快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

2019/8/10 翻訳者村井理子さん&編集者田中里枝さんトークイベントー『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『サカナ・レッスン』(キャスリーン・フリン著)より

 さて、まさに真夏のピークの8月10日、梅田蔦屋書店で行われた翻訳者村井理子さんと、編集者田中里枝さんのトークイベントに参加しました。

 おふたりがタッグを組んだ最初の本、『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』の著者キャスリーン・フリンが、日本の読者のために書き下ろした『サカナ・レッスン』の発売を記念したイベントで、そのテーマはずばり「翻訳本の未来を考える」というもの。 

ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室

ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室

 

  

サカナ・レッスン 美味しい日本で寿司に死す

サカナ・レッスン 美味しい日本で寿司に死す

 

  この日なにより印象に残ったのは、おふたりが翻訳本をひとりでも多くのひとのもとへ届けたいという、強い信念を持っていることだった。

 いや、信念を持つだけなら誰にでもできるかもしれない。けれども、今回の『サカナ・レッスン』が原書があって翻訳本を作るというスタイルではなく、キャスリーンが書いたものをリアルタイムで翻訳し、それを本にするという例のないパターンの本であるように、実際にさまざまな試みを行っている方たちの言葉なので、説得力があった。(フィクションでは、柴田元幸さんが訳されているバリー・ユアグローが、日本の読者向けに短編を書き下ろすというのはあったように思う)

 もちろん、そんな試みができたのも、前作『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』がヒットしたからであるが、この本のヒットも偶然ではなく、日本の読者に向けた工夫が施されていたからだということがよくわかった。

 そもそも、私はこの本をかなり長いあいだ積読していたのだけど、それはなぜかというと、おもしろそうだと思う一方で、なんとなくひっかかる点があったからだ。
 いわゆる手作り教というか、“ていねいな暮らし”思想というか、農薬や添加物まみれの市販のものを食べるなんて人としてまちがっている、みたいな説教臭い本ならちょっと嫌だなと思っていたからだ。

 さらに、タイトルからは、料理ができない=ダメ女みたいにも読めなくもないのにも、少し抵抗があった。

 アメリカなら、主婦であっても外食やインスタント食品を活用するのはふつうであり、ことさら非難されないのかもしれないが、よく言われているように、日本の主婦、とくに「お母さん」が要求されている家事の水準はきわめて高いので、女性に余計にしんどい思いをさせる本ではあるまいか、ともうっすら危惧していた。

 けれども実際に読んでみると、そういう説教臭さ、「正しさ」を押しつける要素はほとんどなく、それよりも「料理は苦手」と自認している女性たちが、そう思うに至った経緯や、彼女たちがオムレツなどの簡単なものを作ることによって充実感や自己肯定感を手にする姿が印象に残った。

 こういったメッセージは、もちろん原書にもともと書かれているのだろうけれど、編集と翻訳の過程でより強まったであろうことが、この日のトークで感じられた。

 まず、村井さんがこの本を田中さんに持ちこんだとき、最初田中さんは断ったらしい。料理は得意ではないので、料理本ならもっとふさわしい編集者がいるのでは、と。しかし、田中さんが自己啓発系の本を多く手掛ける出版社に移ったときに、こういう切り口で翻訳本を作ることができるのではないかと考え、村井さんに連絡をとったという話だった。

 そして、原書はペーパーバックで300ページ強あるが、内容を一部削除したりとエディットを加えたとも話されていた。
 翻訳本では、料理が苦手な女性たちを著者が取材するくだりがひとつの章として、本文とは別枠で書かれていて、それゆえにひとりひとりのキャラクターやバックグラウンドがよく伝わってきて共感できたけれど、原書では本文のなかに地続きで書かれているらしい。このあたりのエディットが巧みだなとつくづく思った。


 料理を専門としていない翻訳者と編集者が、さまざまな工夫を凝らして作った本であるからこそ、料理本の読者層以外にも受けいれられる本になったのだということがよくわかった。『サカナ・レッスン』の冒頭に出てくる、村井さんがキャスリーンに送ったメールでも、その思いが綴られている。 

キャスリーン、わたしたちの文化では、女性はなにごとにも優秀であることを求められがちです。…… すべてにおいて完璧でありながら、料理だって完璧でなくちゃいけないんです。料理ができない女性は「ダメ」という烙印を押されてしまいがち。わたしたちはそんな風潮に反論したいのです。

  原書の内容をある程度カットするというのも、日本で翻訳本を売るためには必要なことだろう。一般的にもよく言われていて、この日も話にあがっていたけれど、欧米ではぶ厚くて字の細かい本が多いようだが、日本ではやはり、基本的にはある程度薄い本の方が好まれる傾向があると思う。

 考えたら、ノンフィクションに限らず、小説でも、先にあげたバリー・ユアグローが(おそらく)本国より日本で人気があるのは、柴田さんの訳文だけではなく、ショートショートが日本人の好みにあっているというのもあるだろう。村上春樹にしても、ねじ巻き鳥や『1Q84』などの大作で世界的な作家となったけれど、日本のファンは短編の方が好きというひとも多いように感じる。

 翻訳本がなぜ敬遠されるのかについては、ほかにも、いわゆる「翻訳文体」が読みづらい、単純に地名や人名が難しい&馴染みがない&ピンとこない、高尚というかスノッブな感じがして近づきにくい……といった原因があるのではと分析されていたが、田中さんは今後も極力そういうものを排除した本作りをしていきたいと語られていた。翻訳文体については、村井さんの言う、“語尾ポリス”も非常に興味深かった。

 たしかに、もっと「気軽に読める」翻訳本が増えてほしい。やはり「気軽に読める」本が増えないことには、コアファン以外に翻訳本の読者が広がることはないと思う。

 「気軽に読める」というのは、もちろん内容が薄いという意味ではなく、とくに難しいことが書かれているわけではなく、するすると楽しく読めるけれど、いつまでもその内容が胸に残る、折にふれて思い出す……というのが、翻訳本に限らず理想の本ではないかと、常日頃から考えたりする。