、正々堂々の行為だ! 世の中に、貧乏ほど始末の悪いものはない。それなのに、金儲けというと、世間では蛇蝎のように忌み嫌う!」 

 さらに現代の企業や国家レベルで考えると、スクルージなんてまだまだ甘ちゃんとすら言える。

 派遣や契約、さらには外国人労働者と、感心するほど次から次へと手を変え品を変えて、安い労働力の確保に余念のない企業。いくら企業が潤っても労働者に還元されることはなく、一方で、税金や医療・介護費は右肩上がりに増え続け、どんどんと一般庶民の家計は苦しくなっていく。


 スクルージは精霊によって、金をしこたま貯めこんで惨めに死んでいく将来の自分を見せられるが、現実においては、金のない人間の方が惨めに死ぬ可能性が圧倒的に高い。だから、みんなスクルージ化して、自分のことしか考えられなくなっているのだろう。

 けれども、ディケンズスクルージを悪人として描いているわけではない。先に引用した、恋人との別れの場面や、さらに昔の幼少時代のひとりぼっちのスクルージには、誰だって同情するはずだ。 

「考えてみれば、気の毒な人だよ。どうしても、伯父には腹が立たないんだなあ。あの頑固でひねくれた根性で、いつも結局は自分が損してばかりだからね」

と、甥が言うように、愛すべき気の毒な人物であるからこそ、『クリスマス・キャロル』がこれほどの人気を誇っているのだろう。 


 映画では、このスクルージがどうしても老けメイクをした古田新太に見えて仕方がなかったが……。なんなら吹替も古田新太でいいのではと思ったが、市村正親が演じている。

 なんでも、パンフレットの市村正親のコメントによると、「『クリスマス・キャロル』を1人54役で演じたこともある」らしい。ということは、スクルージはもちろん、スクルージを訪れる精霊も、なんならタイニー・ティムもひとりで演じたのだろうか??

 というわけで、日本のスクルージ市村正親だったのか、と納得しつつあったのだが、なんと、最近ホリエモンが『クリスマス・キャロル』を演じていると知って、またおどろいた。 

christmascarol.jp

“お金に執着した偏屈な自分の生き方にサヨナラし、本当はこうなりたかった素直な自分に回帰する”をテーマとし、IT企業の経営者として未曾有の成功を収めたものの、社内ではお金が全ての守銭奴と恐れられ、特にクリスマスに対し何故かほとんど憎しみとも思えるような感情をもつ主人公・スクルージを演じるのは“ホリエモン”の愛称で馴染みのある、実業家でタレントとしても活躍中の<堀江貴文>。

  こう書かれると、たしかにホリエモンこそが日本のスクルージにふさわしい人物なのかも、と思えてくる。それにしても、目下は宇宙旅行に専念しているのかと思っていたが、演劇にも手を染めていたとは。まさに「多動力」を実践していますね。

 ディケンズホリエモンを一緒にしたら怒られそうだが、ディケンズもたしかに多動力のひとではあったようで、小説を書くだけではなく、自ら雑誌を発刊して編集長を務め、そして生涯を通じて素人劇団に情熱を注いだ。

 この映画では、妻との夫婦愛も柱のひとつになっていたが、実際は、のちにディケンズは劇団で知り合った若い女優と不倫し、とっとと妻をお払い箱にして、愛人と暮らそうと目論むのである。

 愛人に送ったはずのプレゼントが間違って妻のもとに届けられたり、ディケンズの愛人は義理の妹らしいという誤った噂がロンドンに広まると、作家仲間のサッカレーが、「いや、相手は女優だよ」といらん証言をしたりと(サッカレー、映画でもいい味出してましたね)、コントのようなドタバタ劇が繰り広げられたようである。(このあたりのことは、『大いなる遺産』の解説に書かれています) 

大いなる遺産(上) (岩波文庫)
 

 と、クリスマスにふさわしいのかふさわしくないのか、よくわからない話になりましたが、こんな人間らしい一面のあるディケンズだからこそ、スクルージのような愛すべき人物を次々産みだせたのではないかと思うのでした。

 これからは、クリスマスを祝う心を、年中、忘れないようにしよう。過去、現在、未来――三世を生きるこの身にクリスマスの霊は宿る。……ここに、神とクリスマスの時候をたたえよう。