快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

生身の人間たちによる公民権運動の記録 『March』(ジョン・ルイス、アンドリュー・アイディン 作 ネイト・パウエル 画 押野素子 訳)

 先週末、スーパーで買ったお好み焼きと焼きそばのセットを食べたところ、焼きそばの油が合わなかったのか(もしくは単に食べ過ぎたのか)、食あたりになって寝込んでしまいました。
 読書会の告知文書きにも、日本翻訳大賞の投票にも後れを取ってしまいましたが、とりあえず、BOOKMARK最新号にも紹介されているこちらの本をご紹介。 

MARCH 1 非暴力の闘い

MARCH 1 非暴力の闘い

 

    この『March』は、アメリカの公民権運動の闘士、ジョン・ルイス議員の半生を描いたグラフィックノベルである。

 第一巻の冒頭は、アラバマ州セルマのエドモンド・ベタス橋で黒人のデモ隊が警官隊と衝突するところからはじまる。
 「やってやれ!」「ニガ―ども」と、警官隊は力でデモ隊を制圧するだけにとどまらず、容赦なく催涙ガスまでふりまく。

 次の舞台は2009年1月20日のワシントンDCへ飛ぶ。オバマ大統領の就任式だ。そこに招かれるジョン・ルイスが、少年時代からここに至るまでの歩みを振り返るという形で、ストーリーが語られていく。

 おそらく大方の人は、1861年南北戦争勃発、1863年エイブラハム・リンカン(最近の教科書は「リンカーン」ではないらしい)の奴隷解放宣言、そして1950年代、白人に席を譲ろうとしなかったローザ・パークスが逮捕された事件を皮切りに公民権運動が盛りあがり、マーチン・ルーサー・キング牧師の指揮のもと1964年に公民権法が成立された、といった世界史的な流れはご存じのことだろう。

 しかし、この本を読むと、歴史の教科書では、「公民権運動が盛りあがった」という一行で片付けている事実の裏側で、どれほどの怒りや悔しさといった生身の人間の感情があふれ、どれほどの痛みが伴い、どれほどの血や涙が流れたのかが、痛烈に伝わってくる。

 そう、この本からは、差別をする側もされる側も、生身の人間であるということがよくわかる。

 差別をされる側も、差別を覆したいという目的を共有していても、当たり前だが、考えていることはひとりひとり異なっている。よって、「公民権運動」といっても、実際にはなかなか一枚岩にまとまらない。

 徹底的に非暴力でありながら、どこまでも妥協せず、黒人禁止の場所で座りこみやデモを続けるジョン・ルイスたちに対し、「いったん中止すべきだ」と宥和策を提案する仲間もいれば、逆に、そんなやり方は手ぬるい、少なくとも暴力を受けたら反撃すべきだと主張する仲間もいる。

 第一巻では、当時の代表的指導者であるサーグッド・マーシャル(ウィキペディアによると、アフリカ系アメリカ人初の合衆国最高裁判所判事になった人物らしい)が、「刑務所を出してやるといわれたら出るんだ!」と同胞たちを諭しているのを聞いた、若きルイスは納得できないものを感じ、「伝統的な黒人の指導者層に対しても抵抗しなければならない」と決意する姿が印象的だった。

 フェミニズムや反貧困運動など、どんな運動であっても、内部でのさまざまな意見の対立や、過去の指導者が脱け出せない価値観や因習を乗り越えることがなによりも大事な点であり、それによって運動体はさらに力を得て、その哲学が研ぎ澄まされるのだろう。

 そして、差別する側も生身の人間である、ということも忘れてはならない。

 認めたくない事実、とまで言うとおおげさだが、しかしこの本の中で、とことんまでルイスたち運動家を痛めつけ、女でも子どもでも暴力の標的にし、何人もの命を奪っていく白人至上主義者たちが、私たちと同じ人間であるとはどうしても信じがたい。
 けれども、第二巻の大森一輝の解説にあるように、「南部の白人は狂人でも鬼や悪魔でもなかった」のである。 

人種差別をしていたのは、生まれ育った地域を愛し、それまで「当たり前」だった暮らしや流儀を壊させまいとしていた、私たちと同じ「普通」の人間だったのです。

  大森氏は続けて、非難する相手を悪魔化し、自分は絶対にあんなことをしないと思ってしまうと、差別を「自分と関係のない特殊な出来事」だと考えてしまう陥穽に陥る可能性を指摘している。

 そうではなく、差別をする側、される側が無くならないかぎり、自分もまた差別する側、される側であり続けるのだ。自由ではないひとがいる限り、自分もまた自由ではないのだ。

 第三巻で指導者のひとりであるボブ・モーゼズが、「ミシシッピの黒人を『助ける』ためには来ないでほしい 彼らの自由と君たちの自由が一つのものだと心から理解できたら来てくれ」と呼びかけているのは、きっとそういうことなのだろう。

 といっても、いまの私たちの感覚では、人種隔離を主張する白人たちの気持ちを理解するのは難しい。そういう相手も同じ人間で、愛や良心を持ちあわせているはずだ、とはなかなか思えない。

 だが、ルイスはガンジーの非暴力の哲学がベースにあるからかもしれないが、自分をおそう者に対しても、愛を持ちつづけようとする。

 どうしてそんなことができるのか――そこで、物語の冒頭で描かれていたルイスの少年時代に思い至る。

 綿花やコーンを栽培していた実家で、ルイスは鶏の面倒をみていた。
 聖書に心うたれたルイスは鶏やひよこ相手に演説をし、ときには洗礼式まで行い、鶏やひよこが死んでしまうと悲しみにくれた。そして、養鶏にはつきものの事態――家で鶏をつぶした日の夕食時には姿を消した。鶏やひよこを真剣に愛していたのだ。

 一見、公民権運動の闘士というキャリアには何の関係もないように思えるエピソードだが、ここで振り返ると、最初に置かれていた意味が理解できる。
 陳腐な言葉かもしれないが、差別に抵抗できるのは愛ということだろう。

 また、登場場面は多くないが、マルコムXも強い印象を残す。
 とくにルイスが最後に会ったとき、これからは「活動の焦点を人種から階級に移すべきだ」「階級こそがアメリカだけでなく 世界各地の問題の根源なのだ」と、マルコムXが語るところは、現在から考えると、まさに慧眼である。

 人種や階級が異なる者同士が共生することは可能なのだろうか? 
 2019年現在の世界を見ると、残念だが、どうしても悲観的な気持ちになりそうになるが――

 少し前に読んだ、レイ・ブラッドベリの短編「さなぎ」を思い出す。
 白人になりたい黒人の少年と、黒人になりたい白人の少年が夏の海辺で邂逅する。大人が黒人の少年を無視しようとも、彼らの夏はそんなことでは色褪せない。
 こんな世界ならば、共生は可能なのかもしれない。