快適読書生活  

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」――なので日記代わりの本の記録を書いてみることにしました

「中立・客観的」って可能なのか?『情報生産者になる』(上野千鶴子)から『大学教授のように小説を読む方法』『パームサンデー』まで

すべての問いはわたし自身の問いであり、わたしの問いはあなたの問いではないからです。そして人間には、他人の問いを解くことはついにはできないからです。

  なんとなく上野千鶴子の『情報生産者になる』を手に取り――なんとなく、というのは、私は研究者でもなく、社会学を専攻したわけでもないので、情報生産者って何やろ? くらいの感じで読みはじめたのだけど、「自分の問いを立てる」というテーマのこの本を読んでいると、大学時代の卒論を思い出し、そしてまた、いま現在の読書についてもあれこれ考えてしまった。 

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

  上野さんが学生につねに言っているのは、「答えの出る問いを立てる」「手に負える問いを立てる」「データアクセスのある対象を選ぶ」ことらしい。

 例として、「霊魂は存在するのか?」は証明しようがないし、「トランプ大統領以後のアメリカはどうなるか?」は、すでに多くのプロが詳細な分析を行っているので、学生が研究する意味はない。
 「地球温暖化のゆくえ」は大きすぎて手に負えないが、「日本のメディアにおいて地球温暖化はどう語られてきたか」なら、ある程度調べきることができる。 “focus”、あるいは ”narrow down” が必要なのだ。

 大学時代、私は国文学専攻だったけれど、たしかに、「『こころ』の先生はどうして自殺したのか?」とか「光源氏はどうして女を渡り歩いたのか?」なんてテーマにしてしまうと、先行研究を調べるだけで死亡することは目に見えていたな…と思い出す。

 この本を読むかぎりでは、社会学は最近の事例を調べた方がいいようだが(データアクセスがたやすいので)、私のいた文学部のゼミでは、評価の定まっていない生きている作家はやめた方がいいと言われていた。
 なので、島田雅彦に心酔していた(当時は颯爽としたイケメン作家だったのだ…いや、いまでもイケオジなのかもしれんけど)男子は、三島由紀夫をテーマにしていた。そういえば、小林秀雄のファンの男子もいたが、中原中也と女を取り合ったことくらいしか知らない私は、どこがそんなに偉大なのか当時よくわからなかったが、いまでもよくわからない。

 で、そんなことを言っていると、おまえは何やってんと思われそうだが、私は内田百閒の「件」(ひとことで言うと、人面牛の話です)や「山高帽子」を卒論のテーマにして、坂部恵の『仮面の解釈学』などを参考にしようとしたのだが、いまとなっては何を書いたのか、さっぱり覚えていない……まさに「手に負える問いを立てる」の反面教師でした。 

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

 

  『情報生産者になる』に戻ると、「問い」について、一番印象に残ったのは「当事者性」と「中立・客観性」の問題だ。上野千鶴子はこう書く。 

わたしが女であることは、子どものころからわたしをつかんで離さない謎でしたから、わたしはそれを問いにすることにしました。

  そして「ほんとうに解きたい問いでない限り、研究には本気になれない」と続ける。問いには、問いかけるべき相手がいるのだ。

 しかし、「当事者」であれば、学問の中立性や客観性を保てないのではないか? という疑問の声もある。それについて、上野千鶴子は「中立・客観性の神話」と述べている。「神話」というのは「根拠のない信念集合」だと。そもそも、「問いというのは、つねに主観的なもの」なのだと。

 「神話」とは、見事な言い方だなと納得した。というのは、「中立・客観的」とはいったい何なのか? 完全に「中立・客観的」に考えたり、本を読んだりすることは可能なのか? と疑問を感じることが多いからだ。

 読書においても、基本的には書かれたものだけを「中立・客観的」に読むことが正しいのだろう。先に書いた大学の卒論のときも、”テクスト” がすべてだと教わった。言うまでもなく、作者のプライベートや人柄などを考慮するのは、まちがっているのだろう。

 けれども、少し前に『大学教授のように小説を読む方法』を読んだところ、エズラ・パウンドの作品とどう向きあうべきかと書かれていて、思わず考えこんでしまった。 

大学教授のように小説を読む方法[増補新版]

大学教授のように小説を読む方法[増補新版]

 

 エズラ・パウンド文学史的な説明をすると、T・S・エリオットとともにイマジズムなどのモダニズム運動を率いて、詩を革新した偉大な詩人である。そしてまた、ファシズム反ユダヤ主義の熱狂的な支持者であったことも知られている。

『大学教授のように小説を読む方法』で、作者はこう書いている。 

私は今でもパウンドを読み、何か得るものがあるというユダヤ人読者を知っている。パウンドと聞いただけで拒否する人たちも知っている。パウンドを読みつつ罵倒する人もいる。それはユダヤ人とは限らない。私自身は今でもときどきパウンドを読む。そこには驚くほど美しく、脳裏に焼きついて離れない、力強い語句が散りばめられている。それでも問いかけずにはいられない。これほどの才能に恵まれた人間が、なぜこれほど視野が狭く、独りよがりで、偏見に凝り固まっていたのだろうと。答えは見つからない。

  作者の主義や信条を棚上げして、書かれたテクストのみを、「中立・客観的」に読むことができるのだろうか? やはり思想信条が相容れなければ、文章も読むことができないような気もする…と言いつつ、一方で、いわゆる「いいひと」や高潔な人格者が必ずしもおもしろいテクストを書くとは限らないという事実も承知している。

 パウンドと同じく反ユダヤ主義を支持し、第二次世界大戦後は亡命生活を送ったセリーヌについて、カート・ヴォネガットはエッセイ集『パームサンデー ――自伝的コラージュ』に収録されている「多少の非難は覚悟して、ナチの一同調者を弁護する」という章でこう書いている。 

セリーヌは、文学と医療における長年に及ぶ、欲得を超えた、そしてしばしば輝かしい奉仕のあと、猛烈な反ユダヤ主義者およびナチ同調者としての正体を暴露した。1930年代後半のことである。それに対する納得のいく説明を、わたしはまだだれからも聞いたことがない。 

わたしはセリーヌについて書くたびに、頭の割れるような痛みを感じる。いまもそうだ。ほかにはたった一度だって頭痛を感じたことなどないのに。 

その作品(『スローターハウス5』)のなかで、わたしは登場人物のだれかが死ぬたびに「そういうものだ」と言う必要を感じた。これは多くの批評家たちを激怒させたし、わたし自身にも奇妙で退屈な言い草のように思われた。けれども、どういうわけか、そう言わずにはいられなかったのだ。

それは、セリーヌがあらゆる作品において、それよりもはるかに自然な言い方で暗示することのできた理念を、不細工に表現したものである。

  ヴォネガットの言葉を借りると、「のろわしいことを考えた」「決して許すことのできない人物」が、すばらしい作品を生み出すこともある。そんな場合、私たちはどうテクストを読むべきなのかと考えたりする。

 「当事者」であるかどうかも関係するのかもしれないが、『大学教授のように小説を読む方法』で書かれているように、エズラ・パウンドに感銘を受けるユダヤ人が存在する一方、パウンドと聞いただけで拒否したり、罵倒するのはユダヤ人に限らないのだから、「当事者」だから許せないといった単純な話でもない。

 おそらく、永遠に答えが出ることはないのだろう。卒論なら「答えの出る問い」を自分で設定すればいいが、生きていると答えの出ないことだらけだ。  

わたしがこれを書いているいま(1974年の秋だが)、精神的制動装置が完全に作動している一般庶民のあいだでさえ、人生はまさしくセリーヌがかつて言ったとおり、危険で不寛容で、反理性的だという事実が明らかになっている。

  ヴォネガットが書いた1974年から、そしてセリーヌが執筆した1930年代からはいっそう長い時間が経ったいま、世の中はどんどん「危険で不寛容で、反理性的」になっているような気がする。どうしてそういう鋭敏な感覚のあったセリーヌが、「のろわしいことを考えた」りしたのか(逆の問いを立ててもいいが)なんて考えると、人間とは不可思議なものだなと、あらためて強く思ったりする。